夜と約束と動き出す歯車 1
それはまだ少女たらず、年端すらゆかなくて、
一体となりし幸福の歌や竪琴から、
そして、その春の季節たる薄布を、輝きが透けてとおり、
私の耳の中で、臥床をととのえていた。
そしてそれは私のなかで眠る。そして彼女の眠りこそ全てなれば。
私がかねてから感嘆してやまなかった樹々が、
それら感じてとらえうる遥かさが、感じとられた牧場、
そして私を驚異で溢れさせたことごとくの神秘が、
彼女は世界を眠る。歌いたまいし神よ、そなたは如何にして
彼女の完成をなしえたか?しかも彼女が目覚めることさえを
切望することのなくして?ほら、彼女は起きつ、そして眠る。
RMリルケ『オルフェウスの小詩』
~~亡国のキネマトリエ~~
少年の目覚めはいささか荘厳過ぎた。
カラカラと回るリールの音、微妙な残留を残しつつ点滅する電球色の光。それは古き良き時代の映画を思わせるような目覚めだった。
意識がはっきりしない。気持ち悪いとしか言いようのない感覚に少年は身体を攀じる。狭いゴム管の中に無理やり身体を詰め込まれ、強力な水流と共に押し流されているような感覚は、肺を押しつぶし、全身の骨や肉を無理やり締め付けられ、血流が肌を引き裂く程の激痛は思春期の少年にはは実に耐え難い苦悶だった。
ただ、そんな感覚の中で少年の耳は確かな音を捉えていた。
ピチャピチャ、あるいはパシャパシャという柔らかくとろけるような水音。
幽玄とも言うべきその水音は少年のすぐ耳の側で染み入っていた。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
それはものすごくやわらかな声だった。
君ハ……誰……
「大丈夫。大丈夫ですから」
すさまじい痛みに動かない五体に口。
何も出来ないその中で、ただただ声だけが響いていた。
「さ、もう少し寝てください。傷が開いてしまいます」
掛けられた声はただただ優しく暖かく居ないはずの母親の双眸を思い出させる。
宵闇の中、燭台の灯火だけがかすかに揺れていた。思えばベッドに寝かされたのなどいつ以来のことだろうか。ストリートチルドレンだった少年にとって、寝床とはホテルのゴミ箱から拾い上げた穴の空いたシーツを路上に広げた場所を指す言葉だった。しかし、身体が沈み込む程に柔らかなベッドの不慣れな感覚を楽しむ余裕は無い。
発作のごとく襲い来るまるでガスバーナーであぶられているようなジリジリとした痛みに幾度も耐えながら、少年はたっぷりの時間を掛け首だけをなんとか動かし、室内を仰ぎ見る。
そんな中で、初めに見たのは女性の背中だった。
黒の法服に身を包んだ綺麗な栗色の髪の少女。
果たして彼女は誰なのだろう。
社会の爪弾き者として生きてきた少年にとって自分を助けてくれる人など数年来の記憶を遡っても行き着く宛はなかった。
疑問と共にやせ我慢し、歯を食いしばらせながら少年は無理矢理身体を起こすと「うぐっ!!!」という悲鳴が喉から染みだし歯の隙間から外へ出る。
まるで蛙が潰れたような声とともに、全身を切り裂くような想像を絶する痛みに襲われた。目の前が真っ暗になるほどの痛みは少年を再び強制的にベッドへ押し戻そうとする。
その声に気が付き、少女が静かに振り返る。
「まだ、動いちゃダメです」
すぐに少年の元へと寄り、静かにその肩に手を貸して身体を支え、できるだけ痛まないように静かにベッドに少年の背中を納めてくれた。
可愛い少女だった。大きな黒い瞳や黒い法服から考えるにどうやら教会の修道女のようだった。
「まだ、痛むんですね」
ベッドに少年の身を横たえると少女はそっと毛布を掛ける。その暖かさと多幸感に再び意識が飛びそうになるのを躊躇し、少年は当然の疑問をぶつけた。
「君は」
「私、シロン・エールフロージェって言います」
胸元の十字架をそっと握りながら、少女はそう応えた。
「それで、ここは教会の医務室」
「俺は……なんでこんなところに」
「山道に倒れていたんです。酷い怪我をして」
「怪我?」
「はい。おそらく盗賊か暴漢に襲われたんだと思います。最近多いらしいんです。戦争のせいで村を焼かれた人たちが世界を呪って悪い事に走るんだと、聖女様がおっしゃってました」
そうだったか……昨夜からのイマイチ記憶がハッキリしなかった。確か街の戦争に向けた整地政策のせいで住処を終われ、次の住処を探すために街を探して街道を歩いていたはずだった。しかし、そこから何があったのか。それを思い出そうとすればするほど記憶の糸は深い所へ沈んでいってしまうような感覚でどうしても思い出すことが出来ない。
「おそらく、傷による一時的な記憶の混乱ですね。そのうち、思い出すはずです」
シロンの微笑みに、少年は静かにため息を漏らす。
「ごめんなさい。もう少しだけ休ませてもらいます」
絞りだすように声を出し、自らの願望を伝える。本来であれば謝礼の一つでも述べるべきであることは少年も重々承知していたが、呼吸するだけで涙が出る現状ではとてもじゃないがそんな余裕はどこにもなかった。
「はい。先程、聖女様が治療をなさいまして、もう峠は越したとおっしゃってました。眠る前に包帯を取り替えますね。それから、傷口も洗いますので、少々沁みるかもしれません」
そういうと、シロンはそっと少年の体に触れ、身体の隙間に上手に手を入れながら胴や腕や頭などにまかれていた包帯を解き、ガーゼを取る。
そして、大小様々な傷口のうち、一番大きな脇腹を抉る刀傷へ薬指を這わせた。
「ッ!!!」
少年の体に激痛が走る。暴れ回りたい程であったが、治癒の為と自分に言い聞かせて下唇を噛み締め我慢し続けた。
「やっぱり沁みますよね……でも、そのままにしておくときっと膿んできますし……少しだけ我慢してください」
拭き終ると同時にシロンは手早く包帯を巻いて少年をベッドに寝かす。
やはり言わなければならない。少年はそう決心して肺に空気を吸い込む苦痛に耐え、喉を使う苦痛に耐えた。弱々しい声で少年が呻く。
「あり……がとう」
「あっ……いえいえ……どういたしまして」
笑顔で照れるシロン。少年の充血した眼がその上半身をなんとか捉えた。
見れば、まだかなり幼い少女だ。年の頃は8歳といったところだろうか・・・その割にしっかりと医術に関しての知識があることには驚きを隠せない。
だた今はそれよりも、本能が体の傷を癒すための眠りを強要してくる。耐え難い痛みから逃れる術を。そして一時の平穏を。
「…………」
「あの…もしもし…ぁ」
「…………」
「おやすみなさい」
少年は再び癒しの園へと静かに沈んでいった。
※ ※ ※
目覚めは映画の始まりのように映写機で3,2,1と数字が出てくるところからだった。
日はまだ高くなく、小鳥が歌っていることから、どうやら午後ではないらしい。そんな中で少年は必死に記憶の糸を辿る。今だ、何が起きて自分が怪我を負ったのかは思い出せない。それどころか更に深い記憶の井戸へと堕ちていてしまった気さえする。だが、それでも昨夜の出来事はさすがに覚えていた。自分を救ってくれた女の子の事。
その記憶もしっかりと安定はしない。どちらかというと、痛みに関する記憶のほうが遥かに容量が大きかった。
少し体を動かしてみると再び全身に痛みが走る。だが、昨晩の目の前が真っ暗になり走馬灯すら浮かぶ程ではなく、動かなければ殆ど痛みもなかった。これなら多少は歩いたりもできるかもしれない。
少年はできるだけ体に負担のかからぬよう静かに起き上がり、ベッドから出て立ち上って双眸で部屋の壁を撫でた。
煉瓦造りの部屋。
季節が夏の終わりの為、窓は開け放たれ、真っ白なカーテンが風をはらみそよいでいた。
部屋には誰もいない。
聞こえる音が鳥の声と遠くから聞こえる女性の会話声なため、近くにも居ないらしい。
とりあえず、包帯が巻きつけられただけの上半身に壁に掛けられていた自分の服を見つけ、それに着替える。
粗末な麻で出来たそのワイシャツは、もれなくゴミ捨て場から拾ってきたもののためサイズも合ってない上に何度も補修を重ね継ぎ接ぎだらけかつ、時々川や池などで洗浄するぐらいしか出来なかったため、原色が白であったことなど誰もわからぬ程に服とは言いがたいものであった。
そしてその服に新たに斬傷の跡がいくつも残されていた。よく見ればその小汚い服の原因が既に赤茶色に変色した多量の血液によるものであったことも窺い知れる。何かにつけて万能ということでポケットに無造作に突っ込んでいた安全ピンがまた役に立った。服を簡易的に縫合し、少年は外へ出る。
やはり、廊下からには誰も居なかった。
噴水の有る中庭を囲むようにして建物は立てられているその建物は、シロンの言葉から判断するに教会の修道院なのだろうと少年は感じた。不確かな足取りで痛みをこらえながら噴水まで歩き、溜まっていた水をすくい取り勢い良く顔に打ち付けた。人によっては汚いと罵るだろうが、彼にしてみればこんなことは日常茶飯時のことで気に留めるようなことでもなかった。
僅かに濡れた前髪に太陽が照りつけ、青々とした草木に反射する光景に自然と目が窄まる。
日差しと風だけが心地良い。どうやら以前居た炭鉱の街から随分と遠くに来たらしい。
「え……」
後ろの方からした声に、静かに振り返る。
そこには、あの少女シロンが立っていた。
黒い修道服に身を包み、手に聖典を持っていることからどうやら、“朝のお祈り”の後なのだろうと少年は察した。
「駄目ですよ。まだ動いたら」
少年のことを叱責し、シロンは優しく少年の腕を掴むと、元居た医務室に連れ戻そうとする。
「今は鎮痛剤が効いていて多少は痛みが軽減されていますが、本来ならまだ安静にしていなければならないのですよ。さあ、お部屋に戻りましょう。少し落ち着いたら朝食をお持ちしますから」
静かに背中に手を添え、医務室の咆哮へと優しく導こうとするシロン。
「いや……大丈夫だから……」
少年はそう言って、その手を振り解く。すると、少女はムッと膨れた顔をして少年の目を見据えた。
「何を言ってるんですか!!!!」
大声での叱責の怒鳴り声に少年は思わず身を引く。
「本当にちっともわかってませんね!!!あなたは覚えてないかもしれませんが、昨日大きな手術をしたばかりなんですよ!!!それこそ、死んで無いのが不思議ってぐらいの大怪我です!!当たり前ですけど、まだ“抜糸”とかいうのも終わってないって聖女様もおっしゃってました!!!!然るに、今日は安静にしているべきなんです!!!いいですか!!!あなたはケガ人なんです!!!それこそ、今は多少鎮痛剤が効いてるから多少痛みが治まっていますが、それで……」
「そこから先は私が話すわ」
シロンのマシンガンのような叱責を遮って、誰かが水を差した。
少年がそちらの方を向くとそこには一人の女の人が立っていた。 立っているだけで、まるでその空間に華が咲いたように美しく光り輝く彼女は長い金糸のような髪は腰まで伸び、ゆるやかに身に纏った法服に風をはらませわずかに棚引かせながら燦然と光り輝いていた。見方によっては頭上に文字通りの天使の輪が見えた気さえする。それがまだ成人も迎えていないであろう彼女に見た目のあどけなさを覆い隠して余りあるほどの畏怖や威光を与えていた。
いや、あるいは彼女を歳相応と見られなかったのには腰に帯びた一振りのレイピアの存在があったからかもしれない。汚れのないアメジスト色の清純な目をしている彼女であるが、戦時下という状況のためかそんな彼女が帯刀している姿は、まるで発展途上国の少年兵を思わせた。
「聖女様……」
シロンが驚いたように目を見張り、そして、慌てて深々と頭を下げる。
その様子から、どうやらかなり偉い人であることを少年も悟る。それに少年も救国の聖女がいるという噂は聞いていた。スラム街では女神として、いつかは自分達を助けてくれる存在として彼女を神と崇める人々も決して少なくはなかった。
最も現実主義の絶望の中に居た少年にとってはただのうわさ話でしか無く、とても信じられかった為、彼女が有名人であるという事以外は何も知りはしないのだが。
「そんなに責めないであげて。ちょっと出歩いちゃっただけだから」
柔らかく微笑んだその聖女は静かに静かにシロンから少年へと目線を移すと、ただひたすらに柔らかいほほえみを浮かべた。
「喉が乾いただけなのよね?」
と優しく告げた。
言われてみれば確かに喉がカラカラだったことを少年は理解する。語られた事情から察するにそれが大量の出血と治療時の汗によるものだと理解するのにそれほど長い時間はかからなかった。聖女の手が少年の漆黒の髪を優しく撫でる。
「シロン。悪いけど、お水を持ってきてもらえる?」
納得いかないという顔をしていたものの、それでもシロンは承諾し、廊下を歩き去った。
「さて」
聖女はまるで体の良い人払いでもしたかのように改まってアリエスに向き直った。いや、実際問題そうだったのかもしれない。そもそも教会という枠に触れることすら無く今日まで命をつないできた少年にとって、聖女の存在は目の前に居るこの麗しい女性がガラスの靴のヒロインや毒リンゴの姫に思えるほどにあまりにも遠く離れた存在だった。
現代風に言うなればテレビの中のアイドルや銀幕のスターと言うべきなのかもしれない。
「あ……あの、ええっと……聖女……様?」
「無理しなくていいのよ。私はエリルティア=オンタリオ。気軽にエリーって呼んでね」
「でも」
噂話に聞く限りでは彼女は救国の聖女。そんな人物を愛称で呼んでいいものなのか。
「気にしないで。聖女っていうのは基本的に国の偉い人が勝手につけた呼び名だし、教会の人はただそれを呼んでるだけ。私としては、エリーって呼ばれた方がなんだかうれしいから」
「じゃあ、エリーさん」
「はい?あ~……えっと……」
間延びした声でのほほんと語る彼女が何に悩んでいるのかはすぐにわかった。思えば少年は未だに自分の名すら名乗っていなかったのだ。ストリートチルドレンなだけに当然身元を証明できるものなど荷物には入っていない。最もそのわずかばかりの食料とゴミ捨て場でかき集めた使い古しの生活必需品を入れたボロ鞄すらも今ではどこにいったのかわからないのだが。
「俺は、アリエスっていいます」
名前を聞いて、エリーは満足したようにニッコリと笑った。
「アリエス君ね。歳は?」
「10歳です」
「あらあら。シロンちゃんと同じね」
え……
「シロンちゃんって……さっきの娘ですよね」
「ええ、もっと年上かと思った?」
「はい。てっきり、俺より3つか4つは上だと」
「まあ、無理も無いわね。あの子、大人びてるっていうか……マセてるっていうか……」
細いうなじから香水混じりのやわらかな体臭がアリエスの鼻をくすぐる。
「まあ、こんな時代だから……彼女も少しぐらいマセなきゃやってられないってのもあるかもしれないわね」
「こんな時代、ですか?」
アリエスは首を捻りながら言う。
すると、エリルティアはそのキレイな目を見開いて驚嘆にその顔を染めていた。
「えっと、アリエス君どこの御出身?」
そう聞いてきた。
「この国の、東の街です」
嘘をついた。下賎生活を知られなく無かった。家族の居ない実情を蔑まれたくなかった。点数の低いテストを隠したくなる気持ちと同じプライドを守る気持ちそれが半分。そしてもう半分は、おそらく言った所で信じて貰えないだろうという諦めにも似た感情。事実、今まで本当のことを言った所で誰にも信じてもらえなかった。笑い飛ばされるならまだいい方、酷い時には変人や精神疾患者として街を追い出されることすらあった。
「なるほどね。東じゃ仕方無いかも。なにせ大陸を二分する”小競り合い”は東のエーフェと西の連合によるものだから、東までは火種は飛ばないもの」
その嘘に気が付かなかったのか、はたまたわざと気が付かないフリをしたのか。そのどちらとも取れる反応でエリルティアは納得したような苦笑したような微妙な表情を浮かべながらいま一歩アリエスへと歩み寄る。
「そうね。知っておいて損をする話でもない、と言うよりは知らないと不味いぐらいのお話だから軽く教えてあげる。立ち話もなんだから、近くのテラスにでも行きましょうか?」
緩やかな足取りで歩くエリルティアの後ろをアリエスは今まで生きるためにしか使わなかった脳髄を記憶の彼方とも言える頃の”勉強をすることに使用する”に対する若干の嫌悪感を抱きつつも、そっと彼女の後ろをついて行かざるを得なかった。