7 BENクー 著 干支『龍神に祈る』
辰之助は、紫色の水平線に向かって櫓を漕ぎ続けた。
彼の懐には豊漁と無事を祈って龍神に捧げる束ねた自分の髪と妻の髪がある。目指す三里先の小さな岩礁には注連縄が巻かれてあり、その岩礁に懐の奉納物を置いてくるのが元日の習慣だった。同じ頃、妻のお早は祠の前で手を合わせていた。
船の初漕ぎ出しとなる元日早暁、龍神様に参るのが妻たちの習慣で、お早は今年初めて他の妻たちに混じって夫の無事を祈った。強い東風に煽られた波しぶきは、まるで鳳が羽を広げたように高々と宙に舞い上がっては波頭を海に叩きつける。
辰の年。龍神を祀る村にとって、豊漁祈願もさることながら今後の漁の無事を祈る方が大事だった。なぜなら、龍神の蘇りを意味する辰の年は最も海が荒れる年だったからだ。
案の定この日も強い風に吹き付けられた辰之助たちは、波上に浮かぶ木の葉のように舳先を乱した。
『今年の東風はハンパねぇ…』
操船にかけては村一番と評される辰之助さえもさすがに荒れる波にてこずった。
何とか漕ぎ手の先頭で岩礁に近づいたものの、掛け渡す綱が岩に掛からず、何度も船側を岩場にぶつけそうになった。
「俺に・綱を・投げろ…」
叩きつける波音で声がかき消される中、片手で櫓を操りながら綱を掛けようとする辰之助に、続いて来ていた義兄の惣太が身振り手振りで告げた。
舳先をぶつけ合うように船を近づけた惣太は、受け取った艫綱を自分の船の舳先に結び、”もやい船”の格好で船を安定させると辰之助に奉納を済ませるように促した。
惣太が必死に櫓を操っている間、東風を背にした辰之助は素早く髪を岩場に置くと瞬時手を合わせた。
うねる波はまさに龍の化身。時に漁場に恵みを施し、時に漁師の命を奪う。生き物すべてが畏れ敬う存在である。だが、だからこそそこで暮らす辰之助たちはどんなに波が強くても退くことはできなかった。退くことは龍神の怒りを増すだけになり、そこで暮らすことを放棄する意志につながる。敬いながらもそれに立ち向かう強い意志。命を喰らうものは命を賭けて臨む意志。辰之助たちの心に深く付いている生きることの姿がそこにあった。辰之助が捧げた髪は少しの間岩礁の上に漂っていたが、すぐに波に揉まれながら海中へと消えた。
その時、二人は同時に微笑んだ。艫に叩きつけるしぶきを浴び、全身びしょ濡れになりながら龍神の挑みに打ち勝った思いを感じたからだ。「さあ、帰ろう…」
辰之助には、惣太が指差す先にお早の顔が見えた。-おしまい-