3 やあ 著 トンネル 『ひかり』
トンネルの入り口には、初夏のまぶしい日射しが降り注いでいる。
一歩足を踏み込むと、僅かに気温が下がる。
歩を進めるに従って、暗さに眼が慣れてくる。
確かに背後のほうが明るい筈なのに、その闇は現在地よりも、尚、濃かった。
山を貫いて伸びた道をひとり歩く。
車も通らず、人の気配もない。
聞こえるのは自分の足音と息遣いだけ。
ひと握りの心細さを連れて、佐和はただ前へと引き摺るように足を運んだ。
山へ行こうと思い立ったのは、まだ葉桜の頃のことだった。
息苦しくなるほどぎっしりと咲いた花の間から、ようやく呼吸孔を見つけたような衝動。
なるべく人の少なそうなところを選び、実行に移すまでにふた月余りを要した。
それまでの終わりがないかと思えるような時間を考えると、ほんの束の間の躊躇いに過ぎなかったけれど。
佐和はひどく疲れていた。
老耄した母との日々と、消化器に巣食ったやっかいな疾患。
かつての日常が遠ざかった瞬間、するりと非日常が日常と入れ替わる。
精神的にきつくなると、固く目を閉じる癖がついていた。
ゆっくりと十まで数える。
ひとーつ。ふたーつ。みっつ・・・・・・。
数えている間はそのことだけに集中していられたから、現実逃避にはもってこいの所作であった。
トンネルの中の静けさと薄暗さ、そして外界から中途半端に遮断された状況は、佐和のささくれだった神経を意外なほど落ちつかせた。
出口は見えない。
佐和の足取りはいつの間にか、随分、軽くなっていた。
母と離れる時間が自分には必要だったのだと思った。
定期健診だと嘘をついてショートステイに預けた母の不安げな表情が脳裏に蘇ったが、澱のように胸で淀んでいた罪悪感は薄紙を一枚ずつはがしていくかのように和らいでいった。
ごめんねという言葉が自然に口をついて出た。
母には届かない独り言であった。
今、母は慣れない施設の片隅で何をしているのだろう。
いつしか佐和はトンネルを出たら、そのまま引き返すつもりになっていた。
山を登ることではなく、ひとりになることに意味があったのだ。
トンネルの中は、まるで産道のようであった。
佐和は乾いた土に水が沁み込んでいくような穏やかな気持ちになっていた。
ふと思いついて、切ってあった携帯電話の電源を入れたが、すぐに圏外という表示に気がついて小さく苦笑した。
どんなに長いトンネルにも必ず出口はあるものだ。
登山への執着は消えていた。
バッグの中には一日のカロリーのつじつまを合わせるためだけの栄養機能食品が入っていたが、それには手をつけずにあたたかいものでも食べて戻ろうと。
きちんとかたちのあるものを咀嚼して消化してやる。
それが生きるということにまっすぐ繋がっているのだから。
前方に光が見えてきた時、佐和の眼はもうひとつのトンネルの出口をしっかりと捉えていた。




