8 そよそよ 著 金環日食 『陽の陰』
「今日は金環日食なんですよ、お父さん。」
妻は、テーブルの上を台拭きで拭きながら、ゆっくりと新聞を読んでいる夫に呼びかけた。
一度呼んだくらいでは、なかなか気づいてはもらえない。
お互い、70代後半。病気もし、何度か入院もしている。ガンとも長い付き合いだ。
耳も目も若い時の何倍遅いだろうか。
「…お父さん。」
「あ、ああ?」やっと夫は新聞から目を離して、妻を見た。
「なんじゃ?」
「金環日食ですよ。ほら、ニュースでもやってますよ。ここ見てください。」
妻が指差したTV画面には、和歌山県のライブ映像が映っており、太陽が欠けていく様子がくっきりと映し出されている。
「おお、そうか…じゃあ、ちょっと外にでてみるか。」
夫は新聞を畳み、テーブルの上に置くとゆっくりと立ち上がった。
妻は台拭きを流しに置くと、夫の後について、一緒に外にでた。
外は明るく、太陽を見上げても、どこがかけてるのかわからない。
いつもと同じだけまぶしく感じられた。
手で遮りつつ見てみるが、やっぱりわからなかった。
「…日食用のメガネ、早めに買えばよかったですねえ。昨日は売り切れてましたけど。」
妻の言葉に、夫はまぶしそうに目を閉じながら答えた。
「しかし、次は20年後だというじゃないか。いくらか知らんが一回きりはもったいない。」
「そうですかねえ…。」妻は首をかしげながら答えた。
その時、近所の子供達が、老夫婦に向かって走ってきた。
「おばちゃん!グラス貸したるわ!」元気な声が聞こえる。
「あら、タクちゃん。今日は小学校休みなの?」
近所の小学生、タクミは会うと必ず挨拶をしてくれる。タクミの家族が引っ越してきた時は、生まれたばかりだったというのに、もう小学4年生とは…早いものだ。
タクミの妹も兄の後を追って、駆けてきた。
「ハルちゃんのも、おじちゃんにかしてあげるね。」
「…おお、ありがとう。どれどれ…。おッ!ほんまに欠けとるなあ!」
夫は嬉しそうに声を出している。妻もタクミに借りたグラスを目にあてた。
黒い空の中、オレンジ色の太陽が半分以上隠れているのが見えた。
「あらあ。ほんと。TVと一緒…すごいわねえ…。」
「すごいやろ!もうすぐ輪になるやろ?」
タクミは嬉しそうにしている。まるで自分が消しているかのようだ。
先ほどから、通りすがりの大人に貸しては、同じ問答を繰り返していたのだ。
「あんな、もっときれいなんあんねんで。」
タクミはそう言うと、老夫婦を少し離れた、角の家の壁まで引っ張って行った。
「これ見たって!」
タクミに言われて見ると、大きく育った街路樹が、まっ白い塀に墨色の陰を落としていた。
「ん?」
その木漏れ日が、どこかおかしかった。
「ほら。全部、三日月みたいになってるやろ?ここも金環日食やねんで。」
「ほおーー!」
タクミの説明に夫が感嘆の声をあげた。
「なんだか不思議ねえ…。」妻がそう言っていると、それを写真に撮っている人も何人かいた。
「次はな、太陽の前を、金星が通るねんで。6月6日やった思う。」
タクミが嬉しそうに話す。
「そうかあ…タクちゃん、今日はいいもん見せてくれてありがとな。」
夫はそう言って、タクミとハルの頭をヨシヨシとなぜた。
タクミとハルは嬉しそうに顔をほころばせると、家の方に走っていった。
もう友達がランドセルをしょって待っていた。
「…やっぱり、買ったほうが良かったですねえ。日食グラス。」
妻の言葉に夫は、首を振って笑った。
「いや、またあの子たちに借りたらいいさ。そしたら、またこうやって色々な話が聞けるからな。」
「…それもそうですね。」
妻もほほ笑んでうなずいた。
「じゃあ、お茶でも入れましょうか。」
その言葉に、二人は連れ立って家の中に入っていった。
おわり




