11 かいじん 著 愛 「JUST A RUNAWAY」
窓からベランダ越しに見える、道路を隔てた向かいのマンションの隣の
雑居ビルの屋上からのぞいている空は一面薄っすらとした白い雲に
覆われていて、時折聞こえて来る、雨垂れがコンクリートを打つ音が
雨がずっと降り続いている事を窺わせた。
先週、香津子が、居なくなった事がわかった夜にも雨は同じ様に
殆ど雨音をたてる事無く、ずっと降り続けていた。
彼女は少なくとも僕には、何の予兆も見せず、唐突に彼女が借りていた部屋を引き払い 、そしてどこかに去っていった。
その鮮やかさには、僕や、恐らくは誰の言葉にも、もはや聴く耳を持たないと言う、確固とした意思の様なものが感じられた。
彼女が、僕に何も言わずに、去っていった理由と言うのは僕にはよくわからない。
僕と彼女の関係はその直前まで、何の問題も無くうまく行っている様に思えたし、お互いの生活も順調だったと思う。
少なくなくとも表向きには・・・
はっきりしているのは、いろんな事が、僕にはなす術もないまま、既に過去の出来事として、ゆっくりと、しかし確実に遠ざかり始めていると言う事だけだ。
僕はとりあえず、キッチンの方へ行き、冷蔵庫を開けてみた。
中には、大したものが無かったし、そもそも何か作るのが億劫だったので外に出る事にした。
アパートのドアを開け、階段を降りて、傘を差し目の前の通りを私鉄の駅の方へ歩いていった。
雨が降り続く中、途中で商店街の中へ入り雑踏の中を歩いた。
先の方に見える踏切を駅から発車したばかりの黄色い車体の電車がゆっくりと加速しながら通過して行く。
雨雲の下の見慣れた街の風景は、今の僕には何だか現実感の無い光景の様に思えた。
・・・「人の心や考え方と言うのは、時計の針と同じで、絶えず動き続けているものなのよ」
響子はそう言うと、グラスに残った、オレンジ・カンパリを飲み干した。
僕らは3時間前に、知り合ってからずっと取り止めの無い会話を続けていた。
彼女の背後の奥の方に見える壁時計は十二時半を大きく回っていて終電に間に合う時刻を過ぎ様としている。
それは、何と無く過ぎてしまった時間の様でもあり、暗黙の内に流れていった時間の様でもあった。
時計の針は、絶えず動き続けている・・・
僕はグラスに残った、ジン・トニックを飲み干した。
・・・
僕と響子は店を出てエレベーターに乗り込んだ。
僕らはたまたま同じエレベーターに乗り合わせた男女の様に押し黙ったまま、階数表示が1階まで下がって行くのを待った。
「タクシーで送るよ」
ビルの出口を出て歩道に出た所で僕は言った。
彼女はここから三駅の所に部屋を借りて住んでいると言う事だった。
僕がそう言った後、彼女はまるで百年間同じ水槽で飼われ続けた熱帯魚の様な目で僕を見た。
「親切なのね」
歴史上、もっとも詰まらない冗談を聞いた時の感想を言う様に彼女は言った。
・・・カーテンを少しめくって、窓を10センチ程明けて見ると、空は気持ちよく晴れて、すがすがしい陽光が街に降り注いでいた。
僕は窓を閉めて、薄暗い部屋を振り返ってみた。
ベットの片側に膨らみがあり、その薄暗がりの中の
温もりの中で、響子はまだ心地よい眠りの中にいる。
そのベットを取り囲んでいる、乱雑さが、僕に、昨晩、
闇の中での行為の記憶を、思い起こさせる。
行為が始まると響子は雌の小獣に豹変し、僕は日常的なものや、理性を全て、脱ぎ捨て、めまぐるしく浮かんで来そうになる全てのものを必死で振り払って行為に熱中した。
・・・
僕は自分の部屋に戻ると、そのまま泥の様に眠り込んだ。
目が覚めるとすっかり夜になっていた。
窓の外には雲の無い夜空にくっきりとした月が浮かんでいた。
僕は月をぼんやりと眺めながら、香津子もどこかで、同じ月を見ているかもしれないと思った。
あるいは、響子も今、この瞬間、この月を見ているのかもしれない。
彼女とは、あの後そのまま別れた。
僕は僕達3人がそれぞれの場所で、別々の生活を送りながら、今、同じ月を見ている姿を想像してみた。




