10 やあ 著 猫 『いのち』
『いのち』
一昨日の夜のことだ。
とうさんが網仕事をする納屋から、水気を帯びた細い声が聞こえることに気がついた。
ぼくは胸の中に鉛の欠片をいっぱい詰め込んだような気持ちで納屋へ向かった。
声の主はほどなく見つかった。
魚網を入れたラバーケットの陰に生まれて間もない仔猫たちが丸まっていた。
キジトラが2匹とキジトラ混じりの三毛が2匹。
ぼくは1匹のキジトラを両手ですくい上げて泣きそうになった。
ふわふわの毛糸玉はびっくりする位軽く、ごりごりとしたあばら骨が指先でなぞれるほどに細かった。
その晩、ぼくはとうさんとかあさんに何も言えなかった。
まだ目も開いていない4匹の仔猫。
彼等はきっちりと生きていた。
薄暗い納屋一面に生命の気配が漂っていた。
母猫がいないことを気にしながら、ぼくは母屋の冷蔵庫から1リットル入りの牛乳パックを持ち出した。
仔猫たちは、ぼくが少しずつ皿に注いだ牛乳を、ぴちゃぴちゃと音を立てて舐めた。
本当はこんなことをしても仕方ないと判っているのに、どうしても彼等に何かを与えずにいられなかった。
4匹を段ボールに入れて何処かへ運び出すことも考えたが、
それは仔猫たちが苦しむ時間を引き伸ばすこと以外の何物でもない行為だと、ぼくにも判っていた。
昨日、外流しでかあさんがキスを捌いていた。
伯父さんが刺網で採ってきたものに違いなかった。
刺網にかかったキスは、網を揚げる時には既に息絶えている。
漁協は規格外のサイズのものは買ってくれないので、自家消費したり、
こうして親戚や近所の家へ配ることになるのだ。
かあさんはいつも人差し指より細いキスまで、きちんと三枚に卸して調理した。
「そんなに小さいやつまで開くん?」と驚いて尋ねたことがあった。
「小さくても生きて泳いどった命やからねぇ」。
そうかあさんは答えて、次の一匹をつまみあげるとキラキラとした鱗の上に出刃を走らせた。
そのキスの小ささが、ぼくの心を雑巾絞りにしたような気がした。
納屋で鳴いているちびすけたちと、ボールに山盛りにされたキスがぼくの中でぴたりと重なる。
「かあさん、納屋でまた猫が生まれとる」。
たまらず、ぼくは打ち明けた。
かあさんは手を止めて顔を曇らせた。
「とうさんに話さなあかんなぁ」。
それだけ言うと、また次の一匹を新たにつまみあげた。
よく研がれた出刃で鱗を手際よくそぎ落としては、腹をすぱんと開いていく。
ぼくは黙って家へ入るしかなかった。
今朝、ぼくはとうさんに呼ばれた。
「手伝ってくれるか?」
そのひとことで、すぐに用件は判った。
絶対に嫌だと撥ねつけたかった。
なのにぼくは小さく頷いて、とうさんに続いて納屋へ入った。
「すまんな」。
とうさんは掠れた声でぼくに言い、ぼくはとうさんの手からくしゃくしゃの紙袋を受け取った。
中にはライターとひと束の線香が入っていることを、ぼくは知っていた。
使い古した漁網の袋に、とうさんはやっと半分目が開きかけたちびすけを4匹とも入れた。
ぼくもとうさんもひと言も口をきかずに、船を繋留してある桟橋に向かう。
途中でぼくはハマダイコンの花の部分だけを、めちゃくちゃに素手で摘み取った。
薄紫のはなびらが手のひらにひんやりと冷たかった。
とうさんはやはり何も言わず、摘んだ花を入れやすいように袋の口を開いた。
細い声が絶えず洩れてくる袋へ出来るだけふんわり花を納めた。
船に乗り込む前にぼくたちは大きめの石を幾つか拾った。
数年前までのぼくは決して石を拾わなかったけど、
いつの間にか、とうさん独りにこの作業をさせてはいけないと思うようになっていた。
内湾を出たところで袋に石を入れた。
ちびすけたちに重みがかからないように袋を横にして、4匹から出来るだけ離した場所に石を静かに積んだ。
とうさんが火をつけた線香の束をぼくに差し出した。
とうさんの片手は仔猫たちが入った袋の底を支え、もう一方の手は袋の上から石をしっかり掴んでいた。
ぼくは線香の火のついた部分を、ばらばらになったハマダイコンの中央に押し込んで袋の口を縛った。
何か話すと涙がこぼれてしまいそうだったから全部の工程を無言のままで済ませた。
とうさんがそっと手を離すと袋はゆっくりと沈み、やがて海の底に見えなくなった。
ぼくが顔を上げた時、とうさんはまだ手を合わせていた。
ぼくも慌てて喉の奥で「ごめんなさい」と呟いて手を合わせた。
4つの命は消えてしまったけど、今、ぼくは泣いてはいけない。
そう思って奥歯をぎゅっと噛みしめて天を仰いだ。
空は何処までも青く、海はその空よりももっと青かった。




