4 お春 著 猫 『二百グラムの命』
あの日はとても暑く、アスファルトにはゆらゆらと陽炎が立っていた。
ぼんやりと、もう自分の人生を終わりにしなければと思いつつ、ツレとバスに揺られていた。
「猫がいる」
車窓から通りを眺めていたツレがぽつりとそう呟いた。
私に見えたのは、小学生が団体でぞろぞぞろと歩いている姿だけだった。
「猫がいるよ、あそこ」
ツレがまたそう言ったが、私には見えない。
ちょうど目的のバス停に到着し、バスを降りた。
病院の予約時間にはまだ時間がある。そして、その病院はバス停の目の前だ。
だが、私は病院の前を素通りし、小学生の団体がいる辻へと向かった。
確かにそこにはツレが言ったとおり猫がいた。
白と黒の小さな仔猫が、小学生に追い立てられている。
早く歩いて。早く早く。
子供達がそう叫びながら仔猫を手に持ったノートやファイルで追い立てる。
真昼のアスファルトは、太陽に照らされ焼け付くような熱さになっていた。
そこにまだ満足に歩く事もできない仔猫がいる。
思わず駆け寄った私は、小学生の間に割り込み仔猫を抱き上げた。
それは生まれて間もない手のひらサイズの小さな猫だった。
「ノミだらけで汚いよ! 病気かもしれないよ!」
仔猫を抱いた私に、子供達がそう叫ぶ。
そんな声を無視し、仔猫を見た。
左目は完全につぶれ、右目もまだ満足に開いていない。
猫風邪をひいているらしく、鼻呼吸ができないのか口を小さく開いて必死で息をしている。
「この猫、どうするの?」
そう尋ねた私に、子供たちは動物病院に連れて行くと行った。
「病院代って高いよ。払えるの?」
支払いができるのかという質問に、子供たちが全員無言になる。
「それからどうするの? 飼うの?」
子供達の一人が、私が飼いますと言った。
汚いから病気かもしれないからという理由で猫を抱く事も触る事もできないのに、この子はどうやってこの猫を飼うつもりなのだろうか。
そう言いたい気持ちを堪え、私は自分の病院の予約時間が迫っているにもかかわらず動物病院へと向かった。
仔猫は私に抱かれても鳴き声ひとつあげず、ただ苦しげに息をしていた。
動物病院に連れて行っても助からないかもしれない。
鼻器官性ウイルスの他に、もっと大変な病気を抱えているかもしれない。
けれど、望みがないわけでもない。
子供達が言う動物病院まで約一キロ。
焼け付く地面、頭上から容赦なく降り注ぐ真夏の日差し。そんな中を、私は黙々と歩いた。
なんとか動物病院にたどり着き、仔猫はノミの駆除をしてもらって薬も処方してもらった。
それから一緒についてきてくれたツレに後を託し、私は自分の病院へと向かった。
病院への道すがら考える。
あの仔猫をどうするか。
どうするも何も無い。私の中に答えは一つしかなかった。
つれて帰ろう。うちの子にしよう。日が変わったら、私は人生を終わりにするはずだった。
そのために準備もしてきた。あとは、決行するだけだった。
けれど、神様はどうやらそれを許そうとしなかったらしい。
人生に終わりを告げるはずの前日、突然新たな命を預かった。連れ帰った翌日、仔猫ははじめて鳴き声をあげた。
腹をすかせ、親を呼ぶように鳴いたその声は、命の声だった。生きようとする声だった。
生きる事を選んだ仔猫に私は名前をつけた。
仔猫は名実共にうちの猫となった。その出会いが偶然だったのか、必然だったのかわからない。
神様から預かった二百グラムの命。
それが私を生かす命となったことだけは確かだ。
あれから半年が経ち、大きくなった猫は今、私の膝の上で丸くなって寝ている。どうせ自ら終わりを告げようとしていた人生なんだろ?
だったらその命、アタシのために使うってのはどうよ。
それも悪くないだろ?なんとなく猫にそう言われたような気がした。




