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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

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死者たちの事情

家族会議

作者: 大窟凱人
掲載日:2026/10/15

 遥は弟の左手を握っていた。


 四人掛けの食卓は、台所とひと続きになった居間の中央にあった。窓側が圭の席で、遥はその右隣。向かいに父、台所に近い席に母が座っている。

 食卓の脇には二人掛けのソファとテレビがあり、壁には圭の学校の予定表が貼られていた。廊下の先には玄関が見える。脱ぎ散らかした圭の運動靴も、今朝のままだった。


「圭だって死にたくないって言ってるのよ」


 母が言った。


「それでも殺すの?」


 テレビは消されていた。冷蔵庫の低い音だけが、台所から聞こえてくる。

 九歳の圭は、いつもの椅子に座っていた。

 右腕は肘から先が灰色に変色し、爪の剥がれた指が時折、勝手に動いた。その手だけは、椅子の肘掛けに縛りつけてある。

 遥が握っている左手は、まだ温かかった。


「三人も治ってるのよ」


 母はスマートフォンを父に向けた。


 画面には、ゾンビ感染から回復した少女の写真が表示されていた。少女は両親の間で笑っている。


 感染者は発見されれば処分される。しかし、家族に匿われ、発症から回復した人間もわずかながら存在した。公表された回復者は三人。それが母の希望だった。


「この子なんか、圭より症状が進んでいたのよ」


「記事は読んだ」


「だったら、どうして殺すなんて言えるの?」


「その三人が助かるまでに、何万人死んだと思ってる」


「でも、ゼロじゃないでしょう」


「ゼロじゃなければ、何をしてもいいのか」


 母は口を閉じた。

 遥は弟の手を握り直した。圭も握り返した。


「私は、お母さんに賛成」


 父が遥を見た。


「お前は、圭が怖くないのか」


「怖くないよ」


 そう口にしながらも、遥の視線は弟の右腕へ向かった。

 包帯の下で、灰色の指が動いていた。


「……今はまだ、話せるし」


「話せることと、安全なことは別だ」


「だから、気をつければいいじゃない」


「どうやって?」


 遥は考えた。


「二階の部屋に閉じ込めるとか。ご飯は私たちが運べばいいし、ゲームだってできるよ」


 圭が顔を上げた。


「お姉ちゃんも来てくれる?」


「うん。ドア越しなら話せるでしょ」


「じゃあ……いいよ」


 圭は少し笑った。

 遥も笑おうとしたが、弟の右頬に浮かび始めた黒い斑点が気になった。


「外から鍵を掛けられる部屋が必要だ」


 父が言った。


「今夜は脱衣所で寝かせる。明日、扉を補強しよう」


「お風呂場に閉じ込めるの?」


 母が眉をひそめた。


「今夜だけだ。布団も持っていけばいい」


「まるで犬じゃない」


「俺の息子だよ」


 父の声に迷いはなかった。


「だから通報せずに、ここにいるんだろう」


 母は黙った。

 父は圭の前にしゃがんだ。


「圭。しばらく一人で我慢できるか?」


「うん」


「具合が悪くなったら、必ず呼べよ」


「わかった」


 父は息子の頭を撫でた。

 遥はその様子を見て、少し安心した。父は圭を殺したがっているわけではない。危ないから閉じ込める。それだけのことだ。

 圭の右手さえ動かなくなれば、また元の家族に戻れる。

 遥はそう思いたかった。

 母は冷めたカレーを温め直した。


 四人で食卓を囲むと、圭は左手でスプーンを持ち、いつものように食べ始めた。右手が使えないため、食べるたびに皿がずれていく。

 遥が皿の端を押さえてやった。


「ほら、これなら食べやすいでしょ」


「ありがとう」


 圭は嬉しそうにカレーを頬張った。


「お母さん、これ、おいしい」


「そうでしょう」


 母が笑った。

 そのとき、圭の右腕が動いた。

 縛っていた布が裂け、灰色の手が遥の腕を掴んだ。


「痛っ!」


 圭はスプーンを落とした。

 口が半開きになり、喉の奥から濁った声が漏れる。


「圭、放して!」


「ぐ……あ……」


 圭の顔が遥の腕に近づいた。開いた口の奥には、黒ずんだ歯茎が見える。

 遥は弟の身体を押し返した。

 圭は左手で、暴れる右手首を掴んだ。


「お……お父さん、取れない……よ」


 苦しそうだが、いつもの声だった。

 右手はまだ、遥の腕を締めつけていた。

 父が駆け寄り、一本ずつ指を引き剥がした。

 ようやく解放された腕には、五本の痣が残っていた。そのうち二か所から血が滲んでいる。


「噛まれてないな?」


 父が尋ねた。


「うん」


 遥は頷いた。


「噛まれてない」


 母が救急箱を持ってきた。


「すぐ消毒しないと」


 遥は母から消毒液を受け取った。

 圭が小さな声で言った。


「……お姉ちゃん、ごめんね」


 さっきのうなり声が嘘のようだった。


「いいよ」


 遥は笑ってみせた。


「わざとじゃないんでしょ」


「うん」


「それなら、いいよ」


 遥は弟から離れた椅子に座り直した。

 圭がその様子を見ていた。

 遥は目を逸らした。


「ほら、噛んでないじゃない」


 母が父に言った。


「自分で止めようともしてたでしょう?」


「止まらなかった」


「でも、傷だけで済んだわ」


「次もそうだと言い切れるのか」


 父は遥の腕を見た。

 遥は慌てて傷を隠した。


「もう大丈夫だよ」


「そういう問題じゃない」


 父は食卓の脇に置かれた工具箱を開けた。

 脱衣所に鍵を取りつけるため、夕方から用意していたものだった。

 中から金槌を取り出した。

 遥は父の手元を見た。


「お父さん?」


 父は圭の前にしゃがんだ。


「圭。自分の右手が怖いか?」


 圭は頷いた。


「また勝手に動いたら、どうする?」


「左手で押さえる」


「それでも止まらなかったら?」


 圭が黙り込むと、父はしばらく息子の顔を見つめていた。


「……そうか」


 立ち上がると、金槌を握り直した。

 遥は背筋が冷たくなった。


「お父さん、何するの?」


「お前は離れてろ」


「鍵をつけるんじゃなかったの?」


 父の手から、金槌は下がらなかった。

 母が圭の前に立った。


「その金槌、置いて」


「どいてくれ」


「何をするつもりなの?」


「……もう限界だ。これ以上、誰かが噛まれるのを待つわけにはいかない」


「圭は噛んでないでしょう!」


「今日はな」


 母は首を振った。


「治るかもしれないのよ」


「わかってる」


「わかってるならなんで!」


「その前に遥が死んだらどうする!」


 父の声が響いた。

 遥は思わず傷ついた腕を押さえた。


「……私は大丈夫だよ」


 父は娘を見た。

 今まで見たことのない顔だった。


「遥。お前が圭を守りたいのはわかる」


「うん」


「でも、俺はお前も守らなきゃいけない」


 それから父は圭の方へ向き直った。

 弟は椅子の上で身体を縮めていた。


「お父さん」


 圭が呼んだ。


「ぼく、悪い子になっちゃった?」


 父の顔が歪んだ。


「違うよ」


「じゃあ、どうして?」


 父は答えなかった。


「ぼく、ちゃんと言うこと聞くから」


 圭の声が震えた。


「だから、殺さないで」


 遥は父の腕を掴んだ。


「ねえ、もう少しだけ待とうよ」


 父は娘の手を見た。


「……離れてろ」


 圭の右手が、椅子の肘掛けを引っ掻き始めた。

 灰色の指が木を削り、細かな屑が床へ落ちた。


「圭、動くな!」


「動いてない!」


 弟が叫んだ。

 右腕が大きく震えた。

 父は遥を後ろへ押しやろうとしたが、その前に圭の身体が椅子ごと傾いた。

 灰色の腕が跳ね上がった。

 遥の首を掴んだ。

 息が詰まった。

 足がもつれ、床に引き倒される。圭の指が喉に食い込み、息を吸おうとしても、細い音が漏れるだけだった。


「圭! 放して!」


 母が叫んだ。


「放してる!」


 圭も叫んだ。


「ぼく、放してるのに!」


 遥には弟の顔が見えた。

 口は開き、歯茎が黒ずんでいる。涎が顎を伝っていた。

 それなのに、左目からは涙が流れていた。

 圭は左手で自分の右手首を引っ張っていた。

 父が指を引き剥がそうとしたが、びくともしない。

 遥の視界が暗くなり始めた。

 父が金槌を振った。

 鈍い音がして、圭の右腕が折れ曲がった。

 それでも指は離れなかった。


「お父さん!」


 圭が泣き叫んだ。


「ぼく、やめたい!」


 父は金槌を握り直した。

 今度は圭の頭に向けた。


「ごめんな」


 遥は叫ぼうとしたが、声にならなかった。


「圭に触らないで!」


 母の叫びとほとんど同時に、父の背中に包丁が突き立った。

 父の身体がびくりと跳ね、喉から短いうめきが漏れた。

 母が刃を引き抜くと、金槌が床に落ちた。

 父はよろめきながら圭の折れた右腕を掴み、遥の首から引き離した。そしてそのまま食卓に手をつき、床へ崩れ落ちた。

 遥は這って離れ、激しく咳き込んだ。何度息を吸っても足りなかった。


「お父さん!」


 遥は這って父のそばへ行った。

 背中から血が流れていた。


「お父さん、しっかりして!」


 父はまだ目を開けていた。

 遥が手を握ると、かすかに握り返した。


「救急車!」


 遥は母を見た。


「お母さん、早く!」


 母は動かなかった。

 赤い血が滴る包丁を握ったまま、倒れた夫を見つめていた。


「お母さん!」


 遥はスマートフォンを取り出した。

 画面に緊急通報の番号を表示したところで、母がその手を掴んだ。


「駄目よ」


「何言ってるの!」


「救急車を呼んだら、圭が見つかる」


「お父さんが死んじゃう!」


「圭だって殺されるのよ!」


 母は電話を取り上げ、食卓に置いた。


「お願い、遥。わかって」


「でも、お父さんが……!」


「そうしなければ、圭が殺されていたでしょう!」


 遥は父を見た。

 父の唇が動いていた。

 何かを言おうとしている。

 遥は顔を近づけた。


「お父さん?」


 父の目は圭に向けられていた。


「……圭を……」


 それきり声は聞こえなかった。

 握っていた手から力が抜けた。


「お父さん?」


 遥は何度も呼びかけた。

 頬を叩き、肩を揺すった。

 それでも父は目を開けなかった。

 遥は父の手を握ったまま、長いあいだ動けなかった。

 父は最後に何を言おうとしたのだろう。

 圭を守れと言ったのか。

 それとも。


「遥」


 母に呼ばれた。

 遥は顔を上げた。


 母は圭を抱き寄せていた。


「大丈夫よ。もう誰にも殺させないからね」


 圭は母の肩越しに父を見ていた。


「お父さん、どうしたの?」


 母は息子の髪を撫でた。


「ちょっと疲れたのよ」


 遥は母を見つめた。


「……何言ってるの?」


「遥、圭を別の部屋に移しましょう。お父さんのことは、そのあと考えるから」


「お父さん、死んじゃったんだよ」


「……わかってる」


「お母さんが殺したんだよ」


 母の顔が強張った。


「圭を守るためだったの」


「お父さんだって、私を守ろうとしてたんだよ!」


「だからって、圭を殺していいわけじゃないでしょう!」


「だからって、お父さんを殺していいわけでもない!」


 遥は食卓のスマートフォンへ手を伸ばした。


「助けを呼ぶ」


「駄目よ」


「お父さんをこのままにしておけないよ」


「もう助からないでしょう」


 遥の手が止まった。

 母はすぐに口を押さえた。

 しかし、言葉は取り消せなかった。


「……お母さん」


「お父さんだって、家族でしょ……?」


「わかってるわよ!」


「じゃあ、どうして!」


「圭はまだ生きてるの!」


 母は泣いていた。


「お願い、遥。今は圭のことだけ考えて」


 遥は父の身体を見た。

 さっきまで弟を殺そうとしていた。

 それでも最後には、自分の首から圭の指を外そうとしてくれた。

 遥は食卓からスマートフォンを取った。

 母が腕を掴んだ。


「行かせない」


「離して」


「お願い。圭を見捨てないで」


「見捨てないよ!」


 遥は母の手を振り払おうとした。


「でも、お父さんも見捨てたくない!」


 母はさらに強く腕を掴んだ。


 もう一方の手には、まだ包丁が握られていた。


「お母さん、それ置いて」


「あんたこそ電話を置いて」


「包丁を置いてよ!」


 遥は母の手首を掴んだ。

 母が引き戻そうとする。

 遥は離さなかった。

 その拍子に、包丁の刃が遥の腹に食い込んだ。

 二人とも動きを止めた。

 母が包丁を引き抜くと、遥の服に赤い染みが広がった。


「……遥?」


 母が呟いた。

 遥は腹を押さえた。

 温かい血が指の間から溢れてきた。

 母が手を伸ばした。


「見せて。すぐ押さえれば……」


「来ないで!」


 遥は後ずさった。

 母は包丁を握ったまま近づいてきた。


「遥、お願い。傷を見せて」


「来ないでって!」


 遥の足が、床に転がっていた金槌に触れた。

 父が落としたものだった。

 遥はそれを拾った。


「それ、置きなさい」


 母が言った。


「危ないから」


 遥は金槌を両手で握った。


「お母さんこそ、包丁を置いてよ」


「わかった。わかったから、こっちへ来なさい」


 母がまた一歩近づいた。

 遥は首を振った。


「もう嫌だ」


「遥」


「お願いだから、もう誰も殺さないで」


 母は包丁を握ったまま、さらに一歩踏み出した。

 遥は金槌を振った。

 鈍い音がした。

 母の身体がよろめき、食卓の角にぶつかった。

 そのまま床に崩れ落ちた。

 遥は金槌を落とした。


「……お母さん?」


 返事はなかった。

 腹を押さえながら母のそばに膝をついた。


「ねえ、起きてよ」


 肩を揺すった。

 母の頭が力なく傾いた。

 遥は手を離した。

 父は食卓の向こうに倒れていた。

 母は目の前で動かなくなっていた。

 遥は二人の間で、何度も顔を見比べた。

 自分が何をしたのか、ようやく理解した。


「……圭」


 弟が這ってきた。

 右腕は肩まで腐り、黒い斑点が首筋に広がっていた。


「お姉ちゃん」


 遥は左手を差し出した。

 圭はその手を握った。

 まだ温かかった。


「お姉ちゃん、血が出てる」


「うん」


「死んじゃうの?」


 圭は父を見た。母を見た。

 そして、もう一度姉を見た。


「みんな、ぼくのせい?」


「違うよ」


「じゃあ、どうして?」


 遥は弟の手を握り直した。

 何と答えればいいのかわからなかった。

 母は圭を守ろうとした。

 父も、遥を守ろうとした。

 自分は二人を止めようとした。

 それなのに。

 遥は食卓に置かれたスマートフォンを見た。

 まだ電源は入っていた。

 手を伸ばせば届く。

 救急車を呼べば、自分は助かるかもしれない。

 しかし、圭が感染者だとわかれば、処分される。

 父が最後に言おうとしたことを、遥は考えた。


 圭を――


 その先に続く言葉は、もう聞けない。


「お姉ちゃん?」


 圭が尋ねた。


「誰か呼ぶの?」


 遥は頷いた。


「……うん」


「ぼくも連れていかれる?」


 遥の手が止まった。


「ぼく、殺されちゃう?」


 遥はスマートフォンを見つめた。

 それから、手を引っ込めた。


「……大丈夫」


 圭の左手を握った。


「お姉ちゃんが、守るから」


 圭は泣き出した。


「お姉ちゃん、死なないで」


 遥は弟を抱き寄せた。

 傷が痛んだが、構わなかった。


「圭、よく聞いて」


「うん」


「お父さんもお母さんも、圭のことが大好きだったんだよ」


「お姉ちゃんも?」


「もちろん」


 遥は微笑んだ。


「大好きだよ」


 圭は姉の手を強く握った。


「お姉ちゃん、死なないでよ」


 遥は唇を動かしたが、声にならなかった。

 弟の手が、少し遠くなった。

 遥はもう一度握り直そうとした。

 指が動かなかった。

 圭の泣き声が聞こえた。

 最後に見えたのは、弟の左手だった。

 自分の手を、何度も握り直していた。


 *


「お姉ちゃん?」


 圭は遥の肩を揺すり、動かなくなった左手を握り直した。


「ねえ、起きてよ」


 返事はない。

 父のところへ這っていき、肩を揺する。


「お父さん、もうぼくの手、叩かなくていいよ。だから起きてよ」


 父も目を開けない。

 母の頬に触れると、いつもより冷たかった。


「お母さん、ぼく、いい子にするから」


 圭は母の胸に顔を埋めた。


「みんな、起きてよ!」


 泣き声が居間に響く。

 壁には明日の学校の予定表。玄関には、圭の運動靴が脱ぎっぱなしになっている。

 けれど、家のどこからも返事はなかった。

 圭は母を呼び続けた。

 やがて、その声が濁り始める。

 灰色の皮膚が首筋まで広がり、左手の指も黒く変色していた。頬の肉が崩れ、歯茎が露出する。


「おか……」


 もう言葉にならない。

 圭は母の肩に顔を寄せた。

 腹の奥から、激しい飢えが込み上げてくる。

 目の前には柔らかな肉があった。

 噛みついた。

 肉を引きちぎり、噛み砕いて飲み込む。それでも飢えは満たされず、圭は父の身体へ這っていった。

 やがて姉のところへ戻る。

 遥の左手が床に投げ出されていた。

 圭はその指を口に含み、歯を立てた。

 骨が砕ける。

 食卓には、四人分のカレーが残されていた。

 完全にゾンビとなった圭の口から、血が滴っている。

 腐り果てた顔には、もう人間の表情がない。

 それなのに、両目からは涙が溢れていた。

 圭は再び姉の肉に噛みついた。

 噛み砕き、飲み込む。そのたびに、涙が頬を伝って落ちる。

 泣き声はもう出ない。

 それでも涙だけは止まらなかった。

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