家族会議
遥は弟の左手を握っていた。
四人掛けの食卓は、台所とひと続きになった居間の中央にあった。窓側が圭の席で、遥はその右隣。向かいに父、台所に近い席に母が座っている。
食卓の脇には二人掛けのソファとテレビがあり、壁には圭の学校の予定表が貼られていた。廊下の先には玄関が見える。脱ぎ散らかした圭の運動靴も、今朝のままだった。
「圭だって死にたくないって言ってるのよ」
母が言った。
「それでも殺すの?」
テレビは消されていた。冷蔵庫の低い音だけが、台所から聞こえてくる。
九歳の圭は、いつもの椅子に座っていた。
右腕は肘から先が灰色に変色し、爪の剥がれた指が時折、勝手に動いた。その手だけは、椅子の肘掛けに縛りつけてある。
遥が握っている左手は、まだ温かかった。
「三人も治ってるのよ」
母はスマートフォンを父に向けた。
画面には、ゾンビ感染から回復した少女の写真が表示されていた。少女は両親の間で笑っている。
感染者は発見されれば処分される。しかし、家族に匿われ、発症から回復した人間もわずかながら存在した。公表された回復者は三人。それが母の希望だった。
「この子なんか、圭より症状が進んでいたのよ」
「記事は読んだ」
「だったら、どうして殺すなんて言えるの?」
「その三人が助かるまでに、何万人死んだと思ってる」
「でも、ゼロじゃないでしょう」
「ゼロじゃなければ、何をしてもいいのか」
母は口を閉じた。
遥は弟の手を握り直した。圭も握り返した。
「私は、お母さんに賛成」
父が遥を見た。
「お前は、圭が怖くないのか」
「怖くないよ」
そう口にしながらも、遥の視線は弟の右腕へ向かった。
包帯の下で、灰色の指が動いていた。
「……今はまだ、話せるし」
「話せることと、安全なことは別だ」
「だから、気をつければいいじゃない」
「どうやって?」
遥は考えた。
「二階の部屋に閉じ込めるとか。ご飯は私たちが運べばいいし、ゲームだってできるよ」
圭が顔を上げた。
「お姉ちゃんも来てくれる?」
「うん。ドア越しなら話せるでしょ」
「じゃあ……いいよ」
圭は少し笑った。
遥も笑おうとしたが、弟の右頬に浮かび始めた黒い斑点が気になった。
「外から鍵を掛けられる部屋が必要だ」
父が言った。
「今夜は脱衣所で寝かせる。明日、扉を補強しよう」
「お風呂場に閉じ込めるの?」
母が眉をひそめた。
「今夜だけだ。布団も持っていけばいい」
「まるで犬じゃない」
「俺の息子だよ」
父の声に迷いはなかった。
「だから通報せずに、ここにいるんだろう」
母は黙った。
父は圭の前にしゃがんだ。
「圭。しばらく一人で我慢できるか?」
「うん」
「具合が悪くなったら、必ず呼べよ」
「わかった」
父は息子の頭を撫でた。
遥はその様子を見て、少し安心した。父は圭を殺したがっているわけではない。危ないから閉じ込める。それだけのことだ。
圭の右手さえ動かなくなれば、また元の家族に戻れる。
遥はそう思いたかった。
母は冷めたカレーを温め直した。
四人で食卓を囲むと、圭は左手でスプーンを持ち、いつものように食べ始めた。右手が使えないため、食べるたびに皿がずれていく。
遥が皿の端を押さえてやった。
「ほら、これなら食べやすいでしょ」
「ありがとう」
圭は嬉しそうにカレーを頬張った。
「お母さん、これ、おいしい」
「そうでしょう」
母が笑った。
そのとき、圭の右腕が動いた。
縛っていた布が裂け、灰色の手が遥の腕を掴んだ。
「痛っ!」
圭はスプーンを落とした。
口が半開きになり、喉の奥から濁った声が漏れる。
「圭、放して!」
「ぐ……あ……」
圭の顔が遥の腕に近づいた。開いた口の奥には、黒ずんだ歯茎が見える。
遥は弟の身体を押し返した。
圭は左手で、暴れる右手首を掴んだ。
「お……お父さん、取れない……よ」
苦しそうだが、いつもの声だった。
右手はまだ、遥の腕を締めつけていた。
父が駆け寄り、一本ずつ指を引き剥がした。
ようやく解放された腕には、五本の痣が残っていた。そのうち二か所から血が滲んでいる。
「噛まれてないな?」
父が尋ねた。
「うん」
遥は頷いた。
「噛まれてない」
母が救急箱を持ってきた。
「すぐ消毒しないと」
遥は母から消毒液を受け取った。
圭が小さな声で言った。
「……お姉ちゃん、ごめんね」
さっきのうなり声が嘘のようだった。
「いいよ」
遥は笑ってみせた。
「わざとじゃないんでしょ」
「うん」
「それなら、いいよ」
遥は弟から離れた椅子に座り直した。
圭がその様子を見ていた。
遥は目を逸らした。
「ほら、噛んでないじゃない」
母が父に言った。
「自分で止めようともしてたでしょう?」
「止まらなかった」
「でも、傷だけで済んだわ」
「次もそうだと言い切れるのか」
父は遥の腕を見た。
遥は慌てて傷を隠した。
「もう大丈夫だよ」
「そういう問題じゃない」
父は食卓の脇に置かれた工具箱を開けた。
脱衣所に鍵を取りつけるため、夕方から用意していたものだった。
中から金槌を取り出した。
遥は父の手元を見た。
「お父さん?」
父は圭の前にしゃがんだ。
「圭。自分の右手が怖いか?」
圭は頷いた。
「また勝手に動いたら、どうする?」
「左手で押さえる」
「それでも止まらなかったら?」
圭が黙り込むと、父はしばらく息子の顔を見つめていた。
「……そうか」
立ち上がると、金槌を握り直した。
遥は背筋が冷たくなった。
「お父さん、何するの?」
「お前は離れてろ」
「鍵をつけるんじゃなかったの?」
父の手から、金槌は下がらなかった。
母が圭の前に立った。
「その金槌、置いて」
「どいてくれ」
「何をするつもりなの?」
「……もう限界だ。これ以上、誰かが噛まれるのを待つわけにはいかない」
「圭は噛んでないでしょう!」
「今日はな」
母は首を振った。
「治るかもしれないのよ」
「わかってる」
「わかってるならなんで!」
「その前に遥が死んだらどうする!」
父の声が響いた。
遥は思わず傷ついた腕を押さえた。
「……私は大丈夫だよ」
父は娘を見た。
今まで見たことのない顔だった。
「遥。お前が圭を守りたいのはわかる」
「うん」
「でも、俺はお前も守らなきゃいけない」
それから父は圭の方へ向き直った。
弟は椅子の上で身体を縮めていた。
「お父さん」
圭が呼んだ。
「ぼく、悪い子になっちゃった?」
父の顔が歪んだ。
「違うよ」
「じゃあ、どうして?」
父は答えなかった。
「ぼく、ちゃんと言うこと聞くから」
圭の声が震えた。
「だから、殺さないで」
遥は父の腕を掴んだ。
「ねえ、もう少しだけ待とうよ」
父は娘の手を見た。
「……離れてろ」
圭の右手が、椅子の肘掛けを引っ掻き始めた。
灰色の指が木を削り、細かな屑が床へ落ちた。
「圭、動くな!」
「動いてない!」
弟が叫んだ。
右腕が大きく震えた。
父は遥を後ろへ押しやろうとしたが、その前に圭の身体が椅子ごと傾いた。
灰色の腕が跳ね上がった。
遥の首を掴んだ。
息が詰まった。
足がもつれ、床に引き倒される。圭の指が喉に食い込み、息を吸おうとしても、細い音が漏れるだけだった。
「圭! 放して!」
母が叫んだ。
「放してる!」
圭も叫んだ。
「ぼく、放してるのに!」
遥には弟の顔が見えた。
口は開き、歯茎が黒ずんでいる。涎が顎を伝っていた。
それなのに、左目からは涙が流れていた。
圭は左手で自分の右手首を引っ張っていた。
父が指を引き剥がそうとしたが、びくともしない。
遥の視界が暗くなり始めた。
父が金槌を振った。
鈍い音がして、圭の右腕が折れ曲がった。
それでも指は離れなかった。
「お父さん!」
圭が泣き叫んだ。
「ぼく、やめたい!」
父は金槌を握り直した。
今度は圭の頭に向けた。
「ごめんな」
遥は叫ぼうとしたが、声にならなかった。
「圭に触らないで!」
母の叫びとほとんど同時に、父の背中に包丁が突き立った。
父の身体がびくりと跳ね、喉から短いうめきが漏れた。
母が刃を引き抜くと、金槌が床に落ちた。
父はよろめきながら圭の折れた右腕を掴み、遥の首から引き離した。そしてそのまま食卓に手をつき、床へ崩れ落ちた。
遥は這って離れ、激しく咳き込んだ。何度息を吸っても足りなかった。
「お父さん!」
遥は這って父のそばへ行った。
背中から血が流れていた。
「お父さん、しっかりして!」
父はまだ目を開けていた。
遥が手を握ると、かすかに握り返した。
「救急車!」
遥は母を見た。
「お母さん、早く!」
母は動かなかった。
赤い血が滴る包丁を握ったまま、倒れた夫を見つめていた。
「お母さん!」
遥はスマートフォンを取り出した。
画面に緊急通報の番号を表示したところで、母がその手を掴んだ。
「駄目よ」
「何言ってるの!」
「救急車を呼んだら、圭が見つかる」
「お父さんが死んじゃう!」
「圭だって殺されるのよ!」
母は電話を取り上げ、食卓に置いた。
「お願い、遥。わかって」
「でも、お父さんが……!」
「そうしなければ、圭が殺されていたでしょう!」
遥は父を見た。
父の唇が動いていた。
何かを言おうとしている。
遥は顔を近づけた。
「お父さん?」
父の目は圭に向けられていた。
「……圭を……」
それきり声は聞こえなかった。
握っていた手から力が抜けた。
「お父さん?」
遥は何度も呼びかけた。
頬を叩き、肩を揺すった。
それでも父は目を開けなかった。
遥は父の手を握ったまま、長いあいだ動けなかった。
父は最後に何を言おうとしたのだろう。
圭を守れと言ったのか。
それとも。
「遥」
母に呼ばれた。
遥は顔を上げた。
母は圭を抱き寄せていた。
「大丈夫よ。もう誰にも殺させないからね」
圭は母の肩越しに父を見ていた。
「お父さん、どうしたの?」
母は息子の髪を撫でた。
「ちょっと疲れたのよ」
遥は母を見つめた。
「……何言ってるの?」
「遥、圭を別の部屋に移しましょう。お父さんのことは、そのあと考えるから」
「お父さん、死んじゃったんだよ」
「……わかってる」
「お母さんが殺したんだよ」
母の顔が強張った。
「圭を守るためだったの」
「お父さんだって、私を守ろうとしてたんだよ!」
「だからって、圭を殺していいわけじゃないでしょう!」
「だからって、お父さんを殺していいわけでもない!」
遥は食卓のスマートフォンへ手を伸ばした。
「助けを呼ぶ」
「駄目よ」
「お父さんをこのままにしておけないよ」
「もう助からないでしょう」
遥の手が止まった。
母はすぐに口を押さえた。
しかし、言葉は取り消せなかった。
「……お母さん」
「お父さんだって、家族でしょ……?」
「わかってるわよ!」
「じゃあ、どうして!」
「圭はまだ生きてるの!」
母は泣いていた。
「お願い、遥。今は圭のことだけ考えて」
遥は父の身体を見た。
さっきまで弟を殺そうとしていた。
それでも最後には、自分の首から圭の指を外そうとしてくれた。
遥は食卓からスマートフォンを取った。
母が腕を掴んだ。
「行かせない」
「離して」
「お願い。圭を見捨てないで」
「見捨てないよ!」
遥は母の手を振り払おうとした。
「でも、お父さんも見捨てたくない!」
母はさらに強く腕を掴んだ。
もう一方の手には、まだ包丁が握られていた。
「お母さん、それ置いて」
「あんたこそ電話を置いて」
「包丁を置いてよ!」
遥は母の手首を掴んだ。
母が引き戻そうとする。
遥は離さなかった。
その拍子に、包丁の刃が遥の腹に食い込んだ。
二人とも動きを止めた。
母が包丁を引き抜くと、遥の服に赤い染みが広がった。
「……遥?」
母が呟いた。
遥は腹を押さえた。
温かい血が指の間から溢れてきた。
母が手を伸ばした。
「見せて。すぐ押さえれば……」
「来ないで!」
遥は後ずさった。
母は包丁を握ったまま近づいてきた。
「遥、お願い。傷を見せて」
「来ないでって!」
遥の足が、床に転がっていた金槌に触れた。
父が落としたものだった。
遥はそれを拾った。
「それ、置きなさい」
母が言った。
「危ないから」
遥は金槌を両手で握った。
「お母さんこそ、包丁を置いてよ」
「わかった。わかったから、こっちへ来なさい」
母がまた一歩近づいた。
遥は首を振った。
「もう嫌だ」
「遥」
「お願いだから、もう誰も殺さないで」
母は包丁を握ったまま、さらに一歩踏み出した。
遥は金槌を振った。
鈍い音がした。
母の身体がよろめき、食卓の角にぶつかった。
そのまま床に崩れ落ちた。
遥は金槌を落とした。
「……お母さん?」
返事はなかった。
腹を押さえながら母のそばに膝をついた。
「ねえ、起きてよ」
肩を揺すった。
母の頭が力なく傾いた。
遥は手を離した。
父は食卓の向こうに倒れていた。
母は目の前で動かなくなっていた。
遥は二人の間で、何度も顔を見比べた。
自分が何をしたのか、ようやく理解した。
「……圭」
弟が這ってきた。
右腕は肩まで腐り、黒い斑点が首筋に広がっていた。
「お姉ちゃん」
遥は左手を差し出した。
圭はその手を握った。
まだ温かかった。
「お姉ちゃん、血が出てる」
「うん」
「死んじゃうの?」
圭は父を見た。母を見た。
そして、もう一度姉を見た。
「みんな、ぼくのせい?」
「違うよ」
「じゃあ、どうして?」
遥は弟の手を握り直した。
何と答えればいいのかわからなかった。
母は圭を守ろうとした。
父も、遥を守ろうとした。
自分は二人を止めようとした。
それなのに。
遥は食卓に置かれたスマートフォンを見た。
まだ電源は入っていた。
手を伸ばせば届く。
救急車を呼べば、自分は助かるかもしれない。
しかし、圭が感染者だとわかれば、処分される。
父が最後に言おうとしたことを、遥は考えた。
圭を――
その先に続く言葉は、もう聞けない。
「お姉ちゃん?」
圭が尋ねた。
「誰か呼ぶの?」
遥は頷いた。
「……うん」
「ぼくも連れていかれる?」
遥の手が止まった。
「ぼく、殺されちゃう?」
遥はスマートフォンを見つめた。
それから、手を引っ込めた。
「……大丈夫」
圭の左手を握った。
「お姉ちゃんが、守るから」
圭は泣き出した。
「お姉ちゃん、死なないで」
遥は弟を抱き寄せた。
傷が痛んだが、構わなかった。
「圭、よく聞いて」
「うん」
「お父さんもお母さんも、圭のことが大好きだったんだよ」
「お姉ちゃんも?」
「もちろん」
遥は微笑んだ。
「大好きだよ」
圭は姉の手を強く握った。
「お姉ちゃん、死なないでよ」
遥は唇を動かしたが、声にならなかった。
弟の手が、少し遠くなった。
遥はもう一度握り直そうとした。
指が動かなかった。
圭の泣き声が聞こえた。
最後に見えたのは、弟の左手だった。
自分の手を、何度も握り直していた。
*
「お姉ちゃん?」
圭は遥の肩を揺すり、動かなくなった左手を握り直した。
「ねえ、起きてよ」
返事はない。
父のところへ這っていき、肩を揺する。
「お父さん、もうぼくの手、叩かなくていいよ。だから起きてよ」
父も目を開けない。
母の頬に触れると、いつもより冷たかった。
「お母さん、ぼく、いい子にするから」
圭は母の胸に顔を埋めた。
「みんな、起きてよ!」
泣き声が居間に響く。
壁には明日の学校の予定表。玄関には、圭の運動靴が脱ぎっぱなしになっている。
けれど、家のどこからも返事はなかった。
圭は母を呼び続けた。
やがて、その声が濁り始める。
灰色の皮膚が首筋まで広がり、左手の指も黒く変色していた。頬の肉が崩れ、歯茎が露出する。
「おか……」
もう言葉にならない。
圭は母の肩に顔を寄せた。
腹の奥から、激しい飢えが込み上げてくる。
目の前には柔らかな肉があった。
噛みついた。
肉を引きちぎり、噛み砕いて飲み込む。それでも飢えは満たされず、圭は父の身体へ這っていった。
やがて姉のところへ戻る。
遥の左手が床に投げ出されていた。
圭はその指を口に含み、歯を立てた。
骨が砕ける。
食卓には、四人分のカレーが残されていた。
完全にゾンビとなった圭の口から、血が滴っている。
腐り果てた顔には、もう人間の表情がない。
それなのに、両目からは涙が溢れていた。
圭は再び姉の肉に噛みついた。
噛み砕き、飲み込む。そのたびに、涙が頬を伝って落ちる。
泣き声はもう出ない。
それでも涙だけは止まらなかった。




