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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

究極の食材と黄金のスープ ~始まりの宿の女主人と、誇り高き勇者の秘密~

作者: ねこめがね
掲載日:2026/04/02

「これで……終わりだ!!!」


 その瞬間、世界は音もなく断絶した。


 琥珀色の瞳は勝利への確信に燃え、しなやかな肉体は極限まで研ぎ澄まされていた。 勇者リュカが振るう聖剣『アルバ・グレイブ』が、魔王「ヴォルガノス」の心臓へ向けて最後の一閃を放とうとした、まさにその刹那――。


 背後から音もなく「死」が滑り込んできた。 首の頸に刻まれた聖痕を、鋭い熱が駆け抜ける。それが全身を支配する冷気へと変わるのに、1秒もかからない。


「……あ」


 視界が急激に暗転し、上下の感覚が混濁するなか、リュカは底知れぬ闇へと突き落とされた。


 ――次に意識を浮上させたのは、鼻腔をくすぐる芳醇な香りと、「ギィ……」というベッドが軋む音だった。


 リュカはゆっくりと、琥珀色の瞳を開いた。 視界に飛び込んできたのは、窓から差し込む夕暮れ時の柔らかな光。自由都市テラの象徴、始まりの宿『黄昏の灯火亭たそがれのともしびてい』の天井だ。


「……はは、またかよ。まじか」


 乱暴に赤毛をかき上げ、ベッドの上で勢いよく身を起こした。


 掛け布団が滑り落ち、一糸纏わぬ鍛え抜かれた肉体があらわになる。死闘の痕跡など微塵も感じさせない傷一つない肌と隆起した筋肉は、瑞々しい生命力に満ちていた。


 彼の名は勇者リュカ、年は17歳。この世界『グラストニア』で人々を苦しめている魔王「ヴォルガノス」を討伐すべく、冒険を続けている。だが、あと一歩という所まで来たが、今は「始まりの宿」にいる。


 「再誕リスポーン」という呪いのような加護が彼にはある。 首の頸にはそれを示す『聖痕』が刻まれている。戦場で力尽き、意識は「始まりの地」にあるこの宿屋のベッドへと強制的に引き戻される。致命的な傷も、「再誕」した瞬間にはすべてが瑞々しく修復されている。


「『不可能』か。――つまり、まだ誰もやってない攻略法が残ってるってことだろ?」


 彼は口角を上げ、自分の両頬をパンと叩いた。不可能という言葉を「まだ誰もやってないだけ」と解釈し、絶望的な状況ほど笑うという彼の精神的な強靭さが、再び前を向かせる。


 だが、決意よりも先に、「ぐぅ」と情けない音が腹の底から響いた。


「……あー、まずは飯だな。飯を食わないと始まらない」


 サイドチェストには洋服一式が整えて置いてあり、リュカは当たり前のように手にとり、着替えた。


 一階の酒場へ降りると、入り口に掲げられた真鍮のランタンが、夕日をバックに柔らかな光を放っていた。内装は木材を素材のまま活かした温かな雰囲気と、中央にある大きな暖炉が特徴で、床板は歩くたびに心地よい音を奏でる。


「おや、起きたのかい。この食いしん坊の寝坊助さん」


 厨房から声をかけてきたのは、白いエプロンをきつく締め、袖をまくり上げた女主人のマーサだ。54歳、恰幅が良く、丸々とした健康的な体格をした彼女は、お玉を指揮棒のように振ってリュカをいつもの席へ促した。


「マーサ、ただいま。……また、やられちゃったよ」


 リュカは決まり悪そうに鼻の頭を掻いた。嘘をつくのが壊滅的に下手な彼は、敗北の恥ずかしさが全身から溢れ出している。


「飯を食わないから勝てないんだよ。『美味そうに腹いっぱい飯を食う奴に悪い奴はいない』が私の信条さ。ほら、座った座った!」


 マーサは快活で温かい口調で言い放つと、すぐに湯気の立つ皿を運んできた。


 この宿の名物、『黄金色のスープ』。


 促されるまま席に着き、リュカは木匙を手に取り、まずは湯気の立つ温かいスープを一口、口に含んだ。


 その瞬間、身体中の細胞が歓喜で震えるような錯覚を覚えた。


「……っ!  これだ。やっぱりこれだよ!」


 トロリとした濃厚な旨味。温かいスープが全身を巡るたび、戦いの酷い悪夢さえ、心地よい微睡みの中へ溶けて消えていく。


 エリュシオン大陸の各地を旅をし、他の街で口にする食事は不味いとまでは言わないが、口には合わなかった。


 だが、マーサの料理だけは違う。生まれてから孤児だった俺を育ててくれ、口にする料理は全てマーサの手作りだったので仕方がないのかもしれない。


「お待たせ! うちの自慢、肉の特盛りだよ!」


 マーサが威勢よく運んできたのは、重厚な鉄板から溢れんばかりの肉、肉、肉。 立ち昇る湯気と、暴力的なまでに食欲をそそる香ばしい匂いに、思わず喉が鳴る。


 鉄板の中央に鎮座するのは、まるで岩のような厚みのステーキ。その脇を固めるのは、パンパンに中身が詰まって、今にも皮が弾けそうな大ぶりの腸詰めが二本。そして、付け合わせのポテトだ。


 溶け出した肉汁が鉄板の上で「ジュワワッ!」と激しい音を立て、脂の飛沫が踊るその光景は、まさに肉の祝祭だ。


 まずは腸詰めから。フォークを突き立てると、「パチンッ!」と小気味よい音が響き、皮が弾けた。


「うわっ、すごい……!」


 切り口から噴き出したのは、透き通った熱々の肉汁だ。 口に放り込めば、粗挽き肉のブリブリとした力強い食感が舌を叩く。練り込まれたハーブの爽やかな香りが、濃厚な脂の旨味をキリッと引き締め、噛むたびにジュワッ、ジュワッ、と旨味が溢れ出して止まらない。


 続いて、本命のステーキにナイフを入れる。 味付けはシンプルに、粗挽きの岩塩と少しの香辛料のみ。それが肉のポテンシャルを最大限に引き出している。 表面は強火でカリッと香ばしく焼き固められているが、中は驚くほど柔らかい。


 厚切りを贅沢に頬張れば、まずは炭火の香ばしさが鼻を抜け、次に「肉を喰らっている」という圧倒的な満足感が押し寄せる。


 噛みしめるほどに、熟成された赤身の濃い味わいがじわりと広がる。そこへ腸詰めから溢れた肉汁を絡めて食べれば、異なる二つの肉の旨味が混ざり合い、口の中が多幸感で支配されていく。


 付け合わせのポテトを肉汁にたっぷり浸して口直し。 ステーキの重厚なコクと、腸詰めの弾けるような躍動感。この二つを交互に味わう贅沢は、マーサの料理でしか味わえない。


「付け合わせのポテトも肉汁が絡んで美味いな!!」


「そりゃそうさ。お野菜だって愛情持って育てているからね」


 宿の裏手にはこぢんまりとした畑があり、季節に合わせた野菜を育てている。リュカが子供の頃も野菜のお世話を手伝っていた。


 最後の一口を飲み干す頃には、腹の底からじわじわと、明日への活力が漲ってくるのを感じた。


「ふぅ……最高だ。これ一皿で、世界が変わって見えるよ」


「そりゃよかった、久しぶりに食べてどうだい?」


「美味しい。本当に、生きてるって実感が湧くよ。他所のご飯はどうも合わなくて…マーサの料理だけは、俺にぴったりなんだ」


 マーサは丸々とした顔に満面の笑みを浮かべ、母親のような慈しみでリュカを見つめた。


「もっと逞しく、立派になってもらわないと困るんだからさ」


 その傍らでは、元冒険者でこの宿のもう1人の主人ガレットが「リュカ、無理して死ぬんじゃねえぞ」と、強面を崩さずに声をかけてくる。看板娘として働くマーサの娘のリナはリュカの引き締まった腕を熱っぽく見つめながら、「リュカ、次はもっと逞しくなって帰ってきてね! 楽しみにしてるんだから!」と明るく笑った。


 そこにあるのは血の繋がりがなくても、共に過ごした愛情に満ちた家族の風景だった。


「これを持って行きな。あんたを守ってくれるお守りだ」


 食後、マーサが手渡してくれたのは、一枚の木札のような形をした護符だった。表面には宿の看板と同じ、夕日を背にしたランタンの紋様が丁寧に彫り込まれている。


「マーサ、ありがとう。……俺、次は魔王に絶対に勝って平和な日常を取り戻してみせるよ!」


 リュカはマーサから手渡されたその護符を、腰のレザーベルトに備え付けられた専用のサブポケットへと、大切に仕舞い込んだ。


 ***


 翌朝


 質の良い茶色の使い古されたレザー製のブーツを締め直し、左右非対称のマントを翻す。リュカは再び、魔王討伐へと向かった。


 リュカの足取りは、「再誕」直後とは思えないほど軽い。彼は、一晩の眠りと、そして何よりマーサの『黄金色のスープ』によって、完璧な再起を遂げていた。


 旅の道中、リュカはお節介焼きの性分を抑えられない。街道の脇で荷馬車が泥濘ぬかるみに嵌まり、立ち往生している老人を見つければ、魔王討伐という国家の存亡よりも「万人より一人の涙」を止めるために手を差し伸べる。


「大丈夫かい、おじいさん。俺が手伝うよ」


「おお、これは勇者様。申し訳ない、助かります」


 リュカは快く手を貸し、泥まみれになりながら力強く馬車を押し上げた。


「ありがとうございます。あなたのようなお方がいてくれて、この大陸も安泰ですな」


 老人は深々と頭を下げ、シワの刻まれた顔をほころばせてリュカの手を握った。真っ直ぐなリュカは、その温かな感謝の言葉を真正面から受け取り、誇らしげに笑った。


「気にするなよ。困った時はお互い様だろ?」


 友情を重んじ、他人の善意を疑うことを知らないリュカにとって、こうした触れ合いこそが戦う理由そのものだった。


 野営の際、リュカはマーサから受け取った保存食の干し肉と固いパンを口にした。


(……やっぱり、マーサが用意してくれた物は美味しいな)


 魔王城に到着するまでにはマーサの保存食は底をついてしまう。どこかの街で補給しなければならない。自分の舌が肥えてしまったせいか、他の土地での食事があまり美味しく感じなかった。 そのたびに、脳裏をよぎるのは『黄昏の灯火亭』の食卓だ。


 マーサが作る料理だけは、この世界で唯一リュカに「生きている」ことを実感させてくれる。あのスープの濃厚なコク、ステーキの滴る脂、腸詰めの弾けるような食感。あれだけが、彼の身体の細胞一つひとつと完璧に共鳴し、力へと変えていく確かな手応えがあった。


(マーサの飯があれば、俺は無敵なんだ。……早く、あのスープが飲みたいな)


 焚き火の炎がパチリと爆ぜ、周囲の森の静けさをいっそう際立たせていた。


 リュカはそろそろ休もうかと就寝の準備を始める。だがその時、肌を刺すような鋭い気配が彼を取り囲んだ。


「……来る!」


 ヒュッ!


 闇を切り裂いて飛来した一本のナイフ。


 リュカは最小限の動きでそれを躱した。ナイフは彼のすぐ横にあった木の幹に、深く突き刺さる。


「さすが『勇者様』だねぇ……」


 嘲笑うような声と共に、十数人の男たちがゾロゾロと姿を現した。 身なりは粗末な盗賊の類に見えるが、その瞳には金品への欲ではなく、獲物を前にした獣のような、下卑た飢えが宿っている。


「何者だ! 俺を勇者リュカだとわかって襲ってくるとはどういうつもりだ!」


 リュカは反射的に聖剣の柄に手をかける。 だが、この剣は魔を討つための聖なる刃。『人』を傷つけるためのものではない。 彼は苦渋の表情を浮かべ、剣を抜かずに身構えた。


「いい〜匂いがこっちまで漂ってきたからついて来たら、勇者様がいたもんだからなぁ〜」


 リーダー格の男が、ねっとりとした視線でリュカの全身を舐めるように見つめ、口端から涎を垂らす。


「匂いに誘われただと……?」


 リュカは眉をひそめた。先程口にしたのは、マーサが持たせてくれた保存食の干し肉とパンだ。 どちらも空腹を満たすには十分だが、遠くの人間を誘い出すほど強く香るものではない。


(……いや、まさか。こいつら、魔王の手下か!?)


「勘違いするなよ、勇者様。俺たちが欲しいのは、お前が持ってる金でも剣でもねぇ……。その『中身』だよ!」


「……中身? 何を言って……」


 リュカが息を呑んだ直後、男たちの身体が内側から膨れ上がり、皮膚を突き破って鋭い剛毛が噴き出した。


 バキバキと骨が鳴る不気味な音が森に響き渡る。月明かりに照らされたのは、十数体の狼型魔物――ライカンスロープだった。


「ひひっ……『勇者様』なら、魔物にゃ遠慮はいらねえだろ?」


「いい匂いだ……」


 彼らはリュカが持つ金品など目もくれず、ただその肉体を「喰らう」ことだけを目的として、一斉に牙を剥いた。


「……いいだろう。魔物相手なら、手加減はいらない」


 リュカは腰の聖剣の柄を力強く握りしめた。琥珀色の瞳が鋭く細められ、勇者としての闘気が夜の森を支配する。


 一斉に飛びかかってきたライカンスロープたちに対し、リュカの動きは圧倒的だった。幾度も魔王ヴォルガノスと対峙し、極限の死闘を潜り抜けてきた彼の洗練された剣技は、ただの魔物の群れにとっては死神の鎌にも等しい一撃必殺の嵐となった。


 静寂が戻るまで、わずか数秒。白銀の閃光が闇を切り裂くたびに、盗賊だったものたちは断末魔の叫びを上げることさえ許されず、無慈悲な結末として細切れの肉塊へと姿を変えていった。


 血の臭いが立ち込める中、リュカは切っ先を振り、魔物の返り血を払った。


「はぁ……。魔王城の近くでもないのに、なんでこんなに血に飢えたやつらが……」


 聖剣を鞘に収めると、再び焚き火のそばへと腰を下ろした。


 ***


 やがて、リュカは魔王城の最深部へと辿り着く。 そびえ立つ黒の玉座。そこに鎮座する魔王・ヴォルガノスとの戦いは、熾烈を極めた。


 何度、この感触を味わっただろうか。 視界が断絶し、意識が暗転する。聖剣『アルバ・グレイブ』が手から滑り落ちる金属音さえ、鼓膜に届く前に消え去る。


 ――そして、「ギィ……」というベッドの軋む音。窓から差し込む夕暮れ時の柔らかな光が差し込む。


 リュカは、琥珀色の瞳を瞬かせながらベッドから身を起こした。


「……また、か」


 乱暴に赤毛をかき上げた。だが、喉の奥には言いようのない熱い焦燥感がこびりついている。


「あともう少しだった気がするんだよな。……まあ、いっか。不可能ってのはまだ誰も成し遂げてないだけだ!」


 彼はいつものように、絶望的な状況を笑い飛ばした。超ポジティブな思考が、削り取られた記憶の穴を強引に埋めていく。


 それからの日々は、果てしない試行錯誤の連続だった。


 ある時は、緻密な作戦をなぞるように、慎重に魔王城を攻略した。魔物の群れを鮮やかに切り伏せていく。


「今度こそ、隙はないはずだ!」


 しかし、玉座の間で魔王・ヴォルガノスの喉元に剣を突き立てた瞬間、やはり世界は唐突に終わった。


 またある時では、緻密な計算を捨て、自身の「心の叫び」に従って正面から突き進んだ。


「理屈じゃない、根性だ!」


 土壇場で作戦をひっくり返し、魔王を極限まで追い詰める。だが、あと1分、いや1秒あれば勝てたというところで、再び『黄昏の灯火亭』の天井を見上げることになる。


 死ぬ直前の記憶だけが欠落するため、リュカには「なぜ負けたのか」が分からない。ただ、身体の芯に残る敗北の重みだけが、「再誕」を重ねるごとに増していく。


 そんなリュカを癒やすのは、マーサの料理だった。

 戦いから戻るたびに、彼女は白いエプロンで手を拭きながら、満面の笑みで彼を迎える。


「なんだい、また負けて帰ってきたのかい。飯を食わないから勝てないんだよ」


 マーサはいつもの笑顔で、今度は特製スープと共に、蜂蜜をたっぷり使った『特製スペアリブ』を運んできた。


「さあ、今日はとっておきだよ。指までしゃぶりたくなるような、甘いスペアリブさ!」


 マーサが自信たっぷりに差し出した大皿には、濃褐色のソースを纏って艶やかに輝く肉の塊が、山のように積み上げられていた。


 まず目を引くのは、その圧倒的な「照り」だ。 たっぷり使われた蜂蜜が熱で煮詰められ、肉の表面を琥珀色の薄い膜のように覆っている。立ち昇る香りは、焦げたソースの香ばしさと蜂蜜の官能的な甘さ、そして隠し味のスパイスが混じり合い、嗅ぐだけで胃袋を掴まれるような感覚に陥る。


 フォークを肉の端に添え、軽く力を入れる。その瞬間、信じられない光景が広がる。


「……えっ、触っただけなのに……」


 骨を掴めば、一切の抵抗なく肉が「するり」と抜け落ちた。


「……うまっ! なんだこれ、噛まなくても溶ける……っ!」


 蜂蜜のコクが染みた繊維を口に運ぶたび、濃厚な脂の甘みが喉を焼く。


「最高だよマーサ! この肉、身体の芯から力が湧いてくるみたいだ!」


 指を汚すのも構わず、骨のキワまでしゃぶり尽くすその多幸感に、俺はただ溺れた。皿が空になる頃には、唇には艶やかな脂が残り、心はこれ以上ない充足感で満たされていた。


「いい食いっぷりだったね。また、頑張るんだよ!」


 マーサはリュカが皿を空にしたのを確認し、満遍の笑みを浮かべながら見つめていた。


 リュカは再び魔王城へと向かう。


(今度こそ勝って、この世界を救うんだ!)


 ***


 魔王城の最深部、玉座の間には凍てつくような静寂が支配していた。リュカの聖剣『アルバ・グレイブ』が放つ白銀の輝きが、魔王・ヴォルガノスの漆黒の障壁を今まさに粉砕しようとしている。琥珀色の瞳は勝利への確信に燃え、しなやかな肉体は、幾度にも及ぶ戦いの中で培った最適の軌道を描き出していた。


「これで、最期だ……!」


 リュカの魂の叫びが、広大な空間を震わせる。緻密な作戦を、土壇場でひっくり返すのが彼の流儀だ。魔王・ヴォルガノスの顔に初めて明確な絶望が走り、リュカの刃がその喉元へと迫る。


 だが、その刹那。 サブポケットに入れていた木札の護符が赤く光った。


 空間が歪み、視界の端に「白い何か」が翻る。


「……え?」


 振り返る間もなかった。 リュカの視界が、不自然に跳ねた。 痛みさえ遅れてやってくる神速の業。肉を骨ごと叩き切るための巨大な鉈包丁なたぼうちょうが、彼の視界を横切っていく。崩れ落ちたリュカの視界に映ったのは、返り血を一滴も浴びていない、真っ白なエプロンを締めたマーサの姿だった。


「どうして、マーサが……ここに……」


 彼女はリュカに渡した護符という名の「転移アイテム」を使い、最も確実に彼を仕留められる背後へと現れたのだ。


「おや、まだ意識があるのかい。」


 マーサは恰幅の良い身体を揺らし、愛おしげにリュカの頬を撫でた。その手には、いつも酒場で振るっているお玉ではなく、鋭く研ぎ澄まされた鉈包丁が握られている。


「…何故……マーサ……あと、少しで……世界を救えたのに」


 マーサがため息をつきながらリュカを見下ろす。


「救うって、何を救うつもりだい? この世界に、あんた以外の人間なんて一人もいやしないのに」


「な、何を……ガレットやリナ、街の人たちも……」


「全部、魔物さ。この世界は魔王様のお力で設えた『勇者ごっこ』のための舞台装置だよ」


 マーサは事もなげに笑った。その瞳には、今までリュカに向けていた温かな光など微塵もなく、ただ良質な獲物を品定めする獣の冷徹さだけが宿っている。


「魔王様も喜んでおいでさ。『これほど不屈で美味な魂は、地獄の釜(魔界)にもありはしない。何度でも、最高の状態で献上しろ』ってね」


「『勇者ごっこ』……? 舞台装置……?」


 マーサはリュカの疑問を鼻で笑い、続ける。


「あんたが言っていた『マーサの料理は最高だ!でも、他所の食事が口に合わないんだ』ってのは、魔界の食べ物だからさ。でもね、私の料理だけは違ったはずだ」


 この世界での食べ物は基本魔物たちの食べ物であり、人間の舌には馴染まない。だが、『マーサが作る料理だけ』は特別だった。


「気付かなかったのかい?死んだ後のお前の身体がどうなっていたのか」


「……加護の力で……修復されて……」


「あんたが毎回『美味しい』と笑って食べていたあの黄金色のスープも、ステーキも……。すべて、私が捌いたあんた自身の肉なんだよ」


「……!?」


「それだけじゃない、お前の骨を砕いて畑に蒔いて肥料にすれば……育つ野菜も美味くなる……余す所なく全てを喰らっているんだよ」


 リュカの思考が停止した。胃の奥から、せり上がるような不快感が込み上げる。今、自分の血肉となっている栄養の正体が、かつて「死んだ自分」だったという悪夢のような現実。


「そうだね…昔話でもしようか」


 マーサは懐かしむように目を細め、血に濡れた鉈包丁の刃を、愛おしげにエプロンで拭った。


「魔界の住人にとって、人間界は美味しいものばかりさ。私は、魔王様に命じられて人間界から落ちてきた物を報告する義務があったんだよ。……でもね、リュカ。17年前赤子だったお前が落ちてきた時は、あまりにも……あまりにも美味しそうでねぇ」


 マーサが舌なめずりをした。その表情は、空腹な獣そのものだった。


「つい、魔王様に報告する前に食べてしまったんだよ。そうしたらどうだい。光が現れたかと思えば、今し方食べたはずの赤子が、また私の目の前で泣いているじゃないか。驚いたよ、これはとんでもない『宝物』を拾ったと思ってね。すぐに魔王様にもお伝えしたさ」


 リュカは恐怖で震える唇を噛み締めた。自分が愛していた「母」の口から語られるのは、自分を食らった記憶。


「……あの時の……ライカンスロープ達が……言っていたのは……まさか……」


 リュカの脳裏に、道中で襲ってきたあのライカンスロープたちの、ねっとりとした視線と下卑た飢えが鮮明に蘇る。彼らが欲していた『中身』とは、聖剣でも金でもなく、極上の食材として磨き上げられた自分自身の肉体そのものだったのだ。


「ライカンスロープ? ……あいつら、『肉』を横取りしようとしたのかい?」


 マーサの表情が、一瞬にして氷のように冷たく、険しいものへと変貌した。手にした鉈包丁を握る手に力がこもり、その恰幅の良い身体から、丹精込めて育てた「獲物」を横取りされそうになったことへの、どす黒い怒りが溢れ出す。


「ふん、どいつもこいつも卑しいねぇ。……あんたは、魔王様と私にだけ許された『特別』な御馳走なんだよ。野良犬風情が、私の管理している最高級の食材に手を出そうなんて、500年早いんだよ」


 マーサは忌々しそうに吐き捨て、イライラと鉈包丁の側面で自分の手のひらを叩いた。


「何度も殺して、ようやく気付いたよ。これは人間界の神が与えた死に戻りという『呪い』……。いいや、私らにとっては無限に湧き出す『究極の泉』だ。お前は気付かなかっただろうけど、お前がスヤスヤと眠っている間に殺した回数なんて、もう数えきれないよ」


 マーサは愉快そうに、喉を鳴らして笑った。


「だんだんと大きくなるにつれて、お前の魂が肉体に定着するまで時間がかかるようになってね。お前が次に目を覚ますまでの間に、何度殺して、何度捌いたことか。おかげで魔王様や灯火亭の周辺の仲間には、お前の肉をたっぷりと振る舞うことができたんだよ」


 死んでも同じ場所から現れる彼を「最高級の食材」として熟成させるために、彼女は魔王・ヴォルガノスにこの件を説明し、リスポーン地点に街を創らせ、世界を人間界のように模したのだ。


 リュカは人間界から魔界に落ちて来た人――否、「永久供給される食料」だった。


「……はは、はははっ! まじかよ……傑作だな」


 溢れ出す鮮血を吐きながら、リュカは笑った。 「絶望的な状況ほど笑う」という彼の強靭な精神が、この完成された地獄を笑い飛ばさせた。友情を信じ、人の涙を拭うために剣を振るってきた日々。そのすべてが、自分の肉をより「美味しく」するための飼育工程に過ぎなかったのだ。


「その顔だよ。絶望を知り、それでも笑うその生命力こそが、肉を最高に引き締めるのさ」


 マーサの鉈包丁が閃き、リュカの意識は完全に闇へと沈んだ。


***


「ギィ……」


 ベッドの軋む音で、リュカは目を覚ました。 窓からは、真鍮のランタンを照らし出す柔らかな夕日のような光が差し込んでいる。


 傷一つない頑強な身体。ただ、死ぬ直前の記憶が抜けているため、何も思い出すことはできない。


「……あれ。俺、また魔王に負けちゃったのか?」


 リュカはベッドから跳ね起きた。彼の鼻に、階下から漂う芳醇な香りが届く。


「悔しいけど、腹は減るんだよな!」


 一階の酒場に降りると、そこにはいつもの大きな暖炉と、見慣れた家族が待っていた。


「おや、起きたのかい。この食いしん坊の寝坊助さん」


 清潔な白いエプロンを締め、袖をまくり上げたマーサが、満面の笑みで『黄金色のスープ』を運んでくる。


「おはよう、リュカ。今日も元気に、たっぷりお食べ」


「はい、いただきます、マーサ!」


 リュカは最高の笑顔で応え、自分自身の血肉で作られたスープ、極厚なステーキ、そして腸詰めを、幸せそうに口に運ぶのだった。


 それが、永劫に繰り返される彼にとっての「幸せな日常」であることを知らずに。


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