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雨水の溜まる場所

作者: 島津義弘

その空き地は、駅から歩いて十五分ほどの場所にあった。


 住宅街の端にぽっかりと口を開けるように広がる、草むした空き地。周囲を囲むブロック塀には、色あせた「立入禁止」の看板と、サビついた有刺鉄線。人の気配がないわけではないが、誰も足を踏み入れようとはしない。理由は単純だ。


 ここは「雨水が溜まる場所」として、昔から不吉な言い伝えがある。




 その日も雨が降っていた。六月の終わり、梅雨の盛りだ。大学三年の僕、アキは、折りたたみ傘を差しながら、空き地の前に立っていた。


 地面はしっとりと濡れ、空気には泥と鉄の匂いが混じっている。だが、この空き地だけは何かが違っていた。




 ぬかるんだ地面の中央に、直径五メートルほどの“くぼ地”がある。その窪みには、黒々とした水が静かに満ちていた。風もないのに、水面はかすかに揺れていた。


 ——不自然なくらい、満ちている。


 ここ最近、晴れが続いていたはずだ。なのに、水は濁っていない。どこからか、常に水が湧いているようにさえ見える。




 「……やっぱり、何かある」




 アキは鞄からメモ帳とICレコーダーを取り出し、水面に目を向けた。






この空き地には、地元で語られるいくつかの怪異譚がある。


 「雨の翌日、水面に人の顔が浮かぶ」という話。


 「夜中にここを通ると、水の中から声が聞こえる」という話。


 そして、最も忌まれている言い伝えがこれだった。




「水に映った自分が手招きしたら、帰ってはいけない」


 この話を最初に知ったのは、ゼミの先輩・マリからだった。都市民俗学を専攻する僕らの間では、「街の中の未解明スポット」を調査するという課題が恒例となっていた。




 「そこ、行くなら気をつけなよ。水が“呼ぶ”って話、本当にあるから」


 「呼ぶって……水に呼ばれる?」


 「うん。昔、あそこで行方不明になった子がいるの。いまだに見つかってないんだって。警察も動いたらしいけど、証拠が何も残ってなかったらしいよ」




 その子の名前は、ユキ。十年前、当時小学五年生だった彼女は、放課後に空き地で遊んでいる姿を最後に忽然と姿を消した。


 目撃証言もなく、誘拐の形跡もなし。空き地の中央のくぼ地に、彼女の赤い傘が落ちていたという。ただ、それだけ。


 それ以来、誰も空き地に近づかなくなったという。






ICレコーダーを水面に向けて録音を始める。


 しかし、ザーザーという雨音の中に、何か別の音が混じっている気がした。




 ——ぴちゃ。




 水滴とは違う、不自然な“跳ねる音”。何かが水面を歩いているような、軽い足音だった。


 風も吹いていないのに、アキの背筋がぞわりと粟立った。




 「誰か……いるのか?」




 傘を傾け、水面を覗き込む。自分の顔が映っていた。


 しかし、その“自分”は……笑っていた。




 口元だけが、にやりと吊り上がっていた。


 ——自分は、笑っていないのに。




 アキは我に返って数歩、後ずさった。レコーダーの赤いランプが点滅している。録音は続いていた。


 鼓動が速くなる。雨音が遠ざかる。




 耳元で、かすかな声がした。




 「みつけてくれて、ありがとう……」








その夜、アキは録音したデータを部屋で再生していた。




 雨の音、傘に打ちつける小さな粒、遠くで車が通り過ぎる音。そのすべてに混じるように、確かに声があった。


 声というより、囁きに近いものだった。くぐもった少女のような声が、一定の間隔でこう繰り返していた。




「——みつけて……」


「——ここに、いるよ……」


「——ねえ、代わって……」


 ゾクリとする。


 イヤホンを耳から外したとき、部屋の外で風が唸った。いや、風……?


 ベランダのガラス戸がかすかに揺れ、窓に水滴が垂れていた。雨は昼間で止んだはずだった。




 ——誰かが、窓の向こうに立っていた。




 一瞬だけ、そこに、びしょ濡れの少女の影があった。


 次の瞬間、何もいなかったかのように静けさが戻る。




 「……ユキ?」




 名前を呼んだのは、なぜだか自然だった。








翌日、アキは大学の図書館で地元の新聞縮刷版を読み漁っていた。


 目当ては十年前、少女ユキが失踪した事件の記録だった。




 「これ、探してるの?」




 突然、声をかけられた。顔を上げると、そこには資料整理を担当している図書館職員の女性が立っていた。


 無表情で、やや青白い肌。髪は濡れたようにしっとりとしている。




 「あ、はい……。十年前の、市内の失踪事件を……」


 「その子の名前、ユキちゃんでしょ?」




 アキはぎょっとした。




 「なんで……知って……」


 「その事件、私も調べてたから。あなたと同じように、興味本位で」


 「……で、何かわかったんですか?」




 彼女はゆっくりと首を振った。




 「わかったのはね……あの子、今も“そこ”にいるってこと」


 「“そこ”? 空き地の?」


 「雨水の溜まる場所。あの水は、流れないの。溜まり続ける。誰かの“思い”が、底に沈んだまま」




 女はアキの目をじっと見た。




 「あなた、昨日、呼ばれたでしょ?」




 返事ができなかった。






再び、雨が降った。


 アキは傘も差さずに、夜の空き地へ向かった。自然と足が動いていた。


 体の奥で、何かが疼いていた。「来い」と言われているようだった。




 くぼ地には、やはり水があった。月明かりが雲の隙間から洩れ、水面に銀色の光が宿っていた。


 アキはその縁に立ち、水面を覗き込んだ。




 映っていたのは、やはり“自分”ではなかった。


 目が合った瞬間、その“顔”が笑った。




 そして、手を伸ばしてきた。


 水面から、白く細い腕が伸びていた。アキは抵抗する間もなく、水に引きずり込まれた。




 水の中は、冷たくなかった。むしろ、ぬるい。ぬめりがあった。


 沈む途中、誰かの顔が見えた。あの少女——ユキ。彼女は静かに笑っていた。


 その唇が動く。




 「これで……もう、ひとりじゃないね……」






目を開けると、どこまでも続く“水の底”が広がっていた。


 上下も左右も分からない、曖昧で静かな世界。音はなく、感覚は淡くぼやけていた。




 水の中には、人の“気配”があった。誰もが口を開けたまま、何かを訴えようとしていた。けれど、声は出ない。泡すら生まれない。


 アキの周囲を、影が泳いでいた。小さな子ども。学生服の少女。スーツ姿の男。老人。女。誰もが、目を閉じて沈んでいた。




 そして、ユキがいた。


 彼女だけが、アキをじっと見つめていた。どこか申し訳なさそうな顔で、しかし微笑んでいた。




 「……ここは……どこ……?」




 アキの声も、水に吸い込まれていった。喉に何かが絡まり、肺に水が満ちていく感覚。しかし、苦しくはない。


 代わりに、頭の中に“記憶”が流れ込んできた。




 ——ユキの記憶。




 友達に無視され、母親に怒鳴られ、ひとりで傘をさして歩いていた日のこと。


 雨の空き地に入り、水たまりを覗き込んだ瞬間。


 そこに、優しい誰かがいたような錯覚。それが、最後だった。




 ユキの孤独、悲しみ、望み。それが、この水を“呼んだ”のだ。


 そして、溜まり続けてきた。誰にも知られず、忘れられ、思いだけがここに沈んでいった。






アキは、水面の中で何かを感じた。


 ここにずっといれば、静かで、穏やかで、もう傷つかなくていい。


 だが、それは本当に“救い”だろうか?




 ユキが手を差し伸べてくる。その手は優しかった。


 けれど、アキはその手を取らなかった。




 ——代わりに、背を向けた。




 瞬間、水が暴れた。泡が巻き起こり、周囲の影たちがざわめいた。


 誰かが囁く。「戻るな」「ここにいろ」「代われ」。




 けれどアキは、必死に“浮上”しようと足を動かした。思い出せ、自分の名前、自分の声、自分の世界——。




 そして、水面を突き破って、雨の空き地へと帰還した。






目を覚ますと、朝だった。空は晴れていた。


 アキは空き地のくぼ地の縁に倒れていた。体は濡れていたが、どこも傷ついてはいなかった。




 だが、くぼ地の水は、干上がっていた。


 まるで長い夢が終わったかのように、地面は乾いていた。




 それ以来、空き地には二度と水が溜まることはなかった。


 地元の人々の噂も、徐々に消えていった。




 アキは、その空き地を再び訪れることはなかった。ただ一度だけ、研究レポートにこう記した。




「水は記憶を溜め込む。孤独と悲しみが澱のように沈殿するとき、水は“声”を持ち始める。そして誰かを呼ぶ。


けれど、その声に応えることが、本当の救いになるとは限らない——」


 風が吹く。空き地を通りかかった小学生たちが、何かを指差していた。




 「ねえ、水、あそこに……またちょっと溜まってない?」




 水面に、ほんの少し。笑っている“誰か”の影が映っていた。

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