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ちょいと偉人に会ってくる  作者: 鈴木ヒロオ
それぞれの道
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満智子さんは、どこか若やいだ様子

 満智子さんは、どこか若やいだ様子でパン作りに励んでいた。


 その長い指が、生地を弾ませるように軽やかに捏ねている。


 嬉しそうな表情から、夫の邦夫さんが長期出張から帰宅することが察せられる。


 邦夫さんが帰ってくる前は、いつもより楽しそうなので、それで分かる。


 ほとんど家にいることのない邦夫さんの帰宅は、いつも不定期だ。


 時には一週間に一度のこともあれば、二週間に一度のこともある。


 一か月以上家を空けることもあり、帰ってきたときには、一日、二日過ごすこともあれば、時には一週間ずっと家にいることもある。


 満智子さんと少し年の離れた彼は、いつも黒塗りの高級乗用車で帰宅し、 家の門の前で運転手に見送られ、家へ入っていく。


 俺は何度か帰宅するところを見かけたことがあるが、俺は邦夫さんと話したことがないし、満智子さんから紹介されたこともない。





 満智子さんは、声を弾ませて、今回のパン作りについて教えてくれた。


 彼女は干し葡萄から酵母液を作り、今日の日のために中種を準備している。


 今日はそのパン種にさらに小麦粉と水を加えてパン生地を作る、中種法という方法について説明してくれた。


 これは葡萄だけでなく、他の果物でも酵母液を作ることができるという。


 一次発酵から二次発酵、そして生地の中にクルミとドライフルーツを織り込んでいく。


 彼女と挽きたてのコーヒーを片手に、オーブンの前で焼き具合を見ながら話す。


 「そろそろ、邦夫さん帰って来るんですか?」


 「やっぱり、分かる?」


 彼女は少し恥ずかしそうに答えながら、片手の指がテーブルの上でピアノを弾くように弾んでいた。


 パン生地がオーブンで膨らむ。香ばしい匂いがキッチンに満ちていく。


 彼女の幸せも、ふくらんでいく。




 

 そのピアノ曲は、繊細な旋律が軽やかに空へ舞い上がる。


 繰り返されるフレーズの数だけ、羽毛のようにふわりと舞い続ける。


 やがて、その羽毛はゆっくりと落ちて重なり合い、軽やかさは次第に重みへと変わる。


 "The last straw that breaks the camel’s back"

 「最後の藁一本がラクダの背中を折る」


 楽聖は、その最後の藁にならないようにと、心の内で祈るように、その旋律を奏で続けていたのかもしれない。




 彼女の家の前を通ると、その曲が聞こえてきた。


 邦夫さんが出張に出かけた後、必ず演奏される「エリーゼのために」。


 今回は滞在期間が短かったので、それほど長い時間ではないだろう。


 しかし、邦夫さんが長く滞在した後は、何時間も、延々と繰り返される「エリーゼのために」。


 満智子さんは、どのような気持ちでピアノと向き合っているのだろう。


 それはまるで、楽聖の思いを理解し、代弁するかのように。


 あるいは、自らの気持ちを昇華させるように。


 切なる祈りと、切なる思いが、ピアノの中で、お互いの姿を鏡のように映し出す。


 通りすがりの人々は思わず足を止める、一段と心に響く満智子さんの「エリーゼのために」。


 いつしか、満智子さんの、そのピアノの旋律に魅了された近所の人々は、親しみを込めて、曲の名にちなんで呼ぶようになった「エリーゼさん」と。






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