第1章④
放課後、蛍は碧人と一緒に学校最寄りの駅前を歩いていた。
「いやぁ用事があるって断るための口実かと思ったら、まじでちゃんとした用事じゃん」
碧人が時間がないというので、話がてら移動することになった。だが、その行き先が駅前の動物病院だったのだ。
「拾った直後に行ったら、強引に今日の予約も入れさせられた」
不機嫌そうな声に笑いそうになる。どこまでもテンプレな『実は優しいヤンキー』だ。
彼の腕にはバスタオルでくるんだ小さな段ボールがある。ペット用の入れ物などないので即席で作ったのだ。前の時は衰弱していたので段ボールから飛び出すこともなかったらしいが、今は元気いっぱいなので、段ボールから飛び出さないようにタオルで閉じ込めているというわけだった。
カリカリと箱の中から聞こえてくる小さな音が可愛らしい。自然と笑みが浮かんでくる。小さき生き物は偉大だなと思う。怖い奴も笑顔になっちゃうんだから。
「おい、何笑ってやがる」
「いーや、子猫が元気だなって思ってるだけだよ」
「お前さ、俺が怖くないのか」
ぶっきらぼうは口調に、蛍は素直に応える。
「最初はそりゃ怖かったけど、今はあんま怖くないな」
「変な奴」
それきり碧人は黙ってしまったので、蛍も大人しく動物病院へ着いていく。
診察はすんなりと終わり、子猫は順調に回復しているとお墨付きをもらった。碧人は診察料を払いレシートを受け取る。蛍も半分だそうとしたが、財布の中には小銭しかなかったので沈黙を選ぶしかなかった。
学校に戻ってきて、旧校舎で子猫を段ボール箱から出す。すると、蛍の手をすり抜けて碧人の足にすり寄っていった。
「碧人、こいつに名前あんの?」
「ない。だからチビって呼んでる」
「じゃあそれが名前じゃん」
「今はチビでも成長してデブ猫になったらおかしなことになるだろ」
碧人が不服そうに睨んでくる。
「いーじゃん。デブくなるくらい腹一杯食べて、可愛がってもらえたってことなんだから。お前は碧人に拾われて幸せものだなぁ」
チビに向けて指を差し出す。たまに気まぐれで舐めてくれるのだ。
「……お前の話は?」
碧人がぽつりと言った。初めてじゃないだろうか、碧人の方から話題を振ってくるなんて。
だから、蛍は驚きで一瞬固まってしまった。
「へ?」
「お前の話を聞くと約束した。だから話せ。聞くだけは聞いてやる」
碧人って律儀なんだなと、感動が湧き上がってくる。こんな良い奴が怖がられてるなんて、やっぱり間違ってると思った。
「ええと……改まっていうとなると、どこから話したものかな」
「さっさと話せ。お前がとろとろ歩いてるから、今度はバイトの時間が迫ってる」
「まじか! ええとな、この学校の生徒会長知ってる?」
「生徒会長……確か杉原……え、お前も杉原って言ってたな」
碧人の目が大きく開かれる。その反応は慣れたものだ。よくよく見たらどことなく似ているけれど、ぱっと見た印象が蛍と兄では違いすぎていつも驚かれる。
「そう、俺の兄ちゃんは生徒会長で、女子に大人気で学園の王子様って言われてる」
「もしや、王子云々言ってたのって、お前の兄貴絡みか? ただのイカレ野郎かと思ってた」
酷いな、そんな風に思ってたなんて。
「恥ずかしい話なんだけど、小さい頃から皆俺じゃなくて兄ちゃんを選ぶんだ。だから、俺、兄ちゃんが苦手って言うか、コンプレックスというか。でも分かってるんだ。俺はすべてにおいて兄ちゃんに劣ってる。だから選ばれないのは仕方ないって」
「ふん。諦めてたくせに、どうして急に考えを変えた」
「これもまた恥ずかしい思い込みだったんだけど」
気恥ずかしさに、手で心臓の辺りを押さえる。
「前置きはいいから、さっさと進めろ」
「なんだよ、俺の心の準備ってもんもあるのに」
「あ? 言わないんだったら、もうバイト行くぞ」
碧人が立ち上がりかけたので、慌てて話し出す。
「待って、ごめん、言うから。ええと、俺の好きだった子が、兄ちゃん目当てで俺に近づいてきたって知って、すごくショックで。この子も兄ちゃんを選ぶのかと思ったらムカついてさ。だから、学園の王子でなくなれば兄ちゃん目当てで俺に近づかないだろうし……」
「今度こそ自分自身を見てくれるかも、か?」
碧人の呆れたような視線が痛い。
「はは、そこまで上手くいくとは思ってないけど。でも、俺を通して兄ちゃんに近づこうとする人は減るだろ。だから、兄ちゃんを引きずり下ろす新王子が必要なんだ」
「自分でやれば」
「俺じゃ無理なんだよ。言っただろ、みんな俺は選ばない。俺がどんなに良い子にしていても、努力しても、我慢しても、選ばれるのは兄ちゃんであり、俺じゃない別の人だ」
嫌な記憶が入道雲のようにもくもくとわき上がってくる。
物心ついたころ、二歳上の兄は体が弱かった。すぐ熱を出しては医者に駆け込むような生活で、両親も蛍のことはいつも後回し。構ってくれない両親に拗ねて泣きわめくのをなだめてくれたのは、近所に住んでいた祖母だった。
『蛍ちゃんは元気だからね、幸せなことなんだよ。ちょっと寂しいかもしれないけど、お兄ちゃんが元気になったら家族皆で遊べるから、ばあばと一緒に待ってようね』
こう言われて、最初の頃は納得していた。でも、だんだんと違うのだと分かり始めた。
諦めを覚えたのは、小学校の入学式だった。両親がそろってきてくれると言うので、蛍は嬉しくて嬉しくてたまらなかった。だが当日の朝、兄が熱を出したのだ。それでも、今日ばかりは蛍の入学式に両親が来てくれると思ったし、来てよと言ってしまった。そしたら、母に怒鳴られたのだ。『お兄ちゃんが苦しんでるっていうのに、心配も出来ないなんて。こんな自分勝手な酷い子いらないわ』と。
結局、祖母に連れられて蛍は入学式に行った。泣きはらした目の蛍と、心配そうな祖母が入学式の看板の前で立っている写真が残っている。
こうして選ばれないという諦観を小学一年生にて抱いた蛍だったが、その後も順調にそれを肥大させる出来事に出会ってきた。
笑顔を取り繕うことが得意だった蛍は、先生達からはちょっとくらい雑に扱っても大丈夫な強い子だと思われていたらしい。授業の実験道具が1セット足りなかったとき、配る順番的には蛍がもらえるはずだった。でも、もらえないだろう生徒が繊細で泣き虫だったから、先生がその生徒に渡してしまったのだ。こういう些細なことが積み重なり、自分は何か選択を迫られたとき、選ばれない方の星の下に生まれたのだと考えるようになった。特に中三のサッカー部の件は、より諦めを深くするには十分な出来事だった。
そして、今を迎えている。すべての始まりは、兄の存在だった。兄を乗り越えなくては、きっと蛍は今のまま。諦めた人生を送っていくに違いない。だからこそ、一歩踏み出したかった。
「俺じゃ兄ちゃんに勝てない。だから、勝てる人を見つけて押し上げる」
「あんた側の話は分かった。でも、それは俺じゃなくてもいいだろ。他を当たってくれ」
「いや、絶対に碧人がいい。こうビビっときたんだ。碧人は普段怖がられているけど、笑えばすべてが変わる。皆を惹き付ける」
蛍には自信があった。根拠はといわれると困るけれど。
「別にそういうの求めてない」
「でも、怖がられて、遠巻きにされるのって寂しいじゃん」
「別に寂しくない。慣れてる」
慣れてるという言葉に、ハッとした。碧人も諦めてるじゃんって。諦めるってことは、諦めるものがあるということで、本当は寂しいってことなんじゃないか?
「碧人が本当は優しい奴で、笑顔はすっげえイケメンだってまわりに伝わったら、きっと碧人の世界は変わるから。俺と一緒に世界を変えようぜ」
「……お前、もう高校生なんだから厨二は卒業しろ」
「えっ? めっちゃ醒めた目で見てくんじゃん。傷つくんですけど」
「もう移動しないとバイト遅れるから。じゃあな。聞くだけ聞いてやったんだ。もう付きまとうなよ」
そう言い残し、碧人は帰ってしまう。
残された蛍は、チビがタオルを踏み踏みしているのを呆然と見つめる。
いい感じのはずだった。これ以上無く熱く勧誘できたと思ったのに、呆れられた目で見られただけだった。
「あぁ、やっぱり俺は選ばれないんだな」
打ちひしがれてチビに手を伸ばす。でも、チビはよけてタオルの中にうずくまってしまった。猫にすらも選ばれない。誰にも選ばれないのを改めて突きつけられた気がして、さらに落ち込んでしまう。