9『蝶々と火花』
俺は仕方なく、恥ずかしさと居たたまれなさを抱えたまま、彼女の隣をゆっくりと歩いている。こんなやり取りを繰り返しているうちに、街灯の数は少しずつ増えていき、車線数も同じく増加する。片側一車線から二車線に。緑の面積が減り、人工物の色に変わっていく。田舎から都会へ。自然からビル群へ。少しずつ俺の住む家へと向かって行く。
「相変わらず誰もいないねぇ」
だだっ広い道路には、行き同様に俺たちしか見当たらない。本当に人が住んでいるのか疑わしくなるほど、周囲は静寂に包まれていた。そろそろ誰かに出会ってもおかしくないだろうと思うが故に、多少の違和感や非日常感が脳内の隅を埋め尽くす。
「夜っていつもこんなもんなの?」
初めて踏む込んだ夜の世界。当然のことながら、昼間とは何もかもが違っている。
「さぁ、私もあんまり夜出歩かないからなぁ」
周囲を見回しながら、依咲は興味なさげに言った。けれど、依咲の発言は少しだけおかしかった。あまり夜中に出歩かないと言うのならば、今日の出会いは何だったのだろうか。街灯の下にポツンと佇んでいたのは、何も今日だけではない。昨日も一昨日もその前も、たった一人で人工灯の下に立っていた。街灯の下に立っているだけなら、出歩いたことにはならないのだろうか。そして依咲は、一体何を捜しているのだろう。
「でも、誰もいないから人の目を気にする必要なくていいね!」
依咲はそう言って、脚を大きく上に上げた。何をするのだろうと思いながら見ていると、依咲は上げた脚をそのまま前方に下ろしていく。歩幅が先程の約三倍になり、彼女は道路の真ん中で両足を大きく開く、ただの変な奴に成り代わった。けれど、この光景を誰かに見られることはない。この場には俺たち以外の人間はいないのだ。
「そこからどうするの?」
俺は足を止めることなく前に進む。手は依然としてつないだままで、横では足を前後に広げた変な人がいる。
「歩くよ。ほら、見てよ。歩けるでしょ?」
依咲は後ろにあった足を徐々に前に持ってくると、再び大きく上げて前方に着地させる。確かに歩けてはいるけれど、明らかに進むペースは落ちていた。隣を歩く俺に負けじと頑張ってはいるけれど、どうやっても普通に歩く俺に勝てるわけがなかった。
「疲れない?」
「全然!」
そうは言いつつも、依咲の顔には心なしか疲れが滲み出ているような気がした。家までの道のりは、まだ想像もしたくないほど残っている。序盤でわざわざ体力を削る必要もないだろうに、依咲がやめる気配は微塵も感じない。
「どこまでそれで行くの?」
隣では、足を踏み出すたびにパタパタと乾いた音が聞こえている。共に歩く分には何も支障はないのだが、多少なりとも気になってしまう。こういう状況ではおそらく手を離した方がいいのだろうが、離す理由にするには少々弱かった。
「行けるところまで」
パタパタ音の合間で依咲の声が聞こえる。その声は数秒前よりも息を多く含んでおり、息が上がっていることを感じさせた。行きを見て分かる通り、依咲は体力オバケだ。彼女はあの長い距離を歩いても疲れを見せず、むしろ生き生きとしていた。そんな人なのだから、これしきの事では疲れたの内にも入らないに違いない。家まで続けたとしても、きっとまだ体力は残っていることだろう。
「そういえば、線を踏むゲームしないの?」
視界の脇に見えた、車線を分ける中央線。行きはその線を頑なに踏み続けていたのに、今は大股で歩くばかりで踏む気配は一切ない。もう飽きてしまったのだろうか。線を気にせず歩くのは楽でいいけれど、なんとなく物寂しい。
「結構遊んだからなぁ。なに? 和眞やりたいの?」
大股で歩きながら、依咲は俺のことをチラッと見た。やりたいかやりたくないかで言えば、もちろんそれは前者になる。しかし、何としてでもやりたいかと言えばそうではない。あったらいいかもなぁ、ぐらいだ。
「いや、まぁ……やりたくないわけではないんだけどね。あれだけ熱心にやってたから、依咲はどうなのかなぁと思って」
「私は別に、あれはもういいかなぁって。だって、あんまり楽しくないでしょ?」
依咲の放った言葉が、俺の脳内で反響する。
「……楽しくないなぁって思いながらやってたの!?」
「後半はね。最初はちょっとだけ楽しかった」
てっきり、依咲はあの遊びが好きなんだとばかり思っていた。なぜなら、とても真剣だったから。線から足を踏み出そうとすれば怒られ、けして線以外を歩いてはいけないと言われた。あれほどルールに厳しかったのに、その張本人は楽しんでいなかったなんて。俺は驚きを隠せず、そのまま数秒間依咲の顔を凝視し続けた。
「あれ、和眞固まっちゃった?」
大きく足を広げた状態で立ち止った依咲は、俺の視線の先で手をひらひらとしてみせた。俺と依咲の間を彼女の手が行きかうたびに、脳内で依咲の言葉が何度も何度もリピートされる。依咲の言動は、楽しくないことでも楽しそうに見えてしまう。それを意図してやっているのか、無意識にやっているのか、俺などでは判別はできなかった。今現状分かっているのは、俺が依咲の言葉に衝撃を受けたということだけ。それ以上はもう少し時間が必要だ。
「依咲は将来女優になったら?」
「ん? 何のこと?」
不思議そうな眼差しに、俺はスッと視線を逸らした。なんだか嫌な言い方をしたような気がして、少しだけ、ほんの少しだけ勝手に気まずくなった。本心を隠すのが上手で羨ましいとか、つまらないことを長々とさせてしまって申し訳ないとか、そんなことは全く思っていない。ただ、俺は依咲のことをまだ何も知らないのだと、そう思うとなんとも言えない気持ちに苛まれる。それは俺の恋心が偽りなんじゃないかとも思わせ、自分でも少々厄介だった。
「あれ、なんだろう」
いつの間にか大股で歩くのをやめていた依咲は、進行方向を凝視して言った。いくら街灯が灯っているとはいえ、昼間のようにあらゆる方向を照らせるわけではない。それは広々とした道路の真ん中でも同様だ。明るさにムラがあり、目の前のものをはっきりと見るのはなかなかに難しい。
「なんか……ひらひらしてる?」
視線のずっと先で、何かが飛んでいるように見える。動きからして蝶々か何かだろうが、距離と暗さでその輪郭までは分からない。何かが飛んでいるかもしれない、と曖昧に言うほかない。
「ちょっと見てくるね!」
依咲は楽しそうに笑いながら、俺の返事を待たずに駆け出した。あれほど強く握っていた手を簡単に離し、なんともあっけない。
「転ばないでよ!」
僅かに大きな声でそう言うけれど、依咲は何の反応も見せなかった。少しずつ遠くなっていく依咲の後ろ姿を目で追いながら、俺は変わらぬ速度で地面に足を触れさせる。もうとっくに慣れてしまったけれど、コンクリートは硬くて足が痛くなる。少し歩くだけならまだしも、長距離を歩くならやはり靴が欲しかった。
「これもいい経験、って言うんだっけ?」
自分の足で歩いてみなければ、コンクリートがどんなものかも、砂地がどんな感触なのかも分からない。これを世間では『いい経験』と言うらしい。多感な時期だからこそ、この体験も不必要ではないだろう。目の前では、走っている依咲のポニーテールが揺れている。キャミソールワンピースの裾も足を動かすごとに揺れ、全てが彼女の動きに連動していた。全身で、今を生きていることを表している。依咲自身はそんなこと少しも思ってはいないだろうが、傍から見ていればそう感じる。あれほど生を体現している人に、俺は今まで出会ったことがなかった。
「和眞ぁぁ!」
飛んでいた何かの元まで辿り着いた依咲は、こちらを振り返って大きく手を振っている。その動作に控えめに手を振り返せば、彼女は軽くその場で数回跳ねて見せた。そうして飛んでいる何かを追いかけ、捕まえるように両手を器用に動かしていく。
「何がいた?」
普通の声量で言ってみるけれど、距離があり過ぎて届いていなさそうだった。歩を進めていくごとに、依咲の姿が大きくなっていく。目の前でダンスでも踊るかのように動き回る彼女は、とても可憐で儚げだった。街灯によって落とされた人影は、地面の上で同じようにクルクル回っている。今この瞬間だけは広い道路がステージになり、街灯はスポットライトの役割を全うしていた。
「和眞! 捕まえたぁぁ!!」
両手で捕獲した何かを胸の前に掲げながら、依咲はとても自慢げに声を張り上げた。彼女は生き物を捕まえるのが得意なのかもしれない。川魚こそ捕まえられなかったが、あれほどひらひらと舞っていた何かはいとも簡単に捕まえてしまった。それも網などの道具もなく素手でだ。依咲は、俺よりも遥かに野生児だった。
「なんだった?」
俺は歩くペースを速めながら、確実に依咲に近づいていく。二人の間に築かれた距離は、ものの数秒で無いも等しいものになった。
「多分蝶々だと思う。でも、あんまり綺麗じゃないよ」
依咲はボール状に合わせた手の隙間から、そっと中を覗いた。あの狭い空間に、先程までその辺を飛んでいた蝶がいるらしい。蝶と言えば、代表的なのはアゲハチョウやモンシロチョウといった、比較的見栄えのいい個体を想像する。けれど、捕獲した個体は依咲曰くあまり綺麗ではない。色鮮やかではない蝶もいるので定かではないが、もしかすれば蝶ではなく蛾かもしれない。そう思ったけれど、果たしてこれを彼女に伝えるべきか迷ってしまう。依咲の手の中にいるのは蝶ではなく蛾だ、と告げるのは何とも残酷だ。
「綺麗じゃないのもいるからね……」
俺は迷った末、本当のことを心の奥底に隠した。言う必要はないだろうし、言ってどうこうなる問題ではない。蛾が蝶になるのが不可能なように、捕まえてしまったこと自体をなかったことには出来ない。
「そうだよねぇ、アゲハだったらよかったのに」
依咲は、尚も手中を覗き込みながら残念そうに言った。
「君もアゲハになりたかったでしょ? 綺麗な色の羽が欲しかったよねぇ?」
小さな生き物に問いかける依咲の言葉は、嫌がらせのように聞こえて仕方なかった。それはアゲハにはなれないし、綺麗な羽にすることだって叶わない。もうどうしようもないことを、依咲は本人に何気なく言ってのけた。たとえ相手が意思疎通の出来ない相手でも、言っていいことと悪いことはあるだろうに。
「可哀想だねぇ。来世はもう少し綺麗に生まれられたらいいね」
依咲は小さな声でそう言って、掌をパッと広げた。檻から解放されたその蝶々は、薄い羽根で体を浮かべ、泳ぐように飛び立っていく。羽音を一切立てずに無音で飛び立つ様は、存在ごと闇の中へ向かう天使のようだった。
「行っちゃったね」
「うん。あっけないなぁ」
飛び立った蝶々は、僅か数秒でその姿を見えなくさせた。蝶々は、一体時速何キロで飛ぶのだろうか。
「空を飛ぶって、どんな感じなんだろうね」
俺は蝶々が飛び去った方向を見つめながら、何気なくそう口にした。人間が空を飛ぶためには、相当な筋肉量が必要らしい。少なくとも、今の俺に羽を付けたところで飛べはしない。けれど、先程の蝶々やよく空を飛んでいる鳥たちのように、俺だって宙を舞ってみたい。広い大空の中を優雅に飛んでみたい。上空から地上を見下ろし、そのままどこかへ行けやしないだろうか。そうできたなら、今よりもずっと楽しくなるはずだ。
「ふわって感じじゃない? 宇宙空間みたいな」
依咲はそう言って両手を真横に広げた。そうして腕を上下に動かし始めると、ゆっくりと周辺を練り歩いた。どれだけ動かしても空は飛べないし、地から離れることは出来ない。現に今の依咲は、腕を動かしながら足を前に出している。飛んでいるように見せかけて、実は何も出来てはいない。
「飛ぶことが宇宙空間なわけないでしょ」
「分かんないよ? もしかしたら、重力なんて感じないかもしれない」
「無重力なんて、そんなことあるのかなぁ」
飛んだこともなければ飛ぶことも出来ない俺に、その真偽を確かめる術は無い。今抱いている疑問は、おそらく一緒の疑問だろう。そしてそれは他の何よりも興味深く、俺の関心を一際引き付ける。全てを知りたいなら、生まれ変わって鳥になるほかなかった。
「和眞もやってみ? 鳥の気分だよ」
両腕をはためかせながら、依咲は俺を誘うようにニコッと笑う
「でも、それしたってさぁ」
「つべこべ言わずにやろうよ。ほら、誰も見てないよ?」
誰かが見ている見ていないの問題ではない。今ここで鳥になれるならまだしも、そんな魔法のような奇跡が起こる可能性は少しだってない。
「かずまぁ」
俺の周りを依咲がどれだけ旋回しようとも。
「かずまったらぁ」
耳元で聞こえる甘い声に誘惑されようとも。俺は、絶対に。絶対に依咲の真似などしない!
「和眞も鳥になるのよ!」
「こうですか!?」
俺の意思は、なんと弱く脆いことか。依咲の誘いを断るなんて、そんなこと出来るはずなかった。好きな人の誘いなら、可能な限り応えたいと思うのは当たり前だ。それが両腕を広げて羽ばたかせるだけなんて、断る理由はほんの少しだってありはしない。かくして、広々とした道路のど真ん中で、高校生二人が鳥の真似をするという怪奇的な出来事が起こった。
「鳥の気分はどうですか? 和眞」
「んー、なんというか……驚くほど何も感じません」
実際、飛んでいないのだから無理もない。こんなことをするぐらいなら、スカイダイビングでもした方がよっぽど理解できそうだ。そうしなくとも、せめて地面からは離れてみたい。
「やっぱり真似事は所詮真似事かぁ」
天まで届くほどの声量を発しながら、依咲は羽ばたくのを止めて走り出した。両腕を真横に伸ばしながら行き去る姿は飛行機さながら。両脇に立ち並ぶ街灯と相まって、ここはステージから滑走路へと変化する。
「どこまで行くのー?」
ものすごい勢いで遠ざかっていく依咲の背中に、俺は声を張り上げて問うた。しかし依咲は「おぉぉぉぉぉぉぉぉ」と叫ぶばかりで、返事と呼べる返事は返って来ない。俺は、依咲がこのまま家まで走って行ってしまうような気がして、慌ててその後を追いかける。けれど、やはり依咲の方が走る速度は速く、距離はどんどん開いていくばかりだった。
「早過ぎるだろ」
依咲に対しての文句をどれほど呟いても、誰かに怒られる心配は一切ない。俺はなんだか無敵になったような気がして、荒くなった息の隙間でもう一言口にした。
「俺を置いて行くつもりだろぉぉぉ」
もちろん、そんな俺の言葉が彼女に届くはずはない。息の上がった人間が、走りながらどれほどの声量を発せられるだろうか。その声は、大して大きくはない。
「早すぎ……もう無理、走れない」
依咲の足の速さを侮っていたわけではないけれど、これほど早いとは思ってもみなかった。走り出したのが遅かったとはいえ、少しも距離が縮まないなんて。彼女の身体能力恐るべし。
「はぁ、はぁ……ん? なんだろ」
肩で息を整えながら、俺は前方をじっと見た。じっと見て、目を細めて凝視し、擦って再び注視する。やはり何度見ても見間違いではない。依咲の足元で、何かがキラキラと爆ぜていた。
「火花……? そんなわけないよな。足元でそんなものが弾けているわけがない。……ならあれは、なんだって言うんだ?」
依咲が足を地面に着地させるたびに、足元で水色のような火花が弾けている。それは一度や二度ではない。足を動かすたびに、何度も何度も弾けては消え、再び弾けている。あれを火花と言わずして、なんと表現すればいいのだろう。そもそも人間は自力で火花を発生させるなんて、そんな手品のような芸当が出来るわけではない。
「俺は……普通だよな」
その場で数回足踏みをしてみるけれど、俺の足元で火花が爆ぜるようなことはない。それは走っても、大股で歩いても変わったりはしない。両手を大きく広げて走っても、彼女のようになることはなかった。
「依咲……君は、一体何なんだ?」
なぜ依咲の足元にだけ火花が散るのか。俺には少しも検討が付かなかった。その辺のただの高校生が思考出来る枠を、今の彼女は軽々と飛び出している。いくら時間をかけて考えたところで、答えが出る希望は限りなくゼロだった。こうなったら、本人に聞く以外に疑問が解消されることはない。
「和眞! そんなところで何してるのぉ、私行っちゃうよ!」
こちらの都合などお構いなしに、米粒ほどになった依咲が大声で叫ぶ。あれほどのスピードで走っていながら、息が乱れている様子は少しも感じなかった。少しくらいは疲れていてほしいけれど、そんな願いはきっと聞き届けられないだろう。依咲が今立っているところに着くまでに、おそらく俺の方が疲れ切ってしまうに違いない。行きとほとんど同じ状況になると考えると、それだけで疲労感が増す心地だ。
「今行くってば」
大声で言ったところで聞こえないと分かっているので、俺は独り言のように言葉を吐き捨てた。依咲はというと、先に行くと言いながらその場に立って俺のことを待ってくれている。そういうふとした行動にときめいてしまうあたり、やはり俺は単純な人間なんだと思う。どれほど予想外な行動をとられても、たった一回の行動で全てがチャラになる。ある意味、これは幸せな性格なのかもしれない。俺は足を一歩一歩、確実に前に出していく。もう走るのはこりごりで、彼女にどれほど急かされても出来る気はしない。いや、出来るかもしれないが、先のことを考えるとしない方がよさそうだ。
「和眞ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
雄叫びのような高めな声が、夜の静寂を切り裂いて俺の鼓膜に到着する。今向かってるだろ、という愚痴は感情の奥底にしまい、俺は分かりやすく右手を上げて合図する。これが見えたのか見えていないのかは分からないが、依咲の俺を呼ぶ声は収まった。