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8『流れ星と口元』

 車通りが一切ない曲がりくねった道を下りながら、俺は片手で目を擦った。もう何時になるのだろうか。そろそろ夜が明けてもいいような気がする。そう思い、俺はポケットの中にしまっていた携帯を取り出した。ぐっしょりと濡れていた服は完全に乾き、濡れていたなんて誰にも思わせることはない。俺は大きなあくびをひとつだけしながら、慣れた手つきで携帯を起動させる。幸いなことに、俺の携帯は防水加工が施されているものだった。小川に浸ったぐらいでは、壊れるような素振りは微塵も見せない。あくびによって生成された涙を他所に、俺は一際明るい画面を見据えた。


「……あれ?」


 携帯画面に表示された数字は、午前二時過ぎを示していた。時間的には、家を出発してからそう経っていないことになる。そんなわけないと、瞳の端に溜まった涙を拭って再度見て見るけれど、結果は頑として変わらなかった。


「壊れたのかな?」


 時間設定だけが狂ってしまうことがあるのかは分からないが、そうでもしないと説明が付かない。けれど、時刻だけがおかしくなってしまうことがあるだろうか。電源が付き、カメラが起動でき、その他のアプリも表示できる。電波が無いわけではなく、おそらく磁場が強い場所でもないはずだ。


「どうかした?」


 そんな俺の様子が気になったのか、依咲が携帯画面を覗き込む。首を傾けた方向にポニーテールが揺れ、携帯を持っていた俺の手に僅かにかかる。柔らかい髪質の髪は、俺の肌に沿ってしなやかに靡いている。


「いや、携帯の時間がおかしくて」


「壊れちゃったの?」


「そんなはずないんだけど……時計だけ壊れることってあるの?」


 俺の中に湧き出た疑問を、そのまま依咲に投げかける。すると依咲は「んー」と唸りながら頭を回転させ、「そういうこともあるんじゃない?」と軽く言った。


「そっか……」


 素人がいくら考えたところで、正しい原因は究明出来ないだろう。ここは素直に、明日携帯会社に問い合わせしてみることにする。その予定を脳内のスケジュール帳に記入すると、俺は携帯をズボンのポケットにしまい直した。今が何時であれ、まだ太陽は昇っていない。夏は日の出が早いのだから、今はまだそういう時間ということだ。依咲と少しでも長く一緒に居たい俺には、むしろその方が有難い。このままずっと夜中ならいいのにと、そう願わずにはいられない。それでも、永遠に夜なのは困ってしまう。たまには明るさで満ちた世界が見れないと、きっと俺は時間感覚がおかしくなってしまうから。


「なんかお腹空いちゃったねぇ」


 手をぶらぶらと軽く揺らしながら、依咲は何ともなしにそう言った。


「さっきキュウリ食べてたでしょ? お腹いっぱいだって言ってたじゃん」


 すると依咲は自身の腹部を摩りながら、キュルキュルと可愛らしい音を立てた。たらふく食べたキュウリなど一瞬で消化してしまったのだろう。水分の多いキュウリは、腹には溜まるが持ちは大して良くない。


「かずまぁ、お腹空いたよぉぉ。何か、何か恵んでおくれぇ」


 依咲は腰を曲げ、手を前方に伸ばして俺に懇願する。甘えた声が、夜の静寂をほんの数秒だけ切り裂いていく。明らかにふざけているけれど、その間も手は繋いだままだった。こういう場面に出くわしたとき、俺は一体どんな対応を取るのが正解なのだろうか。触れずにスルーするのは簡単だけれど、俺はそこまでノリの悪い人間ではない。考え抜いた末、俺は道の脇に落ちていた拳ほどの石を手に取った。


「お姉さん、そこのお姉さん。よかったらこれをどうぞ」


 俺は声を僅かにしわがらせ、即興で演技をしてみせた。人生で初めての演技は、我ながらいい出来だったと思う。依咲は俺が差し出した石を手に取ると、見て分かるほど瞳をキラキラと輝かせた。これはおにぎりではなく硬い石なんだけどな、と思ったが、今俺たちが作り上げている世界ではそうではない。彼女が手に持っているのは、正真正銘食べ物だ。


「わぁ! いいんですか!?」


「どうぞどうぞ」


「いただきます!」


 片手に持った石を口元に持っていくと、依咲は食べるフリをし始めた。むしゃむしゃと言いながら食べることの出来ない石を頬張り、もぐもぐと咀嚼していく。まるで本当に食べているかのようで、依咲の方がよっぽど演技派だった。


「ふぅ、お腹いっぱい」


 依咲は大きく息を吐きだして、満足したような表情を浮かべた。そうして石を地面に置くと、空いた手で腹をゆっくりと摩る。本当はお腹が空いたままのはずなのに、そんな様子は微塵も見せなかった。俺はそんな依咲に何か食べさせてあげられないかと辺りを見回したが、そこにあるのは大きな木々だけだった。その木には実のようなものすらなっておらず、依咲の空腹を満たすことすら叶わない。


「コンビニでもあればいいのに……」


 二十四時間やっているコンビニさえない、田舎の暗い細い道。こんな場所に住んでいる人は、夜中にお腹が空いたらどうするのだろう。空腹に耐えながら寝るのだろうか。いつどこにいても食べ物が手に入る世界で生きている俺には、そんな不便は耐えられそうにない。そう考えると、俺はかなり恵まれた環境で生きているんだと思う。空腹に苦しむこともなく、日々楽しく生きている。本当に、素敵な時代だ。


「そうだね。でも、なんだか満足しちゃった!」


「それならいいけど」


 依咲が嘘を言っているようには少しも見えない。本当に、先程の寸劇で満足してしまったのだろうか。楽しさはときに空腹を紛らわす良薬だけれど、今その効能が効いているとは少し意外だった。依咲がこの瞬間を楽しんでくれているなんて、なんだか照れてしまう。それでも、楽しい時間を共有できているのだとすれば、これほど嬉しいものはなかった。


「かなり歩いたね。ほら、もう見えてきた」


 何が見えてきたのだろう。そう問うよりも前に、俺の視界は見たことのある自動販売機を捉えた。相変わらず暗闇を切り裂くような明るさを放つそれは、この世界で何よりも存在感があった。再びあの自動販売機を見ることになると、俺は少しも考えてはいなかった。


「あれ、なんか嫌なんだよなぁ」


 嫌だと感じていても、右側の道に佇む自動販売機は目に入る。後はもう帰るだけで、自動販売機の前を通ることも、触れることもないけれど。それでも、不気味極まりないものには極力近づきたくなかった。俺はつないだ手により一層力を込め、自動販売機から視線を逸らす。知らないうちに通り過ぎてやしないか。そう思っても、歩くペースはむしろどんどん遅くなる。そうしてついに、隣で歩いていた依咲の足が止まった。


「和眞。自販機の周りにいた虫、今は少しもいないよ。不思議だねぇ」


 見たくはないと思っても、俺は反射的に視線を動かしてしまった。依咲が見つめる先には、何度見ても変わらない自動販売機。しかし依咲の言うように、それは先程とは微妙に違っていた。数えきれないほどの虫が群がっていたはずなのに、今はほんの数匹しか見て取れない。それはどれだけ目を凝らしても、擦っても、変わることはなかった。


「あの数が急に消えるなんて、そんなことあるわけないし……」


 自動販売機が放つ光が消えたのならまだしも、今も俺の目の前で通常通り稼働している。この短時間で、一体何があったというのだろう。殺虫剤でも撒かれたのだろうか。もしそうだとしたら、ご愁傷様と言うほかない。


「なんか買ってく?」


 依咲がそうさり気なく言うので、俺はブンブンと頭を勢いよく振った。虫の数が減っていたとしても、もう二度とあの自動販売機には近づきたくない。それは、たとえ隣に依咲がいてもだ。恐怖や不快感は、誰かが居るから和らぐというものではない。これは、俺自身が出した拒否反応だ。


「もう行こうよ。朝になっちゃう」


 俺は依咲のことを軽く急かすように、つないだ手を僅かに引っ張ってみせた。すると依咲は、母親のような優しい笑みを浮かべながら頷いた。


「怖いもんねぇ。よしよし」


 止まっていた足を前に出して、依咲は俺の頭をゆっくりと撫でた。なんだか子ども扱いされているような気がしてならないが、別段嫌ではないのでそのまま撫でられることにする。こうして撫でられたのは、いつが最後だっただろうか。そんなことを思いながら、俺たちは遠目に見える自動販売機を通り過ぎていった。





 手をつなぎ、横並びで歩くのはとても充実した大切な瞬間だ。この時間が永遠に続かないからこそ、今を噛みしめるように味わっている。あとどのくらいで今日が終わるのだろうか。依咲と別れるのがもっとずっと先ならいいけれど、案外すぐそこまで迫っているのかもしれない。その証拠に、真っ暗闇だった周辺には僅かに光が灯り始めている。それらは自動販売機ではなく、道端でよく見る街灯だった。月明かりよりも明るいそれは、足元をこれでもかと照らしだしている。


「昼間みたいだねぇ」


 進むべき道を真っすぐ示している街灯周辺は、その言葉通り昼間のように明るかった。こうなれば、木々の葉擦れや野生動物の鳴き声は少しも怖くはない。全身を覆う闇だって、不気味な気配を漂わせる自動販売機だって、きっともうへっちゃらだ。


「やっぱり、明かりっていいな」


 明るいということだけで、この世の中で恐ろしいと感じるものは大体消えるのだと思う。俺の感じていた恐怖は、大体が暗闇に共通する。なぜなら、それらは昼間なら平気なものばかりだからだ。木の葉の葉擦れも、昼間ならなんとも思わない。野生動物の鳴き声も、自動販売機も、普段は少しだって怖くはない。恐怖を増幅させているのは、全て先の見通せない闇だけだ。


「でもね、和眞。上を見てごらんよ。明るくなってきたせいで、目で見れる星の数は減ったよ。さっきまであんなに輝いてたのに、月だってもう明るくない」


 そう言われ、俺は立ち止まってから空を見上げた。そこには数えきれないほどの星が、確かにあったはずだ。何千何万という数の星々の煌めきが、視界の端から端まで広がっていたはずだ。しかし、今はそれも見る影はない。光の弱い星は、街灯の強い光によって掻き消されていた。


「ここじゃ、もう見れないってことか……」


 街灯は星よりも、月よりも、遥かに明るく輝いている。今この瞬間、俺は人工物の素晴らしさと、自然の儚さを同時に感じた。まだ田舎から抜けきらないこの場所でさえ、夜空の美しさを感じることは難しい。そう考えると、家で無数の星を見ることがいかに難しいかを思い知る。家中の電気を消したとしても、街全体が明るければ見ることは叶わない。全身で自然を感じるには、こうして外れまで来るしかない。


「街灯があるのは便利だけど、でも、なんか悲しいね」


 俺と同じように夜空を見上げていた依咲は、小さな声で囁くように言った。今は昔よりもずっと便利な世界になったけれど、反対に不便になったこともあるのだと思う。今の俺たちは、昔の人よりも感受性は劣っているに違いない。


「このままいけば、星は滅多に見られないものになるかもしれない。でも、それはしょうがないよね。私たちは、変化してしまう生き物だから」


 とても悲しそうに、とても寂しそうに、依咲は憂いながら言葉を発する。もしそんな世界が将来的に来てしまうなら、それはそれで仕方がないような気がする。夜に消える明かりは、きっと年月を経るごとに増加している。このまま増加し続ければ、いずれは昼と夜の境目がなくなるかもしれない。そうなってしまったら最後、星は本の中でしか見れなくなる。空を見上げても、望遠鏡を覗いても、周りが明るくては見ることは不可能に近い。そんな未来は、一体いつ訪れてしまうのだろうか。


「俺は、星が見えない世界は嫌だよ。今日知ったんだ。星の輝きがどれだけ美しいか。俺は好きになった星を、これからも今日みたいに見ていたい」


 まじまじと星を見たのは、今日が人生で初めての経験だった。視界を満たす細かな宝石に心を奪われたことも、初めて経験したもののひとつだ。それらが失われてしまうなんて、考えたくもない。けれど、俺だけがそう考えても仕方がない。この街の中だけでも、俺の想像を超える人間が生活しているのだから。


「大丈夫だよ。和眞が生きている間に星が無くなることはないから。見えにくくなるのは、きっと何十年も先の未来だよ。明日も晴れるし、星は綺麗に見えるはず!」


 上を向いていた依咲の顔が、俺の方に僅かに傾く。人工の光に照らされて、依咲の顔は健康な肌の色を取り戻していた。月明かりの元で見る顔とは違った表情が、俺だけに向けられている。儚さをなくしたその顔は、一層元気な少女を演出していた。


「うん、そうだね」


 そういうことではないんだけどな、と思いながら、俺は依咲の顔を一瞥した後に再び宙を仰いだ。暗がりの中にある一際明るい星が、俺の頭上には存在している。その星の名前を俺は知らないけれど、きっと立派な名前が付いているに違いない。帰宅したら星の勉強をしてみるのもいいかもなぁ、とゆっくり足を踏み出しながら思った。


「あ、流れ星!」


 依咲が遠くの空を指差すので、俺も瞬時にその方向を見やる。しかし、既に目の前の空を動く物体はなく、制止した空があるだけだった。


「遅かった……」


 流れ星など滅多に見ることはない。それ故に、見れるチャンスがあるならば逃したくないと思うのは必然だ。けれど、「流れ星だ!」と言う声を聞いてから見るのでは遅い。それを視界に捉える前に、流れ星はあっという間に姿を消してしまう。俺は見れなくて残念だと体で表現するように、大げさに肩を落とした。すると、隣でクスクスと笑う声が聞こえる。


「和眞、本当に面白いね! ふふっ、流れ星ね、本当は流れてないの」


「え!?」


 楽しそうに種明かしをする依咲に、俺は内心驚きを隠せない。彼女のいたずらは、一体どこにまで及ぶのだろうか。これではこれまでの発言の全てが、少しだけ疑わしくなってくる。


「流れ星はそうそう流れないよ」


 依咲はひとしきり笑うと、空気を大きく吸い込んだ。そうして呼吸を整えると、清々しいほどの笑顔を俺に向けてくる。それだけで、今の言動が全て帳消しになってしまう。俺は、こんなに単純な男だっただろうか。好きな子の笑顔だけで、身も心も満たされたような気がする。


「依咲は、流れ星になんてお願いするの?」


 ありきたりな質問。人生で一度はされたことがあるような、そんな聞き慣れた言葉。こんな問いを自分がすることになるなんて、昨日まではちっとも思っていなかった。


「んー、なんだろう。明日も晴れますように、とかかな?」


「そんなことでいいの?」


 天候についての言葉が出てくるとは思っていなかった。もっと個人的な、それこそ『好きなものをたらふく食べたい』的な何かかとばかり思っていた。


「和眞は何をお願いするの?」


「そんなの、決まってるだろ」


「明日も私に会いたい?」


 言い当てられることは薄々分かっていた。俺が依咲のことを好きなのも、これから先も会いたいと願っていることも、彼女は知っている。知っていて、なぜか知らないような素振りをする。彼女も、俺と会いたいと多少は思っているはずなのに……。こればっかりは俺の思い込みではないだろう。


「そうだったら、依咲は叶えてくれるの?」


「私に願うの? 流れ星じゃなくて?」


「流れ星は、本当に叶えてくれるか分からないじゃんか」


 流れ星は神様ではない。ただ星が夜空を流れる行為にすぎない。流れゆく星に願ってところで、俺の想いが確実に叶う保証はない。本当に叶えたいと願うならば、せめて縁結びの神様にでも願った方が有意義だ。そして、それよりも確実性を求めるなら、隣に居る本人に聞いてしまった方が早い。


「私だって、本当に叶えるか分からないじゃん」


「星に願うよりはいいだろ」


 こうやって話している最中も、俺たちの足は止まらない。確実に、着実に、終わりの時間は迫ってきている。


「明日会うかなんて、明日の私が決めることだよ。今は分かんない」


 依咲はそう言いながら自分の足元を見つめ、居心地悪そうにしている。意地悪な質問をしてしまったかもしれないと後悔するけれど、明日も会いたいのは本心だった。明日も会えるかな、と希望を持つのもいいけれど、今の俺は明確な答えが欲しかった。明日も会える、という確実が欲しかった。不確実な未来は、ただ明日を不安にさせることしかできない。


「ごめん、しつこかった」


 それでも、依咲を不快な気持ちにしたかもしれない可能性がある以上、謝る以外の選択肢はなかった。過ぎてしまったことは仕方がない。過去に戻って未来を変えるなんて、秘密道具がなければできないんだから。


「いいよ、別に。……でも私、嘘は言ってないからね」


 依咲の視線は尚も地面を向いている。それでも手を離さないのは、一体どういった意図があるのだろうか。既に周辺は明るさを取り戻し、手を離したところで迷子になることも離れ離れになることもない。俺が掴んでいるというわけでもなく、力を抜いても依咲が離さんと言わんばかりに力強く握っている。


「嘘ついてるなんて、少しも思ってないよ」


 俺は依咲の機嫌を取り戻すように、優しく静かな声音でそう言う。けれど、それでも依咲の視線は上向かず、足元を静かに眺めているだけだった。そこで俺は、画期的な方法を思いついた。ありきたりで、誰しもが試したことのある方法。多くの人に擦られた策が、当然のように俺の脳内で閃いてしまった。俺は深く息を吐き、そうして大きく吸う。そして流れるように声帯を震わせた。


「あ! 流れ星!!」


 俺が今しがた食らったばかりのいたずらを、同じように依咲に向けて仕掛けてみる。すると「え! ほんとに」と言いながらパッと顔を上げた。その瞳は大きく見開かれたのちに、細く目を凝らすようなものに変わる。俺もこんな顔をしていたのだろうか。そう思うと、途端に笑いが込み上げる。


「ふふっ、あっはは! ふっはははははっ」


 声を押さえようと思っても、意に反して喉から声が漏れてしまう。小さな笑い声は次第に大きくなり、もう自分の楽しそうな声しか聞こえない。


「もう、和眞! 今のウソでしょ!?」


 依咲の怒ったような声が聞こえる。その声に、俺は笑いながら頷いた。


「せっかく見れると思ったのに!」


 依咲は言いながら俺の肩を軽く叩き、ぷんぷんと怒り出してしまった。その姿に「ごめんごめん」と謝ってから、俺は再度依咲の横顔を見つめて言う。


「これでお互いさまってことで」


「……しょうがないなぁ」


 俺の視線と依咲の視線がぶつかり合い、なんとも言えない空気が漂った。仮に俺たちが恋人同士であったなら、これはおそらくキスでも交わす空気なのだろう。けれど、現段階ではそうもいかない。俺は名残惜し気に依咲の口元をチラッと見やってから、視線を前方の道路へと戻した。


「和眞って意外とスケベだよね」


「へ!?」


「ほら、図星」


 ニヤッと笑う依咲に、自分の顔全体が熱くなっていくのを感じる。改めて言葉にされると思った以上に恥ずかしかった。視線がズレれば嫌でも分かるだろうと、事が終わった今頃気づいても遅い。


「ごめん」


「別にいいんじゃない? 年頃って感じがして」


 再び笑いながら言われ、俺の顔はついに真っ赤に染まったに違いない。年頃だと分かっているなら、わざわざ言わなくてもいいじゃないか。そんな文句が頭の端に浮かんだが、こればかりは言ったら負けになるような気がした。


「依咲のいじわる……」


「でも嫌じゃないでしょ?」


 再び確信を突かれた俺は、ついに何も言えなくなってしまった。この場でこの状況を楽しんでいるのは、もはや隣を歩く彼女しか居ない。今の俺は、穴を掘ってでもどこかに入ってしまいたかった。それが不可能だと分かっているから、ならば走りだしてしまおうかとも思った。けれど、それも手をつないでいる状況では叶わない。では手を離せばいいじゃないかと、考えはそこに至るわけだが。依咲がこんなに楽しい環境を自ら手放すわけがなく、俺も手を振り払うわけがなかった。

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