7『家庭菜園とぎゅ!』
依咲の先導で、俺たちはそのまま進んでいく。人の家の敷地内に危険なものがあるわけもなく、ただの暗がりを歩いているような状況だ。
「なんもないね」
「ちょっとつまんないよねぇ」
退屈そうな声が時折聞こえ、その声に依咲が確かにいることを確認する。依咲なら、手をつないでいてもどこかに行ってしまいそうだ。そうでなくとも、突然手を離してしまうかもしれない。今の俺は、依咲が居なくては一歩だって歩けはしなかった。そんな心配をしていると、突然手を引かれる感覚がした。
「なんかあった?」
俺は手を引かれる方向に半歩だけ進んでみる。けれど、依咲との距離が詰まったような気は微塵もしなかった。もしかしたら、もっと遠くにいるのかもしれない。俺はそう思い、もう半歩だけ前に進んでみる。すると、足に何かが触れるような感覚がした。
「依咲、何があった?」
何も見えない闇に話しかけると、しゃくっという物音が聞こえてくる。続けて聞こえてきたのは咀嚼音のような音で、どうやら彼女は何かを食べているらしい。
「何食べてんの? 勝手に食べたら怒られるんじゃ」
俺の脳内には、常に怒られるという行為がいるように思う。知らないような人に怒られることの精神的ダメージは、自分で思うよりもずっと大きいのだ。
「依咲ってば」
おそらくしゃがんでいるであろう依咲は、返事をすることなく何かを食べ続けている。そんなに美味しいものが、こんな家の庭のような場所に生えているんだろうか。家庭菜園は、プロである農家に比べれば味は落ちる。祖父母がやっていた時期もあったけれど、やっぱり売っているものの方が少しだけ美味しかった。
とりあえず依咲がいることに安堵して、俺は同じようにその場にしゃがんだ。立っているときよりも僅かに明るさを取り戻したそこは、ちょうど家の裏側に位置していた。左側には蔦の這った鉄製フェンスと、外から見えないように背の高い花が咲いている。右側を見れば、少しだけ出っ張った木製の縁側。俺とは縁遠い一軒家が、そこには確かに存在していた。
「和眞、口開けて」
俺は言われるがままに口を開けた。何が来るのだろうとドキドキしていると、少し硬めの何かが口の中に突っ込まれた。何だ。依咲は俺の口に何を入れたんだ。そう思いながら思い切って顎を閉じると、弾力のあるそれはしゃくっという音を立てながら砕けた。砕けた方とは別に、本体であろう何かが地面に落ちようとする。俺は咄嗟に左手でそれを掴むと、咀嚼しながら頭上に掲げて見せた。薄明りでぼんやりとしか分からないが、味と総合して考えてみると、それは紛れもなくキュウリだった。
「ギュウリ……、ん、キュウリじゃん」
咀嚼物を飲み込んでからそう口にすると、パキッと何かが折れるような音がした。
「ぞうだよ、ギュウリ生えでた!」
ところどころ濁点の付いた音を発しながら、依咲は何本目かも分からないキュウリを噛み砕いていた。味のついていないキュウリは、間髪入れずに食べるほど美味しいだろうか。けして不味くはないけれど、せめて漬物にしてほしいと思ってしまう。それに、いくらなんでも食べ過ぎなのではないか?
「依咲ってキュウリ好きなの?」
「いや、そんなでもないよ」
俺の問いを否定しながら、依咲は手に持っていたキュウリをまた一口齧る。説得力の欠片も無い言動に、俺は思わず口角が上がる。好きとか嫌いとか、この際どうでもいいような気がした。俺も依咲と同じように手にしていたキュウリを再び齧ると、立ち上がってから木製の縁側に腰を下ろした。その動作はとても自然的で、不法侵入から来る恐怖や心配を抱いていた人には微塵も見えない。むしろ、先程の依咲よりも俺の方がいくらかのびのびしていそうだった。俺が縁側に座ったのを見た依咲は、同じように立ち上がって縁側に腰かけた。二人して知らない人の家でくつろぐなんて、今まででは全く考えられないことだった。
「いい夜だねぇ」
キュウリを片手に空を見上げれば、薄雲の間から夜空を見ることが出来る。星の数は小川に居たときよりも圧倒的に少ないけれど、それでも家で見るよりは多かった。家でもこの世界を見ることが出来たなら、俺は毎日だって空を眺めるだろう。無駄に夜遅くまで起きているのだから、そのくらいの時間はあるはずだ。勉強をしているふりをしながら、姉の話を聞いているふりをしながら、満天の夜空を眺めるんだ。これが出来たなら、これほど充実した日々はないと思う。普通の高校生からひとつレベルアップしたみたいで、想像するだけでなんだか気分が良くなった。
「あの、依咲。ひとつ聞いてもいい?」
ここで俺は何を思ったか、依咲のことを深いところまで知りたいと思った。思った瞬間に声が出たことには自分でも驚いたが、これはチャンスになるはずだ。よく考えて話すよりも、その場の勢いで話した方がいい場合もある。今日はぜひ後者になってほしいと、俺は依咲の返事を待ちながら願っていた。
「私の、一体何が知りたいのぉ?」
俺の方にずいっと寄ってきた依咲は、斜め下から俺のことを見つめている。顔はもうすぐそこまで迫り、ぶつかった視線を逸らすことはできない。そんな予想の斜め上をいく彼女の行動に、俺はしどろもどろになってしまう。「あ」とか「え」とか、言葉とも言えない声だけが空中に消えていく。それでもなお、依咲はその行動をやめようとはしない。やめるどころか、依咲は俺との距離をさらに詰めるように近寄って来る。彼女が何を考えてそんな行動をとるのか、
あいにく俺には分からなかった。
「な、なにさ。依咲、なんでそんなに近寄って来るの!?」
耐えきれなくなった俺は、依咲と距離を取るように横にズレながら声を上げる。しかしその距離はあっという間に詰められ、一瞬にして先程と同じような状況になってしまう。不可解な行動をとる張本人は、何やら楽しそうにニヤッと笑みを浮かべていた。
「ドキドしてるの?」
揶揄うようにそう言われ、俺の顔はみるみるうちに真っ赤に染まってしまう。
「違う! ドキドキなんか、ちっともしてない!」
すると依咲のにやけ具合は先程より増し、もはや満面の笑みですらあった。俺の返答は図星でしかなく、おそらく依咲はそれを既に分かっていたのだろう。依咲が近づくと俺の鼓動が早くなることも。俺が依咲のことを好いていることも。何もかもを見透かされているような気がして、余計に顔全体が熱を持っていく。
「かずまぁ、聞きたいことってなぁに?」
上目遣いで話を戻されると、もう何を聞こうとしていたのかさえ分からなくなる。熱を持つ顔と、逸らすことのできない視線と、近くで聞こえる呼吸音。その全てが、俺の思考をぐちゃぐちゃに掻き乱していく。
「和眞?」
視線を僅かに逸らせば、視界には依咲の着ているキャミソールワンピースが見える。肌の露出が多いその服は、夏らしくてとても涼し気だ。けれど、今の俺には目に毒だった。露出が多いということは、即ち胸元が大して隠れていないということだ。白い肌とともに見える鎖骨。そのまま視線を下へとずらすことは憚られるけれど、こういうときに限って俺の中身は男なのだと実感する。好きな人のことをもっとよく見たいと、そんな本能がどこかに存在している。理性と本能が、体の中でぶつかっているのがよく分かった。
「質問……そうだった。聞きたいことはね」
俺は視線を地面にパッと移し、そのまま言葉を紡ぐ。
「依咲って、好きな人いるの?」
理性が本能に負けないように、正気を保っているので精いっぱいだった。だって、隣には好きな人がいるんだ。今を冷静に状況分析すればするほど、心音は驚くほど大きくなっていく。依咲のことを意識すればするほど、呼吸なんか忘れてしまう。こんな真夜中に二人きりで、他の誰にも邪魔されないで、静かに言葉を交わせるんだ。この状況で舞い上がらない人なんていない。
「いなかったら……どうなるの?」
数分前まで浮かべていた笑顔は消え失せ、依咲の表情はいつの間にか真顔になっている。その瞳は、光を少しも宿してはいなかった。光の無い場所なのだから当然のことで、それには少しも違和感はない。けれど、俺はその瞳に吸い込まれるような、そんな不思議な感覚がした。
「どうもならないよ………ただ、ちょっと聞いてみたかっただけ」
よく考えてから口にすればよかったな、と俺はその場で後悔した。安易に人の内面にまで踏み込むものではない。なぜなら、今日のように反撃を食らうこともあるからだ。別段嫌ではなかったけれど、心臓には想像以上に悪い。調子に乗ってごめんなさい、と、そう言って謝ってしまいたかった。
「意気地なしだなぁ」
俺の返答を聞いた依咲は、そう言って立ち上がった。そうして伸びをした後で、手に持っていたキュウリの残りを平らげる。ならばどうしろと言うのだろう。今、ここで依咲に告白でもすればいいのだろうか。夜景の見える場所でも、体育館裏でもないこんな山奥で。お互いの顔さえ見えないような暗さの中で。依咲は俺からの告白を待っていたとでも言うのか。
「なんだよ、それ」
もうどうすればいいのか分からず、俺も依咲と同じく立ち上がる。身長は同じくらい。距離はすぐ隣で、動けば肌が触れ合うかもしれない。それなのに、なぜかどうしようもなく遠かった。依咲のことが全く分からなくなったような気がして、同じ空間に居たくはなかった。真横にいる彼女は、俺の知らない人かもしれない。
「そろそろ帰ろう。お腹いっぱいだし」
そう言って依咲が手を伸ばす。この手を握ってしまってもいいのだろうか。握ったら最後、もう戻っては来れないような気がした。しかしこの手を取らないという選択肢は、あいにく俺の中には存在していなかった。俺は左手を前に出し、差し出された依咲の手を握る。その温もりを、俺は確かに知っていた。
「道のりは長いぞぉ!」
楽しそうに言う姿を見て、俺は「そうだね」と返す。これからまた、あの道のりを歩くのかと思うと気が滅入るけれど、この家に留まるわけにもいかない。俺は右手に持ったままのキュウリを一口齧り、重くなった足を前に一歩出す。
「どうせだったら一周しようよ」
その言葉に頷くと、進む方向はおのずと決まっていく。家庭菜園畑を通り過ぎ、景色の大して変わらない敷地内を静かに歩く。時折窓の方を見てみるけれど、やはり人の気配は少しもしなかった。そうして歩き続けていると、いつの間にか玄関を通り過ぎ、フェンスの穴の前に辿り着いていた。
来るとき同様、先に穴を潜ったのは依咲だった。小さくなった依咲が穴の奥に消えていくのを眺めながら、俺は最後の一口であるキュウリを口の中に放り込む。瓜が持つ独特の青臭さが鼻腔を掠めていくと、言い表すことのできない不快感が体を駆け抜けていく。やはり思い違いではなかった。このキュウリは、なぜかマズイ。
鉄製フェンスにできた穴を潜り抜けると、開けた世界が目の前に広がっていた。フェンスに囲まれた窮屈な敷地内とは違い、今はどこにだって行くことが可能だった。俺より先にフェンスを潜った依咲は、その先で深呼吸を繰り返していた。肺全体で、大自然が生んだ綺麗な空気を堪能する。その姿が、先程とはまた違った印象を与えた。
大人っぽく見えたと思えば幼児のように幼くなり、かと思えば俺を誘惑するミステリアスな女性に変化する。けれど、今目の前にいるのは等身大の彼女だった。俺と同じ十七歳の、大人でも子どもでもない曖昧な存在。どの依咲のことも等しく好きなのは間違いないのだが、俺はやはり今の依咲が好きだった。大人な依咲も勿論魅力的だ。しかし、なんだか遠い存在になってしまったようで寂しい。隣に居るのに、手も届かない場所に行ってしまったようで悲しい。
「どうかした?」
深呼吸をしながら振り返った依咲は、俺の顔色を窺うようにそう言った。この暗さでは顔色も表情も大して見えないけれど、そうやって気遣ってくれるのは嬉しかった。
「ううん、大丈夫」
俺は控えめに顔を左右に振りながら、空いた距離を詰めるように足を前に出す。僅かばかり遠くにいた依咲との距離は縮まり、今すぐにでも手がつなげそうだ。俺は依咲の顔を真っ直ぐ見据え、ニコッと笑ってから口を開く。
「一緒に帰ろう」
「当たり前でしょ? 私のこと置いてくつもりだったの?」
少し怒ったような声で、依咲はさらに距離を詰めながら言った。縁側で並んで座っていたときよりも顔の距離は近く、少しでも動けばキスが出来てしまいそうだった。この場で依咲とキスをするべきか、しないべきか。俺は平静を気合で装い、バレないように脳内で思考した。思いのままに行動するとすれば、俺は今にでも顔を動かしてキスをしてしまうだろう。けれど、それがけしてしてはいけない行いだということも分かっている。そもそも、俺たちはまだ付き合ってはいない。そんな関係で他人の唇を奪うなんて、あってはならないことではないか。順番を大切にするのであれば、俺は何よりも先に告白をしなければいけない。
「へへ。和眞かわいぃ」
満面の笑みを湛えた依咲は、至近距離でへへっと可愛らしく笑った。ただでさえ可愛らしい笑顔なのに、至近距離で見てしまって心臓が止まりそうだった。そうでなくとも、呼吸は簡単に停止してしまう。
「ちょ、依咲、笑わないで」
心臓や呼吸が完全に停止してしまう前に、俺は依咲から離れなければいけない。そう思い、俺は後方に一歩下がる。二人の間に少しだけ距離ができ、俺の命が俺の手によって守られる。縁側に座っていたときとは違い、依咲がこちら側に距離を詰めてくることはなかった。ただその場に立ち、ニコニコと微笑ましそうに俺のことを眺めている。まるで幼い弟の面倒を見ているような表情で、なんだか気恥ずかしくなってくる。
「その顔もやめて! 恥ずかしい……」
俺は自分の手を顔の前に掲げ、依咲から見えないように顔面を覆った。今が夜で良かったと、そう思った日は今日以外にないかもしれない。恥ずかしさからくる顔の赤さも、耳の紅潮も、依咲に見られずに済んでいる。もし仮に今が昼間だったなら、俺の変化を依咲に弄られていたかもしれない。それはそれでアリかもしれないが、どうせならカッコいいところを見てほしかった。
「私、今どんな顔してるの?」
依咲は楽しそうに笑顔を湛えながら、わざわざ俺に言わせようとしてくる。依咲が浮かべている表情を言葉にするなんて、それこそ恥ずかしくて出来やしない。弟を見ているときのような微笑ましい表情、など口が裂けても言えない。それを音として口にしたとき、きっと俺の体は破裂する。純度一〇〇パーセントの恥ずかしさで、風船が破裂するみたいに弾け飛んでしまう。そうはならないにしても、きっと地面に穴を掘って隠れるぐらいはするだろう。依咲の前に平然と立っていられる自信は、どれだけの可能性を考えてもゼロに等しかった。
「依咲、もしかして俺のこと好き?」
男子が好きな人にちょっかいをかけるというのは、どこでもよく聞く話だ。その行動と、なんとなく依咲の行動が似ているように感じる。好きな人や気になる人をつい揶揄ってしまうのは、一種の照れ隠しなのかもしれない。それが、彼女に当てはまるのかは分からないけれど。俺が依咲に恥ずかし交じりにそう問うと、彼女は一瞬だけ驚いたあと「ニヘヘ」と笑いと照れのちょうど中間のような声を発した。
「嫌いじゃないよ」
「………………好きってこと?」
自分で言っていて恥ずかしくなってくる。好きな子に「俺のことが好きか」と問うやつなんて、どこを探しても俺くらいなんじゃないだろうか。遠回しの告白をしているようで、そう思うと余計に恥ずかしくなってくる。こうなったら、正々堂々と告白してしまった方がいいのではないかとも思う。そっちの方がいくらか格好もつくだろう。
「さぁ、和眞はどう思う?」
小首を傾げる依咲の仕草にキュンとして、俺の心臓が数秒だけ止まったような気がした。実際のところ止まってはいないのだが、鼓膜が一切音を拾わなくなる。距離があっても無くても、依咲の起こす動作は俺の心身に影響を及ぼすらしい。俺が依咲の問いに答えないでいると、彼女は二人の間の距離を数歩で詰めてくる。その様子に半歩後ろに下がっても、依咲が止まる様子は微塵もなかった。そうして両手を真横に広げると、俺の体を優しく抱きしめる。目の前で起こった出来事を一部始終見ていたはずなのに、俺には現状がいまいち理解できなかった。それどころか、その場から身動きひとつ出来なくなる。
「ふふっ、ドキドキしてるね」
依咲が俺の胸に耳を寄せ、その状態のまま口を開く。依咲の言葉が俺の体の中に入り込み、内側から体全体を揺らしている。体の中を通った依咲の声は、直接鼓膜を揺らしているかのようにすぐそこで聞こえた。
「い、いさッ」
あまりの驚きに声が裏返る。何故依咲に抱きしめられているのか、思考の止まった頭では少しだって考えられない。彼女の名前を呼ぶのが精いっぱいで、慌てふためいているのが自分でもよく分かった。
「ぎゅってされるの、初めて?」
まるで悪魔の囁きのような声音に、俺の心臓がビクッと脈打つのが分かった。縁側での依咲とは違い、今の彼女から色気等は感じない。ただ、掌で転がされているような感覚はあった。そして、その手にまんまと乗ってしまっている自分の弱さに舌打ちをする。こういうとき、今はそういうことをしている場合じゃないよ、と言えたらなんと素敵なことか。スマートで理性派な人間を演じ、依咲に惚れてもらうことだってできるかもしれない。けれど、俺にそんな格好つけたことが出来るわけがなかった。
「は、初めてじゃないよ。母さんには小さい頃してもらったし……」
「最近だよ、最近。大きくなってから、こういうことしてもらったの?」
「いや……それはない、かも?」
俺は声を裏返らせないことで精いっぱいで、今自分が何を喋っているのか分からない。脳を介さない話し方をすることで、まるで口だけが別人になってしまったかのようだった。尚も高鳴り続ける鼓動に、思考とは関係なく動き続ける口元。俺は一体どうなってしまったのだと、胸中で自分自身に問いかける。すると、返ってくる言葉が行きつくのは『俺が依咲を好いている』のひとつに集約される。恋とは、誰かを好きになるということは、もしかしたらこういうことなのかもしれない。自分が自分でなくなる感覚が、好きってことなんだ。
「和眞、私のこと好きでしょ?」
「エッ!?」
裏返った声が、図星であることを必然的に依咲に伝える。そんなに分かりやすかっただろうか。別段依咲のことを目で追っていたこともなかったような気がする。……気がするだけで、その姿を追っていたのかもしれない。
「嬉しいよ、私」
こんな形で依咲に想いが伝わるとは予想もしておらず、俺は内心とても焦っていた。自分から告白する気でいたが故に、こんな微妙な形で居続けるのも気持ちが悪い。今、告白するべきだろうか。この際勢いで、この流れに乗って、早口でもいいから言ってしまおうか。言わずに後悔するより、言って後悔する方が何倍もマシなような気がした。
「い……依咲———」
「ふぅ、帰ろっか」
依咲はそう言って背中に回していた腕を解き、俺の目を真っ直ぐに見据えた。月にかかっていた薄雲が晴れたのだろう。依咲の瞳は月のか弱い光を受けて、星のようにキラキラと輝いていた。その瞳を見てしまったら、喉元まで出かかっていた言葉が奥の方に引っ込んでしまった。告白なんて、好きだ! なんて、そんな軽い言葉は彼女の前で簡単に吹き飛んでしまう。そんなありきたりな言葉で、目の前の人間を形容するのはあまりに失礼で。似つかわしくなくて。もっと、もっと、相応しい言葉があるはずだと思った。
「帰ろう。一緒に、家まで帰ろう!」
「うん! 帰ろ!!」
彼女はそう言って、俺の手をこれまでと同じように握った。依咲の浮かべる満面の笑みが好きだ。手から伝わる体温が好きだ。俺のゆっくりとした歩調に、さり気なく合わせてくれるところが好きだ。歩くときに揺れる、綺麗なポニーテールが好きだ。光を多く取り込み、控えめにキラキラと輝く瞳が好きだ。星について詳しいところが好きだ。時々揶揄ってくるところが好きだ。俺は、依咲のことがどうしようもなく好きだ。恋心が生まれるのに月日は関係ない。それは、俺が身を持って実証している。
「帰るのにどのくらいかかるかなぁ」
「さぁ、想像もしたくない……」
何気ない会話が出来る関係は素敵だと思う。会話自体が意味のないものでも、くだらない話題でも、依咲とならなんだって楽しい。こうしてただ立っているだけでも、俺の心はポカポカと温かかった。
「明日は晴れるねぇ」
依咲は天を仰ぎながら、嬉しそうに明日の天気を予想する。明日と言っても、既に今日ではあるのだが……。まぁ、寝るまでが一日だと考えれば、今日を明日と言っても問題ないような気がする。
「明日も会える?」
どちらからともなく足を前に踏み出すと、足裏が地面の感触をリアルに伝えてくる。裸足で外を歩くことなんて、今まで一度だってしたことはなかった。けれど、たまにはそれもアリなんじゃないかと思う。山道を裸足で歩くのはお勧めしないけれど、普段歩く道を歩くのは思った以上に新鮮だ。夜だとなおいいかもしれない。隣に依咲がいれば、もっとずっと良い。
「どうだろう。会えるかもしれないし、会えないかもしれない」
依咲はこちらを見ることなく、真っ直ぐ前だけを見据えている。進む先は光の無い闇の世界。そんな世界に灯がともるのは、もう少し来た道を引き換えさなければならない。この世界を月明かりのみで進むのは心許なく、気づけば歩くペースは不思議と遅くなっている。予期せぬ事態が起こっても対応できるように、手だけはけして離したりはしない。
「もう、会えないの……?」
俺の淋しさを含んだ声が、夜の世界の中へと消えていく。もう二度と会えないかもしれない。そう思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。今日が最初で最後だなんて、考えたくもない。明日も明後日も、何年経っても、こうして二人きりで会いたい。そんな俺のちっぽけな願いは、どうやっても聞き届けられないのだろうか。神様は、それほどまでに血も涙もないのだろうか。
「そんなの分からないよ。明日も会えるのか、明後日はどうなのか。私には少しだって分からない。それは、この先の私たちが決めることなんだよ」
「……俺は」
これから先も会いたいよ。たったそれだけの言葉なのに、喉の奥につかえて声にはならない。それに、なんだか依咲の言い方が頭の端で引っかかった。依咲はもうこの先、二度と俺には会いたくないのだろうか。俺の感情とは反対に、依咲は会いたいと、もう一度二人で話したいと、そうは思わないのだろうか。そう思うと、なんだか悲しくなってくる。俺の感情を向ける相手がそれを永遠にかわし続けるなんて、俺はこの先どうすればいいのか。想いが同じではないということがこれほどまでに苦しいものなのだと、今日初めて思い知った。
「和眞は会いたいの? 明日も、明後日も、私に会いたいの?」
「会いたくないわけないだろ。俺はこんなにも———」
こんなにも、依咲のことが好きなのに……。
「嬉しいなぁ」
俺が依咲の言葉に瞬時に返事をすると、依咲は嬉しそうに笑っていた。心なしか、足取りも軽くなっているような気がする。俺は依咲のことが増々分からなくなり、空いている方の手で後頭部を軽く掻いてみる。そんなことをしても脳内が整理されるわけがなく、俺はそのままの状態で依咲の横顔をチラッと見やる。どことなく生き生きとしている依咲が、俺のことをどう思っているのか。今はそんな疑問でいっぱいだった。
「俺が依咲に会いたいって思うと、依咲は嬉しいの?」
「当たり前でしょ? 嬉しくないわけがない」
とりあえず嫌われていなかったことに安堵し、ならば先程の言い方は何だったのだろうと新たな疑問が生まれる。会いたいのであれば、端からあんな言い方はしないはずだ。もしかしたら、依咲も俺と同じような感情を抱いていたのかもしれない。俺が依咲のことをどう思っているのか、俺同様に分からなかった可能性は十二分にある。そう思うと、依咲のことが増々可愛らしく感じてくる。なんだか嬉しくて、俺まで足取りが軽くなったようだ。俺はつないだ手を改めて握り直し、そのまま前後にブンブンと振ってみる。俺の心情を表すその動作は、数秒経っても終わる気配がしなかった。
「和眞は分かりやすいね」
隣で訳も分からずつないだ手を振られていた依咲は、俺の顔を見てそう言った。その顔は笑顔の手本のようにニコニコしていて、俺もつられて笑顔になってしまう。依咲の笑顔は周囲をパッと明るくし、闇の中でもはっきりと見ることが出来る。隣でコロコロと表情を変える依咲に、俺は飽きることを知らない。それはきっとこの先も変わらない、不変の事実なのだと思う。
「分かりにくいよりはずっといいだろ?」
「それはそうだけど、分かりやす過ぎるのも考えものだよ。詐欺にすぐ引っかかっちゃいそうな、危うい感じがする」
「じゃあ、依咲がその詐欺から守ってよ」
自然と口を突いて出た言葉に、俺は自分で驚いてしまう。依咲に守りを乞うなんて、男としては少々ダサいような気がする。けれど、この約束で依咲を俺の元に繋ぎ留めて置けるのなら。この先も会うことの口実になるのなら。それはそれでアリなのかもしれないと思った。再会するのに理由が要るのであれば、これほど相応しい約束はないだろう。誰かから文句を言われるにしても、これを言い訳にすればいいだけの話だ。
「詐欺ぐらい自分で回避してよ」
依咲は少し呆れたような、そんな声を上げた。しかし、その声音は煩わしさを微塵も含んではいない。呆れてはいるものの、そこまで面倒ではないのかもしれない。
「守ってくれないの?」
「いや、そうは言ってないじゃん」
「なら守ってくれる?」
「んー、分かった。守ってあげる」
依咲は仕方なくとでも言うように、大きく頷いてからそう言った。その顔はやっぱり笑っていて、彼女の笑顔が自分だけに向けられているのが何よりも嬉しかった。俺たちはそのまま手をつないだ状態で家を後にし、再びコンクリート敷きの道に戻る。歩き心地がいいのは砂地の方だけれど、安全に歩くことを考えるとやはりコンクリート敷きの地面の方がいい。危険物が落ちていれば直ぐに分かり、植物の棘などを気にする心配もない。ただ、ひとつだけ注意しなければならないことがある。
「いって!」
俺は左足に激痛を感じ、反射的に片足立ちになった。意図せず止まる進行に、同じく依咲も足を止める。
「どうしたの!」
そう聞く間もつないだ手は離さない。お互いの場所を常に把握しておくというのは、暗闇の中では当然の行いだった。
「分かんないけど、なんか踏んだみたい」
既に痛みから解放された足裏を摩りながら、たった今踏んだものが何かを予想する。虫かもしれないし、植物片かもしれない。道路なのだから小さなガラスの可能性も捨てきれず、結局何を踏んづけたのか見当も付かなかった。しかし不幸中の幸いか、足裏が切れるようなことはなかった。仮に切ってしまっていたら、家に辿り着くのに相当な時間を要しただろう。ただでさえ長い道のりを、片足の痛みに耐えながら行くなんてまるで拷問だ。
「踏んだのって、もしかしてこれじゃない?」
俺の足元にしゃがみ込んでいた依咲は、手に小さな何かを摘まんでいる。上げていた足を下ろしてから手を差し出すと、彼女は手に持っていた何かを俺の掌の上に置いてくれた。そうしてそれをよくよく見て見ると、何の変哲もないただの小石だった。小指の爪よりも小さな小石に、俺は危うく足を傷つけられるところだったというのだろうか。こんな、誰よりも存在の危ういものに。
「やっぱり裸足で歩くのは危ないねぇ。どっかに靴落ちてないかな?」
すっと立ち上がった依咲は、暗がりに中で辺りを見回した。月明かりは心許なくて、何かがあったとしても見つけることなんて不可能だ。けれど依咲は遠くまで見えていると言う風に、暫くの間遠くを眺めていた。
「靴はないけど、ここで立ち止まってるわけにもいかないよ」
俺たちが今立っているのは、田舎町に伸びる細い公道のど真ん中。車が走ってくれば、助かる可能性は半分よりも低い。それに加え、四方八方には何十メートルにもなる山々がそびえ立っている。そんな場所で野生動物と出くわせば、生存確率は限りなくゼロに近くなる。そう思うと、オバケの方がいくらかマシにさえ感じてしまう。
「だよねぇ、しょうがないか。このまま帰ろぉ」
きょろきょろと周囲を見渡していた依咲は、そう言って正面を向いた。そうして再び歩き出すが、俺は足をつく前に小石がないか、足で探る作業を動作に付け加える。もう二度とあんな痛みは勘弁だ、と思いつつ、数分後に同じ経験をするのはここだけの話だ。靴を履かないで外出するなんて、もう誰にだってお勧めはしない。下手したら、体験しなくていい痛みを体験することになるから。