6『フェンスの穴と互いの手』
そんな俺を他所に、依咲は鼻歌を歌いながら遠くに見える家へと向かって行く。薄明りを屋根全体に受けたその家は、近づいていくにしたがって影を大きくしていく。
「久しぶりに来たかも」
コンクリート敷きの地面から一歩奥に入ると、そこは砂地だった。足裏や指の間に細かい砂が付き、ほんの少しだけ不快だった。もう一度川へ行って足を洗おうかとも思ったが、あの坂を上らなければならないことを考えると気が引けた。遠くから見えていた家の周辺は、当たり前だが山しかない。この家のあった場所も、かつては山の一部だったのだろう。山の斜面は、もうすぐそこに見えていた。山を切り崩した場所に建つその家の周りは整地されており、平らでとても歩きやすかった。ところどころに長めの雑草が生えているものの、歩くのを妨げるほどではない。
「大きな家……」
俺は目の前に現れた家を見上げながら、思わず感嘆の声を上げた。近づくにつれて大きさを増していたその住宅は、間近で見るとまさに豪邸そのものだった。こんな巨大な家に、知り合いの人は何人で住んでいるのだろう。まさか一人ではないだろうなと思いつつ、仮にそうだったなら何を思いながら過ごしているのか気になってしまう。いや、もしかしたら何も思ってはいないのかもしれない。
俺たちは家の外側を歩きながら、家の中を窺うように見た。遠くからでは分からなかったが、この家の敷地は相当大きい。存在感のある木々たちは敷地内に生え、その外側を身長ほどの鉄製フェンスがぐるっと覆っている。外から見ただけでは、建物自体はっきりと見ることはできなかった。
「寝てるかな?」
玄関と思われる大きな門の前に立った依咲は、その脇にあったインターホンを一度だけ押す。するとビーッという、虫の鳴き声のような音が周辺に響いた。今時インターホンの音がこれなんて珍しいなぁ、と心の中で静かに思う。俺の家のインターホンは「ピンポーン」という音だし、友達の家だって同様だ。祖父母の家は片方はインターホンが無いけれど、もう片方の家はこの家と同じで「ビーッ」という音だった。もしかしたら、知り合いというのは俺の祖父母と同じ年齢なのかもしれない。
「出ないねぇ」
再びインターホンを鳴らすも、中からは物音のひとつだって聞こえてはこない。深夜なので当たり前と言えば当たり前なのだが、依咲は意外にも残念そうな表情を浮かべていた。
「仕方ないよ。みんな寝てる時間だろうし」
「そうだけど……なんのためにインターホンついてんのさ!」
「八つ当たりしないでよ」
俺は依咲を宥めつつ、周囲を見回してみた。風によって山の木々が揺れ、ザァァッという怪獣の鳴き声のような葉擦れが聞こえてくる。視線の先ではコウモリらしき影が空を飛び交い、時折ミミッという蝉の声が合いの手を入れる。俺がいるのは自然のど真ん中なのだと、やっと今実感した。大自然の中では、人間も動物も植物も、みんな平等に同じ立場だった。誰が偉いでも強いでもなく、ただそこにあり続けている。
「そういえば、確かこっちに入れるところがあったような……」
そう呟きながら、依咲は門前を後にする、暗がりでは依咲と繋いだ手だけが頼りで、俺もその後に当然のように続いていく。住宅を取り囲むフェンスを凝視しながらゆっくり歩く二人組は、さながら盗人のようであっただろう。しかし、盗人がわざわざこんな辺鄙な場所に来るかは疑問が残る。確かに人通りは少ないけれど、来るまでの労力を考えれば割に合わない。金銀財宝が眠っていなければ、骨折り損になること間違いなしだ。
「今の俺たち不審者だよ」
「かもねぇ。あれ、あっちだったっけ?」
中腰の状態で、依咲は右から左へ、左から右へ行ったり来たりを繰り返した。久しぶりに来たのなら、入れそうな場所が無くなっていても不思議ではない。これだけ捜してないのだから、そろそろ諦めるべきだろう。そう俺が言おうとしたとき、隣から「あ!」と言う声が聞こえた。その声の意図は、何も聞かずとも分かってしまう。
「これだこれだ! なぁんだ、あるじゃん」
自分の記憶は正しかったのだと言わんばかりに、依咲のキラキラとした目が俺を捉える。前方を見れば、鉄製フェンスの下部に小さな穴が開いているのが見える。その穴は、俺でも頑張れば通れるぐらいのサイズだった。
「中、入るの?」
恐る恐る問うと、依咲の目はより一層見開かれた。聞かなきゃよかったな、と後悔しても既に遅い。依咲の足は、目の前の小さな穴に向かって一直線に進んでいる。
「これって不法侵入じゃないの?」
「私の知り合いなんだから、不法侵入になんかならないよ。それより早く! 私先に行っちゃうよ?」
依咲はそう言って、俺とつないでいた手を簡単に離した。そうしてしゃがんだかと思うと、一人でどんどん進んで行ってしまう。ついには依咲の姿は外から見えなくなり、フェンスの向こうにいるのかさえ分からなくなる。俺は怖くなって「いさぁ」と弱弱しい声を上げる。すると向こうから同じように「かずま~」と気の抜けた声が聞こえ、俺は外で一人安堵する。
「俺も行かなきゃダメかなぁ」
不気味な葉擦れ音が俺を取り囲み、今にも何かが出そうな予感がした。こんな何もない場所に独りぼっちだと、心細くて仕方がない。
「いさぁ」
俺はもう一度フェンスに向かって名前を呼ぶけれど、今度は返事どころか物音ひとつ返っては来なかった。
「依咲、いるんでしょ?」
無音は無音のまま、その場から動くことはない。俺はついに怖くなり、その場にしゃがみ込んだ。彼女がいないだけでこんなにも恐怖心が増すと言うのか。それに気付くと、途端に自分がちっぽけな存在に感じてしまう。威勢のいい発言どころか、虚勢を張ることすらも叶わない。俺はただその場に縮こまり、依咲の後をゆっくりと追っていくことしかできない。見方を変えれば、それも幸せの類に含まれるのだろうか。
「なんで返事してくれないんだよ……」
俺は文句を垂れながら、しゃがんだまま一歩ずつフェンスの方へと近づいていく。なんでこんなことに……と思ったのも束の間、依咲が勝手に進んで行ってしまったことが大まかな原因だと気づく。
「自由過ぎるのも考えものなんだな」
伸び放題の雑草を手で押さえながら、俺はフェンスの目の前で足を止める。遠目では俺も通れそうな気がしたが、近づいてみると案外小さな穴だった。俺は膝を抱えるようにしてさらに縮こまり、服をフェンスに引っかけないように慎重に進む。半分ほど進んでから、四つん這いになった方が楽だったことに気づくも、こちらも時すでに遅しの状態だった。それから少ししてフェンスの穴を潜り抜けると、目の前にはやはり広い敷地内が目に入る。建物自体も大きいのだが、敷地のほとんどが更地のようになっていた。
「やっと来たぁ」
目の前に聳える建物の右側から、依咲は「遅いよ」と言いながら登場する。些か、彼女には遠慮というものが欠片も無いらしい。この瞬間にも、俺たちは不法侵入で通報されるかもしれないのに、まぁなんとも暢気なものだ。依咲のようになれたなら、少しは生きやすくなるのかもしれない。けれど、俺には彼女のように能天気になれる自信はなかった。
「知り合いの人いた?」
俺がそう問うと、依咲はふるふると首を横に振った。
「家の玄関を叩いても誰も出てこないし、窓から覗いても誰も見えなかった」
とても残念そうに言う依咲だが、普通に行動が怖くはあった。こんな真夜中に玄関を叩かれ、知らない人が外から覗いているなんて、俺なら怖くて寝られやしない。しかし依咲がそんなことに構うことはなく、俺とこうして話している間にも窓から中を覗こうとしていた。
「やめなって。知り合いの人の怒られちゃうよ」
「大丈夫だよ。そんなに怖い人じゃないし」
「そういう問題じゃ……」
依咲は俺なんかの言葉には耳を貸さない。そうして俺の前を通り過ぎ、再び家の周りを練り歩く。時には大きな声を上げて歩き、静かな山々に心なしか反響する。その姿は迷惑な子どもで、話の聞かなさが子ども感を高めていった。他人の迷惑だとか、周囲からどう見られるかとか。そんな他人からの評価には一切興味がなさそうで、それが返って清々しくもあった。けれど、今の依咲はあまりにも幼く見える。先程出会った博識な彼女も、頼りがいのある大人っぽい彼女も、もう遠い昔の人のようだった。
俺はなんだか、今の依咲のようにはなりたくはないと思ってしまう。これも彼女の隠された一面なのだろうか。そうだったとしたら、これまでの道中で上手く隠していたなと思う。幼さなんて、ほんのこれっぽっちも見えなかった。同い年なのに俺と彼女とでこんなにも差があるのかと、その現実に愕然としていた。俺は彼女のことを評価できるような人間ではないけれど、何となく、今の依咲は嫌いだった。俺の心を撃ち抜いたのは、ミステリアスな雰囲気を漂わせた大人の依咲だ。少なくとも、小学生のような依咲ではない。
「暗い。暗すぎるよ……」
俺はそんな依咲の後を、心配しながらついて行く。心配というのは、補導や逮捕されないかの心配だ。警察に連絡された瞬間なら逃げようもあるが、サイレン音が聞こえてからではもう逃げられない。山の中に隠れれば行けるかもしれないが、野生動物の住処である場所に自ら足を踏み入れるなんて出来やしない。
この際もう素直に言ってしまおう。俺は、幽霊も暗い場所も怖くて嫌いだ。できれば今すぐにだって帰りたいけれど、依咲を置いて帰るなんて出来るわけがない。ましてや一人で帰るなんて、もっと出来ない。街灯と人影のない暗い道を一人で……と考えただけで鳥肌が立つ。かと言って穴の前に一人で居るのは心細く、しかし勝手に敷地内を歩く気にもなれなかった。俺は頭の中で二つの選択肢を天秤にかけ、運命の選択に任せることにした。結果は見て分かる通り、依咲とともに歩く方が僅かに重かった。やはり誰しも恐怖心には勝てないらしい。
「置いてくよぉ」
穴の開いたフェンスから数十メートル先で依咲は立ち止り、俺の方を向いてそう言った。
「ちょっとぐらい待ってよ」
俺は恨み言を言うみたいに、依咲の方を真っ直ぐ見ながら口を開く。すると依咲はその場に留まってくれたけれど、早く行きたいのか進行方向をチラチラとしきりに見やっている。
「そっちに何かあるの?」
「んー、わかんない」
その言葉に一周回ってきたのでは? と疑問を抱いたが、もしかしたらこれから行く先はまだ見ていないのかもしれない。依咲すら知らない場所にともに行けることの嬉しさと、未知の世界への恐怖が俺の胸中で混在する。行きたいと行きたくないの相反する感情が、俺の足をその場に縛り付けてしまう。心のどこかで依咲が先に見てきてはくれないかと思ってしまうが、女の子を一人で行かせる男など居るはずもない。どんなに怖くとも、どんなに帰りたいと思っても、俺と依咲は離れてはいけない。彼女がどれほど幼くても、面倒でもだ。
「依咲……手」
俺は依咲の元まで行くと、右手をそっと差し出した。依咲が先に行ってしまわないように。俺がここから逃げてしまわないように。
「仕方ないなぁ」
依咲はどこか嬉しそうに、差し出された手を握った。久しぶりではないはずなのに、依咲の温もりがどこか懐かしく感じた。俺はこんなにも人肌を恋しがっていたのかと、そんな気持ちの悪い言葉が脳内を過る。手を繋いだことで、恐怖心は少しばかり和らいだような気がする。依咲の何にも臆さない性格が、つないだ手を渡って俺の方に来たのかもしれない。それは些か現実的ではないけれど、そう思うことで依咲の存在が俺の中で大きなものになっていく。依咲の中でもそうであったならいいのに……と思ってしまうのは、俺が彼女のことを好いているからだろうか。
嫌いだと思う面も、これから見るであろう新しい一面も、俺はきっと全て好きになってしまうんだ。なぜなら、俺は依咲という人間そのものが好きだから。自分の感情を言葉にすると、それはなんだか恋愛感情ではないような気がしてくる。恋とか愛とかではない、もっと深い奥底にあるようなもののような。そう、愛情と呼ぶ感情と同じなのかもしれない。その考えに至ったところで、俺の脳内にはやっぱり疑問が浮かぶ。俺は、依咲に恋をしていないということか?
「ねぇ、依咲?」
「なーに?」
手を繋いでから少しも動かず、俺は依咲の名前を読んだ。
「依咲」
「ん?」
「いーさ」
「なにって」
「いさぁぁぁぁ」
「だからなんなの! 私はここにいるでしょ?」
「うん、そうだね」
名前を呼ぶたびに、俺の心が温かくなっていく。依咲の返事を聞くたびに、自分でも分かるぐらい幸せな気分になる。これが恋でも愛でも愛情でも、正直どれでもいいんだと思う。俺は依咲のことが好きで、好きで、好きでたまらない。そこには出会ってからの時間も、交わした言葉の数も、何ひとつ関係ない。大切なのは自分と相手がどう思うのかなのだと、何となく分かったような気がした。
「急に変になるんだから……。頭どこかにぶつけた?」
依咲が俺の顔を覗き込もうとするので、俺はすかさず顔を逸らしてその行動を阻止する。すると依咲は頬をぷくっと膨らませ、また同じように顔を覗き込もうとする。そうして俺がまたその行為を阻止すれば、再び依咲が覗き込もうとする。そんな攻防戦とも言えぬ攻防戦を繰り広げていると、体は一回二回とその場で回転する。くるくると回るその様は、一体何に例えられるだろう。こまだろうか。
「アハハ、なにこれ」
なぜこんなにも回っているのか。自分でも自分の行動がおかしくて、俺は回りながら声をあげて笑った。すると続いて依咲もアハハと笑い、知らない人の家で二人して大爆笑をした。
「私たちなにしてるんだろ」
依咲はひとしきり笑うと、目じりの涙を指先で拭った。本当にそう思うが、これも依咲とでなければできないような気がした。姉とは、きっと始める前に喧嘩するだろう。
「さ、いこっか!」
優しく握っていた手をぎゅっと固く握り、目の前の闇の中に足を踏み出す。月明かりは薄雲に隠れ、弱弱しい光しか届けてはくれない。もう足元すらも見えず、どこに何があるのかも分からなかった。そんな状況でも、依咲は躊躇うことなく進んでいく。まるで目の前の景色が鮮明に見えているようで、心強いことこの上なかった。