4『携帯電話と星々』
「こっちだよ」
左カーブを歩き終わったところで、依咲は右側に伸びた脇道へと歩き出した。その道はコンクリートの敷かれていない、砂地の道だった。
「こっちに川があるの?」
「このまま進んでも見えるんだけどねぇ。でも、川に下りるならこっちに行かないと行けない」
砂地の道は、生い茂った木々の葉によって、月明かりは僅かしか届かなかった。いくら闇に眼が慣れたとはいえ、ここまで暗くては歩くのも容易ではない。両脇に生えた雑草は道の方へはみ出ており、歩くたびに肌を掠めていく。それが擽ったくて、空いた方の手で足を搔いた。道なき道を進む感覚に、なんだか探検しているような気になる。それは夜特有の興奮とも言える感情と相まって、足取りをどんどん軽くしていく。今はもう、疲れなんて少しも感じてはいなかった。
「なんか元気になった?」
隣を歩く依咲は、俺の顔を覗き込みながらそう言った。俺は返事の代わりにヘヘッと笑い、繋いだ手をブンブンと振ってみせる。すると依咲も同じように腕を振り、鼻歌を歌い出した。辺りは未だに暗いままで、街灯も月明かりもない世界。けれど俺たちは嬉々としていた。楽しくて仕方なかった。
「やっぱりその曲知らないや」
何度聞いても分からない依咲の鼻歌に、俺は独り言のように呟いた。それに構わず、依咲は誰よりも楽しそうに歌っていた。俺はその姿がどうしようもなく好きで、知らないはずの曲に身を任せている。すると、少し先を小さな光が飛んでいくのが見えた。見間違いかと思うほどか細く光るそれは、歩を進めるたびに数を多くしていく。それが蛍だと気づくまでに、それなりの時間を要した。なぜなら、俺は今、人生で初めて蛍を目にしたのだ。本当に光りながら飛ぶことも、無数の光が宙を舞うことも、聞きこそすれ見たことはない。
「すごい数だねぇ。もう川近いんじゃない?」
「うん……」
俺は依咲の声が聞こえなくなるほど、目の前の光景に見入っていた。綺麗の一言が脳内を占め、それ以外の言語を失っている。
「綺麗だね」
二人一緒に歩きながら、目の前の光景を眺める。これらを適切に表現するなんてできなかった。適切な言葉が見当たらないなんて体験も、人生で初めてだった。俺たちはそれから暫く歩き続け、気づくと左右に生い茂った雑草は数を減らしていた。
「川だ!」
僅かな明かりを反射させ、水面がキラキラと輝いている。その周辺を柔らかい黄色が無数に飛び交い、幻想的な世界が広がっている。写真に写すことはきっとできない。これはこの場に来て初めて見れるものだ。ここまで歩いて来た俺への、プレゼントなのかもしれない。目の前の幻想的風景を前にして初めて、歩いてきてよかったと思った。車で来たなら、これほどまでの感動は得られなかったかもしれない。やはり、自分の時間をかけることが大切なこともあるんだと思う。
「和眞! 川だよ、川! 綺麗な川!」
依咲は繋いでいた手を離し、目の前の川へと駆けて行く。そうして川岸のぎりぎりまで行くと、振り返ってその場でピョンピョンと跳ねた。テンションが先程とは遥かに違う。待ちに待った景色が目の前に広がったことで、まるで子どものようになっている。依咲の新たな一面を見たような気がして、俺は嬉しくて仕方なかった。
「早くおいで! 和眞が来たがった場所だよ!!」
「分かった分かった。だからそんなにジャンプしないで、危ないから」
俺は依咲の元にゆっくりと歩きながら近づく。そして再び依咲の手を掴むと、そのまま川の中に足を入れた。最初の川は入っていないのでどうか分からないが、この川はひんやりと冷たかった。山の中なので、もしかしたら湧き水なのかもしれない。さらさらと流れる川によって、火照った体がゆっくりと冷えていくのが分かった。
「気持ちいいねぇ」
同じく川に足を入れた依咲は、ニコッと笑っていた。下を見れば、水面の反射で、足元を流れる水の姿がよく分かった。この水たちは、川を下っていつかは広い海に行くのだろう。想像を超えるほどの長い長い旅をしていく水に、俺は到底なれるはずもなかった。川底が良く見える透き通った川は、その中に生きる生物たちをもはっきりと見せていた。
キラリと光る鱗を左右にくねらせながら、小魚たちが少し先で戯れている。魚の気持ちは、俺なんかには分からないほど豊かなものなのだろう。野生に生きるというのはそれだけで大変なことだけれど、それよりも大きな幸福があるのかもしれなかった。もし生まれ変わりがあるのなら、魚になってみるのもいいかもしれない。
「あ、そうだ。和眞! ひとつお願いがあったの思い出した」
「お願い?」
改まって、どんな願いがあると言うのだろうか。これ以上の旅は勘弁してくれよ、なんて思いながら、頭の端っこでは不純なことを考えていた。手を繋いだら、次は何をするのだろうか。ハグか、キスか……。それ以上のことはまだ早いような気がする。けれど、もし仮に依咲がそれを求めたら、俺には拒めない自信しかなかった。高鳴る鼓動を沈めながら、依咲のお願いを聞き逃さないように準備する。そんな俺は、無意識に依咲の口元を注視していた。
「あのね、カメラ! 見せてほしいの」
「カメラ……」
依咲の言葉を口内で復唱し、頭と心で噛み砕いていく。そうして正しくその言葉を理解したとき、途方もない罪悪感でいっぱいになった。いやらしいことを考えて、申し訳ありませんでした。言い訳を聞き届けてくれるのなら、俺は現役の高校生なんです。そういうことのひとつやふたつ、考えることぐらいあるんです。しかし、目の前の純粋そうな彼女を前にして、そんなダサい言い訳はできなかった。
「うん、いいよ」
言い表せぬほどの罪悪感を隠しながら、俺はポケットの中から携帯を取り出した。依咲はカメラと言ったけれど、これの本来の目的はそれではない。誰かと連絡を取るための電話だった。
「ありがと!」
依咲は俺の手から携帯電話を受け取ると、裏返したりボタンを押したりしながらまじまじと観察を始めた。そんなに珍しいものではないはずだ。型だって最近出たものではないし、今時誰だって持っている一般的なもの。機能だって、言うほどハイスペックではない。写真やメッセージのやり取りを見るでもなく、ただの外装を見ている依咲が不思議でならなかった。
「そんなに珍しいものでもないでしょ?」
「そうなの?」
依咲の視線は携帯電話から少しも逸らされない。向けられる興味が、一瞬にして川から携帯電話に映ったのを感じた。
「持ってないの?」
まさかな、と思いながら問うと、依咲は「うん」と一言口にする。
「高くて買えないの。ほら、私まだ子どもだから。……へぇ、こうなってるんだ」
側面のボタンを押しながら、依咲は感嘆の声を上げた。彼女の家は、もしかするとかなり貧しいのかもしれない。生活することだけでいっぱいいっぱいで、携帯電話など買うお金は少しも無いのではないか。数千円で買えるような物ではないので、その可能性は十分にあった。そう考えると、俺はかなり贅沢をしているんだと思う。学校帰りにみんなで食べ歩きしたり、ゲームセンターで遊んだり。依咲はこんなことが出来ないほど大変なのだろう。俺は勝手に依咲の生活を想像し、そして勝手に同情した。
「依咲……」
僅かに下がっていた視線を上げると、暗闇の中で光を纏う彼女が現れる。その輪郭はどこか縁取られたように輝き、まるで神様を前にしているような心地になる。その当の本人はと言うと、携帯電話の上部と下部をそれぞれ持ち、今にもそれを真っ二つに折ろうとしていた。
「ちょ、ちょっと! 何してんの!?」
俺は、携帯電話を折り曲げようとする依咲の手を慌てて止めた。何故急に折り曲げようなんて思ったのだろうか。折ってしまったら最後、携帯電話は壊れてしまうというのに。
「何してんのさ」
「何って……閉じないとでしょ?」
きょとんとした表情で言うので、俺はため息をひとつして口を開く。
「これは閉じないやつなの。確かに閉じれるやつも売ってるけどね」
「そうなんだ、ごめん」
依咲は折れそうになった携帯電話を優しく撫で、少しも申し訳なさそうにそう言った。結果的に折れてないわけだし、ここでとやかく言うのは違う気がした。それにしても、依咲は折れる携帯電話を知っているんだなと、俺はそこに感心した。持っていなくとも、そういう知識だけは集めているのかもしれない。いつか買うであろうものを、今から決めておくのも悪くない気がした。
「写真でも撮る?」
気分を変えようと、俺は依咲にそう提案する。すると、依咲の目はキラキラと輝いた。それはもう、水面にも劣らないほどに。俺は依咲が落とした携帯の電源を入れ、カメラアプリを起動させた。明るいはずの画面には、真っ暗な闇が映し出されている。時折見えるのはか細い光を放つ蛍のみ。俺の顔も、もちろん依咲の顔も、その輪郭すら少しも分からなかった。
「何も映らないねぇ」
画面を覗きこんだ依咲は、残念そうな声音でそう言った。せめて街灯でもあればよかったのだが、こんな山中にそんなものがあるわけもない。
「写真は後にしよ! それより今は水遊び!!」
依咲はそう言って、わざとらしく足踏みをした。足が上がるたびに飛び上がる水が、俺の服をしっとりと濡らしていく。バシャバシャという水音と、依咲の楽しそうな笑い声が辺りに響き渡っていた。やられっぱなしが性に合わない俺は、負けじと同じように足踏みをする。空中に舞い上がった水が、水滴を飛ばしながら再びものと場所へと戻る。そこへすかさず勢いのついた俺の足が降り下がる。すると先程よりも遥かに多くの水が周囲に飛び、依咲の透明度の高い肌に付着した。
こうやって水遊びをするのは、もう何年もしていなかったような気がする。海はおろか、川にだって滅多なことでは行かない。それよりも、ゲームの方が圧倒的に楽しかったから。けれど、こうやって夏を満喫するのも悪くはない。虫取りは、もう適正年齢を超えてしまったけれど、水浴びにはそういった制限がないように思う。現に今、依咲と川の中で遊んでいる。これも捨てたもんじゃないと、高校生ながらに感じる。
「アハハ、楽しー!!」
甲高い笑い声に、俺もアハハと笑う。これを、世間では青春と言うのだろう。他の誰も入ることのできない世界観を、俺たちは二人で作り上げていた。
「和眞、魚捕まえようよ!」
服をぐっしょりと濡らした依咲は、顔を水で濡らしながらそう言った。
「捕まえられるかな」
「捕まえるの!」
楽し気にそう言って、依咲は水中に手を突っ込んだ、泳ぎの早い、それも小さな魚を、簡単に捕まえられるとは思えなかった。せめて網でもあれば別だが、俺の持ち物は相変わらず携帯電話だけだった。
「和眞ぁ!!」
催促の声が聞こえ、俺は「はいはい」と言いながら同じように川に手を突っ込んだ。優雅に流れる川は、足で感じるよりも遥かに冷たく感じた。
「魚いた?」
「いや、見当たらないね。もうどっかに行っちゃったんじゃない?」
バシャバシャと乱暴に水を搔き交ぜたら、そりゃ魚も逃げるだろう。そうは思っても、俺はけして言葉にはしなかった。わざわざ言う必要もあるまい。四肢を川の中に晒した依咲は、その体制のまま石を動かし、水草を掻き分けた。なんとしても魚を捕まえたいらしい。確かに、魚を自分の手で捕まえることの楽しさは分かる。幼いながらに、鮎を手で捕まえた記憶は、今でもしっかりと覚えていた。
「この体制キツイや」
腰を押さえながら起き上がった依咲は、両手を頭の上に伸ばして伸びをした。すると、白いキャミソールワンピースが僅かにその丈を短くする。その様を俺は僅かに視界に捉えてから、パッと視線を外した。
「ん? どうかした?」
「いや、なんでもない」
俺は平静を装いながらそう言った。外気に晒された依咲の生足を見てました、なんて言えるわけがない。言ったが最後、ビンタでは済まないような気がする。下手したら、この浅い川に沈められることだろう。俺は何事もなかったかのように、再び川魚を捜し始めた。周囲にある石を手あたり次第ひっくり返し、持っていた携帯のライトで水面を照らす。しかし、やはりどれだけ探しても魚の陰のひとつだって見えやしない。魚を捕まえようと提案した張本人は、飽きたとでも言うように、手にした石を水中に向かって落としていた。
「分かりやすいなー」
飽きてしまったものはしょうがない。俺は曲げていた腰を伸ばし、退屈そうにしている彼女の元へと歩いて行った。水を掻き分けながら歩くのは、たとえ浅瀬であっても容易ではない。普通に歩くときには使わない筋肉が、しっかり働いているのが分かった。足元には大小さまざまな石が転がっている。そのどれもが角が取れて丸くなり、随分長いこと水中にあったことを窺わせた。石には感情があるのだろうか。あったとしたら、その年月をどう感じているのだろう。俺だったら、何年も同じ場所に留まり続けるのは嫌だった。
「依咲~、この後なんだけど」
そう言いながら、俺は足を一歩前に出す。すると、そこには石鹸のようによく滑る石があった。これはマズイかもしれない。そう思ったのも束の間、俺の足は石鹸にそっくりな石の上を美しく滑っていった。体が後方に傾き、片足では到底全体重を支えることは叶わない。依咲を捉えていた視界は上昇し、あっという間に木々と夜空しか映らなくなる。その間は時間にして一秒ほどなはずなのに、体感では三倍はあるように感じた。まるで自分にスローモーションがかかったようで、分かりやすい違和感があった。
「和眞!」
依咲の慌てたような声が聞こえる。しかしその姿は視界のどこにもなく、探そうにも倒れている最中ではどうしようもなかった。そんなとき、右手に誰かが触れたような気がした。おそらくと言うか、確実に依咲なのだが、その感覚がした途端視界の端で水飛沫が見えた。次いで水の感覚がして、それから全身が濡れたことによる気持ちよさと不快感が一気に俺を襲う。
「もう! 何してんの、和眞!! 危ないでしょ」
依咲からのお叱りの声を他所に、俺は眼前に広がる夜空を眺めていた。暗い空の中で、数えきれないほどたくさんの星々が瞬いてる。家では滅多に見ることのなかった世界が、平然と視線の先に存在していた。
「綺麗だね」
依咲の声に、俺は「うん」と返事をする。星の多さに、その輝きの綺麗さに、俺は既に虜だった。
「家では、こんなにたくさんの星見たことないや」
太陽が沈んだとしても、この世界にはこれほどの光が存在している。疎らにあると思っていた星々が夜空を埋め尽くす光景に、まるで夢の中にいるような心地がした。
「ここの空は紺色だから、光の弱い星も見えるんだよ。建物の明かりも、街灯だってないからね」
川に全身を浸しながら、依咲の解説に耳を貸す。川の水は上から下へ、頭上から足元へと流れていく。せせらぎの中で聞こえる依咲の声は、案外心地よかった。
「反対に、都会だと空が明るいでしょ? いろんな光が、夜でも消えずに灯ってるから。群青色の空では、強い光を持った星しか輝けない。一等星は見えても、五等星なんてそう簡単には見えないんだよ」
下半身を水に浸した依咲は、俺と同じように空を眺めている。下から仰ぎ見る彼女の顔は、どこか愁いているように見えた。
「そういうもん?」
星に詳しくない俺は、小川に寝転んだままそう口にする。すると依咲は、微笑みを浮かべながら軽く頷いた。
「そういうもん。現に、和眞の家からはこの数の星は見えないんでしょ?」
「まぁね」
俺の目に映る星は、一体いくつあるのだろう。途方もない数であることは明白で、端の方を少し数えただけで嫌になってしまう。目に見える数だけでこれほどあるのだから、肉眼で見えないものも含めたらもっとあるのだろう。それこそ何千何万、もしかしたら何億という想像も出来ない数かもしれない。そんなの、一生かかったって数えられる気がしない。
「星って、すごく遠くにあるんだよね?」
ふと、俺は学校で習ったことを思い出した。地球から見える星があるのは、ここから何光年も離れた場所なのだと。そんなに遠くから、どうして光が届くのか。俺は不思議でならなかった。仮に近くで星が見れたなら、目も開けてはいられないのだろうか。
「遠くも遠くだね。私たちの一生を使ったって、きっと辿り着けはしないよ」
俺は濡れた右手を真っ直ぐ伸ばし、視線の先にある星を捕まえてみる。こんなに近くに見えるのに、その姿はずっと遠くの、手も届かない場所にある。俺が星を間近で見るなんて、夢のまた夢だ。