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3『自販機と坂道』」

 もう随分歩いたような気がする。車道の両脇に佇んでいた飲食店や商業施設はどこにも見られず、代わりに木々が辺りを覆っている。俺の住んでいる場所よりも遥かに田舎だと、無知な俺でも分かるほどに、視界いっぱいに山がある。


「こんなところまで歩いて来たことないよ」


 俺の左側には依咲が居て、左手は右手と繋がったままだ。足の下にある中央線はどころどころ色が無く、辛うじて色を保っている状況だった。


「疲れたねぇ」


 依咲の声はその言葉とは裏腹に、少しも疲労感を感じさせなかった。本当に疲れてる? と問いたくなる。反対に俺の足はくたくたで、立ち止まると足が棒のようになる。もう一歩だって歩けやしない。


「どこまで行くの?」


「もうすぐそこだよ」


 俺の顔を見てそう言う依咲は満面の笑みを湛え、暗闇でも分かるほどキラキラと輝いていた。俺たちの歩く先には街灯がほとんどなく、月明かりを頼りに歩くしかなかった。こんなに真っ暗な道を歩くなんて普段なら怖くてしないのに、今日は不思議と歩けてしまう。それは隣に依咲が居るからか、それとも今日だけは特別なのか。俺には判断のしようもなかった。ただひとつ言えることは、依咲と握った左手は思った以上に心強かった。

 俺たちはそこから更に前へと進み、僅かに傾斜の付いた上り坂を上っていた。疲労を蓄えた両脚にはきつく苦しいその坂道は、終わることなくどこまでも続いていた。まるで足に鉛玉でも付けているんじゃないかと思うほど、一歩一歩が苦痛だった。そろそろ休みたい。そう思いつつ、休んだら数時間は動けなくなることを理解していた。下手したら道端で仮眠を取ってしまうかもしれない。そう思うと、休んではいけないような気がした。

 せめてバスでも走っていたら、こんな思いをせずに済んだのに。悲鳴を上げる足から意識を逸らしながら、バスが運行していないことに少しばかり嫌味を垂れる。そもそも、こんな時間に出かけなければいいだけの話なのだが、コンビニみたいに二十四時間やってくれと、そう思う。けれど自分でも分かっている。これは自分勝手すぎる。


「おんぶしよっか?」


 俺の顔を覗き込んで依咲がそう言った。俺は二つ返事で「うん」と言いそうになって、言葉にする前に首を左右に振った。女の子に背負ってもらうなんて男が廃る。普通は逆じゃないか。俺はそう思い、依咲に同じことを問おうとして、止めた。人二人分の体重を支える足がやめろと言っている。仕方なく、俺はその言葉に従うことにした。本当に、仕方なくだ。


「なら頑張って! あとちょっと進んだら休憩できるから!」


 依咲はこの辺の地理に詳しいのだろうか。どこになにがあるか知っているような口ぶりだった。俺は依咲の言葉を信じて、悲鳴を上げる体に鞭打って前に進む。俺の手を引くように僅か先を歩く依咲は、本当に少しも疲れていないように見える。俺よりも弱そうなのに、体力は人一倍あるんじゃないか? 少しでいいから分けてほしかった。長い長い緩やかな坂を元気よく上っていく依咲の後ろ姿は、これまで出会った誰よりも頼もしかった。





「ほら、見えてきた!」


 民家がほとんど見えなくなった、山奥とも言える場所で、依咲が前方を指差して言った。木々に反響した声は、静寂に包まれた世界を一瞬だけ明るく照らす。真夜中にそんなに大きな声で喋っていいのかと心配になるほど、彼女の声は活気に満ちていた。

 けれど、そんな心配も山奥では必要ない。ここらに住んでいる人などたかが知れている。人間よりも野生動物の方が多いのだから、話し声などその声に掻き消されてしまうことだろう。俺は下がっていた視線を上に上げ、依咲が指差す方を見た。そこには見慣れた自動販売機があり、不気味にぼんやりと辺りを照らしていた。こんな人通りのないような場所に自販機があるなんて、普通では考えられない。さすがに怪しいのではないか。そう思う俺とは反対に、依咲は嬉しそうにその自販機目掛けて走り出す。

 手を握ったまま走り出すので、俺の体も自然と依咲に引っ張られてしまう。歩くのも限界な足で走ることがどれほど辛いのか、依咲はまだ知らないらしい。俺は半ば躓きかけながら、依咲の走るスピードに精一杯ついて行く。


「わぁ、いっぱいあるねぇ」


 自販機の前でようやく止まった依咲は、飲み物のレプリカを眺めている。対する俺は、もう立っているのも限界で、自販機から少し離れた地面に倒れるように座り込んだ。服が汚れるとか、虫がいるとか、そんなことは一切合切どうでもよかった。とにかく座りたい。それ以外、もはや望むものすらなかった。


「和眞なに飲む?」


 自販機の明かりに照らされた依咲の顔は、お化け屋敷の幽霊の何倍も怖かった。いっそのことそういう仕事に就いたらいいとさえ思う。


「なんでもいいよ。……っていうか、お金持ってるの?」


 俺は今、一円だって持っていない。ズボンのポケットに入っているのは携帯だけ。ジュースの一本だって買えやしない。俺が依咲を見上げると、依咲は当然とでも言うように首を左右に振った。


「持ってるわけないでしょ?」


「じゃあ選んでも買えないじゃん」


 当たり前のことを当たり前に言っただけなのに、依咲は人差し指を立て、間違ってるとでも言うように「チッチッチ」と舌打ちした。何が「チッチッチ」だ。欲しいものがあったらその分の対価を払うのは当たり前じゃないか。いくら依咲がド田舎で育っていたとしても、それは少しも変わらないはずだ。俺は間違ってなんかいない。


「分かってないなぁ、お兄さん」


 もったいぶるようにそう言って、依咲は足元に落ちていた長い木の枝を手に取った。


「それで何すんのさ」


「ふふふ。こうするのだよ」


 子どもに手本を見せるかのように、依咲はそう言って地面に伏せた。何をするつもりなんだろう。そう思って目の前の光景を眺めていると、依咲は手に持った木の枝を自販機の下に差し込んだ。そうして木の枝を横にスライドさせると、自販機の下にあった木の葉やゴミが露わになった。今の依咲は、傍から見ればただのヤバい人だ。この瞬間を警察が見たら、即職務質問されるだろう。


「あったよ! 見て見て!!」


 自販機下から搔き出されたゴミを木の枝で弄っていた依咲は、指先で一枚の銀コインを摘まんでいた。それは正真正銘、百円玉だった。


「最初からこうするつもりだったんだ……」


「当たり前でしょ。私お金持ってないもん」


 あまりにも自信満々に言うもんだから、反論する気すら起きなかった。それから依咲はゴミの中から十円玉をも見つけ出し、綺麗な掌に薄汚れた百十円が乗せられていた。


「何にしよっかなぁ」


 握りしめた二枚の小銭を前に、依咲はウキウキとした調子で言った。百十円では、買えてもせいぜい缶ジュース一本だけ。それに加えて、幾つか売り切れ表示がされている。


「やっぱり大人はこれだよね!」


 本当に商品が入ってるかも怪しい自販機に、依咲は躊躇なくお金を入れた。するとピッと短い電子音が聞こえ、押せるボタンが緑色に光る。一体何を買うのだろう。大人はこれだよね、と言う依咲の言葉が、俺の中に僅かに引っかかる。しかし、俺が何を買うのか問う前に、ガコンと何かが落ちる音が聞こえた。


「何にしたの?」


 そう問うと、依咲は片手で握った缶を突き出して「大人の味だよ」とだけ言った。薄明りの中で、握られた缶が朧げに光る。


「コーヒー……?」


「そう! ブラックコーヒー」


 大人の味、という意味が少しだけ分かったような気がする。それにしても、だ。


「ブラックコーヒーなんて飲めるの?」


 当然、俺はあんな苦いもの飲めない。牛乳が入っているものならまだしも、砂糖すら入っていないのなら尚更だ。すると依咲は自信満々に「もちろん!」と言い、缶コーヒーの蓋を開けた。そうしてグイッと呷るように一口飲むと、案の定依咲の顔は歪んだ。


「ほら、飲めないんじゃん」


「今日はたまたまそういう日だっただけだもん」


 負け惜しみのように、依咲は頬を膨らませながらそう言った。それから飲みかけの缶コーヒーを俺に押し付け、彼女は一人周囲の散策を始めた。俺は押し付けられたあったかい缶コーヒーをぼんやりと見つめながら、一口だけ飲んでみることにした。

 黒い液体を口の中に入れると、口内は一瞬で苦み一色になる。これは確かに大人の味だな、と思うのと同時に、夏に温かい缶コーヒーを飲むのは正気じゃないと思う。ここで問題なのは、この残ったコーヒーをどうするかだ。中身がコーヒーなだけに捨てるわけにはいかないし、その辺に置いておくのも気が引ける。買った張本人は何も気にせずその辺を歩き、俺の方を見向きもしなかった。

 俺は静かなため息をひとつ吐き、味も感じない程の勢いでコーヒーを飲み干した。しかしやはり苦みというのは恐ろしいもので、喉の奥から沸き上がる独特の香りがきつい。せめてお茶にしてくれればよかったのに……。そう思いながら自販機をチラッと見やると、コーヒーの他に振るタイプのゼリー飲料が目に入る。値段は百十円。


「なんだ、あるじゃん」


 大人の味がまだ早かった俺たちは、素直にこっちを買うべきだった。そんなことを思いながら、俺は自販機の横にあったゴミ箱に空き缶を捨てた。


「全部飲んだの?」


 散策に飽きたのか、気づけば俺の隣に依咲がいた。俺は「うん」と頷き、それから「もうコーヒーはいいかな」と告げる。


「そうだね。なんだか炭酸のジュース飲みたくなってきちゃった」


 依咲はそう言いながら、自販機のボタンを端からひとつずつ押していく。商品が落ちてくるわけではないけれど、その姿に僅かに懐かしさを覚える。そういえば、俺も昔同じことをしてたな。ボタンを押す感触が面白くて、自販機を見つけるとよく押していた。今はもう、めっきりそんなことしなくなったけれど……。そう思うと、俺も大人になったのかもしれない。そんな喜びと、僅かな寂しさが胸を掠めた頃、俺の右手が引かれた。


「依咲!?」


「川はもっと先だよ、早く行こ!」


 先ほどよりも遥かに元気を取り戻した依咲は、全力疾走に近い速度で走り出した。自販機の横に伸びる、山中へと続く道。ここに来るまでの緩やかな坂とは違い、想像通りの傾斜の付いた坂だ。完全復活には程遠い俺の体は、当然依咲の速度についてはいけなかった。

 引かれるがままに足を前に出しても、依咲との距離は一層開くばかり、それを察したのか、依咲は走るのを止めてゆっくりと歩き出す。最初からそうして欲しいと俺が文句を言う前に、「走れないならそう言ってよ」と依咲が文句を言う。言う前に走り出したんだろ、と言うことは簡単だったけれど、今言ったってしょうがない。ここで空気を悪くして、険悪なムードになるのは避けたかった。


「川まではどのくらい?」


 もう何度目か分からない問いをすると、「えっとね」という声が帰ってくる。


「ここからそんなに離れてないはずだよ? あのカーブを超えた先ぐらい。川っていってもそんなに大きくないけどね」


 今いる場所から百メートルほど先に、依咲の言っていた左カーブが見えている。目標が目に見えるとやる気が出るように、疲労に満ちている体でも行けてしまいそうだった。たった百メートルだ。どんな坂でも、今なら簡単に上れてしまいそう———前言撤回。


「……いや、カーブ遠くない?」


 上っても上っても、カーブは少しも近くならない。結構上っただろうと思って振り返ると、坂の始めは目と鼻の先に見えている。感覚だけが先行して、現実が追い付いていないのかもしれない。


「頑張って、和眞! あともう少しだよ」


 頭の上で、俺を鼓舞する声が聞こえる。あともう少しなんて分かってるんだ。もう目の前に見えていることも分かっている。けれど、やはり体は既に限界を迎えていた。今日の運動量は、いつにも増して多いんだ。脹脛がつりそうで、なんだか骨も軋んでいるように感じる。誰かに背負ってほしい。そうでなくとも、車に乗せてほしい。後部座席でゆっくり足を伸ばし、目的地まで誰か連れてってはくれまいか。そんな思いをどれほど抱こうとも、この場には俺たちの他に人の気配はなかった。それはここに来るまでの道と少しも変わらない。


「依咲、ちょっと休憩……」


「さっきしたばっかだよ。それに、ほら! もうすぐだよ」


 元気が有り余っている依咲には、俺の願いを聞き届ける気はさらさらなかった。


「なんでそんなに元気なのさ」


 不思議が降り積もり、俺はようやく依咲に問うた。依咲は「さぁ」と首を傾げながら、一歩、また一歩と前に進んでいく。俺と繋いだ手をしっかりと握りながら歩く様は、頼れる姉のようだった。実の姉とは大違いだ。


「歩き慣れてるからかなぁ?」


「そんな理由? 結構な距離歩いて来たよ」


 俺たちよりも遥かに鍛えているであろうアスリートでも、こんな長距離を歩いたら疲れぐらいは感じるだろう。しかし、依咲には疲れた様子すら見えない。


「依咲って、人間じゃない?」


 思わず口をついて出た言葉に、俺は口を手で押さえた。しまったと思ったときには既に遅いように、放ってしまった言葉はなかったことには出来ない。進行方向を向いていた依咲は、俺の言葉にゆっくり振り返る。人間じゃないなんて、そんなこと少しも思っちゃいない。そう言おうとしたところで、依咲は俺を見てニタァと笑った。


「人間じゃないぞぉぉぉぉ」


 そう言いながら、依咲はこちらにゆっくりと顔を近づけてくる。悪者のような笑みを湛えた彼女は、一見すると本当に人間ではない、化け物のようにさえ見える。背後に背負う陰を纏った木々が、彼女の姿を大きくしていくようだった。


「うわぁぁぁぁ…………これでいい?」


 俺はその姿に大きな声を上げ、そしてケロッとした態度で言った。いくら不気味な笑みを湛えていようとも、今さっきまで話していた人を化け物だとは思うまい。それに加え、手を繋いでいることで実体を十分すぎるほど感じてしまっている。これでもなお人間ではないと言うのならば、俺だってそうでなくてはおかしい。けれど、俺は紛れもなく人間だった。人間の両親から生まれた、血の通った人だ。


「ちぇ、つまんないのぉ」


 先ほどまでとは打って変わり、依咲は気の抜けた声を上げて再び歩き出した。


「良いリアクションだったでしょ?」


「そうねぇ、役者になれるんじゃない?」


「そんなに褒めてくれるの?」


 演技なんて生まれてこの方一回たりともしたことはないけれど、そこまで言われると出来るような気がしてくる。一度オーディションでも受けてみようか。


「お世辞に決まってるでしょ。そんなに簡単じゃないよ」


「なんだよそれ! 酷いよ」


「和眞が勝手に思い上がったんじゃん」


 依咲の言い方が可愛くて、俺は理不尽だと思うよりも先に和んでしまった。傍から見れば、これは痴話喧嘩に見えるのだろうか。そう考えただけで、なんだか照れてしまう。会ってからそれほど時間は経っていないというのに、どうしてここまで気が許せてしまううのだろうか。俺自身、大してコミュニケーション力が高い方ではない。依咲のおかげだろうか。ごく稀に、初対面の人から、信頼や安心感を短い時間で向けられる人がいるという。もしかしたら、依咲にはそんな才能があるのかもしれない。羨ましいと思いつつ、いろいろ面倒なこともあるんだろうと思う。


「ほら和眞! 前見て、前」


 その言葉に前方を見ると、あれほど遠くにあった左カーブがもうすぐそこに迫っていた。話しているうちに、いつの間にか辿り着いていたらしい。やはり気を紛らわせるのは効果的なんだと思う。俺たちは一緒にそのまま坂を上り、左カーブへと足を踏み出した。

 カーブ内も坂道ではあったが、先程よりも遥かに歩きやすかった。それは精神的な何かも作用しているのだろう。目的を達成したという感情だけで、これから暫くは歩けそうだった。

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