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2『川とバッタ』


「これからどこに行くの?」


 黒髪の後ろ姿に問いかける。すると依咲は楽しそうに笑ってから、「水浴びに行くのよ」と大声で言った。深夜二時にやっているプールなどない。近場の海に行くにしても、歩いたら数時間かかることは間違いなかった。徒歩で行ける距離で水浴びができる場所なんて、俺の思いつく限り存在しない。生まれてからずっとこの町に住んでいるけれど、それでもまだ知らないことがあるのかと思うと驚愕だ。


「どこまで行くの?」


「すぐそこよ。歩いて行くとちょっと距離があるけど」


 すぐそこにある、水浴びが出来る場所……。その言葉で、俺の脳内を横切った単語が一つ。まさかな、なんて思いながら、進行方向にあるよなぁとどこか納得してしまった。しかし、納得したからと言って受け入れたわけではない。あんなところで水浴びなんかできるわけがなかった。




「ほら、早く早く!」


 川に足を浸した依咲が俺を手招きする。嫌だなぁ。無理だなぁ。そう思いながらも、目の前の彼女はやはり涼し気だった。道路の中央線を真っすぐ進み、交差点を右に進んだところにある大きな川。川沿いには芝生が敷かれ、散歩をするには最高の環境が整っている。彼女は今、その散歩コースから川へと伸びる幅の広い階段の下にいる。


「どうしても入らないといけない?」


「夏に水浴びしない人なんていないでしょ?」


 何とかして俺を川に入らせたいらしい依咲と、汚くて少し深い川に入りたくない俺。伸ばされる手と、背後に隠す手。それに加えて女の子らしい声がせせらぎの上から聞こえ、断り続けるのが少しだけ憚られるようになっていく。それでも尚、俺の中に存在する拒絶反応が、目の前の川に足を浸すことを許さない。透明ではない濁った川を前にして、依咲と同じことはどうしてもできなかった。


「裸足で、目の前には大きな川。こんなに条件の揃った環境でも入らないなんて、さては和眞、潔癖症?」


 依咲が階段の下から俺を見上げる。気持ち程度に光る街灯を、水面がキラキラと反射させていた。


「潔癖症以前の問題だよ。この川には魚だっているし、そもそも汚いし……。そんなに水浴びしたいなら、もっと綺麗なところに行こうよ」


 そう言っても、依咲は川から上がろうとはしなかった。浅瀬でピチャピチャと水を蹴飛ばし、土が舞い上がった水の中から平たい石を手にした。それを対岸の方に目掛けてシュッと投げると、石は水面を三度ほど跳ねてポチャンと再び沈んでいった。俺はそれを階段に座りながら眺め、手近な石を同じように川に向かってぶん投げる。俺の手を離れた石は、あいにく依咲のように水面を弾むことはなかった。


 俺は地面に置いていた携帯を手に取り、左にスライドさせてカメラを起動させる。画面内に映る依咲は直視するよりも遠く、近くて遠いを体現しているようだった。闇の中でカメラを起動させると、画面内には周囲の灯りしか映らない。それも朧げで確かさを示さず、お世辞にも綺麗とは言い難かった。近くの街灯の光を受けた依咲は、その輪郭しか現さない。表情も、楽し気な声も、画面には少しも反映されない。縁を明るく染めた真っ黒な人影が、俺の前で動いていた。

 うっかりすると姿ごと見失ってしまいそうで、俺はそのままシャッターボタンを押す。カシャッと乾いた音が鳴り響き、写真として依咲が端末に保存された。俺は撮ったばかりの写真を表示させるが、九割以上黒くて何が何だか分からなかった。俺はため息を吐きながら、その出来の悪い画像を消去した。どうやら俺に写真の才能はないらしい。


「分かった! 分かったよぉ。綺麗なところ行くからさ、そんなつまんなそうにしないで」


 呆れたような、妥協したような、そんな声を発した依咲は、びしょ濡れの足で乾ききったコンクリートの階段を上って来る。水の足型は付けられた場所でじわりと滲み、端の方からゆっくりと乾いていく。まるで依咲自身を消すかのようで、俺はじっとその様を眺めていた。


「どうかした?」


 依咲が俺の視線の先をじっと見つめるので、俺は首を振りながら立ち上がった。


「変なの」


 依咲の声は俺を揶揄うようなものではなく、もっと好意的な、優しさに溢れた声だった。きっと同じことを姉に言われたら、俺は少しだけ怒っていたかもしれない。それは血の繋がっている姉だからかもしれないが、単に依咲のことが気になっているからかもしれない。ミステリアスな雰囲気を醸しつつ、それでいて身近な人と同じような感覚を得る。それは、俺が依咲のことを特別に感じているということで説明はつく。俺はここでようやく自覚する。依咲のことが、ほんの少しだけ好きだ。今はまだそれだけだが、きっとこれからもっと惹かれるんだ。透明と言うには足りない程の透明感を有する女の子に。夏が誰よりも似合う目の前の彼女に。


「綺麗な川行くよ!」


 依咲は元気な声でそう言って、俺に右手を差し出してくれる。俺は手に持っていた携帯をポケットに入れ、差し出された手を握った。どうやら依咲は手を握るのが好きらしい。いや、俺が手を握るのが好きだと思われているのかもしれない。俺と手を繋いだ依咲は、どこか大人びて見える。


「綺麗な川なんてここらにはないでしょ? 一体どこ行くつもり?」


 手を繋いで歩き出すと、やはり彼女の髪がふわりと揺れた。昼間よりも冷気を含んだ心地よい風が、俺たちの背後から吹き付ける。すると彼女のワンピースが僅かに舞い上がり、奥の木々をサァァァと揺らしていく。芝生の破片が宙を舞うのが見え、闇に飲まれて消えていく。芝生の横に伸びるコンクリート敷きの道を並んで歩くと、自分とは違う人間の足音が聞こえてくる。握った手も相まって、改めて依咲と歩いていることを意識する。進行方向には誰も居らず、背後を振り返ってもそこには闇があるだけだった。


「い、依咲」


「ん? どうかした?」


 正面を向いていた依咲がこちらを見る。大して身長差がないので、俺たちの視線はいとも簡単にぶつかった。予想していなかった事態に、俺は思考が停止する。依咲の瞳の中に映っているのはどう考えても俺のみで、他の人間が映っているはずがなかった。


「和眞?」


 そう言って首を傾げる依咲を、俺は不覚にも可愛いと思ってしまった。いや、少しだけ好きなのだからそう思っても不思議ではないのだが、だからと言って改めてそう思うと気恥ずかしくて仕方ない。誰かと目を合わせること自体初めてではないはずなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。かつての恋人とだって今のような場面はあっただろうに。俺は名前を呼ばれたにもかかわらず、その声に返事をすることが出来なかった。心臓が耳のすぐ傍に来たかのように、辺り一帯の音が鼓動で掻き消されていく。心なしか手にじんわりと汗をかいているような気がして、俺は繋いでいた手をパッと離した。そしてそのまま二、三歩後ろに後退り、依咲との距離を強引に開けた。これだけ離れれば俺の鼓動恩は聞こえないだろう。


「ねぇ、どうしたの?」


 依咲が心配そうな顔で俺のことを見ている。それに、どこか寂しそうだった。


「ご、ごめん。何もないんだけど、えっと……」


 依咲を傷つけたのかもしれない。そう思うとろくに目を見れなかった。俺の視線はどんどん下がり、ついには依咲の足元しか見れなくなる。けれどそれもなんだか申し訳なくて、俺と依咲との間にあるコンクリートの地面を視界に入れた。好きとか嫌いとか以前に、人のことを傷つけるなんて前代未聞だ。謝ろうか。でも、依咲は俺の顔なんか見たくないかもしれない。このまま、地面を見つめたまま、謝るのが一番いいかもしれない。


「あの、依咲……」


「和眞はお腹でも痛いのかな?」


 灰色の地面を捉えていた視界は、一瞬で依咲の顔でいっぱいになる。まるで出会ったときに見た携帯画面のように、俺は依咲以外を見ることが出来ない。


「依咲、あのね」


「元気?」


 俺の顔を覗き込むようにして見上げる依咲は、その状態のまま俺に問うた。予想の斜め上の問いに言葉を理解するまで時間を要したが、俺は小さな声で「うん、元気」と答える。すると依咲の顔はみるみるうちに笑顔になる、「よかった」と明るい声で言った。


「早く行こ! そうしないと夜が明けちゃうよ」


 視界の中から依咲が消えると、俺はその姿を追いかけるように顔を上げた。彼女は先程と同じように手を伸ばし、握るように催促する。俺が素直にその手を握ると、依咲はどこか嬉しそうにニコっと笑った。


「さっきの離し方は私でも傷つくなぁ」


 俺の手を引きながら、星の輝く空を眺めながら言った。


「ごめんなさい」


「いいでしょう。許してあげます。でも、次は許しません」


 振り返った依咲は、空いている手で俺のことを指差した。突然の敬語と相まって、俺はどこまでも届きそうな声で「はい!」と返事をする。依咲はどこか満足げに出した指を引っ込め、楽しそうに鼻歌を歌いながら歩き出した。依咲が歌う鼻歌は俺には少しも分からない曲で、それは曲名を聞いても同様だった。音楽には疎くないはずなんだけどなぁと思いながら、俺は依咲の横でその曲をじっと聞いていた。


「本当にこの曲分からないの?」


 鼻歌の合間で、依咲は心底驚いたという風に声を発した。どこをどう聞いても曲名どころかメロディーさえ心当たりがないので、俺は依咲の目を見て「うん」と頷いた。


「じゃあこれは?」


 依咲はそう言って別の曲を歌い出した。しかし俺にはその曲が同じく少しも分からず、ふるふると首を横に振った。それから数曲ほど曲当てクイズをしたが、あいにく俺にはひとつも分からなかった。音楽にさして詳しくないとは言っても、ここまで分からないのはどう考えてもおかしかった。少なくとも、最近話題のアニメ主題歌や、コマーシャルの曲ぐらいなら分かる。そうでなくとも数年前の曲なら、同い年なのだから尚更話題が合うはずだ。それなのにこんなにも合わないなんて、依咲は電波の届かない山奥にでも住んでいたのだろうか。


「全部分からないの? じゃあ、和眞は何の曲聞いてるの?」


「え、最近の曲だよ」


 そう言って、俺は今話題の映画の主題歌を歌って見せた。この曲はテレビや動画などでたびたび耳にするだろう。いくら依咲でも少しぐらい聞いたことが———。


「何その曲。初めて聞いた」


 俺と同じ反応をする依咲に、俺は依咲と同じ反応をした。この曲を知らない? まぁいくら有名でも、たまたま聞いたことがないことぐらいあるだろうし……。そう思って、二年前に話題になった曲を歌う。しかしやはり依咲には少しも分からないようだった。


「依咲って山奥に住んでるの?」


「そんなわけないでしょ!? この辺だよ」


 心外だとでも言うように、依咲は大きな声で言った。俺は「ごめんごめん」と謝りながら、話題が合わないことに首を傾げた。クラスメイトや友達ともこんなことはなかった。ドラマやアニメの話題が合わないことはあっても、大抵曲についてはどんな人とも共有できる。それが珍しいことだったのかもしれないけれど、なにせ初めての体験故に驚いてしまう。


「そういうこともあるのかなぁ」


「あるんじゃない? こればっかりはしょうがないよ。好みがあるから」


 依咲はそう言って道端に生えている草花を摘んだ。その花の香りを嗅いだあと、気に入ったのか指先でくるくると回している。依咲にそう言われてしまうと、なんだかそんな気もしてくる。俺の知らない世界もあるんだと、その一言で納得できてしまう。


「あ、ちょっと手離して」


 その言葉に手を離すと、依咲は芝生の中に手を伸ばした。先程まで手にしていた草花はふわりと宙を舞い、僅かに熱をはらんだ暗い地面に着地した。何をしているんだろう。俺がそう思うのも束の間、依咲が両手で何かを捉え、「見て!」と声を上げた。


「何?」


「バッタ!!」


 依咲の両手に捕らえられたバッタは、俺に見せるために開けられた穴からピョンと外に飛び出した。するとどうだろう。何があるのかと覗き込んだ俺とバッタが衝突。俺はバッタを視界に入れる前に、それとぶつかって尻もちをついた。


「見えた? ねぇ、見えた?」


「いや、何かにぶつかったとしか……」


 依咲の言葉でバッタであることは分かるのだが、実際に見ていないので何とも言えなかった。俺が言えることと言えば、バッタとぶつかってもそこまで痛くはないと、そんな誰のためにもならないようなことだけだった。


「しょうがないなぁ。もう一回捕まえてくる」


 どこかへ飛んで行ってしまったバッタを追いかけて、依咲は一人走って行く。虫を捕まえるために走る人なんて、もうここ何年も見たことはない。かなりの速度で走る依咲は、髪が乱れるのもワンピースが舞い上がるのも気にはしない。バッタを捕まえるその一心で、どこかに飛んで行った虫を追いかけている。それが俺にはかなり面白くて、小さくなっていく背中を見ながら笑った。





「こいつらしか見つからなかった」


 肩を落としている依咲の手中には、二匹の黒い蟻がいた。自由奔放に歩き回る蟻を、依咲は器用に手で掬い、掌に留めさせていた。今時虫が平気な人は珍しいような気がして、俺はその様をじっと眺めていた。すると顔を上げた依咲と目が合い、依咲は「ん」と言いながら両手を差し出してくる。


「いや、要らないけど」


 別段蟻が好きなわけではなかったので、俺は依咲からのプレゼントを受け取らなかった。依咲の掌に乗ったままの蟻は、そのまま彼女の腕を這い、再び掌に引き返してくる。そうして手の甲などを歩き回り、最終的に依咲が払い落したことで蟻は元の世界に帰っていった。


「バッタの方が良かった?」


「そういうことじゃないんだけど……」


 より一層悲しそうな表情を浮かべる依咲に、どうやって接したらいいか分からなかった。またバッタが見つかるよ、と言ったところで何も解決していないだろう。そもそも、俺はもう虫で喜ぶような年齢ではない。依咲には申し訳ないが、バッタでテンションを上げるのは些か難しかった。俺は依咲への対応を考えた末、力なく垂れ下がる手をぎゅっと握った。すると目の前でしょげていた依咲の顔がパッと上がり、嬉しそうなニンマリとした笑みに変わった。


「やっぱり和眞は手を繋ぐのが好きなんだね!」


「虫よりもこっちの方がいいのは確かかな」


「素直じゃないなぁ。正直に好きって言えばいいのに」


 俺に顔を近づけながらそんなことを言うので、自分でも分かるほど顔面の体温が上がっていくのを感じた。素直じゃないとか、正直とか、そんなのはもうどうでもよかった。こんな至近距離にまで迫る依咲に、俺の心臓はドクドクと脈打った。今病院に行けば、きっと不整脈だと言われるだろう。それが自分でも分かるのだから、下手したら依咲にだって伝わっているのかもしれない。


「顔赤いよ? 具合悪い?」


 より一層近くに顔を寄せられ、俺は逃げるように顔を背けた。手を離すと依咲を傷つけてしまうし、ついさっき約束した手前そんな選択は出来なかった。近づかれる分だけ顔を背けていると、あっという間に首の限界可動域に達した。もうこれ以上顔を背けることは出来ない。


「依咲……」


 俺が小さな声でそう言うと、依咲は何を考えたのか俺の頬にキスを落とした。チュッというリップ音が耳に届き、何が起こったのか理解できない。恐る恐る依咲の方を向くと、依咲はどこか誇らしげだった。どういうつもりだったのだろう。ただ俺を揶揄いたかっただけなのか、別に何か目的があったのか。既に何が何だか分からなくなっていた俺は、前者であろうと予想した。


「揶揄わないでよ」


 耳の方までカーッと熱くなっている。頬にキスされたくらいでこんな風になる自分が、俺は少しだけ嫌だった。もっとスマートに、カッコよく、爽やかな対応をしたいのに。どうも俺にはそれが難しかった。


「揶揄ってないよ。なんかほっぺが寂しそうだったから」


 依咲が大真面目に言うもんだから、俺は数回瞬きをしたあとに消え入りそうな声で「バカ」とだけ言った。俺にできる仕返しはこの程度しかない。すると、何が可笑しかったのか、依咲はアハハと笑いだした。その笑い声は周辺に反響し、そよそよと吹く風に乗って遠くまで運ばれていく。私はここに居るぞと、そうアピールするみたいに、依咲は暫くの間笑い続けた。依咲のツボはあいにく俺には分からなかったが、彼女の笑い声は心地が良かった。隣に楽しそうな人がいると、不思議とこちらも楽しくなってくる。心が浮つくような、そんな気持ちが歩みまでもを軽くしていく。

 そうして、気づけば二人揃って軽やかなステップで歩いていた。このまま空でも飛べてしまうんじゃないかと、年甲斐もなくそう思う。そうでなくとも、今日は何でも出来てしまうような気がした。全身が自信に満ち溢れた感覚だ。依咲は楽しそうに鼻歌を歌い、足元に落ちていた小石を裸足で前方に蹴っている。大人びて見えていた彼女も、今だけは幼い子どものようで可愛らしかった。


「どこまで行くの?」


 俺は話題を戻すように、依咲にこれから向かう先を聞いた。けれど依咲はふふっと笑うばかりで、明確な目的地は口にしなかった。


「川だよ。ここよりもずっと綺麗な川」


 話は一向に進展しない。言葉のキャッチボールが急に出来なくなったようで、違和感と不快感が俺をぐるっと取り巻く。繋いだ手は少しも変わっていないのに、隣の女性は全く知らない赤の他人のように感じる。依咲って、なんだ?


「あ、鳥だ!」


 依咲は川の方を指差し、水面で寝ているらしい鳥を見た。鳥の種類は暗くて分からないけれど、シルエットは数羽分存在している。俺は水面上の鳥を眺めながら、障害物のない道をただただ歩く。よそ見をしながら歩くなんて、昼間は危なくてとてもじゃないが出来ない。これも夜中に出歩く人間の特権なのかもしれない。そうやって歩いていると、奥の方から自転車が向かってくるのが見える。いや、正確に言えば見えたわけではなく、自転車に付けられたベルの音が聞こえるだけ。チリンチリンと、風鈴よりも重い音が夏の夜に響く。


「いい音だねぇ」


 その音に酔いしれる依咲を他所に、俺は前方を目を凝らして見た。遠くの方に、やっぱり一つの人影が見える。こんな時間に、自分たち以外に出歩く人がいるんだな。そう思いながら、近づいてくる人影を目で追った。自転車に乗ったその人は、特に何をするでもなく俺たちの横を通り過ぎていく。ペダルを漕ぐ音とタイヤが地面を蹴っていく音だけが、俺の耳に届いた。俺はそのまま走り去っていく自転車を目で追い、見えなくなってからもそのまま見続けていた。

 何かが引っかかった。その正体は分からないけれど、おかしいと思った。俺のすぐ横を通ったのに、シルエットしか見えなかった。近くにいる依咲のことは色付きで見えるのに、あの人はモノクロだった。夜だからそう見えただけかもしれない。自転車の人から見えば、俺たちだってモノクロに見えたかもしれない。しかし俺には両方を見ることは出来ない。


「和眞」


 依咲の声と同時に、俺の背後から強風が吹きつけた。それは俺の足が前に動いてしまうほどに、それほどまでに強い風だった。街路樹が弓のようにしなり、静かだった水面が激しく揺れる。その波に合わせて揺れ動く鳥の中から、一羽だけが大空へと羽ばたいていく、バササという羽が宙を切る音が、風のせいで一瞬で消えてなくなった。その強風はすぐに止んで、俺は依咲を振り返る。視界に入る彼女はいつも通りで、俺の知っている女の子だった。

 俺は再び進行方向を向いて、依咲とともに歩き始めた。地面のざらついた感触が、今だけは妙に気味悪く感じる。ついさっきまではそんなこと思わなかったのに……。不快感が、形を持っていくようだった。裸足で川から川へと向かう俺たちは、当てもなく歩く影のようだ。





 川沿いを歩き、俺たちはそのまま交差点に出た。家からの道が左側に見え、俺たちはそのまま真っすぐ進んでいく。そうして暫く歩くと国道と呼ばれる場所に出る。夜であっても車通りはあるだろうに、今日は一台も走っていなかった。こんなことってあるだろうか。いくら夜中でも、一台も車が見えないなんてあるんだろうか。そんなこと、生まれてこのかた経験したことはない。


「わぁ、誰もいないね」


 感嘆の声を上げた依咲は、俺の手を引いて車道に出た。普段踏むことのない車道は、まるで別の世界のようだった。俺たちは二人仲良く、何メートルあるかも分からない車道を進んだ。少し進むと、例の中央線を踏むゲームが始まった。その間も俺たちは手を繋いだままだ。手を繋ぎながら前後で歩くと、普段の何倍も歩きづらい。手を離そうとすると、それを拒むように依咲がぎゅっと強く握ってくる。ゲームを辞めようとすると怒られ、俺には他に出来ることはなかった。


「そんなにこのゲーム嫌い?」


 突如足を止めてそう言った依咲に、俺は「違うよ」と言う。このゲームが嫌いなんじゃない。手を繋ぐことも、前後一列になって歩くことも、俺は少しだって嫌じゃない。でも、全部を同時にやるのは少しだけ嫌だった。何か一つぐらい妥協してほしかった。


「じゃあ、こうなら文句ないでしょ」


 依咲は振り返り、俺と繋いでいた手をパッと離した。他人の体温が掌から消え、なんだか少し名残惜しい。本当は手を離したくなかったんだと、このとき初めて思った。


「依咲、やっぱり」


 俺と向かい合った依咲は、何かを企むようにニタッと笑った。何を考えているのだろう。そう思ったとき、あろうことか依咲は中央線から一歩外に足を踏み出した。線の外は奈落だ、と自分で言っておきながら、彼女は俺の目の前で線を下りた。俺は心の中で「あーあ」と呟いた。本当に奈落があるわけではないけれど、自分で言ったルールを自分で破るなんて前代未聞だった。


「これで文句ないでしょ?」


 中央線から下りた依咲が俺の左側に来たかと思うと、そのまま俺の左手をぎゅっと握った。それじゃあ依咲が線の上にいないよ。そう言おうとして止めた。全てを手に入れられるわけではないと、俺はどこかでそう知っていた。手を繋ぎ続けたいのならば、依咲か俺のどちらかが線の上から下りなければならない。俺は握られた手を、どんなことがあっても離れないように強く握った。依咲が奈落に落ちるなら、俺が強くその手を握ればいい。線上にいる俺が依咲を助ければいい。彼女を助けることぐらい、非力な俺にも出来るだろう。そうして、俺たちはそのまま歩く。中央線を進む俺と、俺の左側を歩く依咲。二人を繋ぐのは握られた手のみで、命綱のひとつだってありはしなかった。


「どこまで行くの?」


「ちょっとそこまで」


 依咲はそう言って笑みを浮かべ、俺は「そっか」と返す。どこに行くにしろ、依咲のことは俺が守るんだ。不思議とそんな思いが胸を占めた。



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