16『墓所とキス』
綺麗な円を描いていた月は、日を経るごとに形を変化させていった。お手本のような丸は端の方から欠けていき、半月になったかと思えば三日月へと移り変わっていく。気づけば今はもう細い線のような筋しか見れず、あと数日で新月になることは容易に想像できた。月の傍にいたはずの一等星は、一日ごとにその距離を離していった。今ではもう、傍にあったことが嘘だったのではないかと思うほどだった。
「和眞、そろそろ起きなー!」
自室で寝ていた俺は、母のそんな声で意識を覚醒させた。時刻は午前十時を僅かに回った頃で、幸いなことに今日は休日。もう少し寝かせてくれよ、と俺は母に微かなイラつきを覚える。課題があるわけでも、出かける予定があるわけでもないのだ。休みの日ぐらいゆっくりしていたい。けれど一日の半分を睡眠で使い切るのは、些か勿体無いような気がしてくる。この考えでいけば、母の行動にはむしろ感謝するべきだった。
「あぁ……ねむっ」
俺はあくびをしながら起き上がり、寝癖のついた髪を乱暴に掻いた。九月の下旬にもなると、夜は寒さを感じるほど冷え込んでしまう。寝入るときは心地良くとも、暫くすると毛布が欲しくなる程だ。けれど俺の毛布はしまわれたままで、睡眠を中断させてまで取りに行くのは億劫だった。そのせいか、今日は少しだけ喉が痛いような気がする。そろそろ布団を出そう、と思いながら布団から降りると、はらりと何かが落ちるのが見えた。
「なんだ?」
どこから落ちてきたのかは分からないが、白い小さな紙は俺の足元で微動だにしない。机から落ちたのだろうか。しかし、記憶にある限り小さな紙を使用した覚えはなかった。俺は首を傾げたまま、落ちた紙切れを拾い上げる。表面には何も書いていなかったけれど、裏には小さな文字で言葉が記されていた。俺はその小さな文字を、目細めながら解読する。すると読み取れたのは、同じ市内の住所だった。
「こんな場所……行ったことないんだけど」
書かれていた住所は、ここから電車で数十分行ったところにある。そんな場所に何か物珍しいものがあるわけではなく、自分で書いた記憶のないそれに再び首を傾げた。俺は手にした紙切れをどうしてくれようか、その場で暫く考えた。このまま捨ててしまっても問題はないけれど、見てしまった手前少しばかり気になってしまった。この住所が示す場所はどこなのか。そこには一体何があるのか。俺の中にあった好奇心は、みるみるうちに膨れ上がっていく。気づけば俺は部屋着から私服に着替え、紙切れを手にリビングへと向かっていた。
「どっか行くのか?」
休日の朝をゆったりと過ごしていた父は、録画していたドラマを止めて俺に問うた。俺は「うん」と頷いた後で、「友達と遊んでくる」と咄嗟に嘘をつく。すると父は「気をつけてな」とだけ言い、再びテレビに向き直った。
「ご飯食べる?」
「んー、いいや。いってきまーす」
大して腹の空いていない俺は、何も口にすることなく外出した。肩にかけている鞄には、携帯と財布のみが入っている。俺はエレベーターに乗って下まで降りると、最寄り駅まで最短距離で向かう。秋の穏やかな休日でも、しっかりと照りつける日差しは暑かった。
最寄り駅に着くと、俺は来たばかりの電車に飛び乗った。休日だということもあり、車内には同じ年頃の人が何人も乗車している。その人たちは当然皆私服で、楽しそうに話したり、退屈そうに携帯を弄っていた。俺は出入口の側に立ち、流れ行く風景を眺めていた。
よく知る土地から遠ざかっていることは、見慣れないホームセンターが見え始めた辺りで誰しもが気づく。車内アナウンスが生活圏外にある駅名を並べ、俺は確かめるように携帯で降りる駅を確認した。電車に乗ってから数十分。すっかり都会から離れた無人の駅で、俺は数人に混ざって降車した。
「携帯携帯っと」
マップアプリに記載された住所を打ち込むと、目的地までの道が一瞬で表示される。俺は便利な時代になったことを心から嬉しく思い、ナビ通りに歩き始めた。今が一昔前だったならば、俺は紙製の地図を広げながら歩いていたのかもしれない。僅かな風でも歩くのが困難になるその地図は、自分が今どこを歩いているか表示してはくれない。周辺の目印から場所を割り出さなければならず、それはやはり不便だった。
けれど、その不便さもときには良いかもしれない。不便なアナログはまるで探検をしているような、そんな気分が味わえそうだ。俺はデジタルマップを見ながら、指示通りに人気のない道を進んでいく。本当に合っているのかと思うほど細い道を通らされるのは、数少ないデジタルの不便さなのかもしれない。
「ここか?」
マップが目的地までの案内を終了すると、目の前には石畳の道が真っ直ぐ伸びていた。綺麗に整備されたその道には、雑草の一本も生えてはいなかった。大金持ちの別荘だろうか。そう思いながら、俺は恐る恐るその石畳に足を踏み入れた。不法侵入で逮捕されないだろうか。いつぞやと同じ不安感を抱きながら、そのまま素直に前進し続ける。この先には何が待っているのだろう。不安感の中に高揚感を織り交ぜていると、暫くして目の前に見えてくるものがあった。
「………………お墓だ」
そこには、数え切れないほどの墓石が立ち並んでいた。見渡す限り一面灰色で、自分の祖先が眠る場所を見つけるのに苦労しそうだった。
「お墓の住所なんて、どうして書いてあったんだ?」
俺の祖先がいる場所はあいにくここではなかった。では何故、この場所を示す住所が記載されていたのか。俺には理由が少しも分からず、墓石の海を眺めてからそのまま進んでみることにした。石畳は墓石の間には敷かれておらず、代わりにコンクリートで舗装されている。左右には見ず知らずの人の名前がずらっと並び、読み方の分からない名前すらあった。
石に刻まれた名前は、かつて確かに生きていた人間の痕跡だった。一人ひとりに人生があり、家族がいて、皆同じように死を迎えた。どんな生き物にも平等に訪れる死は、どんなものなのだろうか。そのときが来れば分かることではあるが、事前に知れるものなら知っておきたかった。
「そろそろ帰るかぁ」
いつまでも知らない人の家の前を彷徨いているわけにもいかない。俺は来た道を引き返そうと、ゆっくりと振り返った。そこで、俺の視界は望んでいた人物を捉えた。遠くの方で、その人の姿を発見した。
「依咲」
俺は小さく彼女の名前を口にすると、視線をそのままに歩き出した。四角く整備された敷地は、当然真っ直ぐ突っ切ることは叶わない。カクカクと曲がりながら、少しずつ目的地を目指すしかなかった。その間も、俺は依咲の姿を目で追った。他人の墓石上を楽しげにぴょんぴょんと飛び回る彼女の姿を、俺は必死に追いかけ続けた。そんなことをしたら怒られるとか、バチが当たるとか、正常時に思考出来る常識は一切排除されている。今の俺に存在しているのは、再会できた喜びだけだった。
「依咲!」
彼女の姿が随分大きくなってくると、俺は感情のままに名前を呼んだ。すると依咲は声の発生源を探すように周囲を見渡した後、俺の姿を見とめて「あ!」と大きな声を発した。正真正銘、目の前の女の子は依咲だった。俺の大好きな、恋した彼女だった。俺は嬉しさのあまり、その場で思わず泣いてしまった。泣くつもりなどなくとも、目からは止めどなく涙が溢れてくる。それは嬉しさが大部分を占めているけれど、僅かに安心感も含まれていた。
先月が最後かもしれないと、心のどこかでそう思っていたのだ。違うと頭では分かっていたのに、再会出来る確証はほんの少しだって存在してはいなかった。信じてさえいれば、と言うけれど、それだけで死者に会えるなんて思えるはずがない。普通なら、どう頑張ったって再会なんて出来はしなかった。
「和眞! 本当に来てくれたの?」
嬉しそうにそう言った依咲は、墓石から下りてこちらにかけてくる。初めて会ったときから、依咲の服はキャミソールワンピースだった。透けるように靡くワンピースの裾は、彼女の足をいとも簡単に露わにした。
「会いに行くって言ったでしょ?」
俺は駆け寄ってくる彼女に向かい直し、両手を大きく開いて待ち構えた。軽いステップでこちらへ向かってきた依咲は、そんな俺目掛けてもう突進した。それは闘牛さながらで、俺は僅かに尻込みしてしまう。しかしそんな俺に構うことなく、彼女はその勢いを維持したまま抱きついてきた。いくら女の子とはいえ、スピードに乗って抱きつかれたらたまったものではない。けれどそこは男和眞。背後に倒れそうになるのを意地で耐え、優しく彼女を抱きしめた。一ヶ月前に会ったというのに、なんだが数年会っていないような気分だ。そう思ってしまうほどに、俺は彼女に会いたくて会いたくて仕方がなかった。
「嬉しい! また和眞に会えた!!」
「俺も嬉しい! 依咲に会えて、本当に嬉しい」
墓地のど真ん中で、俺たちはお互いに抱きしめ合った。景色はあまりよろしくないが、感情は過去のどんなときよりも高かった。再会をここまで喜べるなんて、俺は本当に幸せ者かもしれない。それはこうして依咲がいてくれるからで、そう思うと余計にテンションは上がってしまう。その感情を表すように、俺は抱きしめる力を僅かに強くした。すると同じように依咲の腕も力を強め、暫くの間お互いの存在を確かめ合った。
「ねぇ、和眞」
依咲の声が耳元で聞こえ、俺も同じように「なぁに?」と返してみせる。それが擽ったかったのか、彼女はふふっと笑った後でこう続ける。
「私のこと好き?」
俺は前回とは違い、素直に「うん」と頷いた。好きなんて言葉では表し切れないほど、俺は彼女のことが好きだった。このまま結婚してしまっても悔いはない。もっと良い人がいると言われても、きっと依咲以上の女性はいないだろう。俺の中では彼女が一番で、その順位は今後一切変わらないような気がした。たとえその想い人が既に亡くなっていたとしても、俺の気持ちが変わることはない。俺は彼女を、白矢依咲という女の子を、こんなにも愛してしまった。もう二度と、この抱きしめた腕を離したいとは思えない。
「私も好き………じゃあ、ずっと一緒に居ようよ」
「いいの?」
「いいよ。私、和眞と一緒に居たい」
依咲はそう言ってから、とても自然に軽いキスをした。俺の唇に彼女の唇が触れたと理解出来るまで、一体何秒かかったか知れない。理解した頃には二度目のキスが落とされ、俺は耳の端まで真っ赤に染まっていた。
「い、イサ……!」
裏返った声が、俺の顔の熱をより一層高めていく。好きな人とのキスがこんなにも照れくさく、恥ずかしいなんて、どのサイトにも載っていなかった。どんな本にも書かれていなかった。俺はまた依咲のおかげで、新たな発見をしたというわけだ。冷静さを保とうと必死に理性を働かせていると、三度目の口づけが交わされる。それは最初のように短いものではなく、驚くほど長い。きっと結婚式にする誓いのキスの、何倍もの長さだったことだろう。唇を離した依咲の顔は、俺と同じくらい赤かった。俺と彼女の感情は、言葉にせずとも同じだと分かってしまう。俺たちの間には、最低限の言葉だけで十分だった。
「好き」
「俺も好き」
「大好き」
「俺の方がもっと好き」
「私の方がずーっと好きぃ」
「俺の方がもっとずっと好き」
目を覆い隠したくなるほど、この会話は気恥ずかしかった。相手に対して直接感情を伝えることは、恥ずかしいけれど悪いものではない。そう思えるのは相手が依咲だからかもしれないが、彼女だからこそ出来たことかもしれない。仮に他の誰かだったなら、俺は感情を言葉にさえしなかった可能性がある。恥ずかしいからと理由を付けて。言葉にしなくても分かるだろうと高を括って。そうしてすれ違っていたかもしれない。
けれどそれは仮の話だ。そんな心配はもう必要ない。何故なら、俺はこれから先も依咲とともに居るからだ。一緒に居たいと言ってくれたから、俺は自分の感情に正直になることにする。俺は目の前の彼女をじっと見つめ、今度は自分の方からキスをした。どのくらいで止めればいいのか分からず早々に離れたけれど、依咲の表情を見る限り悪くはなかったことだろう。硬直してしまった依咲を、続いて俺はぎゅっと抱きしめる。もう離してやるもんか、と思いながら、キツくキツく抱き締める。すると依咲は笑い混じりに「苦しいよ」と言うので、腕を緩めて額同士をくっ付けてみせた。
「近いよぉ」
「キスよりは遠いよ」
「そうだけど……そうじゃないよ」
至近距離で見る依咲の瞳には、俺以外何も映ってはいなかった。それはきっと俺も同じで、その事実がなんだか嬉しかった。俺の中が依咲でいっぱいなのと同じように、依咲の中も俺でいっぱいなのかもしれない。そう思った途端、愛しさと嬉しさと多幸感で全身が満たされていく。
「恋ってすごいね」
「愛の間違いじゃない?」
「だったら、これはきっと恋愛だね」
お互いにクスクスと笑い合ってから、再びどちらからともなく抱きしめ合った。そんな俺たちに吹き付ける風は、秋の爽やかさと切なさを含む優しい風だった。
コンクリートの敷かれた地面に、一人の少年が横たわっている。その髪が木枯らしに吹かれ、左右に、前後に、さわさわと揺れる。彼がここで横たわっている理由を他の誰もが知らず、それはまた彼も一緒だった。
風に乗って聞こえてくるのは、秋を想起させる虫の音と、微かに響く甲高い笑い声。けれど、それは空耳かもしれない。その声の主は、もう何年も前に亡くなっていた。吹き付ける風が弱くなるのと同時に、彼の心音もか細いものに変わっていく。彼は一体何に心を奪われ、何を手にしようとしていたのか。それはきっと神にさえ分からない。
ただ、そこには愛だけが確かに存在していた。恋だけが形を持っていた。それが嘘でも真実でも、彼は愛と恋をどこまでも追いかけて行く。なぜなら、その二つが彼の心臓を動かしてしまったから。彼女の想いに、彼自身がはまってしまったから。二人はもう、誰にだって止められない。たった二人きりの世界で生きていた。
「ほら、ごらん」
地上ではないどこからか、優しい穏やかな声音が聞こえてくる。その声音は誰に言うでもなく、風が完全に止まってからこう口にした。
「彼の心臓が止まるよ」