14『骨とキュウリ』
その日は放心状態のまま眠りにつき、さして熟睡も出来ぬうちに朝を迎えた。今日が遠足や旅行の日であったなら、どれほどよかっただろうか。この中途半端な眠気も、普段とは違うドキドキ感も、きっとその全てを楽しんでいたはずだ。けれど今の俺は、とてもじゃないが日常を楽しめるような心境を持ち合わせてはいなかった。前日の出来事を脳内で咀嚼するのに精一杯で、他のことにまで気は配れない。まるで生気の抜けた人形のように、いつもと変わらない朝食を口に運んだ。
何の味もしないそれは、俺の体に栄養のみを行き渡らせる。美味しいとか美味しくないとか、味への興味は一切湧かなかった。ただ今日を生きるために食べている。理由はそれ以外に存在しない。俺は朝食を済ませると、昨日と同じ時間に家を出た。背後で「いってらっしゃい」と母の声が聞こえたけれど、それに返答をする気力は少しも起きなかった。声を出すことすら億劫で、セミの声に文句を言うこともしたくはない。額から流れ出る汗は拭わず、そのまま制服に染み込ませた。俺はとぼとぼと歩くこと以外、もう何もしたくはなかった。
「はぁ」
ため息のように吸った息を吐き出すと、顔周りの湿度が一瞬だけ高くなる。しかしそれを煩わしく思うことはなく、手に持った鞄はより一層重量を増していく。足元を見ながら歩き、時々前方を確認してはため息を吐く。そうして進んでいるうちに、景色はあの日の道路へと変わっていた。学校とは反対方向に位置するこんな場所に、俺は制服姿のまま立っている。この時間にここに居ては、おそらくもう学校へは間に合わない。仮に学校へ行ったとしても、遅刻の理由を問いただされるだけだ。
想像しただけで嫌な気分になり、俺はそのまま大通りを歩くことにした。まだ早い朝の時間。道は会社に向かうための車で混雑し、制服を着こなした学生が横断歩道前で待機している。滅多に見ないこの光景に、俺は何だか新鮮な気持ちがした。
「今日、平日だもんな」
本来、理由のないズル休みはテンションが上がるものだ。たとえ風邪で致し方なく休む場合でも、心の奥はふわふわと浮つく。同級生が勉強をしている時間で自分は寝ているのだと、そう思うと自然と背徳感が生まれる。しかし、今の俺にはそんな普通の感情すらも湧いてはこなかった。まるで感情を失ったみたいに、心を動かすことさえできない。最愛の人を失うことの真の意味を、俺は今身を持って体験している。
依咲とともに歩いたはずの道は、あの日のように涼しくはない。空には燦々と輝く太陽が存在し、夏の湿度が肌にべったりと纏わりつく。吹きつける風は嫌に温く、誰かのスカートを巻き上げることはなかった。何もかもが違うその道は、全くの別物のようにさえ思える。まるで依咲との思い出は幻だったと、世界中が俺にそう言っているようだった。
「俺は……どうすればいい。依咲、君は俺に何を求める?」
自分がこれからどうするべきか、いっそのこと誰かに決めてほしかった。将来の夢がないように、俺には明日さえ分からない。こんなときに彼女が居たら何と言うだろうか。いくら考えても、こう言うだろうとかああ言うだろうとか、そんな仮の言葉すら出てこなかった。そこでふと、彼女の顔が思い浮かんだ。けれど、脳内に浮かんだ依咲の顔は少しも鮮明ではない。どんな目をしていたっけ? どんな口で言葉を紡ぐんだっけ? 髪型は? 笑い方は? つないだ手は、どのくらいの強さで握るんだっけ? どんなだったか思い出そうとしても、何故だかハッキリとした画像は出てこない。
「なんでだ。忘れたわけじゃないのに」
依咲のことを忘れるなんて、そんなことがあってはならない。それなのに、俺の意に反して脳内からは依咲が少しずつ消えていく。濡れた服が乾いていくみたいに、じわじわと失っていく。特に記憶力が悪いと言うわけではないのに……。どうしてだ。なんでなんだ。会えなくとも、依咲との時間は全身で覚えているつもりなのに。
「嫌だ。こんなのってないよ。なんで忘れてるんだ! 俺は! 依咲のことを! ずっとずっと覚えてるって、そう誓ったのに!」
歩道の真ん中で立ち止まり、俺は地面に言葉を吐き捨てた。横を通り過ぎて行く人々は、俺へ冷たい視線を送ってから過ぎ去って行く。誰も助けてなんかくれない。誰も俺の前に道を作ってはくれない。自分の足で進んで行かなければいけないのに、誰かに相乗りを願い出たくなる。もう歩きたくなんかなかった。地面を見つめた俺の視界は、次第に歪んで色が混ざり合う。乾いたコンクリートに濃いシミができ、それは数秒で何倍にも増えていった。
「もう! 泣きたいわけじゃないのに」
俺は手の甲で目元を拭うけれど、湧き水のように湧き出るそれは止まろうとしない。カラカラに乾いていた手の甲はあっという間に湿り、拭うことすら出来なくなった。俺は仕方なくポロシャツの裾で水分を拭き、止まっていた足をゆっくりと前に動かした。泣いたって、助けを求めたって、誰かが手を差し伸べてくれるわけではない。依咲が現れてくれるわけではない。ならば、俺自身でどうにかしなければ。自然とそんな思いでいっぱいになった。
「まずは、あの家へ行こう」
骨が見つかったと言う知り合いの家へ、俺は記憶を頼りに向かい始めた。車線数の多い大通り沿いを歩き、商業施設の前を通り過ぎ、やっとの思いで辿り着いた頃には疲労感があの日と桁違いだった。歩き過ぎによりふくらはぎは攣りかけで、足の裏は痛過ぎて一歩だって歩きたくはない。全身からは滝のように汗が噴き出て、着ていた制服はびしょ濡れだった。快晴な空の中では、太陽が頭上で俺の脳天を焼き続けている。疲れと息苦しさと後悔で、俺はついに道の端に腰を下ろした。
「……来なきゃよかった」
これほどまでに大変だったなんて、誰が予想できただろうか。あの日も確かに疲れたけれど、立っていられない程ではなかったはずだ。そもそも今日は、あの日と条件が全く違う。分かっていたはずなのに、それでも軽い気持ちで来ると決めた自分に、俺は無性に腹が立った。先のことも少しは考えてくれよ! と文句の一つぐらい言ってやりたかった。
「それにしても、すごい人だな」
俺が座っているのは、ちょうど知り合いの家へと続く一本道。目的地である家の、僅か手前だった。道端に座った俺には目もくれず、目の前に群がる報道陣はじっと前方の様子を窺っていた。すぐそこには立ち入り禁止の黄色いテープが引かれ、子どもでも中に入ることは不可能だった。俺は人の隙間から中をこっそり見たけれど、敷地内を目視することは出来なかった。
なにしろブルーシートが目隠しのように立ちはだかり、それも見えないほどに周辺には木々が生い茂っている。手入れされていない背の高い雑草は、木々の隙間を埋めるようにそこかしこで成長を続けている。見るからに放置されたそこには、お世辞にも誰かが住んでいたようには見えなかった。たった一週間でここまで廃れるだろうか。野生動物が荒らしたにしても、些か度が過ぎているように感じる。
「なんとか中が見れないもんか……」
視界の先には、警察や関係者の姿しか見えない。せっかくここまで来たのだから、少しぐらい中が見たいと思ってしまった。人骨があるかもしれないなどという可能性は、今の俺には米粒ほども考えられなかった。俺は重くなった腰を上げ、荷物を手に表の道を外れた。例の家の周辺は手の加えられていない山々で、案の定人の影はなかった。俺は歩き慣れない獣道を、己の勘のみで突き進んでいく。こんな場所で野生動物に出くわしたら死を覚悟するけれど、幸いなことに作業音は山の中にも響き渡っていた。山中には適さない学生服で山を登り、俺は高い位置から家を見下ろしてみた。すると視界を遮っていたブルーシートの境目が見え、その隙間から人が出入りしている様子が窺えた。
「ここいいじゃん」
現場を覗き見るのに適した場所を見つけた俺は、不思議とテンションが上がっていた。報道陣すらいないこの場所では、人の目を気にする必要はない。俺は鞄から取り出した携帯でカメラを起動し、目の前の隙間をレンズで捉えた。そうして指先でズームしていくと、中の様子はハッキリと見ることが出来た。
骨が発見された場所はどこに当たるのだろう。そもそも見つかった場所はここから見えるのだろうか。まるで本物の野次馬になったかのように、俺はズームした画面上を注視した。左右に下りる鮮やかな青は、人が通り過ぎるたびに僅かに揺らめいた。その瞬間だけ隙間が開き、視線の先に広がる場所がどこなのかを見ることが出来る。
「んー?」
見ることは出来るけれど、果たしてそこが場所的にどの辺りなのか、画面越しでは分かりづらかった。そもそも俺は中からの景色しか見ていないのだから、外から眺めたとしても分かる望みは限りなく低い。俺だけ特別に敷地内に入れたら、と当然のことながら考えるけれど、高校生を安易に入れるようなマネはしないだろう。傍観者は外で大人しく中の様子を眺め、こうなっているのだろうと想像を働かせるしかなかった。
そうして暫く眺めていると、ザワザワと葉が擦れる音が聞こえてくる。遠くの方から迫ってくるそれは、俺の背後から突風とともに勢いよく駆け抜けて行く。あまりの強さに、俺はバランスを崩して前方に手をついた。もう少し前の方に立っていたら、バランスを崩すどころの話ではなかっただろう。斜面から転げ落ち、打ちどころが悪ければ死んでいたかもしれない。そう思うと、背筋に冷や汗がつっと伝っていく。
「こんな場所に居るなってことか?」
神や精霊なんてものが現実世界にいるとは思えないけれど、どうしてもそう言われているような気がしてならなかった。このままここに居れば、きっと冷や汗どころでは済まなくなる。近所の事件現場を見に行って死にました、なんて末代までの恥だ。学校をサボったこと以上に、両親に怒られることは目に見えていた。俺は地面についた手を払い、その場で静かに立ち上がった。これ以上見ていても何も進展はないだろうし、事件現場に長期滞在するのはマスコミの仕事だ。
学生は学生らしく、家に帰って勉強でもしていよう。そう思いながら、手に持っていた携帯を一瞬だけ目の前に翳した。風の影響で、僅かだった隙間は中が容易に覗けるほど開いている。その向こうに見えるのは、建物の外壁と茶色い土。穴の掘られた側で屈む関係者の背後には、家庭菜園でもしていたのか、立派に実ったナスがぶら下がっている。
「え……!?」
画面上に見えた建物の外壁。そこから視線をずらしていくと、見覚えのある縁側が目に入る。その縁側の前では、例の関係者が屈んで作業を行なっている。ということは、掘り返されたであろうそこには何があったのか。思考を巡らせているうちに、俺はだんだん気分が悪くなっていった。胃から朝食が迫り上がってくる感覚に、咄嗟に手で口元を覆う。一度気づいてしまったものは、もう二度と無かったことには出来ない。記憶喪失にでもならない限り、この不快感が消えることはない。
「なんで……意味が分からない」
依咲がこの場所に俺を連れてきた理由も、俺にあれを食べさせた理由も、何もかもが理解不能だった。理解できることは、俺が死体が埋まっていた場所に生えたキュウリを食べたということ。それが現実であれ、夢であれ、食べたという行為をしたことに変わりはない。俺は間接的に、いや、直接的に、依咲を食べていたということになる。
「……来なきゃよかったんだ、こんな場所」
ニュースから得られる情報だけで満足していればよかった。こんな場所に何時間もかけて来た結果がこれだ。自分で自分の気分を害する行動を取るなんて、今考えてみればおかしな話だった。俺は手に持っていた携帯をズボンのポケットにしまうと、その場から逃げるように立ち去った。
獣道を一心不乱に歩いていると、当然のことながら転びそうになる。生い茂った雑草に足を取られ、木の根で躓きそうになる。しかし、今の俺の頭ではそこまでの配慮はできなかった。ただ一刻も早く家に帰りたいと。事件現場から離れたいと。ただそれだけだった。
獣道から脱出すると、目の前には報道陣の群れが出来ている。来たときよりも多いような気がするけれど、もしかしたら気のせいなのかもしれない。捜索の進展は見るからになく、関係者からの新しい情報もなさそうだ。俺は暇そうに待機している大人たちを横目に、田舎の狭い下り道を下っていった。
帰り際、右側には例の自販機がひっそりと佇んでいる。けれどあの日のような不気味さは少しもなく、虫が群がっているということもない。あれはやはり夜の雰囲気が恐怖心を煽っていたのだと、俺は足を止めることなくそう思った。そうして再び長い帰路を進み続け、帰宅できたのはすっかり太陽が沈んでからだった。
「ただいま」
「おかえりなさい。今日は遅いのね」
自室に鞄を置いてからリビングへ向かうと、父も母も既に帰宅していた。今日は父が料理担当、母が洗濯担当で、各々自分の仕事を全うしていた。そんな二人をよそに、俺はリビングのソファに腰を下ろす。今日は一日中立ちっぱなしで、まともに座ることすら出来なかった。今こうやってふかふかの椅子に座れている状況が、何よりも幸せだった。長距離を徒歩で徒歩で歩くなんて、今後一切したくはない。もう懲り懲りだ。
「着替えてきな。シワになるでしょ」
俺は母に言われるがまま、重い体で必死に立ち上がる。正直このまま寝てしまいたいけれど、昼間の弁当だけではエネルギーが足りない。明日も学校があるのだから、今日の疲れは今日中に取ってしまわなければならなかった。そのためにも、まずは夕食を食べる必要がある。俺は自室で私服に着替え、制服は全て洗濯カゴの中に突っ込んだ。そうしてから、ダイニングの椅子に座って夕食を待った。
待っている間、俺は一人睡魔と戦い続けた。寝てしまっても怒られることはないけれど、夕飯を食い損ねることだけは避けなければならない。これは俺に課せられた極秘ミッションだった。夕食を食べ終えると、俺は諸々を済ませて速攻で寝入ってしまった。見たいドラマやバラエティ番組はあったけれど、強い眠気にはどうやっても勝てなかった。まぁ録画してあるし、なんて余裕をかましてみたけれど、本当にされているか自信はない。確認してから寝ようかとも思ったが、今は一分一秒でも早く寝たかった。
したがって、毎日一回は行っていた街灯を確認する作業も、今日は中止となった。一度中止と決めてしまうと、翌日も、その次の日も、確認することはなくなった。もはや習慣になっていたそれは、一瞬にして日常から排斥されてしまう。終いには、わざわざ依咲がいるかを確認するためだけに、暑い中ベランダに出るのが億劫になった。どうせ今日もいないだろう、という憶測が、俺の中から彼女の存在を消していく。あれほど忘れたくなかった人間の面影は、驚くほどスッキリと消え去ってしまった。