表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/16

13『恋しさとかき氷』

 授業を受けている間も、空になった弁当箱をしまっている間も、シャーペンをカチカチと鳴らしている間も、『依咲』という二文字が頭の中から消えることはなかった。俺がこうしている間にも、依咲は街灯下で俺を待っているかもしれない。のんびり授業を受けている暇などないけれど、学生である手前そんなことも言ってはいられない。

 そういえば、依咲は俺と同い年だった。もしかしたら、今の俺と同じように学校で授業を受けているかもしれない。幾つもの可能性が脳内に溢れたせいで、教師の声が入る隙間は一ミリも存在していなかった。そうやって平凡な学校生活を終えると、俺は猛ダッシュで教室を後にする。走って走って走って、信号で止まっては舌打ちをした。今日こそはと思うことで、俺の中に生まれた感情は息を潜めていく。


「ただいま!」


 自宅に辿り着くと、一息つく間も無くベランダへの扉を開けた。下で待っているよりも、上から見下ろしていた方が周囲はよく見える。近づいてくる依咲の姿をいつでも発見出来るように、瞬きをするのも忘れて眺め続けた。その状態がどのくらい続いたのか、正直俺には分からなかった。帰宅してからの時間は、自分でも驚くほど早く過ぎていく。それは、いつか訪れるであろう瞬間を待ち侘びているからで、実際に時間が倍速で進んでいるわけではない。


「あ!」


 遠くから、誰かがこちらに向かって歩いてくるのが見える。彼女だろうか。俺の大好きなあの子だろうか。そんな淡い期待がほんの数秒も持たないことを、俺はこの数時間で理解した。歩き方も、衣服も、依咲とは何もかもが違う。そんな人を、ベランダから何人見送っただろうか。いい加減、こんな焦らしプレイは早く終わらせてほしい。

 そんな新たな願いを胸に、健気に彼女のことだけを待った。けれど、日付を超えても現れる気配はなく。深夜二時になっても、その雰囲気は変わらなかった。夕食や入浴の時間以外、俺は片時もこのベランダを離れなかったのに。それなのに、俺は依咲の姿どころか声すらも見つけられない。俺は本当に、一日だけの人間だったのではないか。そう思わずにはいられなくなり、何故だか涙が溢れてきた。


「い、依咲……」


 好きなのに会えない辛さは想像を絶する。心を捻られ、引き千切られ、粉々にされたような気分だ。しかし、そうなった心を慰めてくれる人はいない。再会の喜びを与えようと、俺の元へ本人が来る様子はちっともない。この状況を打開する方法は思いつかず、俺は一人ベランダで蹲った。それからというもの、俺は来る日も来る日もベランダから街灯を眺め続けた。

 それでも結果は変わらず、時間を前後に動かしても変化はない。こうまでして現れないのだから、そろそろ諦めるべきだろう。俺は心の中で、自然とそう思うようになっていた。振られること自体への耐性がついたのかもしれない。そんな耐性を欲しいとは思わないけれど、今はむしろ救われていた。こんな短期間に二度も振られることは、この先の人生を考えてもないような気がする。一生に一度の体験と考えれば、下がり切った気分はほんの少しだけ上向きになった。


「今日で、終わりにしよう」


 日付を回った午前二時。彼女と初めて出会った時間を、秒針は躊躇うことなく通過した。本人からの言葉はないけれど、俺は人生で二回目の失恋をした。この気持ちは、明日友達に慰めてもらうことにする。俺は名残惜しげに街灯を一瞥し、そうして壁を築くように網戸を閉めた。これでお終いだと思うと、途端に寂しさが込み上げてくる。今だって、俺は依咲に会いたくて仕方がない。こんなにも誰かを恋しいと思ったのは、人生で初めての体験だった。


「いい経験をしたってやつか」


 俺は闇の中へポツリと呟いて、俯きがちに自室へと戻った。その日の夜はなかなか寝付けず、大して寝ないまま夜明けを迎えた。





 寝不足のまま朝食を貪り、朝のニュースをただ眺め、綺麗にアイロンされたポロシャツに腕を通す。今日はまだ七月の十一日で、本格的な夏が来たとは言えなかった。それでもタオルが手放せないぐらいには汗をかき、可能ならば服すらも脱ぎ捨てたくなる。けれどそんなことをすれば逮捕されるのは当然で、なんとか理性で思い止まっている状況だった。

 今朝も爽やかにニュースを伝えるキャスターは、原稿に書かれた最高気温を音読する。暑くなることが分かっているだけに、それを言葉にされると体感が倍になるような気がした。そんな茹だるような暑さに覚悟を決めながら、俺は鞄を手に家を出る。こんな時間でも、木々や外壁に止まったセミは煩く鳴いている。朝は日中よりも涼しいはずなのに、聞こえる音で既に体の奥は火照っていた。


「あっついなぁ」


 夏よりも冬の方が好きな俺は、ポロシャツの胸元を摘んで仰いでみる。ひんやりと涼しい風が入ってくることはないけれど、無風よりはいくらかマシだった。そうやって暑さをなんとか乗り越えて、俺は冷房の効いた教室で涼んだ。冷房を開発した人に感謝したいほど、この機械は人々を暑さから救っている。登校中に吹き出た汗はひんやりとした空気によって冷やされ、火照った体をゆっくりと沈めていく。そうしてある程度落ち着いたのを確認し、俺は友達に失恋話を披露した。

 友人はどんな言葉にも興味を持ってくれたけれど、一際反応が大きかったのは火花のことについて話したときだった。足を着いた瞬間に弾ける水色の火花と、その周辺で煌めく白色の粒子。その原理は一体なんなのか。自力でそんな不可解なことが起こせるのか。理系な彼は、その優秀な頭を働かせていた。


「花火を持ってたのか?」


「いいや、手ぶらだよ」


「じゃあ、足の裏に何か付けてたとか?」


「しっかり確認したけど、何も付いてなかった」


「じゃあ……」


 彼はそう言ってから、思考を巡らせるように黙り込んでしまった。彼は、理系に関しては頭脳明晰なことで知られている。そんな人間が頭を働かせても辿り着けない真実など、本当に起こったと考えない方が自然だった。全て俺の妄想だと、それで片付けてしまった方がよっぽど現実的だ。彼はそれから長いこと考えて、結局下校時まで何ひとつ可能性が見出せなかった。彼は仕切りに「難しいなぁ」と呟き、謎を解き明かせないことにやきもきしていた。もしかしたら、高校生が持っている知識では難しいのかもしれない。もっと専門的な、それこそ博士レベルの何かがきっと必要なのだ。


「考えるのはまた今度にして、これから一緒に遊び行こうよ」


 ここ数日、俺は学校が終わると一目散に帰宅していた。もうそうする必要がないのだから、今日くらいは思い切り遊びたい。けれど、肝心の彼は未だに火花に心を奪われている。こんな話しなければよかったと、後悔しても遅いのは今日も同じだ。彼は腕組みをしながら唸り、理解できない事象を脳内で想像する。そんな彼にとって、俺からの誘いなど取るに足らない優先順位の低いものだ。言葉にこそしないけれど、どうやら彼もそう思っていたようで、遊びの誘いは二つ返事で断られてしまった。


「ちぇぇ」


 今日は普通に、放課後は友達と遊びたいと思ったのに……。そうは思うけれど、彼自身に非はない。全ては俺が失恋話をしてしまったせいだ。俺は心ここに在らずな彼を教室に置き去ると、昨日と同じく寄り道せずに帰宅した。自宅の鍵を開けてドアを引くと、夏の生温い風が部屋を通り抜ける。玄関に置かれた靴は一足もなく、みんな出払っていることを瞬時に理解した。


「窓ぐらい閉めてけって」


 自室に荷物を無造作に置いた俺は、着替えることなくリビングへと向かう。風があるので別段冷房は要らないけれど、ベタつく湿気をどうにかするためにボタンを押した。ピッという音とともに起動した優秀な機械は、羽を前後に動かしながら冷えた空気を吐き出す。俺は全ての窓を閉め歩きながら、その風を全身で受けていた。部屋中の窓を閉めてしまうと、外界の音は随分小さくなってしまう。あれほど煩わしく思っていたセミの声も、今では機械音に負ける始末だ。


「お! あったあった」


 全身の熱が引いていくのを感じながら、俺は戸棚からかき氷器を取り出した。それは上部に取っての付いた手動式のもので、ホームセンターなどで安く手に入る代物だ。俺は慣れた手つきでその器具の蓋を開け、冷凍庫から取り出した氷を入れる。そうして外した蓋を戻し、下部に皿を置いたら準備万端だ。俺はその状態にしたかき氷機をリビングの机に運び、側にあったリモコンでテレビの電源を入れる。この時間はドラマの再放送か、夕方のニュースがやっているはずだ。かき氷が完成するまでの時間を潰す何かがあればいいな、と思いながら、俺は上部の取手をくるくると回し始めた。

 するとガリガリという音がし始め、皿の上には削られたばかりの氷が積もり始める。この光景を見るたびに、今が夏であることを実感した。自分の腕を動かしながら、その合間でリモコンのチャンネルボタンを押していく。幼児向けのアニメや古いドラマが放送されている中で、俺はひとつのニュース番組で手を止めた。


「美味そう……」


 目の前の画面では、『最近話題のスイーツ』と題したコーナーが放送されていた。昼間の出来事を放送する中に、こういった箸休めのコーナーがあるのは有り難かった。今紹介されているスイーツはふわふわのパンケーキで、光り輝くメープルシロップが美しかった。クラスの女子が好きそうな見た目で、食べている姿を想像するのは容易い。もしかすれば、甘党の姉もこういったものが好きかもしれない。男一人では食べに行きづらいその店に、今度連れて行ってもらおう。そんなことを考えながら、俺は引き続きかき氷を作っていく。

 のんびり削っていたかき氷は、溶けながらも確実に皿へと積もっていく。気づけば白い山のようになったそれは、男子高校生の全身を冷やすには十分すぎる量だった。俺が山盛りになった皿を機械下から取り出すのとほぼ同じタイミングで、画面に映し出された映像が切り替わる。美味しそうにスイーツを頬張っていた人間は、身だしなみを整えたアナウンサーへと変化した。幸せなコーナーを永遠に見ていたかったけれど、どんなものにも終わりは来る。俺はさほどガッカリすることもなく、その辺にあったかき氷シロップの蓋を開けた。



『続いて、本日あった出来事を纏めてお伝えします』



 アナウンサーの玲瓏とした声が、テレビのスピーカーから聞こえてくる。今日は一体どんなことがあったのだろう。そんなことを思いながら、俺は食器棚から取り出したスプーンで、キンキンに冷えたかき氷を頬張った。するとキーンとした鋭い痛みがこめかみを走り抜け、あまりの痛さに一瞬顔を歪める。この痛みも含めてかき氷なのだが、あまり愉快な気持ちにはならなかった。鋭い痛みはほんの数秒で消え去り、俺は再びかき氷を口に運ぶ。手動式のかき氷機特有の荒い粒を、俺は無遠慮に噛み砕いていった。



『————————————ということです』



 アナウンサーの放った言葉は、右耳から左耳へ、脳を介さずに流れ出ていく。国のトップが行った会見だとか、地方の学校であった事件だとか。そういったものには、どれだけ詳しく説明されても興味は湧かなかった。現実味は一切なく、同じ国の中で起こったことだとしても、なんだか遠い国の出来事のように感じる。完全に他人事で、身近に感じないからこそなんとも思わない。これは俺が冷淡な人間ということではなく、きっと多くの人がそうなのだと思う。全てのニュースを自分事に感じるなんて、心が幾つあったって足りはしない。他人事というのは、一種の処世術のようなものだった。



『続いてのニュースです。今月四日、「空き家の庭から骨のようなものが見える」と警察に一〇〇当番通報がありました。警察によりますと、人骨と思われる骨が複数発見され、DNA鑑定で二十五年前に行方不明になっていた女性であることが判明しました』



「へー、そんなに経っても見つかるのか」


 何十年も前の人が、骨になって発見される。この事実に、遺族は今何を思うのだろう。見つかってよかったと思うのだろうか。それとも、どうして死んだんだと思うだろうか。もしかしたら、その両方かもしれない。仮に俺がそんな遺族の立場なら、何よりも先に安心するだろう。一生消息が分からないよりずっといい。結果はともあれ、探していた人間を発見出来たのだから。



『女性の名前は白矢依咲さん。当時はまだ17歳で、学校から帰って来ないことを不審に思った母親が、捜索願いを出していました。警察は現在、死因について調べています』



「依咲……」


 聞き覚えのある名前が聞こえてきた。


「いや、まさかな」


 同じ名前を持つ人など、この国だけでも数えきれないほどいるだろう。和眞という名前も、さして珍しいというわけではない。きっと依咲という名前も、何年も前に流行ったものに違いない。俺の知っている人なわけがない、と思いながら、画面上に表示された文字をじっと見つめる。表示された名前の奥では、ブルーシートのかかった民家が映し出されていた。

 どこか見覚えのあるその建物は、脳内の検索サイトであろうことかヒットする。暗くてハッキリは見えなかったものの、あの敷地の広さと建物の大きさを見間違うはずはない。そこは、依咲とともに訪れた知り合いの家だ。依咲の言っていた知り合いに会うことはなかったけれど、間違いなく彼女と関係のある人物の家だ。


「それじゃあ……」


 予期せぬ現実が突きつけられ、俺はもはや放心状態だった。あの依咲の、俺の想い人の骨が、画面に映し出された場所から見つかったと言うのか。それも、二十五年前に死んでいたなんて。では、先週出会ったあの子は誰だと言うんだ。素敵な笑顔で笑い、つないだ手は温かく、揶揄うのが好きなあの子は。少し謎の多い、可愛らしい一面を持つあの子は。この世にいないとでも言うのだろうか。依咲と名乗ったあの女の子との思い出は、夢の中の話だったとでも言うのか。そんなの……。そんなのはあんまりじゃないか。


「きっと違う人だ。俺の知らない、全くの別人に違いない」


 そう思うのに、俺の目からは涙が一筋流れていく。俺はたった一週間で、家族以上に大切な人を失ったのかもしれない。そんな思いが胸を締め、涙は止まる気配を微塵も見せなかった。夜に会いに来てくれなかった理由が。再会出来なかった理由が。たった今、全て説明されている。会ったことも話したこともない、面識のないアナウンサーによって、依咲の死が報道されている。他人事として聞き続けることは出来なかった。先程まで発揮していた処世術は、今では何の役にも経ってはいない。悲しみを告げる涙は後から後から湧き出てきて、どうやったって止めることは不可能だった。


「なんで、なんで死んでんだよ」


 二十五年も前に、彼女はどうして死んだのだろう。そして、それほど前に命を落としているにも関わらず、俺の前に現れたのは何故なのだろう。二つの疑問が、頭の中で目まぐるしく回っている。けれど、そんな疑問をニュースが解決してくれるわけではない。

 俺はただニュースを見ている視聴者で、直接スタジオに出向くことは出来なかった。それはきっと、警察に直接聞いても同じことだ。捜査情報をただの一般人に、それも子どもである高校生に教えてくれるわけがない。俺はまだ依咲の身内ではない。これからなることも出来ない。今自宅でかき氷を食べている俺には、この場から動くことも声を上げることも許されてはいなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ