12『うつ伏せと帰宅』
ぼんやりと、視界に色が戻っていく。真っ黒な世界から一転、俺の見ている世界に明かりがゆっくりと復活する。今はまだ周囲をはっきりと見ることは出来ないけれど、全てが元に戻ったら真っ先に彼女を探そう。姿を消してしまった依咲がどこにいるのか、あいにく俺には見当もつかない。それでも、当てもなく探そうと決意した。
俺は視界を鮮明にするように、幾度となく瞬きを繰り返した。掌で目を擦り、瞬きをし、目を凝らして正面を見据える。それを繰り返すと、少しずつ視界がクリアになっていくのが分かった。
「あ……」
見えた景色に、俺は言葉が出なかった。ぼやけた世界は先程までいた場所ではない。聳え立つように佇む自宅も、依咲と出会った街灯も、月の支配する夜の世界も、そこにはカケラも存在しない。視界の先には無機質な白と、太陽の支配する昼の世界のみが広がっていた。それを見て俺の脳内は混乱し、何が何だか分からなくなる。俺は、どうしてこんな場所にいるのだろう。
「どこだ、ここは」
俺は鉛のように重い体を起こし、自分の置かれた状況を整理した。知らないベッドに横たわった俺は、同じく知らない部屋に一人だった。左側に見える窓からは、朝の陽光が無遠慮に差し込んでいる。その眩しさに目を細めると、部屋のドアがゆっくりと開く音が聞こえた。依咲だろうか。そんな淡い期待を、ドアを開けたその人が一瞬で打ち砕く。
「和眞……」
俺の名を呼ぶ声に振り返れば、そこには口元を押さえた母親がいた。いつの間に起きたのだろう。
「母さん。おはよう」
その言葉と同時に、母の目から涙がひとつ落ちていくのが見えた。ただ朝の挨拶をしただけなのに、母は一人泣いていた。落ちた涙の理由はちっとも分からず、俺の混乱は一層極まった。何かしてしまっただろうか。けれど、ケンカをした記憶はない。俺よりも先に床に着いた母に、俺が何か出来たわけでもない。
「よかった。よかった……本当に」
そう言いながら俺に歩み寄ると、母は優しく俺を抱きしめた。母の涙は止まることを知らず、その全てが俺の服に吸い込まれていく。そこでようやく、自分が身に纏っている服でさえおかしいことに気がついた。これはまるで病院の入院服のようだ。ということは、ここは病室なのか? 俺は何故そんな場所にいるというのだ。
「母さん、俺」
「よかった……本当に」
母は同じ言葉を何度も繰り返し、俺の言葉が聞こえてはいないようだった。俺は潔く母に聞くことを諦め、誰か来てはくれないかと思いながら扉をじっと見つめる。けれどそう都合よく人が入ってくるわけもなく、俺は抱きしめられながら数分を過ごした。
「お前はな、家の下に倒れてたんだよ」
暫くして、父親が部屋の扉を開けて現れた。それでも母は俺に抱きついたまま、離れる素振りは微塵も見せなかった。父は手に持っていたビニール袋を棚に置くと、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。そうして混乱をし続ける俺に向かって、簡潔に状況を説明した。
「倒れてた?」
父の言葉に、俺の脳内はますます混乱した。倒れていたという言葉が、何故だか少しも理解できない。何故なら俺はついさっきまで、依咲とともに夜の街を歩いていたのだ。自宅から山奥までの数キロを歩き、足の疲労に耐えながら帰宅したばかりだった。倒れるなんて、何がどうなってそんな状況になったのか。俺は父の顔を見つめながら、頷くことも声を発することもしなかった。
「ベランダ側の地面に、うつ伏せで。父さんたちは救急車のサイレン音を聞いて、お前がいないことに気付いたんだ。まったく、何であんなところで」
「俺、落ちたの?」
「さぁな。でも、外傷は少しもないらしい……何も覚えてないのか?」
父は俺のことを真っ直ぐ見て、不思議そうに問うた。覚えているかいないか以前に、記憶の中には確かに依咲がいる。歩く感触も、話したときの楽しさも、暗闇の恐怖も、その全てが記憶に新しい。それらが全て嘘だったなんて、そんなこと信じられるはずがない。ならば、今見ているものが偽物なのだろうか。けれどこの世界はあまりにも鮮明で、全てがリアルで、とても嘘だとは思えない。
俺にとってはどちらも現実で、全身で体験した事実だった。しかし、それではひとつとして説明がつかなかった。せめてどちらか片方が夢でなければ。そう思っても、俺には正しく判別出来なかった。もう何が現実か分からず、俺は頭を抱えて唸った。
「まぁいい。今日は大事をとって入院だそうだ。ゆっくりしていなさい」
父はそう言って、棚に置いたビニール袋から何かを手に取った。それはコンビニでしか売っていない小さな生菓子で、「ほれ」という言葉とともに俺に手渡される。スイーツを食べる気分ではないけれど、受け取ってしまった手前返すわけにもいかない。俺はプラスチックの蓋を取り、付属のスプーンを使ってそれを口に運んだ。
本来は甘いはずのそれは、混乱を前に無味と化していた。いや、俺の味覚が正しく機能していなかったのかもしれない。味を感じるよりも前に、現状を整理することに必死だった。俺がコンビニスイーツを食べ終わる頃になると、母は落ち着いたのか抱きつくのをやめた。そうして俺の顔を何度も撫でた後で、現実に戻るように自分の頬を軽く叩いた。
「さ、帰って洗濯でもしようね」
俺の目覚めを誰よりも喜んでいた母は、ニコッと笑ってから病室を退出する。その背を追うように父も椅子から立ち上がり、何も言うことなく歩き去る。特にこれといった自覚症状のない俺は、両親とともに帰ってしまっても問題なかった。大事を取って入院なんて、少しばかり大袈裟ではないだろうか。外傷は一切なく、きっと脳や体の内部だって正常なはずだ。今すぐに五十メートルを疾走しようとも、倒れたり気分が悪くなることもおそらくはない。こんな何もない無機質な病室にいるぐらいなら、俺はとっとと帰ってゲームがしたかった。
「そう言えば……」
俺は周囲を見回してから、備え付けの棚の引き出しを開けた。あいにくそこには何も入っておらず、側にあったゴミ箱にゴミは少量入っているだけだった。携帯でも入っていないものかと思ったが、どうやら無駄な期待だったようだ。俺は再びベッドに寝そべり、ただ呆然と天井を眺めた。今日は七月四日。時間は昼の十二時二十三分。今日が終わるのには、まだ驚くほどの時間があった。
携帯無くして、この長い一日をどうやって過ごせばいいのだろう。ここは病院なのだから、暇つぶしに本を借りることは出来ない。安静にしていろと言われた手前、外をぶらつくのはどうなのだろうと思ってしまう。先程まで両親がいたのだから、携帯か、そうでなくともゲーム機ぐらいは頼むべきだった。そう後悔しても、既に病室には俺以外の姿はない。俺は退屈から込み上げるため息を虚空に吐き出し、こんなズル休みならしない方がマシだと思っていた。
「暇だし、腹減ったなぁ」
病院の昼食は何時からなのだろうか。そもそもつい数分前まで寝ていた俺に、病院食は与えられるのだろうか。不幸にも、俺は携帯どころか小銭の一枚だって持ってはいない。この状況で外に放り出されたら、野垂れ死ぬほか希望はなかった。俺の腹は、空腹を告げるように「ぐぅ」と控えめな音を鳴らす。ちょうど枕の横にあったナースコールは目に入ったけれど、そこまでの緊急を要することでは無かった。空腹如きで看護師の手を煩わせたら、それこそ野垂れ死にコースまっしぐらだ。ここは大人しく、このままベッドに横になっていよう。そう決めて天井を眺め、青空しか見えない窓の外を眺めた。
「そういえば、依咲が今日は晴れだって……。本当に晴れてんな」
依咲は、もしかしたら気象予報士だったのかもしれない。そう思うと、彼女の発言には全て意味があったんじゃないかと思ってしまう。けれど全てに意味があるなんて、そんなことはどんな人でもあり得なかった。俺は依咲のことを思い浮かべながら、それから暫く空を眺めた。しかし、どれだけ好きなものでもいつかは飽きが来るように。俺はぼーっと眺めることに飽きてしまった。
他に俺一人で出来ることと言えば、目を閉じて寝ることぐらいしかない。俺は大人しく瞼を閉じ、雑念を追い払って無になった。すると驚くほどすんなりと、俺の意識は体の奥底へと沈んでいく。もう、指の一本すら動かすのが億劫だった。
「ん……んん、よく寝たなぁ」
次に俺が言葉を発したのは、寝入ってから十二時間以上経った頃だった。窓の外の景色と時計を見て、自分でも心底驚いた。よくもまぁこんなに寝れたものだと、自分で自分に感心する。休日でさえこれほど睡眠に時間を費やすことはないので、なんだか損した気分になった。せっかくのズル休みだったのだから、もっと有意義に使いたかった。もし時間が巻き戻せるのなら、父にゲーム機を要求したい。
「夜だなぁ」
昨日と同じ、少し雲の多い夜。暗い空には明るい月が浮かび、その周辺にちらほらと星の影が見える。その下には見慣れない夜景。すっかり人が寝静まったこんな時間でも、世界の明かりが完全に消えることはない。山の中のような暗さには、どう頑張っても程遠い。空を覆う一面の星々に、今日はとてもじゃないが出会えそうになかった。
「依咲は、今日もあの場所にいるのかな」
自宅のベランダから見える街灯下。その下に、これまでと同じように彼女は一人で立っているのだろうか。俺との約束を守るために、俺が来るのを待っているのだろうか。そう思った途端、俺は無性に帰りたくなった。待ってくれている人がいるのであれば、どんな状況下にいようとも駆けつけたい。けれど、今日ばかりはそれがゆるされそうになかった。なにせ、ここは病院内だ。病院から抜け出すなんて、きっとものすごく大変だろう。俺がいなくなったと知った母を慰めるのは、看護師に謝るよりもずっと大変に違いない。せめて朝日が昇るまでは、大人しくしていなければならなかった。
「明日は。明日こそ、きっと会えるよね」
誰に言うでもなく、俺は夜景を眺めながらその言葉を口にする。それはまるで自分自身に言い聞かせるように、耳の奥で何度も繰り返しリピートされた。
俺が自宅に戻ったのは、七月五日の昼手前。この時間から学校へ行くのは億劫で、今日もズル休みを決行する。昨日と違うのは、俺の手元に携帯とゲーム機があること。暇を持て余した末に寝てしまうなんて、そんな勿体無いことは二度としないと心に誓った。俺はベッドに寝そべってSNSを開き、それに飽きるとゲーム機を起動させる。空腹を感じればキッチンでお湯を沸かし、その辺にあったカップ麺にお湯を注いだ。
なんてことない日常は、いつもより早く過ぎ去っていく。気づけば世界はすっかり夜で、明日は学校か、と思うとなんだか憂鬱になってくる。いっそのこと今週は休んでしまおうか。そう思ったけれど、置いていかれた授業分を取り返すことの大変さは知っていた。自分で周りに追いつくよりも、狭い空間で黒板を眺めていた方がいくらかマシだ。
「あーあ、嫌だなぁ」
心の声が口の端から漏れたが、誰が聞いているわけでもない。俺は自室で一人、携帯を放り投げて宙を見つめた。
「依咲、今日はいるかな」
何気なくそう思った俺はリビングへと向かった。時間はちょうど夕食どきで、キッチンでは母が野菜をリズムよく切っているところだった。父はテレビの前に陣取り、取り込んだばかりの洗濯物を畳んでいる。その脇には熱されたアイロンと、種類の違うシャツがいく枚も積み上げられていた。俺はそんな二人をよそに、スリッパを履かずにベランダへ下りる。背後で小言が聞こえたけれど、今は聞こえないふりをした。
「……まだいないか」
ベランダから下を覗けば、既に電気の灯った街灯がそこにはあった。しかし視界にはただの街灯があるだけで、人の姿は少しも見えない。稀に横から人影が現れるけれど、そのどれもが仕事を終えたサラリーマンだった。キャミソールワンピースを身に纏った女の子は、どれだけ眺めていようとも現れる気配はなかった。
「俺が言った明日って、もう過ぎちゃったよな」
依咲と初めて出会ったあの日。俺は執拗に明日も会えるか聞いていた。その言葉が示す明日は、日付的には七月五日。今から十二時間以上も前の、日付が変わったばかりの午前二時。その時間、俺はまだ病院の一室に入院中だった。
「やっぱり昨日もいたんじゃ……」
街灯の下で、俺のことを待っている依咲の姿が脳裏を横切った。彼女が俺との約束を守ってくれたとしたら、一体どのくらいの間待っていたのだろう。依咲のことだからそう何時間もいなかっただろうけれど、それでも仮に日の出までいたとしたら? いくら夏だからとは言え、女の子を一人外で待たせるなんて、俺はなんと最低な人間なんだ。入院していたなんて、そんなの言い訳にすらなりはしない。
「依咲。今日は俺、ここにいるよ」
今頃、彼女は夕ご飯でも食べているのだろうか。自宅の場所は知らないけれど、きっとそうに違いないと思うことしかできない。今日こそは会いたい。昨日の分も、今日は時間をともにしたい。ベランダで一人、俺は依咲のことを想っていた。
「和眞、ご飯できたよ」
背後でそう言う母の声が聞こえ、俺は再びリビングへと戻った。今日の夕ご飯は母特製の炒飯で、俺は手を合わせてからスプーンを握った。そうして夕飯を食べている間も、テレビ番組を見ている間も、お風呂に入っている間も、頭の中には依咲の姿があった。俺を揶揄う彼女の声が、今は無性に恋しかった。早く会いたい。早く会って、今日はどこへ行くの? と問いかけたい。俺は早く約束の時間になれ、と思いながら、時計の針が進むのを今か今かと待っていた。
「よし!」
そうしてとうとう日付が変わり、俺が依咲と出会った時間になった。民家の窓は明かりを失い、人々が寝静まる時間帯。僅かな湿気をはらんだ風が夏の夜を駆け抜け、俺の肌をさっと掠めて消えていく。俺は父と母が寝入ったのを確認し、玄関のドアをゆっくりと開けた。微かにキィという音が静寂の中に聞こえたが、夢の中までは届いていなかったようだ。俺は開けた扉を静かに閉めると、そのまま内階段を下っていく。
自分の足音が空間に反響し、妙な緊張感が俺の心拍を早めていった。もし近所の住民が階段を上ってきたらどうしよう。俺が夜中に外出していたことが、いずれ確実に両親にバレてしまう。頼むから誰も来るなよ。そう願いながら、一段一段静かに下りていった。そんな願いも、ラスト一段を下り終えた途端消え去ってしまう。住民に出くわす可能性が無くなったわけではないのに、妙な安心感と達成感で胸がいっぱいになった。
そんな状態のまま、俺はベランダ側の街灯へ早歩きで向かう。一分一秒が惜しいとはこういうことなのだと、薄暗い中を歩きながら実感する。
「依咲」
たった一日会わなかっただけなのに、恋しさはまるで何年も会えていなかったときのようだった。
「依咲!」
早く、早く、と俺の心は誰よりも急いている。けれどそんな思いとは裏腹に、俺の足は大して早くならない。
「依咲ぁぁ!」
俺は自宅のマンションをぐるっと回り、例の街灯を視界に入れた。電灯によって明るく照らされた地面を見とめると、再会への期待感がより一層高まっていく。大好きなあの人は、もうすぐそこに立っているはずだ。
「………依咲」
俺の期待感を裏切るように、街灯の下には誰一人立っていなかった。今日も会えないのだろうか。こんなにも彼女のことが好きで、会いたくてたまらないというのに。
「いや、これから来るかもしれないし」
沈んだ気分を持ち直すように、俺は俺自身に向かって呟いた。まだ依咲が来ないと決まったわけではない。今日はたまたま俺の方が早かっただけで、何食わぬ顔で和眞ぁぁぁと言いながら歩いてくるに違いない。そう信じ、俺は街灯の下で待つことにした。あの日とはまるで逆だな、と下から自宅のベランダを見上げて思い、俺は楽しさのあまりふふっと笑ってしまった。人を待つという行為はあまり好きではないのだが、今は不思議とわくわくしているのが自分でもよく分かった。依咲に会うためなら、俺はきっと何時間でも待てるような気がする。それも退屈なんて少しも感じず、終始昂った感情のまま。
「早く会いたいなぁ」
俺は街灯の下で、天を仰いで呟いた。今日も見える一際明るい星々は、昨日と少しも変わることなく煌めいていた。そうして一時間、二時間と時間は過ぎていき、東の空が薄ら白んでくるのが見えた。あれほど明るく輝いていた星は存在を少しずつ弱め、数分後には見る影もない。俺の頭上で煌々と灯っていた街灯は、太陽が顔を出す頃には静かに休眠を始めた。世界はその日の出を喜び、夜の支配者は昼の支配者へとバトンを渡す。寝静まるものがいる中で、寝床から這い出るものがいる。どこからか聞こえるアラーム音は、太陽を歓迎するファンファーレのようだった。
「朝か……」
街灯の根元で膝を抱えていた俺は、明るい日差しに目を擦った。今が何時かは分からないけれど、そろそろ両親が目を覚ます頃だろう。もう三十分もすれば、早い人は出勤や登校を始めるかもしれない。そう思うと、俺も準備を始めなければという気になってくる。けれど、もしその間に依咲が来たら? 可能性は薄くとも、ゼロではない限りこの場から動こうとは思わなかった。たとえそれが、学校をサボることになろうとも。
「和眞。そんなところで何やってんのー!」
頭上から声が降ってくる。その声に顔を上げると、洗濯物を干している母と目が合った。
「何って……」
好きな人を待ってるんだよ。そう言いたいのに、声を絞り出すことすら出来ない。まるで喉の奥がくっついてしまったかのようで、なんだか息がしづらいように錯覚する。依咲は。彼女は。どうして来てくれないのだろうか。昨日長時間待たせてしまったから? それとも、明確な約束を交わしていなかったから? あの日、俺は依咲に惚れた。しかし依咲は、俺のことなんてただの暇つぶしとしか思っていなかったのではなかろうか。一日限りの。いや、数時間限りの遊び相手。そう考えれば、今日来ないことにも説明が付くような気がした。
「いや……いやいや………いやいやいや。そんなこと」
あるわけないなんて、どう頑張っても言えなかった。この状況で何が正しいとか、どれが間違っているとか、一人で考えることは不可能だった。脳内でぐるぐる回る言葉は、既に言語化できる範囲を超えている。今はただどうしても、依咲が来てくれない理由が知りたかった。
「和眞! 学校遅れるよ」
「分かってる。でも……」
「とにかく! 早く上がって来なさい!」
母の声が、周辺の住宅に反響する。本音を言えば、今日一日中でもこの場所にいたかった。依咲がいつ通っても分かるように、片時だって離れたくなかった。けれど、自宅では母が朝食とともに待っている。脳内で父が緑茶片手にテレビを見ている姿が思い浮かび、俺はゆっくりと立ち上がった。自宅が恋しかったわけではない。いつまでもここにいたら、母に叱られてしまいそうだから。理由はそんなもので、諦めたとか吹っ切れたとか、そんなことでは断じてなかった。
俺は重い足取りのまま、真夜中に歩いた道を戻っていく。明かりがあるのと無いのとじゃ、見える景色は随分と違う。それはこれほど歩き慣れた自宅周辺でも、同様に言える事実だった。