11『公衆電話とまた明日』
俺と依咲だけの世界を堪能していると、突然横で「あ!」っという声が聞こえた。
「なに?」
「公衆電話だよ、和眞!」
何故だが楽しそうな依咲を他所に、俺は自動販売機のときよりも嫌な雰囲気を感じた。虫が集まっているわけでも、不穏な空気が漂っているわけでもない。ただそこに公衆電話ポックスがあるというだけで、ホラー映画の一場面を想像してしまう。
「すごい雰囲気だねぇ」
依咲は関心したように、目の前の明かりを見つめている。ボックスの上部に取り付けられた電気が、その下にある電話をぼんやりと照らす。本当に幽霊が出てきそうで、俺は彼女に引かれた手を手前に引いた。
「ん? どうした?」
振り返った依咲は、心配と不思議を混ぜたような目で俺を見つめる。
「あの……手前の道行こうよ。公衆電話の前通らないでさ」
俺たちの進む道には、左右に伸びる細い道が幾つも連結されている。俺はそのうちの一つである、電話ボックス手前の道を指差し、依咲に進路変更を提案した。いずれは左側に曲がらなければならない。それは、きっと今でも問題はないはずだ。本心を言えば、わざわざ恐怖体験をしにあのボックスの前は通りたくない。
「怖いの?」
笑みを湛えた顔を前に、俺は無言で頷いた。けれど、俺はこの顔を前にも見たことがあった。これは、進路を変えずにそのまま行くと決めた顔だ。俺が無人の公衆電話に恐れ慄く様を、楽しみに待ち侘びている顔だ。依咲は、どんなことがあってもこのまま真っ直ぐ進むだろう。俺はそう考え、一人で心の準備をした。
「進路は……このまま直進です!」
「ですよね」
分かりきっていた答えを聞き、俺はなんだか安心した。自分の予想が合ったいたことにも、依咲が依咲であったことにも。
「なんだ、分かってたの?」
「大体はね」
「私のこと、よく分かってきたねぇ」
依咲は先程とは違う顔で、嬉しそうに微笑んだ。俺が知っている依咲は、きっと彼女の半分にも満たないだろう。まだ見たことのない依咲の表情も、話し方も、これから見れると思うと胸が躍る。俺はこうやってひとつひとつ、彼女のことを知っていくことだろう。依咲という人間を全て知るのに、一体何年かかるのだろうか。たとえ百年かかったとしても、俺は喜んで百年を生きるような気がする。
「いざ! 公衆電話へ!」
依咲は拳を天に突き上げると、ドシドシと音がしそうな足取りで突き進んでいく。そんな依咲に手を引かれた俺は、抗うことなくその波に乗る。少しずつ大きくなっていく電話ボックスは、言い表せない存在感を周囲に撒き散らしていた。
「幽霊出ないよね?」
恐る恐る尋ねると、依咲はイヒヒと笑って「どうかなぁ」と曖昧に答えた。オバケが出るか出ないかなんて、相手の気分次第なところはある。自動販売機や山中の民家でさえ出くわさなかったのだから、今回も大丈夫なのかもしれない。しかし、そんな保証は少しも無かった。体内で恐怖が膨れ上がっていくのを感じたが、依咲と手をつなぐことは出来なかった。彼女は今、俺の手首をぎゅっと握りしめている。一方的に握られている状態に、安心と不安が積もっていく。
「この時間の公衆電話って不気味だねぇ!」
テンション高くそう言った依咲は、案の定俺の手を離して公衆電話へと駆け寄っていく。俺の体内に存在していた安心感が一気に消え失せ、その場から一歩たりとも動けなくなった。このまま左の道へ歩き去ってしまおうか。依咲を置いていくことにはなるけれど、たった一人で彼女の元へは行けない。どう頑張っても、足は棒のようになって動かなかった。俺は、これほどまでに臆病だっただろうか。
「わぁ、中入るのいつ振りだろ! 狭ーい」
一人でキャッキャと騒ぐ依咲を、俺は遠巻きに見ることしか出来なかった。公衆電話のどこが面白いのだろう。どんなところが彼女の気を引くのだろう。珍しいところ? 滅多に使わないところ? 狭いところ? どれもしっくりこなかったけれど、楽しそうな彼女を見ているのは楽しかった。けれど、やっぱり理解はできない。
「和眞、そこで何してるの?」
依咲は電話ボックスの扉を僅かに開け、こちらを伺うように見ている。その様は、まるで電話ボックスから出てきたオバケのようだった。これでボックス内の電気が消えてしまったら、俺はきっと泣き叫んで逃げ出すだろう。
「何って……そっちに行きたくないんだよ」
「何もいないよ? 大丈夫、安全確認はバッチリだから」
四方八方がガラス張りなため、ボックス内でされたピースサインがよく見える。俺の精神的にはこれっぽっちも大丈夫ではないが、彼女の言葉を信じたくなった。『どんなときでも依咲の言葉を信じてきたじゃないか』ともう一人の俺が体内で訴えている。確かにそうだ、と思うと、恐怖心の中に無敵な自分が誕生する。今ならば、たとえ幽霊が出てきても倒せてしまいそうだ。そんな心持ちで、俺はゆっくりと一歩を踏み出した。最初の一歩を乗り越えれば、あとはなんてことない。これも、今日どこかで同じことをやった気がする。
「和眞ぁ、公衆電話でかけちゃいけないって噂の番号なんだっけ?」
「知らないよ」
そういった番号を確かに聞いたことはあるけれど、記憶に留めるまでもなく一瞬で忘れてしまう。心底どうでもいいし、知らない番号にかけようとも思わない。『この番号は出てはいけない』系のものもあるが、そもそも登録していない番号からの着信は出ないことにしている。そういった類の噂は、俺には全く必要のないウワサだ。
「四を八回押すんだっけ? んー、なんか違うなぁ」
なんとしても電話をかけたいらしい依咲は、ボックス内で一人唸っていた。かけたって良いことはないと思うけれど、そもそも繋がるのかすら疑問だった。都市伝説並みの情報しかない噂の電話番号は、とてもじゃないがかかるとは思えない。仮にかかったとしたら、それはそれで恐ろしすぎて寝ることだって不可能になってしまう。
「ねぇ依咲。番号を思い出したところで、今の俺たちにはかけられないでしょ?」
「え? 私、公衆電話の使い方知ってるよ?」
依咲は言いながら、電話のボタンをポチポチと押した。
「そうじゃなくて、お金ないじゃん。自販機と違って落ちてないだろうし」
そう。今の俺たちは無一文。電話もかけられなければ、缶ジュースの一本だって買うことは出来ない。自動販売機では、たまたま落ちていたお金で買うことが出来たけれど、公衆電話はわけが違う。ボックスの下が地面に密着していることで、奥に隠れた小銭を探すことは不可能だ。こんな住宅街に小銭がわんさか落ちていることもないだろうから、お金が必要な行為はひとつとして行えない。俺に言われて気づいたのか、依咲は瞳を大きく見開いて「確かに!」と言った。
「タダではかからないよねぇ。緊急連絡くらい?」
「そうなるね……押しちゃダメだからね⁉︎」
「それくらい分かってるよ! 不必要な連絡はしません」
依咲は文末に当たり前でしょ、と付け加えると、依咲は扉を開いてボックスから退出した。
「公衆電話も堪能したし、そろそろ行きますかねぇ」
依咲に真っ直ぐ見つめられたので、俺は「そうだね」と同意を示す。それと同時に片手を差し出し、手をつなぐことを要求した。依咲は思いの外すんなりと俺の要求を飲み、差し出された手に自らの手を重ねる。これで彼女がひとりでにどこかへ行ってしまうことも、俺を置き去りにする心配もない。不安になる原因を自ら取り除くことは、依咲と関わっていく上で最も重要なことかもしれない。
「あの先で曲がろ!」
歩き出した俺たちは、公衆電話の先にある曲がり角を目指した。隣で、同じ速度で、依咲は相も変わらずゆっくりと歩いている。自由気ままに好きなペースで歩くのも良いけれど、こうやって二人一緒に歩くのも最高に好きだ。どちらが好きかと問われれば、それは勿論後者だけれど。
「もうこのお散歩も終わりだねぇ」
人気のない暗い角を曲がりながら、依咲は今日を噛み締めるように言った。改めてそう口にされると、急に寂しさが込み上げてくる。
「お散歩っていう距離じゃないよ」
もう何キロ歩いたか知れないけれど、これをお散歩と形容することはできない。些か歩きすぎだ。これでは普段からお散歩をしている人たちは、外出すらしていないことになってしまう。
「そんなに歩いたっけ?」
「急に記憶無くなっちゃったの?」
俺は依咲の顔を覗き込みながら言った。仮に疲れてはいなくとも、かなり歩いたことは記憶に新しいはずだ。依咲の記憶が消えていたり、別人になってしまっていない限り。
「冗談だよ! たくさん歩いたねぇ」
依咲のアハハという笑い声は、住宅街によく響いた。とても楽しそうな、幸せそうな、そんな笑い声。それを間近で聞いている俺は、特等席に座っているような気分だった。彼女の笑い声をずっと聞いていたい。どんなときも笑顔でいられるように、俺が守ってあげたい。そういう庇護欲がとても自然に湧いてくる。恋心というのは、惚れてしまうということは、かなり厄介な感情だ。
「いやぁ、疲れた疲れた」
思ってもいないことを口にするのは、どうやら苦手らしい。まるで下手な役者のように、依咲の放った言葉は棒読みだった。俺はその言い方にクスッと笑い、そうしてから足元をチラッと見た。彼女が足を踏み出すたびに、足元ではパチパチと水色の火花が散っている。それは周囲を僅かに明るくし、彼女の存在を遠くの誰かに知らしめていた。
『ここに私がいるぞ』と言わんばかりのその火花は、一体誰に存在を伝えているのだろう。俺だろうか。けれど、それでは知らしめる意味がない。俺は今まさに、火花の持ち主である彼女の隣にいる。もっと他の、声も聞こえないような場所にいる人だろうか。それは家族か。はたまた恋人か。いずれにしても、俺の知らない誰かであることに間違いはなかった。そうやって脳内で悶々と考えていると、目の前には既視感のある道路が見えてくる。それは近くの川に行く際に通った道であり、道路の中央線を依咲とともに歩いた場所だった。
「ね! 知ってる道に出た!」
言う通りだったでしょ、と自慢げに言う依咲に、俺は「その通りだったね!」と明るく返す。家に帰ってきたということは、別れが目前に迫っているということだ。たくさんの時間があったはずなのに、もうほんの少ししか残っていない。寂しさと名残惜しさと物足りなさが、俺の感情を一気に占めていく。それでも、『もう少し一緒にいたい』なんて言えなかった。
彼女には俺と同様に明日がある。学校に行くのか行かないのかは知らないが、予定はあるに違いない。まだ十代の俺たちは、さっさと別れて自宅で睡眠を取るべきなんだ。そんな一般論を脳内で無数に生成して、既に見え始めた街灯へと向かった。
「じゃあ、お別れの時間だね」
出会ったときと同じ街灯の下。頭上で煌々と光る電灯は、俺たち二人を平等に照らしている。その下には二人分の影が落ち、明るくなったコンクリートに色を付ける。
「また、明日ね」
この時間が辛すぎて、俺は依咲の顔を見れないでいた。きっと明日も会えるはずなのに。永遠の別れではないはずなのに。すぐそこに建っている自宅へ帰る気は少しも起きない。何とかして一緒にいる時間を伸ばせないものか。帰れない口実を作れないものか。俺はこの場から動かなくていい理由を、どうにかして捻り出そうとしていた。しかし、そんなものがそう簡単に見つかるわけがない。彼女を引き留めておくだけの出来事が、今この瞬間に起こるわけがない。俺はもう、潔く帰る以外の選択肢は持っていなかった。
「うん! また明日!」
一際明るい声が聞こえ、俺はゆっくりと顔を上げた。そこには、これまでと同じような笑顔を湛えた女の子がいた。何も変わらない。明日も明後日も、依咲はこうやって俺に笑顔を向けてくれる。そう思えただけで、何だか胸の奥が軽くなったような気がした。俺は依咲の瞳をじっと見つめ、そしてニコッと笑って見せた。すると彼女も笑顔を返し、顔の横でひらひらと手を振った。
「気を付けて帰ってね」
依咲の家がどこにあるのかは知らない。けれど、きっと近くなのだろう。俺は依咲と同じように手を振ってから、自宅の方へと向き直った。背後に感じる彼女の気配は、俺が歩を進めるごとに薄くなっていく。距離が空いていくことを肌で感じ、振り返ってしまおうか悩んだ。しかし、ここで振り返ったら二度と家へは帰れない。名残惜しさに拍車がかかり、自宅に連れ帰ってしまいそうだった。俺は拳を握り、必死に我慢することにした。本当に恋というのは厄介だ。
「あ! やっと見つかった!!」
背後で、依咲の大きな声がした。何が見つかったのだろう。何を探していたのだろう。興味が我慢を簡単に上回り、俺は反射的に振り返った。
「依咲……?」
そこには誰もいなかった。確かにさっきまでいたはずなのに、その痕跡ごと無くなっていた。声も、影も、存在も。一体どこに行ってしまったというのだ。
「依咲!」
俺はめいいっぱい叫んだ。近所迷惑など少しも考えず、己の感情のままに叫んだ。するとどうだろうか。目の前に見えていた全ての明かりが、一瞬にして消え失せた。まるでブレーカーを落としたみたいに、それは突然訪れる。肉眼で見えるものは、既に何一つ存在していなかった。