10『ワンピースとオーラ』
俺はふーっと息を吐きだし、歩きながら周辺を見渡した。彼女があれほど大きな声で騒いだというのに、誰ひとり様子を見に来ようとはしない。みんな寝るときは耳栓でもしているのだろうか。それともこの辺には誰も住んでおらず、道路を使う人がいないのだろうか。こんなにも他人に出会わないなんて、さすがに違和感以外の何物でもない。
「火花と関係でもあるのか?」
違和感を感じるものが二つも同時に存在すると、それを関連付けようとしてしまうのは人間の性だ。それは俺にも同様に継承され、花火と無人を関連付けずにはいられない。何も無ければ、無関係ならば何の問題もない。不思議なことは山のようにあるけれど、そういうこともあるだろうと割り切ってしまえばそれでいい。今はとにかく、依咲の元に行くのが先決だ。
「和眞、鳥は?」
空いていた距離が短くなると、依咲の何気ない言葉が聞こえるようになる。
「疲れたから、とっくにやめたよ」
俺たちにしか伝わらない秘密の問い。そう思うと、胸の奥に特別感が沸き上がった。この数時間も俺と依咲だけが共有した特別な時間だけれど、問いは合言葉のようで俺の心を擽った。問いに対する返答を聞いた依咲は、「疲れたとか言わないでよぉ」と頬を僅かに膨らませている。普段から全身運動や筋トレをしていない俺には、腕を真横に上げ続けているだけでもキツイのだ。その上鳥のように羽ばたかせるなんて、下手したら俺の腕は再起不能になってしまう。いくら依咲に強要されたとしても、腕が無くなってしまうのは勘弁してほしい。
「そうだ、依咲。足元でなんかしてる?」
歩くたびに靴底が光るスニーカーがあることを思い出した俺は、ゆっくりと歩きながら依咲に問うた。彼女が靴を履いていないことは分かっているが、何か似たような、光るミサンガ的な何かがあるかもしれない。
「ん? なんかってなに?」
依咲は理解できない、とでも言うように、俺の顔を見ながら首を傾げた。その瞳は、純粋に疑問だけを映し出していた。
「ほら、足元が光ってるでしょ? 今だって……見た?」
僅かに動いた足元で、遠くから見えていた火花がパチッと散った。その火花は、硬い場所に水滴が落ちたときのような弾け方をしている。その柔らかな火花の隙間では、白い粒子が同じく弾けては消えていく。出会ったときはなかったものが、この距離でもハッキリと視認できた。
「足元?」
彼女は自分の足元をじっと見つめながら、その場で数回足踏みをする。するとやはり水色の何かは弾け、足元を色鮮やかにキラキラと縁取っていた。けれど、何度見てもなぜ光が弾けるのかは分からなかった。依咲は俺と同じく靴を履いておらず、足首にはミサンガの陰すら見えない。無い頭で考えた予想は、何ひとつ当てにはならない。
「和眞が何言ってるか、私には全然分かんないんだけど……」
「分かんないって、俺そんなに難しいこと言ってないでしょ?」
足元の光の正体は何なのか、とそう聞いているだけだ。難しい漢字の読みを聞いているわけでも、数学の難問の解き方を聞いているわけでもない。依咲と同じ言語を話している以上、言葉が伝わらないなんてことも起こらないはずだ。俺は依咲が何を理解できないのか、ちっとも分からなかった。
「難しくはないけど、でも分かんないよ。だって……足元には何もないんだもん」
「そんなわけないだろ。水色の火花みたいなのが散ってるじゃん」
「散ってないよ。そんな変なもの、私には見えない」
ハッキリと、依咲は俺に向かってそう言った。見えてないなんて嘘なんじゃないか。また依咲に揶揄われているだけなんじゃないか。なぜなら、何度見ても足元で何かが散っているから。俺にはこんなにもしっかり見えているのに、どうして本人には見えていないのだろう。なぜ俺にだけ少しの曇りもなく見えるのだろう。全て依咲に聞けば解決するかもしれないと期待していたけれど、疑問は一層深まるばかりだった。
「本当に見えないの?」
「見えないよ。そもそも、私に見えてたら和眞より騒ぐと思わない? 見てぇぇぇぇ! って絶対に言う自信しかない」
どんな自身だよ、とツっこみたくなったが、俺はその言葉に妙に納得してしまった。依咲は、どんなことでも全力で楽しむところがある。長い道を歩くこと然り、蝶々を追いかけること然り。そんな人間が、足元が光るという怪奇な現象を見逃すはずがない。彼女自ら言ったように、きっと俺にこれでもかと見せびらかすに違いない。俺の周りをぐるぐると歩き回り、その場で数えられないほど足踏みをするだろう。足を下ろすごとに弾ける光にケタケタと笑い、とても楽しそうにする様が目に浮かぶ。けれど、彼女はそんな言動を一切しない。依咲は本当に、この不思議な現象が見えていないのだろう。
「ねぇ、和眞にはどう見えてるの? 火花ってなぁに?」
興味津々に聞いてくる依咲に、俺は見たままを伝えた。すると依咲は「ほぉ」と、とても興味深そうな声をあげた。自分の足元で起こっていることに関心を示さないものはいないだろう。それが見えないとなればなおさらだ。依咲は何とかして見れないかと、その場で高速足踏みを繰り広げた。それでも見えないと分かると今度は足の裏をじっと見つめ、掌で叩き、足元を見ながら小走りをする。それでも、なぜだか依咲の目には何も見えなかった。
「見えないんだけど……和眞にだけ見えるのずるくない?」
「そんなこと言われても、俺だって見たくて見てるわけじゃないよ」
「嘘つけ! 見たくて見てるくせにぃ」
言いがかりでしかないけれど、俺だけ見えることへの違和感は自分が一番持っていた。見える人間が一人でも二人でも大差ないのだから、依咲にも見えたらいいのに。しかし、これを誰に言うのが最善かは分からない。火花について神に言っても、きっと何も変わらないはずだ。俺たちはこのまま、一人だけが見えない状態で進み続けるしかない。
「見えないなぁ。歩いてたらそのうち見えるようになるかな?」
「さぁ、どうだろ。なるかもしれないし、ならないかもしれない」
「何それ。曖昧だなぁ」
呆れたとでも言うように、依咲は大きなため息と吐いた。曖昧だと文句を言われても、俺にはどうしようもない。未来が見えるわけでも、依咲に火花が見れるように出来るわけでもない。確定できないものを、絶対という言葉を用いて表現するのは気が引けてしまう。
「まぁいっか。いつか見えるようになるでしょ」
どうしようもないと理解したのか、依咲は軽い声音でそう言った。そうして再び歩き始めると、夜風がさぁっと吹き抜けた。何も遮るもののない幅広の道路は、湿度を程よく含んだ風を余すことなく通らせる。風があるだけで、夏の夜はいくらか快適に感じることができた。
「涼しいねぇ」
依咲の髪は、彼女が歩くたびに尻尾のように揺れている。ワンピースの裾は風によってふわりと舞い上がり、カーテンよりも儚く靡いている。依咲は夜風を全身で受けるように、真上に向かって伸びをした。細く綺麗な腕が付き上げられると、まるでリプレイのように裾が上昇する。依咲の後方を歩いていた俺は、その様子を一部始終見ていた。ダメなことだとは分かっている。見ない方がいいと、頭では理解している。それでも、こういうときに限って本能が邪魔をする。視線を逸らすなと、悪魔が耳元で囁いている。
「いい夜だねぇ」
今この瞬間を楽しんでいる依咲の後ろには、欲求に片足を沈めた俺が立っている。依咲が危ない、ともう一人の俺がすぐそこで騒いでいた。そんな俺に応えたのか、それともたまたまなのか。一際強い向かい風が、何の遠慮もなく吹き付けてきた。俺の髪が耳元でさらさらと揺れている音が聞こえる。俺は思考を全て放棄して、その場にただ立っていた。無遠慮に吹き抜けた風は、裾の上がったワンピースを舞い上げた。ふわりふわりと揺蕩うように舞い上がったワンピースは、ひとりでにその内部を露わにする。
「………白」
目の前に見えた色を、俺はそのまま口にすることしか出来なかった。これは現実だろうか。俺の願望が作り出した幻想だろうか。いずれにしても、長年の願いが叶ったような心地だった。
「!! 見た!?」
舞い上がったワンピースの裾を両手でしっかりと持ちながら、依咲は慌てたように振り返った。まるで乙女ゲームのような展開に、俺の思考は驚くほど機能していなかった。ただ茫然と、依咲だけを見つめること以外出来ない。
「和眞……見たでしょ」
「………いや、どうだろ」
彼女が怒っているのか恥じているのか、そんな単純な判別すら今の俺には難しい。もはや自分が何を口にしているのかも理解できず、心ここにあらずの人形に成り下がっていた。
「正直に答えて。色は……?」
「白……」
俺が見たままを口にすると、彼女の顔はみるみるうちに赤に染まっていく。その様子を見て、ようやく俺の思考が戻ってきたような気がした。依咲の質問に答えるべきではなかったかもしれないと、そう思っても既に遅かった。こうなったらビンタだろうと暴言だろうと、甘んじて受け入れるしかない。なぜなら、俺はそれ以上のことをしてしまったから。幸せには毒がつきものなのだ。
「………………エッチ」
紅潮した顔で微笑むと、依咲は小さな声を発した。依咲も照れることがあるのかと思うと、なんだか親近感が湧いてくる。
「健全な男子高校生ってことで」
俺は言いながら体の前で両手を合わせた。申し訳なさは多少あるけれど、行動自体に感情はこもっていない。
「健全ねぇ。まぁ、別に減るものじゃないからね。よくはないけど、いいよ」
矛盾した言葉を俺に向かって放ち、彼女はくるっと前方を向いた。細い腕は後ろで組まれ、ワンピースが舞い上がるのを防いでいるようだった。俺の中に多少なりとも存在する罪悪感は、そんな依咲の後方を歩き続けることを許さない。また依咲の中身を見るようなことがあれば、この先にある橋から突き落とされることだろう。本望と言えば本望だが、些か命を落とす理由としては格好がつかない。どうせなら、愛しい人を守ってから逝きたいと思うのは当然だった。
「許してくれるの?」
俺は依咲の背を小走りで追いかけながら、声を張って問いかけた。
「許すも何も、見えちゃった過去は変わらないでしょ? だからもういいの。ちっともよくないけど、いいってことにするの。でもね」
依咲はそこで言葉を区切り、右手で拳を作ってからこう続けた。
「また見たら、今度は怒るからね」
顔の横に掲げられた拳は、何故だか妙に大きく見えた。俺は掲げられた拳と依咲の顔を交互に見遣ってから、頷きながら「分かった!」と力強く告げる。そんな大きな拳で殴られたら、俺の体は紙のように薄くなるだろう。そうでなくとも、四肢は使い物にならなくなりそうだ。
「いいお返事です」
依咲はニコッと笑ってそう言ったけれど、微笑ましい笑顔とは程遠く感じた。仮に依咲を怒らせてしまったら、きっとただでは済まないだろう。彼女の笑顔を隣で見ながら、俺は命の危機を僅かに感じていた。
手を繋ぐことなく、俺たちは自由に道路の真ん中を歩いていた。手から依咲の温もりを感じながら歩くのもいいけれど、自由に伸び伸びと歩くのも案外いいものだ。腕をどれだけ動かしても、どんな速度で歩いても、誰にも迷惑がかからない。そんな時間も捨て難いが、ほんの少しだけ温もりが恋しくもあった。けれど、依咲に『手がつなぎたい』とは口が裂けても言えなかった。彼女も今、俺と同様に自由に伸び伸びと生きていた。その時間を奪ってしまうのは、なんだか申し訳なくなる。別に手をつなぐ必要は少しもないのだから、そのまま家に帰っても問題はなかった。
「和眞、こっちの道行かない?」
隣を歩いていた依咲は、急に立ち止まって右側を指差した。大通りから逸れたその道は、車がギリギリすれ違えるような細さの道だった。勿論、街灯の数はガクンと減る。地面に影が落ちるほどの明るさから、再びあのような暗さの場所に向かうのは気が引けた。本音を言えば、少しだって行きたくはない。
「この道のままでもよくない?」
逸れた道を進みたくない俺は、進行方向を指差して言った。この道を真っ直ぐ進んだって、家には帰れるんだ。わざわざ暗闇の中を進む必要はない。
「行きで通ったでしょ? 別の道通りたくない?」
「別に……」
確かに探検感があって楽しいかもしれないけれど、それは必ずしも今でなくてはいけないというわけではない。明日の昼間でも、夕方でも、何も問題ないはずだ。今は探検よりも、無事に帰る方を優先させたい。
「つまらないなぁ。ほら、行こうよ」
「嫌だよ」
「なんで?」
「だって暗いじゃん!」
街灯に照らされて、俺たちは道のど真ん中で言い合った。内容はとてもしょうもないこと。しかし、今の俺には命の次に大切なことだった。もう山奥のような、言葉にできない曖昧な恐怖は要らない。それよりも、こうやって明るくて広い道を2人でゆっくり歩きたい。けれど、依咲は全く正反対の意見を持っていた。変化を求めない俺と、退屈を嫌う依咲。勝ったのは、勿論依咲だった。
「ごちゃごちゃ言ってないで、こっちから帰ろ!」
俺の言葉を全て無かったことにして、依咲は俺の手首を掴んだ。じんわりと汗をかいている手首に、知っている温もりを感じた。依咲は少々強引に俺の手を引くと、右側の細い道へと進んでいく。嫌だ、怖い、と思うのに、依咲がいればどうにかなると思っている自分がいた。なんだか依咲の手の上で踊らされていそうだけれど、不愉快はないのだから問題ない。こうして強引に手を引かれても、マイナスな感情よりも先に安心感が湧き出てくる。俺は、とことん彼女のことが好きだった。
「こっちからでも帰れるんだよね?」
行き当たりばったりで進路を変えるのはいいけれど、自宅に辿り着けないのでは意味がない。彼女のことだからその辺は考えていそうだが、万が一ということもある。俺が依咲のことを買い被りすぎている可能性は否定できず、一抹の不安が安心感の横で顔を出していた。
「帰れるよ! 大丈夫。なんとなく家の方向に歩いてれば、いつかは知ってる道に出るから」
依咲は自信満々にそう言うけれど、分かりやすく言えば『帰り道は分からない』ということになる。そんな状況で大丈夫と言い切ってしまうあたりが、俺の中の不安を増幅させていった。
「そりゃ、いつかは帰れるかもしれないけどさぁ」
片手を引かれたまま、俺は半ば諦めたように口にした。ここで俺が大通りに戻ろうとしても、きっと彼女はそれを許さないだろう。掴んだ手は離してくれそうになく、説得に応じるとも思えない。依咲にはこうと決めたら絶対に譲らないような、そんな真の強さが確かにあった。出会って間もない俺でもそう感じるのだから、大して間違ってはいないように思う。そして俺自身も、そんな依咲のことを受け入れている節がある。どうにもならないからとか、変えられないからとか、そんな理由ではなく、ただ単純にそんな一面も好きだった。もしかしたら、俺は多少強引な人がタイプなのかもしれない。
「心配することないって。和眞にはスーパーガールの私がいるでしょ?」
俺の顔を覗き込みながら言う依咲に、俺は反射的に「うん」と返してしまう。けして頼り甲斐があるわけでもないのに、本当にどうにでもなるような気がした。
「依咲には不思議なオーラでもあるのかな?」
「オーラ? さぁ、そんなこと一回も言われたことないけど」
「でもきっとあるんだよ。不思議と大丈夫だなって思っちゃう何かが」
そう思うのは俺だけなのかもしれない。恋をしているから、そういう補正がかかっているのかもしれない。だとしても俺はそれでよかった。好きな人のことを信じられるということは。信頼できるということは。きっと何よりも大切で重要なことだと思う。この先依咲がどんなことをしでかしたとしても、俺は全て受け入れて、ますます惹かれていくに違いない。先に彼女に惚れた俺は、依咲のどんな一面を見てもその熱は冷めないだろう。惚れたもの勝ちと言うやつだ。
「ふーん、そっか。自分じゃ分かんないから、いまいちピンとこないけど」
興味なさげな声音を発し、依咲は小さなあくびをひとつした。普段なら寝ている時間なのだから、眠くなったとしても仕方がない。けれどこんな場所で寝るわけにもいかず、依咲は夜の街をゆっくりと歩いていく。すっかり自然が少なくなったこの道は、両脇に民家がずらっと建ち並んでいる。それらの窓は全て暗く、寝息が聞こえそうなほどしんと静まりかえっていた。