1『裸足と線の外』
『だからね、ずっと言ってるじゃん。今時ラブレターなんか書いたりしないって。告白するにしても電話かラインでしょ?』
「分かってるよ。でも、手紙の方が伝わる気持ちだってあるでしょ?」
『そんなこと言ったって、振られたら意味ないじゃない。どうしても手紙がいいって言うなら直接渡しなさいよ。下駄箱に入れておくなんて、昔のドラマでしか見たことない』
電話口の女性が笑い交じりにそう言った。俺はなんだか馬鹿にされたようで、今すぐ電話を切ってやろうかと思った。けれど、今ここで切ったとしても再びかかって来るに違いない。俺は仕方なくベッドに座り、携帯電話を耳に当てたまま開いてあった数学の教科書を眺める。
「それに、告白なんてもう一週間も前の話だよ。せっかく受け入れられるようになったのに、姉ちゃんのせいで傷が開いたよ」
開かれた数学の教科書には、日本語よりも数字や記号が多く書かれている。意識して見なければ、俺にだって何が書いてあるのか分からない。
『ごめんごめん。まぁ、次の恋があるよ。異性なんて他にもたくさんいるんだから』
「俺はあの子が良かったんだよ。……姉ちゃんだって今の彼氏最高って言ってたじゃん」
『言ったけどさぁ』
姉は間延びした声を上げ、それから暫く黙ってしまった。何かを考えているのか、携帯を放り出してどこかに行ってしまったのか、あいにく俺には分からなかった。
「切るよー!」
少し大きめの声でそう言うが、聞こえているのかは分からない。電話口から聞こえるのは冷房の起動音らしき雑音だけだった。
「何なんだよ」
文句を言いながら電話を切ると、携帯画面の上部に現在時刻が表示される。今は七月四日の午前二時。明日も学校があるのに、こんな時間まで姉と電話をしてしまった。恋愛相談をする相手を間違えたな、と今になってそう思う。もっと相談に適した人に言えばよかった。友達とか、せめて母親に。
古いとか、次があるとか、姉は俺の気持ちなんて少しも分かってないんだ。振られたからすぐ次なんて、そんな気分にはどう頑張ってもなれそうにない。あいにく俺は姉のようにお気楽ではないんだ。
俺は眺めていた数学の教科書を閉じ、自室の電気を消した。部屋の中に外からの明かりが微かに差し込み、家具の輪郭が朧げに浮かび上がっている。俺はそのまま部屋を出て、隣のリビングへと歩いて行く。暗闇の中であっても俺は何かにぶつかることはない。もう何年も住んでいる家なのだ。どこに何があるか全て頭に入っている。
「母さんと父さんは寝てるのか?」
この家の電気は既に全て消えている。もちろんリビングには誰も居らず、物音ひとつだって聞こえてこない。聞こえるのは裸足で歩く自分の足音だけ。夜特有の少し不気味な空気が、俺の全身を静かに包んでいる。日中の暑さはないものの、僅かにじっとりと湿気を含む風が吹いている。きっと明日も暑いのだろう。少しぐらい涼しくなってくれないかな、なんて思いながら、俺は窓の網戸を開けた。ベランダに置かれたスリッパを上から踏み、向かい側の塀に寄りかかる。そうして下を眺めると、昨日と同じ景色が目の前に広がっていた。
「今日も居る」
そう、今日もその人はそこに居た。マンションの五階から真下を見ると、そこには車が数台停車した駐車場が見える。その僅か先に立つ、ひとつの街灯。その街灯の下に、一人の女の子が立っている。昨日も一昨日もその前も。一体いつからそこに居るのか分からないけれど、少なくとも今日で四日目だった。
こんな時間にあんなところで何をしているのだろうか。見た感じ誰かを待っている風ではない。体ひとつで街頭の下に立つ女の子が、俺にはどうも不思議でならなかった。それに、こんな時間に未成年らしき女の子が一人で立っているなんて、警察の補導対象だ。誰かが警察に連絡してもいいだろうに、あいにく誰かが話しかける様子はない。
「何してるんだろうなぁ」
俺は塀に頬杖をつきながら、手にしていた携帯電話のカメラアプリを起動した。画面内に遠くの女の子を捉え、もう片方の手でズームしていく。暗闇は画面の中でモザイクのような形を作り出し、街灯下の女の子を曖昧に映し出す。後ろを向いているから顔は分からないけれど、何となく何かが分かったような気がした。
「ねぇ、それ使って何してるの?」
知らない声が近くで聞こえた。
「え?」
誰か起きてきたのだろうか。俺はそう思って振り返るけれど、そこには闇だけが佇んでいた。空耳か、はたまた幻聴だろう。未体験な感覚に強引に名称を付け、俺は再び携帯画面を覗き込む。
「ぉわ!!」
驚きのあまり片足を引いてしまった。女の子の全身を捉えていた画面には、今や肌の色しか映っていない。それどこか視界のすぐ先に、俺と同じくらいの身長をした女の子が立っている。
「ねぇ、何してるのって」
女の子は俺の携帯を指差しながら、一歩だけ俺の方に近づいてきた。それに対抗するように、俺はもう一歩だけ後ろに下がる。すると女の子も同じように一歩だけ近づいてきて、俺たちの距離は少しも変わらなかった。最終的に俺が車にぶつかったことで謎の戦いは終わったけれど、現状を飲み込むには些か短すぎだ。
「まぁいいや」
女の子はそう言ってから俺の顔をじっと眺め、ニコッと満面の笑みを浮かべた。背後に見える街灯は女の子と重なり、後光の如くこちらを照らしている。暗闇でも分かる肌の白さと、それよりも白いキャミソールワンピースが、俺の視線を釘付けにする。なんて綺麗な人なんだろう。本当に心の底からそう思った。
それらの白さを際立たせるように、後頭部で高く結われた黒髪が夏の風にふわりと揺れる。俺は夢から覚めることを懇願するように、何度か目を擦ってみせた。けれど何度やっても目の前の女の子が消えることはなく、それどころか自宅に戻ることもなかった。そもそも、俺はどうして下に下りているんだろう。ついさっきまでベランダにいたはずなのに。遠くにいる目の前の女の子を見ていたはずなのに。思えば疑問なんて次から次へと湧いてくる。しかしそれに明確な答えが貰えるわけもなく、それは目の前の人に問うても同じだった。
「君がここに居るのは何故か? そんなの私が知ってるわけないじゃない。私たち初対面だよ?」
「そう、ですよね」
何はともあれ帰らなければ。こんな時間に外に出ていたと親に知れれば、怒られることはまず間違いない。バレる前に静かに帰ろう。そう思って携帯を握りしめ、自宅に帰ろうとした時だった。携帯を握っていない方の手を掴まれ、俺の歩みはいとも簡単に止まる。
「あ、えっと……」
女の子が俺を止める理由は分からなかった。待ち合わせている人が来るまで傍に居てほしいのか、それともカメラを向けていたことを咎められるのか。いずれにしても少しだけ嫌な予感がした。
「ねぇ! もしかして今暇?」
無邪気な子どものように、俺の手を掴んだ女の子はそう言った。こんな真夜中に太陽のように明るい顔を向けられて、俺は少しだけ怯んでしまう。明日も学校だと、その言葉さえ喉の奥に詰まって出てこない。半ば心霊体験でもしているような気分になって、身動きのひとつもできなくなってしまった。
「暇だよね! 私の探し物が見つかるまで、少しだけ付き合ってよ」
強引に手を引かれ、俺はなすすべが無かった。俺は別にか弱いわけではない。女の子なんかに負けないくらいには力があるつもりだ。それでも、掴まれた腕を振り払うことはおろか、歩みを止めることすらできなかった。ただただ女の子の背後を、腕を引かれながらついて行く。こうなったらなるようになるしかないと、俺は一人静かに腹をくくった。
先を歩く女の子は、俺に構わずどんどん歩き進んでいく。どこに向かっているのかも分からない状況で、俺はあくびをひとつした。真夜中の世界は、いつも見ていた景色とは僅かばかり違っていた。知っている道が全く知らない別のものになり、どこをどう歩いているのかさえ分からなくなる。こんな道あったか? と、疑問に思う場所さえあった。
「夜はいいでしょ?」
女の子の声だけが後方に流れていく。俺はいろんな感情を込めて「うん」とだけ返し、顔の変わった近所の街を見続けた。いつもは車通りの激しい道も、この時間は一台も通ってはいなかった。前も後ろも、歩いているのは俺と女の子の二人だけ。まるで世界に二人きりになったかのような、そんな中二病的な感覚を自然と抱いてしまう。それを察したのか、女の子は通りの中央を歩き出した。
そうして中央線を綱渡りするように歩くので、俺も真似してそうやって歩く。車が来たら危ないな、と思いつつ、普段出来ないことをしていると思うと興奮した。と、そこで俺は靴を履いていないことに気づいた。裸足で外に出るなんてどうかしているとしか思えなかったけれど、前方を歩く女の子も同じく靴を履いていなかった。
「あの、靴はどうしたんですか?」
俺がそう言うと、女の子は大きく足を上げながらまた一歩踏み出した。
「さぁ、気づいたらなかったよ。どこかに置いてきちゃったのかな?」
楽しそうにアハハと笑いながら言うので、この際靴云々はどうでもいいように感じてきた。靴を置き忘れたとか、そもそも履いていないとか、そんなちっぽけなものはこの夜の世界ではとても小さなことなんだと思う。その証拠に、道路の左右に立ち並ぶ街灯は俺たちを明るく照らし出している。スポットライトは、ときに心までもを輝かせてくれる。
「ところで、探しものって何ですか?」
長いこと街灯の下にいた意味がそれだとしたら、もうこの辺にはないのかもしれない。ものすごく小さいものなら、夏の風に乗ってどこかへ飛んで行ってしまったかもしれない。既に手遅れだろうなと思いながら聞いたのは、一緒に探してあげようとか知り合いに聞いてあげようとか、そんな善意からではない。ただ単純に気になったから。毎日決まった時間に居るその人が、一体何を探しているのか興味があったから。聞いたって俺はきっと一緒に探してなんかやらない。特に冷酷な人間ではないつもりだけれど、そこまでしてやる義理はなかった。
「とっても大切なもの。生まれたときからずっと一緒だったの。もう随分探してるんだけど、なかなか見つからないんだよね」
「そんなに大切なものを、どうして無くしちゃったんですか?」
俺がそう言うと女の子は立ち止り、腕組みをしながら「うーん」と唸り声を上げた。
「なんでって言われると、うっかりしてたとしか言えないんだよなぁ。道端に咲いてた花を見てたら、いつの間にか見失ってたの。どこか知らないところに隠されちゃったんだよ」
「猫か何かですか?」
女の子は首を振り、そんなに可愛いものじゃないよ、と言った。
「無機物ってわけでもないんだけどね」
どこか遠くを眺めながら、女の子はそう言って再び歩き始めた。有機物な探し物……範囲が狭まったようでいて、きっと大して変わってはいない。どんなに大切なものであっても、どこかに行ってしまったものを見つけるのは至難の業だった。いっそのこと警察犬にでも探してもらえれば可能性はありそうだけれど、ただの探しものに多忙な警察犬が出動するわけがない。探偵に依頼するのも一つの手だが、何分お金がかなりかかってしまう。そうなると、やはり自力で探す他なかった。他人のことだから「諦めなよ」と言うのは簡単だ。けれど、探している本人を前にして口にできることではなかった。
俺が言ったって、きっと気の済むまで探すだろう。自分だったらそうするから、きっとこの人もそうするだろう。そうじゃなきゃ連日真夜中に外出したりはしない。
「あ、そうだ。全然敬語じゃなくていいからね」
女の子はこちらに振り返りながら言った。そうは言われても、初対面の人とため口で会話するなんてできない。
「そんなことできません」
「なんで? 私たち友達でしょ?」
髪を靡かせながら、女の子は当然だと言いたげな瞳を向けてくる。まだ出会って数分しか経っていない。友達と言うには時が短すぎる気がした。
「友達同士の会話に敬語は不必要でしょ? 君は違うの?」
「そうだけど、そうじゃないでしょ。俺と君が友達なんて、まだちょっと早いよ」
友達の定義は分からないけれど、俺自身友達と呼べる関係になったとは思えなかった。
「友達に早いとか遅いとかないよ!! とにかく、私たちは友達なの! 分かった?」
「えぇ……」
俺が困惑しているのがおかしいのか、女の子はケタケタと笑ってこちらに歩み寄ってきた。その際も中央線を踏み外さないように慎重で、なんだかそれが変に面白かった。
「何笑ってるの?」
女の子は首を傾げ、ふふっと笑う俺のことをじっと見つめた。
「いや、何でもない。ちょっと可笑しかったから」
「何よ、私何も変なことしてないよ?」
「まぁ、うん、そうだね。君は普通だ」
何がそんなに面白かったのか自分でも分からず、俺はその場から逃げるように女の子の脇を抜けようをした。しかし中央線から足を踏み出そうとした瞬間、「ちょっと!」と言う声とともに腕を掴まれた。
「何?」
「線の外は奈落よ。落ちちゃうじゃない」
「何それ」
本当の奈落があるわけでもあるまいし、そこまで本気になる理由が分からなかった。けれど女の子の顔があまりに真剣だったので、俺は潔く線の上に足を戻す。すると女の子の表情は穏やかになり、掴まれた腕も離された。
「よろしい」
そう言って踵を返して歩いて行く後ろ姿を、俺はその場で茫然と眺めていた。正体の知れない女の子は、そんな俺に構わずどんどん進んでいってしまう。白いキャミソールワンピースをひらりと揺らしながら、夏の闇に消えいってしまうかのようだった。俺は早足で白い背中を追いかけ、思わず手を握ってしまった。
「ん?」
金糸のように綺麗な黒髪が揺れる。
「あ……いや、何でもない」
衝動的に掴んでしまった腕から手をパッと離し、前に進むこともできないのでその場に立ち尽くしていた。なんだか気まずい。
「なになに? 私のこと恋しくなっちゃった?」
「そんなわけないだろ! ほら、早く歩いてよ。後ろがつかえてる」
「後ろなんて誰もいないじゃん」
女の子は俺の片口から後方を眺め、残念がるような声を上げた。こんな時間に道路の真ん中を歩いている人は俺たち以外にいない。居たら、それはそれで驚く自信がある。
「仕方ないなぁ、じゃあ手、繋いでてあげる」
女の子は片手を差し出し、俺は素直にその手を握った。そうして数歩歩きだしたところで、「繋ぎながらだと歩きづらいね」とニコニコしながら口にした。楽しそうな人を見ていると、なんだかこちらまで楽しくなってくる。ただ道路の中央線を歩いているだけなのに、旅行に行くときのような高揚感が沸き上がってくる。それは、普段は寝ている時間だということもあるのだろう。夜中にラーメンを食べるときと同じで、俺の胸中には罪悪感と背徳感が共存している。そして何より、女の子と二人きりというのが、俺の感情を引き上げている最も大きな要因だった。
俺だって一人の男だ。異性とこうして手を繋いでいる状況に、胸が躍らないはずがない。改めてそう思うと、なんだか少し緊張してきた。話題を提示した方がいいのだろうか、なんて、合コンにでも行ったかのような心境を抱いてしまう。しかし、俺たちはついさっき友達になったばかり。恋人として意識するのはさすがに早いと誰だって分かる。それに、俺は振られたばかりなんだ。傷心を癒すために新しい恋をするにしても、もう少し後の方がいいだろう。そう思って意識しないようにしても、目の前をウキウキと歩くその姿はどうしても視界に入ってしまう。視線をずらせば、俺の体はいとも簡単に奈落の底へと落ちていくだろう。彼女が真剣な手前、俺が不真面目になるわけにはいかなかった。
「あのさ、今更なんだけど」
俺の言葉に歩みが止まる。
「なーに?」
立ち並ぶ街灯に照らされた白い肌が、この世のものとは思えないほど綺麗に見える。彼女の瞳が俺を捉え、光を受けてキラキラと輝いていた。
「君のこと、なんて呼べばいい?」
言ってから本当に今更だな、と自嘲する。街灯の下で会ったときに、もっと言えば手を引かれたときに聞くべきことだ。仮にも友達なら名前ぐらい知っていなければ不便で仕方ない。そう思っていたのは俺だけではないようで、彼女も「確かに」と言いながら再び足を止めた。
「じゃあ私からね」
彼女はゴホンと大げさに言ってから、空いている方の手を胸の前に置いた。
「私は依咲。依存の依に咲くで依咲。歳は十七で、あとは……ちょっと思いつかない」
「同い年なんだ……」
「君も十七なの?」
驚いたような顔をする彼女に、俺も同じくゴホンと口にしてから続ける。
「俺の名前は和眞。平和の和に、片仮名のヒが付く真で和眞」
「和眞かぁ、カッコいいね。私の名前は可愛い!」
自信満々に言うもんだから、俺は否定する気も失せてしまった。いや、元から否定する気も意見する気もないけれど、ここまでいくといっそ清々しい。それにしても珍しい名前だ。「いさ」なんて名前の人には会ったことがない。そもそも人の名前に大した関心もないけれど、それでも依咲という名前は目を引く。同じ学校に同じ名前の人がいたなら、どんな人か気になるぐらいには興味が湧くかもしれない。
「では和眞! 改めてよろしくね」
繋ぎっぱなしの手をぎゅっと握られ、それに答えるように俺もぎゅっと握り返す。
「よろしく、依咲」
お互いに笑みを湛えながら、どちらからともなく歩き出した。進む先は同じく中央線の上。左右には無限に広がる奈落があり、綱渡りのような状況は自己紹介をしても尚、変わることはない。前や後ろには車どころか人影すらなく、どこまでも続く長い道に俺たちは二人だった。