月夜見の器
異能の力を有する者たちと警察官という立場から相対する一人の女性の物語です。
月夜見の器
凍えた
屍の臭いはもう消えた
一瞬たりとも
恨んだ時を後悔はしなかった
失われた宝物
私は生きている
天使でも
悪魔でも
すがるものは何でもよかった
それでも
何かが救われる
それでも
明日が訪れる
東京都内とはいえ夏は三十度を下回る事も多いここ奥多摩に、今年も厳しい寒さを感じさせる冬の匂いを含んだ夜風が吹いている。
月夜見山第一駐車場。山から昇るように見える月と手前に見えるススキが調和して冬が近い秋の夜を静かに演出している。
そんな中、人工的な明かりが無く深夜には封鎖されているはずのその場所に二つの人影があった。
その人影の一つは若い女性、もう一つは年老いた男。
男は女に背を向けている。
「どうしてわかった」
「どちらの意味でですか、それは・・・」
「・・・・・・」
男は静かに肩越しに顔だけを女の方に向けた。しかし、その眼には月明かりしかないこの場所でも判るほどの強い光りが宿っていた。
まるで月光が、その眼の光に共鳴しているかのように・・・・・・。
「はい!こんにちは~」
「こんにちは~」
北奥多摩警察署は月に一度、交通課と生活安全課の共同で奥多摩町の学校や老人ホームで防犯指導を兼ねたイベントを開催していた。最も規模はそれ程のモノではなく時間も小一時間程度のモノで最初の二十分くらいにつかみと呼ばれる音楽や手品などの余興を行い残りの時間でメインとなる防犯指導をするというプログラムとなっている。だがここ奥多摩町にある民間企業が運営しているケアハウス『日乃原の郷』での防犯指導はこれまで一度も最後までやり切れた事はなかった。
「はあ~やっぱり今回も最後までまともに出来なかったね~」
「う~ん結構今日は自信あったんだけどな~」イベントの撤収作業をしながら交通課の巡査・天音早紀と生活安全課の巡査・井手口成美がボヤいている。
「凄かったよ~あの手品はどうやるんかね~?」
「ふんふん、ワシも知りたいのう!」
言いながら顔を見せたのはこのケアハウス施設の中で仲良しコンビとして知られているサチエと伊左次の二人だ。
「それはヒミツで~す!」成実が人差し指を口元に向けて内緒の仕草をすると二人の老人は子供のように不満げな顔を見せた。
「ええ~そんな~ちょとくらいいいじゃないの~」
「そうじゃよ~ケチケチすんなよ~美人婦警さん!」
「え?そう?美人かしら?」成実がお道化てポージングする。
「ああ!二人は奥多摩町でも美人すぎる警官として有名じゃよ!」
「どうする~早紀~ちょっとくらい教えちゃう~?」
「あのね~警察官がそんなに簡単に落とされてどうするの!それにメインは私達の手品じゃなくて~」
「そんなこと言ったってアンタだって毎回気合い入れてるじゃないのよ~今回の手品は自信あるって~」
「そ、それは~やるからには本気でやらないと皆さんに申し訳ないじゃない・・・」
「結構楽しんでるじゃないいつも~」
「ま、まぁね・・・・・・」
楽屋トークをばらされて早紀が小さくなっていると顔を出したこの施設の所長がサチエと伊左次に話し掛ける。
「しかしサチさんに伊佐さん警察の方の防犯指導も一生懸命されてますから今度からはちゃんと聞いてあげてくれませんかね~始めの余興が終わったらみんな退席しちゃうんじゃちょっとあからさま過ぎて、なぁ!」
「え、ええそうですねぇ・・・・・・」所長の同調を求める声に側にいたケアマネージャーのスタッフは慌てて相槌を打つ。
「だ~って!つまんないんだも~ん!ねぇ伊佐さん!」
「そうじゃな~あのお堅い眠くなる話は聞いてられんわな~」
すると、ケアマネージャーのスタッフも・・・・・・。
「まぁ確かに犯罪の発生についてはほとんど縁のない街ですからね、この奥多摩は」
東京都の犯罪発生率という部分においては奥多摩町は確かに都内の全市区町村の中でも最も低い数値で表される地域に入るほど犯罪には縁のない平和な環境であった。
数十分後、早紀と成実の二人が乗って来たパトカーに荷物を積んで日乃原の郷から署に戻ろうとすると見送りに来たサチエが呟いた。
「そういえば結局今日は来なかったね~」
「え?誰がです?」助手席の成実がサチエに訊ねると。
「ああ、椿翁か?また焼き物が上手くいかなくてへそ曲げてんじゃないか?」
「でもこの子達の手品や余興はいつも楽しみにしてたじゃない?」
「翁さんどこか具合でも悪いんじゃ?」早紀が心配そうな顔で言うと。
「いやいや、あのじいさんは何十年と風邪一つ引いとらんよ!へこたれないんじゃよ」
「そう?ならいいんだけど、たまにしか私達も会えないから今日会えなかったのはちょっと残念ね・・・・・・」
「まぁ、またそのうち顔出すじゃろうから言っておくよ美人警官の二人が寂しがってたってな!あのじいさん年甲斐もなく若い女の子が大好きじゃからな~」
「それは伊佐さんもでしょ?」
「ははは!まぁな!」
「それじゃ、皆さんにもよろしくお伝えください、また伺いますね!有難うございました!」
「こちらこそ、いつもありがとね」
サチエが手を振ると伊左次も笑顔で見送ってくれた。そうしてゆっくりと運転席の早紀が車を発進させようとすると・・・・・・。
「ちょ!ちょっと!ちょっと待ってください!お二人とも!」
所長が血相を変えて駆け寄って来ながら二人を呼び止める。思わず早紀は強くブレーキを踏んだ。
「はぁはぁ!ちょっと・・・・・・待ってください!」
もうあと数年で六十歳を迎えようとする所長が全力で走って来たのだから息を整えるのも一苦労なのは無理もない。.早紀と成実は息が少し整うのを見計らって訊ねた。
「どうしたんですか?所長さん」
「忘れ物かなんかありました?私達」
「いえ、そうじゃなくて、今お二人の北奥多摩警察署から連絡がありまして!はぁ、奥多摩湖で椿翁さんらしき人の遺体が見付かったと!」
「なんじゃと!」
「ええ!椿翁が!」
伊左次が驚きの声を上げ、サチエはショックのあまり口元を抑えて顔面蒼白になっている。成実はその驚きの表情のまま早紀に顔を向けると早紀もまたあまりの衝撃的な事に戦慄を覚えていた。
そして、その早紀の感じた感覚はこれから起こる信じ難い驚愕の真実の幕開けを暗示するものでもあった。
日乃原の郷を出て早紀たちが奥多摩湖に到着すると小河内ダムに既にたくさんの人だかりが出来ていた。そんな中で丁度、捜査員が遺体を搬送車に乗せる為にストレッチャーで移動している所であった為、慌てて声を掛けた。
「あ、すいません!ちょっと待って貰えますか!」早紀と成美が遺体の傍らに行くと現場検証を終えた鑑識課の捜査員が声を掛けて来た。
「ああ君達か、あのケアハウスから来たのか?」
「はい、連絡受けてあの、確かなんですか椿・・・・・・翁さんで・・・・・・」
早紀は恐る恐る訊ねた。
「確認してみるか?顔見知りなんだろ?」そう言うと鑑識捜査員は搬送を少しの間待って貰う旨を伝えて、ストレッチャーの上の遺体搬送袋のファスナーを開き早紀たちに確認させた。中には静かに目を閉じた生気の一切感じられない白い老人の顔があった。
「早紀、やっぱり椿翁さんだよ」成美が眉間に深い皺を寄せながら口を開く。
「うん、そうだね・・・・・・」そう応えながらも早紀は椿翁の顔や頭部にまじまじと見入っている。
「?なに?どうかしたの?」
「なんとなくなんだけど、何かが違う様な・・・・・・」
早紀は目の前のストレッチャーの上で目を閉じている椿翁の遺体に妙な印象を覚えていた。
「違う?ああ、あれだよメガネ!普段、翁さんメガネしてたからその印象が強いんじゃない?」確かに今の早紀たちの目の前の椿翁はトレードマークとも言えるいつものメガネをしてはいない。
「う~んまぁね~そうかも知れないけど・・・・・・」
「すいません、そろそろいいですか?検視官が準備をされてるかと思いますので」
「ああ!はい、すいません」
そうして椿翁の遺体が搬送されていった。
「やっぱ間違いなかったか、あのじいさん確か有名な陶芸家だったんだよな?」
鑑識捜査員が早紀たちに訊ねると早紀は頷きながら三年前、都内の警察学校を卒業して今の北奥多摩警察署に配属されたばかりの頃に初めて椿翁と出逢った時の事を話し始めた。
「こんにちは~」
交通課の警察官として奥多摩の街を巡回していたその日、山林の間から空に煙が立ち昇っているのが見えた。パトカーを降りてその煙の元を辿っていくと大きな窯で自作の陶器を焼いている老人の後ろ姿が見えた。独特の風貌のその老人は白い髪を後ろに束ね藍染の羽織を纏った一度見たら忘れられない様な人物だった。
「おんや~?お客か~?」おしゃれな丸メガネを中指でたくし上げながら振り向いた老人のその眼には優しい雰囲気が滲み出ていた。
「すいません、お仕事中でしたか?私、北奥多摩警察署の天音と申します」
仕事中の訪問による非礼を詫びながら簡単な自己紹介をすると早紀は大きな窯を眺めながらゆっくりと老人の近くに赴いた。
「おっきな窯ですね~焼き物も沢山!」
「ほっほっほ!よかったら気に入ったモノは持って行くと良い」
「いえいえ!とんでもないです!それにまだ仕事中ですから署に持って帰ったら何してたんだ!って怒られちゃいます!」
「そうかそうか、そしたら毎月一度ケアハウスの日乃原の郷で展示会をやってるから、もし都合がついたら観に来るとイイ」
「はい!是非伺います!いつ頃からこんな大きな窯で焼いてるんですか?」
「ん~と二十年以上にはなるかのう、この奥多摩の街に来たのがその頃でな、イイ街じゃな、こうして美人の婦警さんもおるしなぁ~」
「え!いえいえいえ~そんな事はないですよ~こんな田舎者」
「ほう?お前さんは郷はドコなんじゃ?」
「長野の王滝村です」
「おお!すんき漬け!わしゃ大好きじゃよ!」
「ええ!知ってるんですか!私も大好きなんです子供の頃から!」
初めて出逢ったその時から意気投合した早紀と椿翁はその後も祖父と孫の様に親交を交わしていた。
椿翁は二十二年前にこの奥多摩町で陶芸を始めてから間もなくして有名な陶芸家となった。その作風に感銘を受けた高名な陶芸家が本物と認める程で国会議員や大企業の社長、会長などの中には彼の作風に惚れ込み好んで収集する者も多かった。しかしそんな有名な陶芸家にも拘らず、元来のその親しみやすい性格で奥多摩町の人々にもとても愛されていた存在だった。
「早紀は翁さんと仲良かったもんね」成美が早紀の気持ちを汲むように言うと。
「私だけじゃないよ、翁さんの事はみんな大好きだったよ、成美だってそうでしょ?」
「うん、それなのにどうして・・・・・・」
鑑識捜査員が二人の空気に話し掛けられないでいると唐突に早紀が訊ねた。
「翁さんを最初に見付けたのは?」
「あ?ああ、観光客だよハイキングに来てた客が小河内ダムに着いた時に湖に人が浮いているのが見えたってそこの駐在所に届け出たんだ」
「そうだったんですか」
「もう少し話し聞きたかったら駐在に聞いてみたらいい、でも気を付けろよ、交通課や生活安全課がなんか聞き回ってるなんて刑事課の連中に知れたら・・・・・・」
鑑識捜査員がそう言い終わる前に早紀は早々と聞き込みに向かって行った。
「お、おいおい!」
「あ~ははは!すいませんあの子、実は前から刑事課希望で聞き込みとかいつも張り切っちゃうんですよ」
「そ、そうか、まぁ仕事熱心なのはいいが交通課は刑事課みたいな捜査権は認められてないからな!」
「はい、よく言っておきます。それじゃあすいません!」言いながら軽く頭を下げると成美は早紀の跡を追って行った。
「まぁ二人とも可愛いから怒られないかな多分・・・・・・」
その後、早紀と成美は届け出を受けた駐在や実際に届け出た観光客にも発見時の状況などの聞き込みをしてみたがコレと言って気になる話が出る事は無かった。
「早紀~とりあえず署に戻ろうよ~お昼だって食べてないしケアハウスで使った備品も署に持って帰らなきゃ~結構量あるんだから~」
「あ~そっか、ごめん忘れてた!そうだね一旦帰ろう!私もおなかぺコペコ」
「まったく刑事課の真似事なんてしてても推薦されなきゃ刑事になれないんだからさ~実績よ真似事よりも~」
「わかってるよー頑張らなきゃ!」量の手に握りこぶしを作って気合を入れ直す早紀を成美は呆れながら見ているしかなかった。
署に戻る車中、成美は早紀に訊ねる。
「そういえば早紀ってどうしてそんなに刑事課に行きたいんだっけ?」
「あ!そうだね、ちゃんと話した事無かったっけ」早紀はゆっくりと話し出した。
長野の大学を卒業し警察官を志望して警察学校に入校。その時にはもう既に早紀は刑事の道を目指していた。理由は心から信頼している数少ない人間にしか話して無かった。それだけ刑事になるというその誓いは早紀にとって人生を賭した固い決意でもあった。
「小さい頃にね近所にすっごく仲良かった幼馴染のお姉ちゃんがいてね、その人が池袋にある大学に進学する為に私達の故郷の長野の田舎から上京したんだけど暫くしてその彼女の行方が解らなくなったの」
「行方・・・・・・不明?」
「うん、だから刑事になればいろんな情報を掴めると思って・・・・・・」
「そっか、じゃあホントは池袋の管轄になりたかったんじゃ」
「まぁ本当はね、でもそう簡単に志望通りにいかないよね、だからきっとまだまだなんだなって・・・・・・」
「まだまだ?」
「なんだか根拠もない話なんだけど、お姉ちゃんがまだだよって言ってるような気がするの・・・・・・もっと強く大きくなって逢おうねって・・・・・・」
「え~なにそれ?」
「だ~か~ら!根拠も何もないって言ったでしょ?なんとなくそんな風に言われてる気がする・・・・・・もっといろんな経験をたくさんしていろんな力をつけて刑事になって必ずお姉ちゃんを見付けてみせる!」
「そっか!うん!がんばれ!」
「おうっ!」
改めて気合を入れ直して早紀はアクセルを少し強く踏んだ。
奥多摩の深い山間に、午後の優しい日差しが照らされた紅葉の彩りを一層美しく魅せている。早紀はこの景色を永遠に忘れない様に刑事になるという固い決意と共に胸に刻み込んだ。
軽めに昼食を取り午後二時を少し回った頃、署に到着してケアハウスで使用した備品を車から運び出していると署内にやや慌ただしい空気が漂っていた。
「なんだろ?なんかあったんかな?」
早紀が備品の入った段ボールを抱えながら備品倉庫に向かっていると廊下の少し先の会議室から刑事課の人間が数名、神妙な面持ちで出て来た。と、その中に成美の恋人でもある同期の刑事の姿もあった為、二人は思わず呼び止めた。
「どうしたの?何かあったの?」
二人が訊ねると同期の刑事はいかにも厄介事を抱え込んだというような表情で近寄って来た。
「ああ、お前らか、防犯イベントの片付け?」
「うん、そうだけどそれよりなんかあったの?珍しくバタバタしてない?今朝の椿翁の事?」
「いや、その件はまだ検視報告もないみたいだから詳しい事は解ってないけどある意味もっと厄介事だよ・・・・・・」
「どういう事?」
「さっき緊急で招集されてさ、その会議で決まった事だからお前らのトコの上司からもあると思うけど、なんか七年前に池袋で起きた中学生殺害事件の重要参考人がうちの管轄に潜伏してる可能性があるって情報がその事件捜査を担当していた池袋西署の方からあったんだよ」
「ええっ!本当に?」
「どうしてそんな情報が?」
「別件で圏央道の八王子ジャンクションのNシステムを捜索していたらその重要参考人がヒットしたらしいんだ、ただそうは言っても必ずしもウチの管轄に潜伏しているとは言えないんだけどな、途中で八王子も日の出もあるし手前の青梅に潜伏って事もありうるからさ、だからウチも含んだその周辺地域全体に情報は流しているって事だ」
「なんか翁さんの事といい、この事といい、なんか起きてるのかな?だってこんなに立て続けに何か起こるなんて」
「うん、そうだね・・・・・・ちょっと気を引き締めなきゃね!」
「お!さすが刑事課志望!」
同期の刑事が茶化すと早紀よりも成美が睨んできた。
「ちょっと!人の事からかってないでアンタだってしっかりしなさいよね!そのウチ早紀に追い抜かれちゃうわよ!」
「わ、わかってるよ!」
「なに~もう成美のお尻に敷かれちゃってるの~?」
早紀が仕返しとばかりにからかうと。
「おい!何してんだ!聞き込み行くぞ!」
「は、はい!すいません!と、とにかく!お前らんトコの課長に確認しとけよな!人手が無いからきっと担ぎ出されるぞ!じゃあな!」先輩刑事に呼ばれ彼は慌てて去っていった。
「なによ偉そうにぃ!」成美が膨れていると、早紀は冷やかしながらも羨ましい気持ちを吐露した。
「は~アツいアツい、でもいいな~二人とも仲良さそうで羨ましいよ。私の愛しい人はどこにいるのやら・・・・・・」
「え~どこが仲良く見えるのよ~てか、早紀だってその気になればいつだって出来るでしょ?カレの一人や二人~」
「一人でいいわよ!ま、でも私は仕事が恋人なんで~」
「拗ねるな、拗ねるな、そのうちイイ男紹介するから、ね!」
「ハイハイ、期待しないで待ってま~す」
その後、早々に片付けを終えて二人は各々の課に戻っていった。
「というわけで、刑事課から今朝の椿氏の事件と池袋西署からの重要参考人の捜索の二つの応援要請があったが、我々交通課の方は椿氏の事件の方の聞き込みを中心に要請された。割り振りは今渡したその資料にあるから確認して動いてくれ!」
先程、同期の刑事が言っていた通り早紀が自身の所属部署である交通課に戻ると早速、交通課課長の指示が待っていた。と、同時に二つの事件に関する資料も渡された。
「すいません、椿氏の聞き込み中に万が一池袋西署からの情報があった重要参考人に出くわした場合は?」早紀の隣で課長の話しを聞いていた先輩の女性警官が訊ねる。
「ああ、聞き込み途中にその資料の写真にある重要参考人に出くわした場合やその手の何らかの情報があった場合はどんな些細な事でも構わないからそのもう一つの資料にある携帯番号に連絡を入れて欲しいそうだ。その番号はこの事件担当の池袋西署の八城と言う警部補に繋がるとの事だ。こちらへの報告はその八城刑事への報告後で構わないので宜しく頼む!」
「わかりました」先輩警官が頷くと早紀も併せて頷いた。
「因みに天音巡査!」
「は、はい!」
「君は悪いが今回このルートで聞き込みしてくれ、署長と刑事課の課長と相談したのだが君はこの中で最も椿氏との親交が深い様なので君がこのルートの担当がイイと判断した。問題はないか?」そういうと課長は別のもう一つの資料を早紀に渡す。資料の内容を見ると午前中に防犯イベントを行った日乃原の郷の文字があった。
「午前中に行って来たばかりで申し訳ないが、そちらの施設からのご希望なんだ。きっと君に話したい事が色々とあるんだろう。宜しく頼む」
「はい、わかりました」
「それと、奥多摩周遊道路の夜間封鎖だが、今回特別に警察車両を設置して一般車両の通行止めを普段よりも強化する事になった。男性警察官は夜間の常駐を交代で行ってくれ、以上だ!」そうして交通課の面々はそれぞれの持ち場や担当ルートの聞き込みに向かった。
早紀は今さっき乗って来たパトカーにもう一度乗車して、再び日乃原の郷に向かって発進しようとしたが、ふと椿翁との思い出が胸に甦って来た。
「驚きました!翁さんて政財界でも人気の高名な陶芸家さんだったんですね!」
「ほっほっほ、そんな大したモンじゃないさ、この多摩地方の土と水がいいんじゃよ。まぁ多少食っていければいいんじゃが妙に気に入られてしまってな、世の中何が起こるかわからんモンじゃわ」
「でも、毎日楽しそうで羨ましいな」
「なんじゃ?天音巡査は毎日楽しくないのかい?」
「・・・・・・」
「?・・・・・・どうした?何か悩みでもあるんか?」
「・・・・・・悩みって事はないんだけど、私、本当は刑事課を志望してたんです。幼馴染みのお姉ちゃんを探す為に・・・・・・」
そうして早紀は自身が刑事を目指す理由を語り出した。
「なるほどのう、そういう事かいな」
椿翁は優しい目で早紀を見つめるとゆっくりと立ち上がって今さっき焼き上がった一つの小さな器を持って来た。
「見てみなさいこの小さな器。これを作るのにもそれなりの工程を踏まなければこうした形のあるモノは作れん。土を作り、成形し、加工、乾燥、素焼きして下絵を付け、本焼きに入り、上絵付から低温で焼き付けをし、そうしてようやく窯から出せる。この小さな器一つでもその中の工程が一つ欠けたらいいモノは出来ん。ましてや作り手のこだわりや更に深い魂を注いでそれを表現するにはもっともっと強い想いや覚悟が必要じゃ。今のお前さんはどの工程かのう・・・・・・」
「え?」
「焦る事はない。ワシから見えとるお前さんは逢いに来てくれる度に前に進んどるよ。毎回違う顔をしとる。日々前に進んどる証拠じゃよ!」
椿翁は力強く早紀の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「翁さん・・・・・・はい!頑張ります!」
「うむ!その意気じゃ!よし!ワシもまだまだ頑張るぞい!」
そう言いながら勢いよく拳を突き上げるとその勢いのまま頭の上の棚を叩きたくさんの焼き物が椿翁の頭の上に落ちて来た!
「どわぁぁぁぁぁぁー!」
「翁さん!」早紀が慌てて駆け寄ると椿翁は焼き物の欠片を払い除けながら、照れ笑いを浮かべている。と・・・・・・。
「翁さん!頭から血が出てますよ!」
「うお!直撃じゃったからのう、確か向こうの部屋の小物入れの引き出しに軟膏があったはずじゃ・・・・・・と、よっこらせ!ととと・・・・・・」よろめきながら立ち上がる椿翁に早紀が手を差し伸べる。
「ああ!無理しないで下さい軟膏は私が持ってきますから、翁さんはとりあえずケガしてるトコを洗い流してください」
「すまんのう、年は取りたくないな・・・・・・ありがとう」
早紀は隣の部屋に軟膏を取りに行くと、入ってスグに正面の壁に掛けられた一つの絵が目に入った。水彩画で描かれたその絵は山の上の満月とその手前のススキを描いているかなり高い画力を感じさせる絵だった。おそらく月夜見山の駐車場から見た秋の奥多摩の寒空を描いたモノだと見受けられたがどこか不思議と暖かさも感じる絵だった。
よく見ると絵の右下にはt・оと小さなイニシャルのサインがある。
「翁さん、隣のお部屋のあの絵は?」
「あれか?、ホレ織部さんの絵じゃよ、そば居酒屋の」
「ああ、千代さんの!t・оってチヨ・オリベか!へー千代さんてあんなに絵が上手だったんだ!」
「なんでもずっと昔に美大生だったそうじゃよ。子供さんが出来てからは筆を持っていなかったらしいんじゃが、この間の三樹弥君の命日にふと思いついて久し振りに描いたそうじゃ」
「そっか、三樹弥君の・・・・・・だからかな何となく暖かい感じがしたんだ。あの絵」
早紀は隣の部屋の方に視線を向けながら言う。
「そうじゃな、それと三樹弥君の父親、つまり千代さんの元の旦那にとっても思い出深い景色らしいぞい。なんでもその元の旦那さんは幼い頃ここ奥多摩で育ったらしくてな、その絵の景色を何度も見てたという話しを昔聞いた事があったそうじゃ、それで千代さんからワシに依頼があったのよ、家族を感じられるあの絵の景色をモチーフに一つ器を作って欲しいとな。それであの絵を暫らく預かっておるんじゃよ」
「なるほどね、それで出来たの?」
「もう少しかの・・・・・・いくつかは形にはなったがどうも何かが足らんくてな、少しずつ納得のいくところまでは近付いているんじゃがな・・・・・・」
「三樹弥君のお弔いの器だから、やっぱり想い入れが違うの?」
「まぁな、よくここにも遊びに来とったからな、ええ子じゃった・・・・・・」
五年前、織部千代の息子の三樹弥という当時十三歳になる少年が奥多摩湖の小河内ダムにおいて死体となって発見された。
湖面に浮いていた状態で発見された為に死因は溺死かと思われたが、詳しい検視の結果、大量の覚醒剤を打たれてショック状態を引き起こし殺害されたうえに奥多摩湖に投げ込まれたということが判明した。
しかし、その覚醒剤の出所も殺害場所もそして犯人も何もわからず仕舞いで今もその死の真相は一切明らかになっていなかった。
「ひどい事件でしたよね、私は当時まだ地元の長野の大学生でしたけど、テレビで毎日報道してましたね」
「ああ、なんであんなにいい子があんな惨い死に方をしなければならんかったのか、今思い出しても怒りが込み上げて来るわい・・・・・・子供のクセに焼き物が好きだと生意気な事を言うとったが、屈託のない笑顔をよく見せてくれるいい子じゃった・・・・・・」
それが二年前のことだった。
すると早紀は何かを思い付き先程課長から渡された資料の一部を取り出した。手にしたのは池袋西署から送られて来た逃走中の重要参考人の資料だった。
「これって、確か中学生が殺害された事件よね。七年前、三樹弥君も当時中学生だけどなんだろこの感じ・・・・・・」
早紀はそう思うが早くスマートフォンを取り出し資料にある池袋西署の八城警部補の番号に掛けた。
「あ!でもどうしよう!えっと何から話せば・・・・・・」考えがまとまらないウチに電話してしまった事に戸惑っていると、スグにその通話先の相手の声が聞こえた。
「はい、八城ですが?」
「あ、はい!えと、その・・・・・・」
「・・・・・・?どちらさんで?こちらは・・・・・・」
「は、はい!北奥多摩署の天音と申します!」
「北奥!あ!どうも池袋西署の八城と申します!例の重要参考人の件でしょうか?」
早紀は初めて話す他の署の刑事との会話に緊張をしながら話し出した。
「は、はい、その件でちょっと気付いた事と言うか気になる事がありまして・・・・・・」
「はい、なんでしょう?なんでもおっしゃって下さい!」
思ったよりも丁寧に応対してくれている八城という刑事に不思議な安心感を覚えながら早紀は先程思い付いた事や二年前の椿翁との事を一つ一つ話した。
「なるほど、奥多摩湖で七年前そんな事が・・・・・・」
「ええ、でもその当時はわたしもまだ警察官ではありませんでしたし、こちらの署の捜査でも本当に何もわからず仕舞いだったようで、でも今回そちらから頂いた情報と照らし合わせると、もしかしたら何か関連がと思いまして・・・」
「わかりました。こちらとしても今回のNシステムの件が出るまでは奥多摩方面の事はまるで考えておりませんでしたので、何かあるかも知れません。もう一度確認しますが遺体となって発見された中学生は織部三樹弥君、七年前、当時一三歳の少年ですね?」
「はい、そうです」
「了解しましたウチの本部に報告します、因みに二年前お話しされた椿翁さんと言う方は・・・・・・?」
早紀は一瞬言葉に詰まったが丁寧にゆっくりと答えた。
「今朝方、奥多摩湖で遺体となって発見されました・・・・・・」
八城への報告を一旦終えた早紀は再び日乃原の郷へ向かい、その帰りに椿翁の工房にあった絵の事を詳しく聞く為に工房からほど近い場所にある織部千代が経営しているそば居酒屋『おりべ』に向かった。
「こんばんわ~」
「は~い、あら早紀ちゃん!」
「ども、今日は一人で来ちゃいました!」
「成美ちゃんはデートかな?」
「あっちは、明日は非番なんでデートは明日じゃないかな?」
「そっか、まぁ座って、今あったかいそば茶出すね」
「はい、すいません、それでお店が落ち着いたらでいいんですが、千代さんにちょっと聞きたい事があるんですけど?」
「ん?」とりあえず夕食を注文してから早紀は最後のお客が帰るまで今日一日の事を一人振り返りながら千代の手が空くのを待っていた。
午前中。日乃原の郷での防犯イベントを終え、椿翁の事件に遭遇したのが正午前、椿翁の事件の聞き込みの後、午後二時過ぎに署に戻り池袋西署からの七年前の中学生殺害事件の重要参考人潜伏の情報により署内は全課上げての捜索、これまで潜伏しているとされる重要参考人の情報は一切なし。
と、一通り改めて確認していると。
「よっし!ごめんね~やっと帰ったわ!おまたせしました~」千代が笑顔で早紀の元に来ると早紀も笑って応えた。
「いえ、すいません、お疲れのところ」
「なにいってんのよ気にしないで、んで何?聞きたい事って?」
早紀は少し改まると、二年前、椿翁の工房で初めて見た千代の描いた月とすすきの絵の事について話し出した。
「あの絵は三樹弥君の御命日に?」
「ええ、思ったより出来栄えが良くて、それで椿さんにあの絵をモチーフにした器を一つ作って貰おうって急に思い立ってね、そっかぁあの絵を椿さんにお預けしてからもう二年にもなるのね・・・・・・」
千代の脳裏にはあの絵の風景が浮かんでいた。
「前にね椿さんと一緒にあの絵の風景を見に行ったのよ。月夜見山の駐車場に。でもその時に面倒なお願いをしちゃったんじゃないかって誤ったんだけど、椿さんとんでもないって言いながら『この仕事は自分の人生において最も大切な仕事になるから魂を深く深く込めて仕上げたい、なので時間は掛かってしまうかもしれんがどうか最後までやらせて欲しい』ってそう言ってくれたのよ」
「魂を深く・・・・・・深く・・・・・・」
「ええ、でも、もう完成はないのね・・・・・・椿さん、どうして」
その千代の言葉に早紀は返す言葉が見付からなかった。早紀自身の中にも全く同じ疑問が渦巻いていたからだ。事故なのか事件なのか検視結果が出ないとそれさえもわからない現状に少し苛立ちさえ覚えていると千代が告げる。
「それでね、早紀ちゃん、実は私も話したいことがあったの」
いつになく千代の表情が少し深刻な雰囲気を醸し出している。
「え?」
「二週間前、三樹弥の七回忌があったでしょ?」
「はい」
「あの人が現れたのよ、あの七回忌の夜にココに・・・・・・」
「あの人?」
「ええ、三樹弥が生まれてすぐ私たちの前から消えた。元夫で三樹弥の実の父親。そして、あなたたちが現在探している重要参考人の・・・・・・新塚怜志が」
三樹弥の七回忌が終わったその日の深夜。千代は店のカウンターで一人、三樹弥の幼い頃のアルバムを見ながら感慨にふけっていた。葬儀の時も一周忌や三周忌の時も千代は同じ様にこうしてアルバムを広げて、大切な息子との会話の時間を持っていた。
ガラガラー!
「あ、すいません、今日はお休みで・・・・・・!」千代はお客が来たのかと思い慌てて店の入り口に声を掛けると。
「千代、久し振りだな」
そこに居たのは、千代が忘れたくても絶対に忘れる事の出来ない人物だった。
「怜志・・・・・・さん!」
怒り、疑問、そしてほんのかけら程度の愛情、千代はあらゆる想いが入り混じった複雑な心持ちのまま新塚をカウンター席に促した。
「そば居酒屋か、お前は昔から器用だったからな」
言いながら新塚は店の中をゆっくりと見廻すが絵のない事に気付いた。
「絵は描いてないのか?一つも飾ってないようだが・・・・・・」
「そんな話しをしに来たワケじゃないでしょ?ビールでいいかしら」
「ああ、いや酒はもうやめた。ちょっと身体がな・・・・・・」
「そうね、少し痩せた?というか病気?重いの?」
明らかに病身の為に痩せ細った新塚の顔や体付きを見て千代は新塚の時間がそう長くない事を悟った。
「ああ、末期の膵臓ガンだ。手の施しようがないらしい・・・・・・フフ、天罰だな、三樹弥を殺した」
千代は感情の無い声で言う。
「絵は三樹弥があんなことになってスグにやめたわ。わかるでしょ?それどころじゃなくなったのよ」
二年前、椿翁に預けたあの絵の事を思い浮かべながらも嘘をついた。
そして、その眼にも何の感情も浮かんでいなかった。
「そうか・・・・・・線香、あげさせて貰えるか・・・・・・三樹弥の」
新塚は懇願する様な表情で訴える。
「どうぞ、二階よ」
二階に安置してある仏壇の前で手を合わせると、新塚はゆっくりと語り出した。
千代が知りたかったであろう全ての事、とりわけ何故、三樹弥が死ななければなかったのか、ということを。
「これがすべてであり真実だ。いきなり全部を信じて欲しいとは言わない。だが時間が掛かってもどうか受け入れて欲しい・・・・・・」
『すべて』千代はその言葉がやけに虚しく感じた。そして最後に一つだけ訊ねた。
「三樹弥は、笑ってた?」
「え?ああ・・・・・・そうだな、どう・・・・・・だろうな・・・・・・」
「そう・・・・・・」
そして新塚は静かに店を後にした。
「三樹弥の事が新塚の所為なんかじゃないって事は私だってわかってる。新塚は三樹弥と同世代の子供たちを救いたかっただけだったって事も、なのに私はどうしてもあの人の言葉も気持ちも受け入れる事が出来なかった。本当の彼を受け入れて上げられなかった」
三樹弥が生まれ新塚が消えて間もなく、三樹弥に喘息の気があった為、都内の街中に比べて空気の澄んだ奥多摩に越して来たのは千代の判断だった。
そして、新塚という男は結婚当初から文部科学省に務めていた役人だったが、その傍ら都内での覚醒剤を始めとする危険薬物を一手に担う大規模な犯罪組織に属する人間だった。
しかし、その目的は薬物を広める事では無く、その組織を陰で運営し薬物を使って若者たちを弄ぶ一部の腐った政治家や腐った各省庁の官僚たちから少年少女たちを救う為に潜入した、とある別の組織のスパイであった。
ところが、七年前その過程で、潜入先の犯罪組織が新塚の裏切りを知り、息子の三樹弥の存在を掴んだ後、薬物実験のように惨たらしく殺害した。それまでその組織が多くの若者にそうして来た様に。
「新塚さんが重要参考人になったのは少年少女たちを薬物死させた容疑者候補だとして池袋西署から情報を貰いましたが、事実は違うんですね」
「ええ、それはその組織が警察側に流したデマでそのワケは、彼がその組織に関わる全ての政治家や官僚たちのリストを奪ってこの七年逃げ回っていたかららしいの、つまり警察の手も使って彼とそのリストを探し出そうとしたのね、実際その薬物組織のリストには警察官僚の名前もあったみたいだし。でも、彼はその逃走の最中に自分の身が膵臓ガンに侵されている事を知った。ただ、それを知った時点でもう身体は手遅れだったみたいだけど・・・・・・」
「そうなんですか、そんな状態で。それでそのリストは・・・・・・」
早紀が聞くと、千代は静かに一つのUSBメモリーを早紀の前に差し出した。
「これ、この中に?」
大きく目を見開いて恐る恐るそのUSBメモリーを受け取ると、千代が言った。
「あの人の最後の仕事。受け継いで貰える?」
「千代さん・・・・・・」
「これを池袋西署の八城刑事に渡して欲しいってあの人から、自分が警察に駆け込むのは大きなリスクが伴うからって」
「警視庁ではなく池袋西署の八城さんにって事は、池袋管轄の薬物組織」
「彼が所属していたその薬物組織で彼は池袋を担当していたらしいの、それに八城という面白い刑事がいると聞いたからって」
「面白い?かな?」早紀が首を捻っていると、千代はもう一つ早紀に告げた。
「それとあの人、ココを出て行ったあと椿さんの工房に行くって言っていたわ」
「え?翁さんの?どうしてですか?」早紀が最もな質問をすると・・・・・・。
「椿さんは、彼の・・・・・・新塚の父親だからよ」
池袋西警察署刑事課。
この日、八城は宿直で一人刑事課のソファを独占しながら、奥多摩方面に逃げ込んだとみられる重要参考人の資料を洗い直していた。
「ふう、八王子も青梅も今日の所はこれといった情報は無しか、まぁスグには尻尾は出さないよな流石に」
ヴーヴーヴー!
すると、八城のスマートフォンが着信を告げる。発信者は天音早紀だった。
「お!天音巡査!何か解ったのか?はい八城です」
「あ、夜分にすみません。天音です」
「どうも、今夜は宿直なんで大丈夫ですよ、何かありましたか?」
「はい、例の重要参考人、新塚怜志の件ですが、潜伏先が解るかも知れません」
「ええ!本当ですか!」
八城の驚きの声を聞いた後、早紀は今さっき千代から聞いた話しを八城に丁寧に伝えた。
「なるほど、その陶芸家の工房にいる可能性があると、ですが椿翁さんって、確か今朝遺体で見付かったと言っていましたよね?」
「はい、今その椿翁さんの工房に来てるんですが・・・・・・」
早紀は既に千代の店から車で移動し、椿翁の工房に来ていた。家宅捜索も終了し今は立ち入り禁止のテープが張られているだけで特に警官を配置してる様子はなかった。
「ちょっと待って下さい!今お一人でですか!」
「はい、そうです」
「先程の織部さんのお話しによれば新塚は薬物組織から少年少女たちを救っていたという事ですが・・・・・・」
「はい、なのでここは私に任せて頂けますか」
八城は電話口で暫く逡巡すると意を決した様に言った。
「わかりました、お任せします!あなたとは今日初めて話しをしましたが不思議と信頼と安心感を覚えます。ですが気を付けて下さい、何が起こるかわからないのが警察官のとりわけ刑事の世界です」
刑事。八城の口からその言葉を聞き早紀は身が引き締まる感覚を覚えた。
「はい!」
「あなたの警察官としての信念を信じます」
そうして、早紀は暗く静まり返った椿翁の工房に向かった。
「おじゃまします・・・・・・」
念のため一言声を掛ける。返事はない。入り口の右横にある照明スイッチを点けると、見慣れた焼き物の工房が目の前に現れた。椿翁の存在がまだ不思議と感じられる。早紀は今朝の遺体が本当に彼のモノだったのか、あの時感じた違和感を改めて思い出していた。
「確か、奥にあの絵があったわね・・・・・・」
千代の絵がある隣の部屋に向かう時、早紀はふと足を止める、家宅捜索の時に誰か器を壊したのか、見ると足元に焼き物の欠片があった。と、その欠片を拾おうとした時、早紀の脳裏にある出来事が思い出された。そして次の瞬間、早紀の中で今朝の椿翁の遺体に感じた違和感がなんだったのかが判明した。
「そうか!わかった!やっぱりあの遺体は翁さんじゃない!いや、でも待って顔は確かに翁さんだった・・・・・・どういう事なの?」
奥多摩湖で浮いていた遺体は椿翁の遺体ではない。そう確信した瞬間また更なる大きな謎に直面し早紀の頭は混乱した。
ヴーヴーヴー!早紀のスマートフォンが着信を告げた。相手は成美の彼氏だ。
「はい、どうしたの?」
「天音!椿翁の検視がようやく終わった。こんな時間になっちまったがとんでもない事がわかったぜ!」
「なにがわかったの?」
「椿翁はどうやら末期の膵臓ガンだったようだ」
「え?なんですって!」
成美の彼氏は、その病の為に椿翁が自ら死を選んだのだろうと署長たちに判断されると言っていた。
が、もう一つの確信。もう早紀にはあの奥多摩湖の遺体が椿翁ではないという事しか考えられなくなっていた。
電話を切り、隣の部屋に足を踏み入れると千代の絵がある。
「ここだ」
そう一言だけ言うと早紀は工房を出て車に戻り、走り出していた。
「月夜見山第一駐車場。そこしかない」
夜間通行止めの周遊道路に入らないと月夜見山の駐車場にいけない為、通行止め設置箇所で待機していた同僚の警官にこの先の重要参考人捜索の指示を受けたと伝え、早紀は道を空けて貰い月夜見山の駐車場へと向かった。
月明かりが煌々と照らすその場所に、冷たい秋の夜風が吹く。
そこに一台の警察車両が到着した。運転手が車を降りると月夜見山から昇る満月を静かに見つめている見知った後ろ姿を見付けその歩を進めた。
「どうしてわかった」
「どちらの意味でですか、それは・・・・・・」
見知ったその年老いた背中に早紀は訊ねる。
「いい顔になったのう、天音巡査」
今朝、奥多摩湖で冷たい遺体となっていた筈のその人物の振り返った眼には月明かりに照らされた不可思議な力が満ちていた。
「今朝のあの奥多摩湖の遺体は、新塚怜志さんですね?」
早紀は未だ釈然としない気持ちはあるモノのもうそれしか考えられないという事を目の前の椿翁に告げた。
「気付いたか。その通りじゃ、あれは四十年前に生き別れたワシの一人息子である新塚怜志の自殺体じゃ」
「今朝のあの遺体には二年前の工房での頭の傷跡が無かった。そして新塚は膵臓ガンに侵されていました、その二つの事実が私の確信を深めつつありました。でも、どういうことですかっ!こんなことありえません!検視結果でも頭の傷以外は翁さんの遺体だという事は間違いなかった!問題は膵臓ガンです!仮に遺体をすり替えたとしても常識的にこんなことありえない!」
早紀は強い口調で言い放った。確かな疑問だった。しかし、椿翁は冷静に言う。
「なら、今目の前におるワシは誰じゃ?今朝の遺体はワシによく似た双子がたまたま膵臓ガンに侵されていたのかのう?」
「それもありえません。いくら双子で見かけは騙せても検視までして調べたら流石にわかります、間違いなく今朝の遺体はあなたのモノでした・・・・・・」
「自分で深い霧の中に入っていくようはセリフじゃな」
「・・・・・・」
「世の常識など、簡単に飛び越えられる存在があるんじゃよ、あの遺体は紛れもなくワシの息子のモノじゃ、が、ワシがその姿形を変えた」
「そ、そんな事出来るわけが!」
椿翁は口元を不敵に曲げると早紀から視線を外し、空の満月に視線を移して語り出した。
「人体は約六十兆個とも三十七兆個とも言われる細胞で構成されている。という事は聞いた事があるじゃろ?ワシはその細胞一つ一つを自在に操り、人体を望む形に形成する事が出来るんじゃ」
「?何を言ってるんですか?」
すると椿翁は小さなナイフを取り出し指先を少しだけ傷付ける。
「何してるんです!」
「見た方が早いじゃろ?」
そういうが早いか今ナイフで傷を付けた指先の傷がウネウネと形を変えて元の傷のない状態に戻った。
「ええっ!そんなウソでしょ?」
「ふふふ、原理はこれと同じじゃ。指先か身体全体かの違いだけでのう、こっちの方が魂を込めた器を作るよりもよっぽど簡単じゃ」
「どうして、こんな事が・・・・・・」
早紀は未だ目の前で起きた現象が飲み込めないでいた。
「この国のどの地図にも載っていない三日月村というかつての小さな集落がワシたちの故郷じゃった」
「三日月村?」
「ああ、そしてその村の民は遠い昔、人間がこの世に誕生した頃から存在していた古い人種なんじゃが他の人種にない不可思議な力を持っていた。人の心を読めたり、自分よりもはるかに大きく重い物体を念じるだけで動かせたり、その他にも多くの人智を超える力を有し、その力が今の時代にも一部の人間のみではあるが使用する事が出来るのじゃ。因みにワシの力は人体だけでなくこの世のすべての元素や分子を操れる力じゃ。細胞はその元素や分子から成るからのう」
「それで、新塚の、息子さんの身体を自分そっくりに?」
未だ信じられない様子の早紀に椿翁はゆっくり首を振る。
「そっくりではなくそのものに作り変えた。遺伝子の配列から何までな、膵臓ガンをそのままにしたのは流石にワシも病気だけは治せんしその方が自殺する理由にもなると思ったからのう。じゃがただ一つ、年を取るとうっかり物忘れがひどくてな、二年前のあの頭の傷をこしらえるのを忘れてしまった。きっとお主にしか見破れない事じゃったからどこかで気を抜いていたのかも知れんな」
「そんな事が現実にあるなんて」
「驚くのも無理はないさ、ワシらは決して表に出てきてはいけない存在じゃからな、この国が許さんのじゃよ、ワシらの存在を・・・・・・」
「え?どういうことですか?」
そういうと椿翁は側にある木で出来たベンチにゆっくりと腰掛けて語り出した。
「二十五年前の事じゃ、ワシらの故郷、三日月村の民の多くが飲み水に混ぜられた毒物によってこの世から消されたのじゃ」
「ええっ!大量殺人!」
「ああ、この国の裏に存在する権力者の差し金によってな」
「なんですって?」
「都合が悪いんじゃろうな、三日月村の異能者の存在がのう。なんせ異能の力を使ってこの国の裏側を容易に知る事もワシらには出来るしな。そうなればこれまでのように自分らのあらゆる醜い欲望を満たせなくなるからのう」
「だからって、でも!それなら警察だって動く筈です!そんな大事件を世間が、あ!」
いいながら早紀は気付いた。二十五年前なら既に自分が生まれている、後にそんな大事件がこの国で起きていた事など誰にも聞いた事が無かった事を。
「気付いた様じゃな、そうこの国はそんな事実はなかった事の様に取り計らった。というよりも始めからワシら三日月の民はこの国の民として認められていなったようなのじゃ」
「そんな、そんな事って」
「じゃからワシらはこの国に復讐を決意し、この二十五年異能集団の組織をつくりそれを実行に移して来た。そして、その内の一つがワシの息子がいわゆるスパイとして入り込んだ都内全域の危険薬物を担う闇の組織を壊滅する任務じゃった」
「でも、その過程で少年少女たちを助けようとして、見付かってしまったんですね」
「さすがにそこは抑えておる様じゃな。なら息子の、怜志の意地は渡されたか?」
「意地・・・・・・あ、これですね」早紀は懐から先程千代から預かったUSBメモリーを取り出して見せた。
「確実に八城刑事に渡してくれよ、君の手でな、警察とて全てが信用出来るワケではないからな」
「わかりました!明日の朝一番に池袋に向かいます」
「そうじゃな、あまり睡眠時間も取れんかも知れんが頼む、息子が大病を押して手に入れたモノじゃ。この国の腐ったゴミ共のほんの一部ではあるが確実に潰せるはずじゃ」
「あなたは、もう私たちの所に戻って来てくれないんですか?」
早紀はふとそんな不安を口にしてしまった。
椿翁はにっこりと笑うと孫娘の頭を撫でるように優しく早紀の頭に触れた。
「ありがとう、君を始めこの奥多摩の人たちに逢えてワシは本当に幸せじゃった。この地に来た理由わな水なんじゃ」
「水?」
「ワシらの故郷三日月村には古来より不思議な力が宿った水が湧いている場所があってな、その水の中にある物質がワシらの不可思議な力の源になっておるんじゃ。実際に今の科学技術で調べたワケではないから詳しい事はわからんが、この奥多摩を始め日本各地にその水の力を含んだ水があるんじゃ。純水ではないから普通の人間に力は宿らんがワシらが飲むとその持っている力を増幅する事が出来るんじゃ。じゃが、もうワシはこの地を去らなければならん・・・・・・」
「どうしてですか?」
別れを惜しむその表情を隠す事無く、目に光るモノすら見せて早紀はそのワケを訊ねた。
「泣くな。ワシらの戦う舞台は今やこの国だけに留まらんのじゃよ」
「え?」
「アフリカ大陸のアルジェリアという国で国際テロ組織というのが暴れているそうなんでな、現地の仲間から応援の要請があったんじゃ、数少ない仲間じゃ助け合わんとな」
「そんな、じゃあもう会えないんですか?」
既に早紀の頬には涙が伝って落ちている。
「なんじゃ泣き虫じゃのう、もっと強くならんと刑事になんてなれんぞ」
「翁さん・・・・・・」
早紀は涙を拭いながら最後の質問をする。
「最後に教えて下さい。どうして息子さんは、自ら死を?そしてあなたちはどうしてわざわざこんな死体の入れ替えなんてことを」
その質問には椿翁も固く目を閉じて答えた。瞼の隙間から月明かりに照らされた涙が薄く光っている。
「一つは病、そしてもう一つが真実」
「真実?」
「息子を、三樹弥をその手で守れなかった事。そして家族を守れなかった事への自責の念じゃ。怜志はそういう子じゃ、最後まで三樹弥の死の責任を自身の真実とした」
「じゃあ、千代さんは、一人残された千代さんはどうなるんですか!これからもたった一人で生きていかなければならないんですか!側で支えて上げるという選択肢はなかったんですか!」
早紀の荒げた声が寒空の満月に響くようだった。
「怜志と一緒に居れば、千代さんにも多くの危険が及ぶじゃろう。それにどのみち長くは一緒に居られん。怜志はそう判断してあの七回忌の日にせめて最後に三樹弥に逢いに行ったんじゃ」
「でも、でも・・・・・・どうして入れ替えなんかを?」
再び涙が早紀の目に溢れている。
「君は優しい子じゃ、そうじゃな君の言う通りじゃな、バカな息子じゃ。怜志の異能の力は危険薬物の効力を打ち消す力じゃ。多くの少年少女を救ってきたが自身の身体に蝕んでいた病巣には気付かんかったんじゃな、ワシの工房に来た時に三樹弥を救えなかった事の天罰だと言っておった。まともに荼毘に付される事など自分には許されないと、それにワシも少し有名になり過ぎてしまった。有名な陶芸家が突如消えたり出てきたりしたらそれこそパニックじゃろう?突然アフリカに行くと言ってもし探されでもしたらワシもまともに使命を果たせんからな、死んだ事にした方がよかったんじゃよ」
「・・・・・・」
それでも早紀は納得のいかない表情で椿翁から目を反らす。
「ワシらが作った組織はこの国への復讐だけでもう留まらん。世界中にある、人に仇成す者共をこの世から消していく使命感で動いておる。じゃが、その戦いは苛烈を極める。道半ばで命を失う事も珍しくない、ただでさえ数は少ないのにのう」
「どうして、それでも戦うんですか?」
「信じたいんじゃよ。ワシらと君たちとが、いつかわかり合える時が来るのを」
「私は椿翁さんの事信じてます!だからいつかまた・・・・・・」
早紀のすがる様な、しかし澄んだその目に椿翁は自分が今口にした未来を見た気がした。
「ああ、もちろんじゃ。その時には立派な刑事になって君の大切な人に逢えている事を祈っておるよ」
「はい」
「ついでに結婚なんてしとるかもな?」
「え!け、結婚ですか?相手もいないのに?」
「ふははは、それはどうかのう?案外もう出逢っとるかもしれんぞ?」
「え?」
「まぁ、いろいろ頑張れ!ワシも頑張るよ!」
「いつか、きっと・・・・・・逢いましょうね!」
そうして二人は月明かりに照らされた奥多摩の峰に目を向けた。と、その山間から見える空の色がうっすら明るく変わってきていた。
「夜が明ける」
早紀は遠い空の向こうにこれからの自分の警察官としての人生に起こるであろう様々な事象に立ち向かう決意を固めた。
そして、翌日の朝一番で交通課の課長に休暇届を提出し一人池袋の八城刑事の元へと向かった。命を賭して一人の人間が残した意地を届けに。
「確かに、お預かりします」
「宜しくお願いします!このUSBメモリーには一人の人間の意地が、誇りが込められていますので」
「はい、このまま警視庁の捜査一課に持っていきます」
「け!警視庁捜査一課!ですか!」
「俺の目標としてる信頼している刑事が二人おりますんで必ずここ池袋の組織だけでなく都内全域の薬物組織を壊滅させます!」
「はい、お願いします!」
「ところで、昼メシ行きませんか?」
「え?」
「まだ今日は朝飯も食って無くてペコペコなんですよ」
「あ、あははは!はい、お付き合いします!」
奥多摩ほどではないが、ここ池袋にも冷たい冬の風が吹き始めていた。しかし早紀はどこか暖かい気持ちを感じながら八城の隣で十一月の秋空を見つめた。
この街の何処かに居る幼馴染みの姉の事を思い浮かべて。
月夜見山第一駐車場で椿翁に最後に逢った夜、早紀は工房であるモノを見付けていた。
それは、丁寧に桐の箱に入れられた一つの茶器だった。
その模様は山から昇る月と風にそよぐすすきの鮮やかな色彩が映える美しくも温かみが感じられるまさに陶芸家・椿翁の最後の最高傑作だった。
あの絵と共に、その茶器は千代の元に贈られた。
「やっと、家族が揃ったよ、ありがとう・・・・・・」
終
今回は短編として書きましたが、シリーズ化していく予定です。