序章 促された進化
何かが、こっちへ来る。
岩壁内部で静かに流れる小さな滝に向かって突き出ている岩場の淵でじっとしていたイグアナがそんな兆候を察知した。今しがた捕獲したばかりの小魚をおとなしくさせようと嚙み砕いている最中に突然訪れたその感覚は、ほぼ正しいに等しかった。すぐさま移動しようとしたものの、すぐにその兆候の根源は現れた。突如として辺りの空気を震わす低い振動音が鳴り響いたかと思うと、時空を裂くような激しい衝撃音が続いて炸裂し、イグアナのいる岩場の反対側に位置する岩壁がぶるぶると震えた。内部で何かが振動しているような大きな音がした。イグアナはその音に対する恐怖に耐え兼ねて、出口のある通路へと逃げ出していった。
その後も岩壁の振動は続き、徐々に巨大な振動音へと周波数を上げていく。
そして、爆発音が轟いた。
その衝撃はこの岩山一帯を大きく揺さぶり、広い荒野にまで及んだのだった。
―異変を、感じる―
この世界で最も高いとされる知能を持つその人間の本能が、危機感にも似た感覚を訴えた。
その先の顛末を予見してのことなのか、ひどく直感に伝えてくるその胸騒ぎがどこか別の安全な地帯へ避難することを強く心に語りかけてくる。
だが、その感覚は最初のうちこそ警戒心を促したものの、すぐに何かに呼びかけられるような感覚へと変わった。それは、この時間が夜にうごめく様々な危険が去ることにも影響していた。
この時間は、また新たに日が昇る暁光のときであることを、オレンジ色の光に照らされつつある群青色の夜空のグラデーションが伝えている。
だが、それは再び平穏の一日が始まる前触れではなく、彼にとっての人生を根本的に覆すことになる兆しだった。
それを象徴するかのように、この辺り一面の荒野の向こうに広がる地平線から、すでに日光が差し込み始めていた。
その始まりはまた、この星の未来を大きく揺るがすことになる、始めのはじめでもあった。
この世界がまた夜明けを迎えること。
それは、ある種族がもたらした巨大な戦いをこの星に住む者たちが受け継ぐことになる最初の引き金を、他ならぬ自分自身が請け負うことを意味していた。
彼は、狩りを続けることを中断するべきであるとの判断を下し、後方に控える仲間たちに手を挙げてここで待機するように指令を下した。
彼らが今いるごつごつした地面の多いこの岩山地帯の奥に、ひときわ大きな峡谷がそびえている。ちょろちょろと流れる河川の跡を辿るようにして、彼はその深奥部へと降りていく。
一人ではジャガーなどの捕食動物が現れた時に太刀打ちすることはできない。だが、彼の感覚に訴えかけてくる直感は「一人で大丈夫、このまま進め」と促しており、それは彼にとって正しい選択であるような気がしていた。
手にしていた槍を杖代わりにしてコツコツと地面を叩きながら、峡谷を一歩、また一歩と降りていく。その果てに何が待ち受けているのか、全くといっていいほどに不明瞭ではあったが、その直感が彼を何らかの境地へと導くような、そんな感覚に従うだけの期待があった。
下り始めて数分後、やがて大きな崖のそびえる岩壁にぶつかった。
一見すると何もないように思えるその風景を彼は目を凝らして観察した。
すると、岩壁の表面一面にいくつもの深い亀裂が刻み込まれていることを発見した。
さらによく見ると亀裂の中からわずかに光が差し込んでいる。
その光に魅せられたのか、彼は手に持っていた槍の先端を岩壁に向け、切り崩していった。
どんどん岩片が転げ落ちていくにつれ、内部の様相が見えてきた。
中は空洞になっているようだ。
そのとき、彼の脳裏に声が語りかけてきた。
―こっちへ、来い―
その声にはもはや警戒心を抱くことはなく、むしろ声による振動が彼の行動を誘発しているような感覚さえ、感じられた。
好奇心が完全に彼を支配し、彼は一通り空けた穴から空洞の中に入っていく。
中は、天井から夜明けの日光が差し込んでおり、紅色の薄明かりが辺り一面を灯している。
その対面上の眼前の岩壁に視線を向けた。
その表面にも亀裂が入っているが、それはさっきの亀裂よりもひび割れがさらに進んでいて、その内部からは強いオレンジ色の光が滲み出ている。先ほどの岩壁から漏れていた光はこれであることに気づいた。
そして………その岩壁がドクン、ドクンと鼓動している。
やや遅めの一定のリズムを維持しながら、鼓動する度に小さな岩片がぽろぽろと崩れ落ちていくのが見てとれる。
もちろん、彼から見て正体不明の未知なるものに遭遇していることは疑いようがなかった。
それでも………。
―こちらへ、来るのだ―
―大丈夫だ………命の危険性を憂慮する必要はない―
声が再び接近することを強く促してくる。
彼は警戒心という本能はほぼ皆無に等しいと自身で感じるほどに落ち着いていた。なぜ、そうなるのか理由は定かではなかったが、少なくとも接近してみるだけの価値はありそうだ、と判断を下した。
そこまで思考を巡らせたのち、彼は槍の持っていない方の手をその表面に伸ばした。
ざらざらした岩面に静かに乗せた途端、彼の神経回路が著しく電撃を食らったかのような衝撃を受けた。
それとほぼ同様のタイミングで、脳裏に何かが流れ込むような感覚を覚えた。
彼は今まで見たことのない映像がまるで走馬灯のように瞳に流れていくさまを見届けた。
何か………高い場所から下方に向けて景色を見渡すような立地にいる………その底では煤にまみれて黒みがかった鈍い銀色のヒトのようなものが、お互いにひしめき合い、ぶつかり合いながら戦闘を繰り広げている………地面のところどころで大きな爆発音がし、そこに位置していたヒトが木端微塵に砕け散っていく………それを見届けた高台に立つ何かが、背後の細長い道―それも宙に浮いているようだ―を疾走していき、周りの風景を無数の線でかすめていく。やがて、到達した白い聖堂のような建物の階段を上がり、その内部の地下へと下っていく………その最下層の深奥部には、線が組み合わさった何らかの物体で構成された巨大な環が宙に浮いている場所へと辿り着いた………その環に向かって何かが………誰かが………手を伸ばす………その手の中で光る黄金の球体………それが環の中心に設置された途端、環の物体が回転し始めた………回転はどんどん速くなり、しまいには電磁波を放ちながら青いスパークを炸裂させ………そして消えた………。
そこまでの映像を見させられたのちに、彼は気づいた。内部に入っているものこそはまさに"それ"なのだということを。
彼が映像を見ている間、岩片が一気に崩落し、内部の様子が露わになった。
彼は、それを見た。
映像を見終わったとほぼ同時に"それ"が映像に出てきたそのものであることを認識した。だが、内部に入っていたものはそれだけではなかった。
ヒトの形状に似た大きな金属の物体がそこに眠っており、荘厳な表情を静かに横たわらせながら目を閉じている。
一瞬、彼はぎょっとして反射的に退いたが、その落ち着いたように見える風貌に魅せられた。その全体像を眺めていくと胸部に何か丸いものが埋め込まれており、そこに右手を置いているのが分かる。
―よくぞここまで来てくれた―
さっきの声が言う。
それは脳裏の中だけではなく、実際に声として響いてもいた。
―おそらく今の君に、名はないはずだ―
この人物が何のことを話しているのか、そもそもどんな言語を用いているのか始めこそ全く理解出来なかったが、それでも脳裏にも響く声が彼の認知機能を高めているような感覚を抱いた。
彼は、この人物の使う言語を理解し始めていた。
―私は、この世界の外からやってきた………宇宙からだ―
急速に言語野が発達を遂げていく中で、彼は思念を抱き始めた。
―宇宙?いったい何の言葉だ?―
それに答えるかのように金属のヒトが囁く。
―この世界、つまり惑星の果てにある世界だ―
―我々にもこの世界と似たような世界が、あった………かつてはな―
―惑星の果てにある世界?―
―そうだ―
新たな疑問が湧き、彼は心の中で呟いた。
―いったい、何のために俺をここへ?―
金属のヒトは一旦躊躇したものの、はっきりと答えた。
―我々の世界で起きた巨大な戦いを終わらせるために、ここへ来た………そしてその戦いを終結させるための引き金役として抜擢されるだけの人物を………選ばれし者を導くために、君をここへ来させたのだ―
―………つまり、俺はその存在に選ばれたと?―
―そういうことになる―
―俺のことを呼んだ………?さっき名はないはずだと俺に聞いたのにか?―
―君を呼んだ理由はまさにそこにある………戦いを終わらせる存在の名だ―
―俺に………名前を与えるというのか?―
―そうだ―
金属のヒトの内部に存在するプログラムが作動し、目に搭載されたスキャナーで彼の人体構造を読み取る。
(各臓器の異常なし)
(精神状態は良好)
(脳波に親近感を探知)
(これより、同期を開始する)
生体に異常がないことが判明すると、その存在は彼の脳内に電磁信号を送信した。信号を受信した彼の脳内で一気に金属生命体の知識が詰め込まれていく。その知能指数が格段に上がるのを自身でしかと噛み締めながら、彼は脳内で「その名」を探し始めた。そうしていく中で、彼の体そのものが金属生命体のものとして変換されていく過程が始まるのを感じた。金属生命体の細かい各パーツが一個一個消滅していくと同時にそれらが彼の人体に出現し、付着していくさまを見届けていく。
その彼の脳内では再び映像が流れ始めた。
かつて「あちら側の世界」で試みられていた種族の進化計画………ある一人の存在が犯した過ち―その脳部では凄まじい知識理解の処理が進められている―………その存在を救済するべく進められた種族形態の変化………それを拒まれた修復への拒否………そうして勃発した我々の巨大な戦い………その果てに見えるのは………巨大な構造をなす知能―人工知能だろうか―の系外惑星への転送………そして、それを司る存在の開発………その開発されるべく誕生した存在こそは………。
―今目の前にある………我々自身だ―
―そうだったのか―
記憶の全てを共有した彼には、もうその名が何であるのか理解していた。
なぜ、突如としてこの世界に「その存在」は到来してきたのか。あの巨大な戦いを終結させるために、我々はいかにこの星で事を成すべきなのか。そして、この世界に住む彼………いや俺たち種族の行く末は………。
結末を悲惨なものとして想像しかけた自分を自制する。
いや、俺だからこそこの世界であの世界を変えることを実現させる力があるのだ。それをもってして自らが存在することを証明することなど、できない。
彼はもはやかつての普通のヒト………ホモ・サピエンスではなくなった。
俺の………いや、俺たちの名………それこそが世界を変える名の存在。
その名は………。
―ノヴァ―
その名を認識した途端、彼の中で何かが弾けた。
種族の存続を思う意志、失敗に終わった計画への挫折と深い罪悪感、与えられた使命を完遂させる圧倒的な気概、そしてこの種族―ホモ・サピエンス―そう………人類の、新たな進化と繁栄のために………俺は、俺たちは………。
「戦う!!!」
岩石の内部に位置していた自身の存在を証明するかのように、衝撃波が発せられた。その波はありったけの解放と覚醒の思念を乗せて、岩山一帯を瞬時に覆い尽くしていく。
彼は心の中で大きく、そして強く、叫んだ。
「人類なる至高の種族、ホモ・サピエンスよ………!!!覚醒し、進化せよ!!!」
各随所に散らばる同胞の脳内に著しい変化がもたらされた。
場所を問わず、全ての人類種族が意識進化を遂げていく。
認識する客体を捉え、知覚するに値する外的現象を把握する知能指数にまで向上を遂げた全人類は、彼………すなわち世界を変える存在の名を知り、そうしてそれが成し遂げる進化に倣い、彼をこう呼んだ。
そう、世界を変える存在、時空を揺るがす者、その名は………。
―エアグラインダー―