正しくなっていく社会と間違ったままの人間、あるいは恩師との再会
「後学のために見ておくかい?」
先生はそう言って小さな箱を投げてよこした。とっさに受け取ってしまう。本来は触れることが許されていないものだ。両脇に控える部下の険しい視線を感じる。冷汗をスーツの下に感じながら、鷹揚なふりをして手のひらを柔らかく下に振る。
「いい、いい。控えていて」
「君も偉くなったもんだ」
部下たちは自動小銃を油断なく構えている。銃口が斜め下向きから動いていないのを確認して、恩師に向き直った。棘のある台詞に反してその表情は優しかった。眩しいものを見るような目、わずかに漂う気弱な微笑。わたしが学生だった頃と変わらなかった。
うながされて手の中にある箱を見る。ぺなぺなと頼りない紙の箱だ。あやふやな直方体の一面は銀紙が破られている。その中身のうちの一本を先生はくわえている。
「これが……」
「そう、これが煙草だよ」
タバコ。依存性のある嗜好品の原料となる植物、またその嗜好品。現在では研究機関の植物園など、ごく一部でしか栽培が認められていない。
製品の姿を資料写真以外で見るのは初めてだった。シガレットという形式のものだろう。実際に昔販売されていた製品らしい。妙にポップな柄のパッケージの下部には警告文が書かれている。”たばこの煙はあなたや周りの人の健康を損ないます”、“ニコチンには依存性があります”、“指定喫煙所以外での喫煙は許可されていません” 牧歌的なことだ。注意喚起で済むならわたしは失業だ。
顔を上げる。かつての師は変わらず微笑んでいる。薄暗いこの地下室でいつも喫煙をしていたのか。防毒マスクをつけてきてよかった。壁や床に染み付いた成分が体内に入ったら、それが検知されたら、わたしまで健康いきいきセンターに送られかねない。センターでの再教育課程はお世辞にも楽しいものではない。先生のように手術は必要でないから、期間は短いだろうけど。
喫煙常習犯の先生はこれから逮捕され、健康いきいきセンターに送られる。そこで健康の大切さを学びなおすことになるが、たいていの常習者はそれで解決しない。ニコチン依存症が社会復帰を許さない。脳にある快楽を感じる回路を遮断する手術をしてからでないと、まともな社会人には戻れない。術後回復ののち懲役。何年かかるかは知らないが、研究者としてはもう終わりだ。正しくない行為をした者を学会は認めない。業績も抹消される。
報道が出たら先生の共同研究者は慌てるだろうな。というか、わたしやゼミ生の卒論は大丈夫なのか?
文学部だったわたしの研究テーマは、文学作品から前時代の生活を類推するといったようなものだった。卒論のタイトルは『近代小説にみる文化としての喫煙』。ともすれば前時代憧憬・不健康習慣称揚ともとられかねないテーマで、頼りにできる教授は多くなかった。彼らは不祥事と糾弾に怯えすぎ、保身の習性が染み付いていた。無理もなかった。一度社会人失格の烙印を押され、象牙の塔から退場すれば透明人間になるしかないのだ。大学教授が一夜明けたら3D(Dirty, Dangerous , Difficult)仕事で人知れず使いつぶされるなんて嫌に決まっている。学部生の研究なんていずれ大したものにはならないのだし、「もっと社会的に正しいテーマにしたらどう?」と軌道修正をはかるのがあるべき姿というものだ。そうしなかったのは先生だけだった。
その正しくなさゆえに若いわたしは先生を尊敬した。ゼミには、わたしのような学生が集まっていた。『前時代の人間関係における含アルコール飲料の役割』『大衆音楽への入門薬物と薬物の影響』今思い出すだけでもなかなか反社会的な論文ばかり提出してわたしたちは卒業した。そしてそれぞれ社会人として歩き出した。
「君は分かっているほうの人間だと思っていたよ、」
諭すような声音だった。先生は相変わらず火をつけていないシガレットを持っている。
「人間が正しさばかりで生きられないということを。間違ってしまう人間の居場所が文学にはあるはずだと、君はそう言ったね」
わたしと話しつつも、遠くを見るような目を壁に貼ったポスターに向けている。含アルコール飲料で満たされたガラス製の大型食器を掲げて、夏の砂浜で白い歯を見せて笑う、核実験場型水着を着た女性。前時代のポルノらしい。異性愛男性の不健康な欲望を刺戟するきわめて不健全なポスターだ。
「君は…今の仕事をしていて、何も思わないの?」
「わたしは自らの職務に誇りを持っています」毅然と答える。
「不健康習慣の影響は個人の堕落にとどまりません。それは害悪物質をまき散らして周囲の人間に迷惑をかけ、暴力事件を引き起こして社会を不安定化させます。また医療リソースや福祉財源を無駄遣いします。健全な社会という全体の幸福が個人の嗜好ごときで損なわれるのを阻止するのが我々の仕事です」
機関銃が続けて銃弾を吐くように休みなく一息で言い切った。卒論発表よりもよほどスムーズだった。当然だ。毎週月曜の朝礼で似たようなことを絶叫しているのだから。
先生は苦笑して、もういいよ、と手を振った。
「君がそんなことを言うなんて、やっぱり社会人になると変わるもんだね」
「人は変わっていくものですよ、間違いを正して進んでいくのです」
わたしは大股に近づき、シガレットをもぎ取った。そのまま手錠をかけた。先生は抵抗しなかった。