一通の手紙
「失礼いたします、ギルバート様」
オーレリアがギルバートの部屋に入ると、窓際に立っていた彼は彼女を振り返って微笑んだ。
広い窓からは明るい満月が覗き、窓の隙間からは虫の音が重なるように聞こえていた。
「すみません、お待たせしてしまいましたか?」
「いや、そんなことはないよ。いつもありがとう、オーレリア」
ギルバートが眠る前に、彼の足のマッサージをするのがオーレリアの日課になっていた。
屋敷の外にまで足を延ばすようになってから、彼の歩ける距離は日に日に延びて、足の動きも滑らかに、さらにしっかりとしてきていた。
彼の足がまだ十分に動かなかった時から、彼の足のマッサージをしていたオーレリアだったけれど、今では溜まった一日の疲れを取るために、魔法を掛けるだけではなく、彼の足をほぐすようにしていた。
「では、ベッドに腰掛けていただいてもよろしいですか?」
「ああ」
彼の足元にしゃがもうとした彼女は、ベッドの近くの壁際に、見慣れないものが立て掛けてあるのに気が付いた。
漆黒の鞘に入った大振りの剣を見て、オーレリアはギルバートを見つめた。
「ギルバート様、それは……」
「ああ。俺の魔剣だよ」
彼は鞘に納められたままの大振りの剣に手を伸ばすと、手に取って感触を確かめるようにその柄を握った。
「久し振りに取り出してみたんだ。君がこの家に来る前には、この魔剣をまた手に取る時が来るとは想像してもいなかったが、今では、これを実戦で振るうことができるようになる日も、それほど遠くはないような気がしているよ」
オーレリアは心配そうに眉を下げた。
「ええ、私も同感ではありますが……無理はなさらないでくださいね、ギルバート様」
もうかなりの程度の回復が見られているとはいえ、彼の身体が完治するまでは、決して戦いには参加しないで欲しいとオーレリアは願っていた。
「ああ、わかっているよ」
魔剣を下ろしたギルバートは、穏やかに笑った。
「けれど、その時が来たら、魔物討伐の場でもお側でお支えさせてくださいね」
「心強いよ、オーレリア。ありがとう」
ギルバートは、彼の足をほぐし始めていたオーレリアの額にそっと口付けると、彼女の瞳を覗き込んだ。
「ただ、戦いの場で魔剣を振るうよりも先に、俺にはしたいと思っていることがあるんだ」
彼のキスに頬を染めたオーレリアは、小さく首を傾げた。
「それは何でしょうか。私にもお手伝いできることですか?」
「ああ、むしろ君がいないとできないことだね」
不思議そうに瞳を瞬いたオーレリアに、ギルバートは笑い掛けた。
「君が俺の元に嫁いで来てくれたというのに、まだ結婚式すら挙げることができずにいたからね。もう、俺の身体も大分動くようになったし、遅くなってはしまったが、できることなら君のドレス姿を見たいと思っているのだが……」
予想外の彼の言葉に、オーレリアの頬には熱が集まっていた。
「よろしいのですか? 私は、式を挙げなくても、こうしてギルバート様の妻としてお側にいられるなら、それだけで十分なのですが」
「なら、これは俺の希望だと思って欲しい。どうかな?」
「……はい、喜んで」
オーレリアも、新婦としてギルバートの隣に並ぶことができると思うと、想像するだけでもうきうきと胸が弾んだ。ギルバートも嬉しそうに口元を綻ばせた。
「俺たち二人とフィル、それに屋敷の者たち程度の、ごく小規模なものを考えているが、構わないだろうか」
「ええ。むしろ、その方がありがたいです」
金と地位目当てに自分を差し出した両親と、勝ち誇った様子で元婚約者を奪っていった妹のことは、オーレリアにはあまり式に招きたいとは思えなかった。ギルバートはその辺りも理解してくれているようだと、そう彼女は感じていた。
ギルバートは頷くと、オーレリアに続けた。
「式だけではなく、君が欲しいものがあれば色々と揃えたいし、何か君がしたいことがあるなら、その希望を叶えたいと思っているんだ。君は俺に尽くしてくれるばかりで、俺からは君に何も返せてはいないからね」
オーレリアは大きく首を横に振った。
「そんな、私はギルバート様からたくさん与えていただいていますよ? いつも私を気遣ってくださいますし、大切に、優しくしてくださって……貴方様と一緒に過ごせる時間が、何より私には幸せですから」
彼女がギルバートに魔法を掛ける度、彼は惜しみない感謝を笑顔で返してくれていたし、前婚約者だったトラヴィスからは蔑まれ、引け目を感じていたこめかみの傷も、ギルバートからは受け入れられていると感じて、彼女はだんだんと気にならなくなっていた。ギルバートと一緒にいると、確かな彼の愛情を感じて、負っていた心の傷が癒されたことに加えて、彼の回復の手応えを感じることが、彼女の喜びにつながっていた。
「謙虚な君らしいな。それなら……」
どこか悪戯っぽい笑みを浮かべたギルバートは、オーレリアをふわりと抱き上げた。
ギルバートの腕に軽々と抱きかかえられて、彼女は驚いて彼を見上げた。
(いつの間に、これほど回復していらしたのかしら……)
嫁いで来たばかりの時の、自分自身の身体すら起こせずにいたギルバートとは別人のように逞しくなった彼に、オーレリアは感動を覚えずにはいられなかった。
ベッドの上にそっと彼女を下ろすと、ギルバートは柔らかく彼女の頬にキスを落とした。
「今夜は一緒に眠ろうか」
「……!?」
オーレリアの胸が大きく跳ねた。彼女が嫁いで来た時には、ギルバートが寝たきりだったために、式も初夜も考える余裕などなかったことを、彼女も彼と話しながら、今更ながら思い返していた。
真っ赤になった彼女を抱き締めたギルバートは、緊張気味にやや身体を固くした彼女の亜麻色の髪を優しく梳いた。
「大丈夫、ただこうして君を抱き締めているだけだから。君も疲れているだろう、このまま目を閉じて休んで欲しい」
「……はい」
大人しく頷いたオーレリアは、ギルバートの温かな腕の中で、彼の鼓動を聞いていた。ギルバートの腕の中にいると、どうしてこれほど幸せで気持ちがよいのだろうと、彼女はぼんやりと考えていた。いったん瞳を閉じかけたオーレリアは、再び瞳を開くと彼の顔を見つめた。
「ギルバート様」
「何だい?」
「大好きです」
不意打ちのように囁かれたオーレリアの言葉に、ギルバートもみるみるうちに頬を染めていた。
「……俺もだよ、オーレリア」
堪らず彼はオーレリアの唇に口付けた。ギルバートからの長く優しいキスに、くたりと身体から力が抜けたオーレリアをそのまま彼が抱き締めていると、しばらくして、彼女からは穏やかな寝息が聞こえ始めた。
(いつも俺にあれほどの魔法を掛けてくれて、さらにずっと側に付き添ってくれているんだ、目に見えない疲れも相当なものだろう。だが、あまりに可愛過ぎるのも、困ったものだな……)
ギルバートは微かに苦笑すると、天使のように見えるオーレリアを眺めていた。
「君ほど純粋な人は、ほかに見たことがないよ。……君といるだけで、俺の心の中にまで光が差してくるようだ」
彼はごく小さな声で呟いた。愛しげにオーレリアを見つめて微笑むと、ギルバートも静かにその瞳を閉じた。
***
その翌日、陽が高くなり始めた頃、朝食を摂り終えたギルバートとオーレリアは二人で庭へと足を運んでいた。ギルバートの手には、彼の大きい魔剣が抱えられていた。
まだ涼しい風が二人の頬を撫でていく中で、ギルバートは鈍く光る彼の魔剣を鞘から抜いた。
オーレリアは、魔剣を手にしている彼の姿を見て、小さくこくりと唾を飲んだ。
(ギルバート様のお身体が心配ではあるけれど、でも、何て凛々しいお姿なのかしら)
安易には近付けないような神々しい雰囲気を、オーレリアは彼に感じていた。
鋭く長い刃をした重そうな魔剣ではあったけれど、彼が手にしていると、まるで彼の身体の一部であるかのように軽やかに見えた。彼女には、まるでギルバートに今まで欠けていた身体の最後のピースが戻ったかのように見えていた。
ギルバートも、久し振りに握った魔剣に、しっくりと来るような懐かしい感覚を覚えていた。
彼はオーレリアを振り返った。
「危ないから、少し離れてもらってもいいかい?」
「はい」
オーレリアが数歩下がったのを確認してから、ギルバートはひゅうっと軽く魔剣を一振りした。魔剣の刃先が起こした風が、遠く見える木々の葉をぱらぱらと散らしていた。
(……! 凄いわ……)
オーレリアは息を呑むようにして、彼の一挙手一投足を見つめていた。ギルバートは手にしている魔剣を見つめた。
「まだそれほど力を乗せられてはいないが、ある程度は身体が覚えているようだ」
ギルバートが魔剣を振るう姿を見て、オーレリアの頭には、かつて一度だけ見た彼の鋭く美しい太刀筋が甦っていた。
再び魔剣を振るおうとした彼に、オーレリアは声を掛けた。
「ギルバート様、少しだけよろしいですか?」
「ああ、どうしたんだい?」
魔剣を下ろして振り返った彼に近付くと、オーレリアは彼が剣を手にしている右腕に触れた。
「ギルバート様の腕に、魔法を掛けさせていただきたくて」
オーレリアが触れたギルバートの腕から、淡く輝く光が溢れて彼の身体を包み込んだ。彼女は、目の前のギルバートの動きを見て、かつて見た彼の身体の動きと比べて揺らぎがあった部分に力を補うような感覚で魔法を掛けていた。
ギルバートの身体を包んでいた白い光が消えると、彼は感触を確かめるように、魔剣の柄を握り直した。
オーレリアが離れてから、再び彼が魔剣を振るった時、彼女は風を切るような彼の剣からの圧を感じていた。彼が剣を振った先では、木々の枝が旋風を受けて一斉に激しく揺れていた。
「君の魔法は、さすがとしか言いようがないな」
はじめの一振りとはまったく違う魔剣の手応えに、ギルバートは驚きに目を瞠っていた。
(以前の感覚が、大分戻って来たようだ)
オーレリアは、ギルバートの飛び抜けた才能を改めて感じながら、彼が手にしている魔剣を見て、ふと、トラヴィスが彼女を訪ねて来た時のことを思い出していた。
(そう言えば、トラヴィス様はもう、あの時仰っていた魔物討伐に参加なさっているのかしら。お怪我でもなさっていないといいけれど……)
トラヴィスに魔法を掛けるのを断ったことを、後悔こそしていなかったものの、多少の後味の悪さを感じていたオーレリアは、やや表情を曇らせた。
その時、屋敷からアルフレッドが二人の元にやって来た。魔剣を手にしているギルバートを見て、アルフレッドは感慨深げに微笑んだ。
「ギルバート様、もう魔剣まで扱えるほどに回復なさったとは……。少し前の私なら、これは夢に違いないとでも思ったでしょうが、どうやら最近、私は奇跡というものを少しずつ見慣れてきたようです」
オーレリアに視線を移してにっこりと笑った彼だったけれど、少し眉を下げると彼女に一通の手紙を差し出した。
「オーレリア様にお手紙です」
「私に?」
オーレリアが手紙を裏返すと、差出人は彼女の父親になっていた。
(お父様から? いったい何かしら)
彼女の横でその様子を眺めていたギルバートと目を見合わせると、彼女はどことなく嫌な予感を覚えながら手紙の封を切った。
手紙に目を通し終えたオーレリアは、その表情を翳らせていた。
「何があったんだい?」
「妹のブリジットが、魔物討伐の遠征先で怪我を負って病院に運び込まれたようです。……彼女がパートナーを務めていたトラヴィス様と一緒に」
「そうか」
手にしていた魔剣を鞘に納めたギルバートは、オーレリアを見つめた。
「君は、病院に彼らを見舞いに行くつもりなんだろう?」
「はい」
「それなら、俺も君と一緒に行くよ」
オーレリアは彼を見上げた。
「よろしいのですか?」
「ああ、もちろんだ。君を一人で彼らに会わせたくはないからね」
「……ありがとうございます、ギルバート様」
ほっと表情を緩めたオーレリアの肩を抱くと、ギルバートはアルフレッドに向かって口を開いた。
「アルフレッド、馬車の用意をお願いできるかい?」
「かしこまりました、すぐにご用意いたします」
ギルバートはオーレリアを見つめた。
「俺たちも、すぐに出掛ける準備をしよう」
「はい」
ギルバートの存在に、一言では言い表せないような心強さを感じながら、オーレリアは彼と並んで、出発の準備を整えるために急ぎ足で屋敷へと戻って行った。




