感謝の眼差し
オーレリアは、目の前のミリアムの顔色の悪さにはっと我に返ると、急いでグラスに水を注ぎ、氷を入れて彼女に手渡した。
「まずは、これをどうぞ」
「……ありがとうございます」
微笑んだミリアムはオーレリアからグラスを受け取ると、ゆっくりと口に運んだ。オーレリアは続けて、バスケットに入れていた厚手の布を取り出して、いくつか氷を包むと彼女の首筋に当てた。
「ちょっと冷たいかもしれませんが、熱くなっていらっしゃる身体を冷やすためなので、少し我慢してくださいね」
気遣わしげなオーレリアの表情に、ミリアムはじわりと瞳に涙を浮かべた。
「オーレリア様は、優しい方ですね。私が誰かを知ったなら、すぐに追い返されても不思議ではないと、そう思っていたのですが」
「とにかくお身体が第一ですから。それに、お腹に宿っている命に何かがあってからでは、取り返しがつきませんからね」
ミリアムは寂しげに自分の腹部に視線を落とすと、徐に口を開いた。
「これからお話しすることは、私の独り言だと思って、聞き流していただければと思いますが……」
彼女はグラスを握る手にぎゅっと力を込めた。
「私がギルバート様を裏切ったことは、紛れもない事実です。自分本位な私の浅はかさによるものです。どれほど謝ったとしても許されないということは、私もわかっております。……今日私がここに来たことも、どうぞギルバート様には伏せておいてくださいませ」
オーレリアが静かに頷くと、彼女は小さく息を吐いた。
「私の実家は、ここからも遠くない場所にある侯爵家なのですが、エリーゼル侯爵家とも懇意にさせていただいていました。私には比較的高い魔力が認められたこと、そして家同士の事情もあり、私は彼と婚約し、治癒師として彼のパートナーになることが決まりました。……ギルバート様はあれほど優れた魔剣士で、しかも優しく、お美しい方でしたから、私はとても嬉しくて、どうにかして彼をお支えしたいと、そう思っておりました」
ミリアムはふっと遠い瞳をした。
「ただ、彼のあまりに突出した力に、私は時に恐怖を覚えることがありました。私がどんなに力を尽くしても、彼の器が、私の力の限界を超えていることが感じられたからです」
オーレリアは、初めて彼に魔法を掛けた時に、あまりの器の大きさに、吸い込まれるような感覚を覚えたことを思い出しながら頷いた。
「それに、ギルバート様はいつも私に優しく接してくださいましたが、いわゆる異性としての私には、特に魅力を感じてはいらっしゃらないようでした。当時、ギルバート様のことが大好きだった私にとっては、それが不満でもあったのです。彼と婚約するまでは、私を口説いてくる男性もそれなりにいましたが、彼はそういう男性たちとはまったく違いましたから」
目を惹く美貌の彼女なら、さぞかし多くの男性たちから憧れの眼差しを向けられていたのだろうと、オーレリアにも容易に想像がついた。それだけに、彼女の言葉は少し意外でもあった。
「ミリアム様は、ギルバート様に愛されていらしたのではなかったのですか?」
「……彼が私を大切にしようと努力してくださっているのはわかりましたが、それだけです。女の勘のようなものとでも申しましょうか。現に、先程、ギルバート様がオーレリア様に向ける愛しげな視線を見て、愛情があるとこれほどまでに違うものなのかと、つい羨ましくなってしまいました。オーレリア様は、彼にとって特別なのですね」
思わず薄く頬を染めたオーレリアに、彼女は続けた。
「自分と同じだけの愛情を返してくださらないギルバート様に対して、少しずつ溜まっていっていた不満を爆発させたのが、彼が大怪我を負ったあの時でした。……最低なタイミングだとしか言いようがありませんが、私の力では決して彼の身体は元通りに治せないだろうと悟った時、私は彼を捨てることに決めたのです」
口を噤んだままのオーレリアに、ミリアムは自嘲気味に笑った。
「酷い女でしょう? ……でも、私にもささやかな夢があったのです。愛し愛される男性と、温かな家庭を築きたいという夢が。それまでは、いつかギルバート様とその夢を叶えたいと思っていた私でしたが、あまりに酷い彼のお身体を見た瞬間、夢が潰えたのを感じました。このままでは、私の残りの人生はきっと彼の介護で終わることになるのだろうと、そんな嫌悪感すら覚えたのです」
ミリアムは表情を翳らせたオーレリアを見つめた。
「あの時こそが、必死になって彼をお支えするべき時だったのに、私はそこで踏み止まることができませんでした。ご存知かもしれませんが、私はその後すぐに、とある魔剣士と駆け落ちをしました。自分を愛してくれている男性となら、幸せになれるのではないかと期待したのです。……けれど、悪いことはできないものですね」
彼女は苦々しく笑った。
「彼は、婚約者がいた私に言い寄ってきたような男性です。当時の私は、そんな私に愛を囁く彼の熱意に心を動かされてしまいましたが、彼がそういう態度を示していたのは、どうやら私だけではなかったようです。私が妊娠して、悪阻が酷くなり、治癒師として彼のパートナーが務められなくなると、彼は私を捨てて去って行きました」
「まあ……」
眉を下げたオーレリアが呟くと、ミリアムは手にしていた水の入ったグラスを見つめた。
「頼る相手もいなくなり、お金も尽きて、実家の侯爵家の門を叩きましたが、元々家を捨てて出た身です。私がギルバート様を見捨てたことを知っている両親には、けんもほろろに追い返されました。そんな私を見るに見かねて、しばらく匿ってくれたのが兄です。ギルバート様が結婚なさったことは、兄から聞きました」
オーレリアは躊躇いがちに彼女に尋ねた。
「……先程、私を一目見ようとここにいらしたと仰っていましたが、それはなぜなのですか?」
ミリアムは、顔を上げてオーレリアを見つめた。
「私はすっかり自分の人生に失望していました。けれど、兄にギルバート様の結婚を聞いて、ふと興味を覚えたのです。私が逃げ出した場所を埋めてくださった方とは、いったいどんな方なのだろう、と。かつての私が怪我を負ったギルバート様を見て感じたように、胸に諦めを抱いて嫁いでいらしたのだろうか。ギルバート様は、どうしてその方を選んだのだろう。……考えているうちに、どうしても貴女様を一目見たいと思っている自分がおりました」
彼女はふっと感慨深げな表情を浮かべた。
「貴女様は、何か苦しみに耐える手掛かりを私に与えてくれるのではないかと、そう期待していたのです。けれど、それはいい意味で裏切られました。……オーレリア様は、犠牲を払う意識などなく、何も見返りを求めずに、ただ純粋にギルバート様の回復を願い、支えていらしたのでしょうね。先程ギルバート様と一緒にいらっしゃる様子をお見掛けして、確かな信頼関係と愛情を感じました。ギルバート様が貴女様を選んだ理由が、私にもわかったような気がします」
ミリアムはにっこりと笑った。
「何より、ギルバート様があれほど回復なさっていることに驚き、胸を撫で下ろしました。ずっと心の底に抱いていた後悔と、申し訳なく思っていた気持ちが、いくらか軽くなったようです」
オーレリアを一目見たら帰ろうと思っていたミリアムだったけれど、信じられないほど回復していたギルバートの姿にも思わず目を奪われていた。そして、かつて、オーレリアの場所に自分がいた過去の時間を思い出して、切ない思いでつい三人の後を追っていたのだった。
彼女は手にしていたグラスを傾けて一気に水を飲み干すと、彼女の首を氷で冷やしていたオーレリアを感謝の籠った眼差しで見つめた。
「ありがとうございました、オーレリア様。親切にしてくださったこと、忘れません」
「ミリアム様は、これからどうなさるのですか?」
思わず尋ねたオーレリアの前で、彼女は膨らんだ自らの腹を撫でた。
「兄から、住み込みで働ける貴族の家を紹介してもらいましたので、近いうちにその家に向かう予定です。……これからは、授かったお腹のこの子を守って生きていきたいと思います」
随分と顔色のよくなったミリアムは、オーレリアに丁寧に頭を下げた。
「奇跡というのは、起こせるものなのですね。きっと、オーレリア様だからこそ起こせたのだと思いますが。……長い話になってしまいましたが、お付き合いくださってありがとうございました。どうぞお元気で、オーレリア様」
「ミリアム様も、どうぞお身体にはお気を付けて、元気な赤ちゃんを産んでくださいね」
明るい表情になったミリアムを外門のところまで送ったオーレリアは、去って行く彼女の背中を見送っていた。
(そんなことがあったなんて、知らなかったわ。ミリアム様も、幸せになってくださるといいけれど。……元婚約者のミリアム様から見ても、ギルバート様にとって私が特別に見えたというのは、本当なのかしら)
その時、フィルが小走りに彼女の元にやって来た。
「オーレリア! なかなか戻って来ないと思っていたけど、どうしたの?」
「ごめんなさい、フィル。もう戻るわね」
フィルは、彼女の隣に並ぶと、少しずつ小さくなっていく、金髪を靡かせたミリアムの後ろ姿に気付いてぽつりと呟いた。
「来てたんだ、あの人。……因果応報だね」
「えっ?」
まるで彼女の話を聞いていたかのようなフィルの口ぶりに、オーレリアは驚いて瞳を瞬いた。
「ううん、気にしないで。……それにしても、優しいね、オーレリアは。彼女が誰かを知っても、助けてあげるなんて」
「どうして、それを……?」
ギルバートを見捨てたミリアムのことを、決して許せないと思っていたフィルだったけれど、ギルバートの回復を喜ぶ彼女の心の声を聞き、確かに自らの行いを悔いていたことを知って、多少は胸の中の棘が抜けたような心地になっていた。そして、オーレリアの好意に彼女の心が温まり、希望が灯ったことも感じていた。
フィルはオーレリアの顔を見上げた。
「確かに兄上は以前に彼女と婚約していたけれど、オーレリアは兄上にとって誰より特別な存在だからね」
オーレリアは彼の大きな碧眼をじっと見つめた。
「フィルといると、時々、不思議な気持ちになるわ。何だか、私の考えていることが手に取るようにわかっているみたい」
「ふふっ、そうかな? ……でもさ、もしもそうだとしたら、気味が悪くはない?」
多くの人は、自分の心の中を暴かれるような彼の能力を嫌がるだろうということは、彼自身も理解していた。
けれど、オーレリアは首を横に振った。
「いいえ、別にそうは思わないわ。それに、純粋で優しいフィルになら、そんな力があってもおかしくないような気がするもの」
フィルは、いつでも本音を話してくれるオーレリアを見上げた。
(オーレリアになら、僕の力もそのうち話せそうだな)
無邪気に明るく笑ったフィルに、オーレリアも笑みを返した。
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