視線
燦々と陽射しが降り注ぐ庭に、ギルバートの車椅子を押すフィルと、ギルバートの隣に並んだオーレリアが下り立った。
それまで長い時間をずっと屋敷内で過ごしていたギルバートは、青空を見上げると眩しそうに目の前に手を翳した。
「屋敷の外がこれほど明るかったなんて、すっかり忘れていたよ。オーレリアが言っていた通り、庭に咲く花もとても綺麗だね」
時折吹く風には涼しさが感じられるものの、初夏の庭では、木々の緑や植栽に咲く花々が、強くなり始めた陽光を鮮やかに浴びていた。
庭の中央には、赤やピンク、薄紫や白色の薔薇が咲き乱れ、その周りをひらひらと黄色い蝶が舞っていた。花壇には涼やかな青色のネモフィラと、明るい橙色のマリーゴールドが爽やかなコントラストを描き、艶やかな薄紅色の芍薬が、その脇で風に揺れていた。スノーボールのような白い紫陽花も、庭を囲むように咲き誇っており、さらにその奥では、背の高い木々が、新緑の眩しい枝をさわさわと靡かせていた。
生き生きと生命力を感じる植物に囲まれて、オーレリアはギルバートに向かって瞳を細めた。
「ギルバート様と一緒にこの庭に出ることができて、嬉しいです。こうして三人で散歩をするのも気持ちがいいですね」
フィルを振り向いて微笑んだオーレリアに、彼は大きく頷いた。
「うん! ……こうして改めて見回してみると、色とりどりの花が植えられているね」
「そうね。フィルが学校に出掛けている間、庭師がいつも綺麗に整えてくれているの。ギルバート様が庭を久し振りに楽しんでくださったと知ったなら、きっと喜ぶことでしょう」
ギルバートは、甘く漂う花の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「こうして外の空気を吸うのもいいものだな。何だか生き返るようだ」
オーレリアはフィルと視線を交わすとにっこりと笑った。
「そうですね。きっと、よい気分転換になるのではないかと思います」
「ああ、その通りだな」
フィルがゆっくりと車椅子を押している間、ギルバートは、広々とした庭をじっくりと眺めていた。
「目に映る景色が、身体を悪くする前とはまた違って見えるようだ。以前は、日々の忙しさにかまけて、落ち着いて庭に目を向けることはあまりなかった。花々がこんなに鮮やかな色をしていたことも、今まで気付かずにいたよ」
呟くようにそう言ったギルバートに、オーレリアは頷いた。
「ギルバート様の仰ることは、何となくわかるような気がします」
彼はオーレリアを見上げて微笑んだ。
「だが、ここに咲いている花よりも、何より、君が俺の世界に彩りを与えてくれたんだ。ありがとう、オーレリア」
オーレリアは、ギルバートの言葉にふわりと頬を染めた。
「いえ。こちらこそ、ギルバート様のお側で過ごすことができて、毎日がすっかり明るくなったように感じています」
フィルもにこにことしながら、二人の会話に耳を傾けていた。
ギルバートの車椅子を押しながら、フィルがほとんど庭を一周した時、ギルバートがオーレリアに尋ねた。
「この屋敷の庭のことを、俺が君に聞くのもおかしな話だが。君がよくハーブティーにしてくれるエルダーフラワーは、どの辺りに生えているんだい?」
「はい。エルダーフラワーの木は、この庭の中でも、外門に程近い、端の方にあるのですが……」
オーレリアの指差した方向に、フィルがギルバートの車椅子を押して行った。
「こちらの木です。あの白い花が見えますか?」
広がる枝のそこここに、白く小さな花がふわふわと集まって空を向いているのを見て、ギルバートは微笑んだ。
「あれがエルダーフラワーの木か。ああ、咲いている花もよく見えるよ」
屋敷の二階まで届きそうな高さの木を、三人は見上げた。
ふわりと甘い花の香りが、彼らの鼻をくすぐった。
「可愛い見た目だけじゃなくて、お茶にもなるなんて、優秀な花なんだね」
感心したようにフィルが言うと、オーレリアはにこやかに笑った。
「そうですね。それに、あの白い花からはシロップも作れるのですよ。レモンや砂糖と一緒に花を煮込むのですが、そうして作ったシロップは、水や炭酸水で割っても飲みやすいので、暑い時期にはお茶よりも飲みやすいかもしれません。よかったら、今度お二人に作りますね」
フィルは、振り向いたギルバートと一緒に、嬉しそうに頷いた。
「わあ、ありがとう!」
「俺も楽しみにしているよ」
笑顔の三人の間には、和やかな時間が流れていた。
***
和気藹々としたオーレリア、ギルバートとフィルの様子を、外門の合間から眺めている人影があった。人目を惹く鮮やかな赤髪をした彼は、オーレリアをじっと見つめてから、その隣に並んだ車椅子の上のギルバートに視線を移した。
(ギルバート様は、臥せっているらしいという噂のほかには、何も情報はなかったが。……身体を悪くしているというのは、本当のようだな。まあ、オーレリアが看取りに呼ばれたというくらいだからな)
トラヴィスは薄く口角を上げた。
(身体の悪い夫を介護するために嫁がされるとは。いくら嫁ぎ先が侯爵家とはいえ、オーレリアも不運だったな)
ギルバートの身体が着々と回復していることを知らなかったトラヴィスは、車椅子の上の彼を見つめて不遜な笑みを浮かべた。
(身体が不自由で先が短い夫の元にいるより、オーレリアだって、俺の隣で治癒師としての役割を果たすことを望むに違いない。……侯爵家相手に離縁するのはやりづらさもあるかもしれないが、それでも俺が迎えに来たなら、彼女はきっと喜んで応えてくれるはずだ)
王宮の中庭でトラヴィスの前からオーレリアが去った時、彼女が青ざめて瞳に涙を浮かべていたことを、彼は思い出していた。
(……やはり、長年かけて培ってきた彼女とのパートナー関係から目を背けて、彼女を手放してしまったことは早計だったな)
トロールとの戦いの後、もう少し時間が経って慣れてくれば、ブリジットと組んでも再び強力な魔剣を振るえるようになるのではないかと、そんな期待を捨て切れずにいたトラヴィスだったけれど、その後の魔物討伐の結果は散々だった。
ここ最近の屈辱の日々を思い起こして、彼は唇を噛んだ。
(まさか、俺の身にこんなことが起きるなんて)
ヘルハウンドやトロールとの戦いの時は、今から思えばまだ良い方だったと、そうトラヴィスは肩を落としていた。オーレリアが彼の側を離れてから、トラヴィスには、時間が経てば経つほど身体が重くなっていくように感じられていた。ヘルハウンドと戦った時に振るった魔剣の勢いや、トロールとの戦いの際に軽やかに走り、高く跳躍できたことまでもが嘘だったかのように、このところのトラヴィスは、目立つ活躍どころか、人並みの成果も怪しいほどになっていた。
日を追うごとに、身体の内側から力が少しずつ零れ出し、失われていくような感覚を覚えながら、まるでそれまでと同じ自分の身体ではなくなっていくようだと、トラヴィスは背筋の冷えるような恐怖を覚えていた。
(くそっ。まだ、オーレリアと別れてから一月も経ってはいないというのに)
他の王国軍の隊員たちに対する、調子が悪いというごまかしも、だんだんきかないところにまで来ているようだと、彼自身も自覚していた。はじめのうちこそ、自分が十分に支えられていないせいだろうかと、多少なりとも反省した様子を見せていたブリジットも、冴えない魔物討伐続きのトラヴィスに、少しずつ冷ややかな視線を向けるようになってきていた。
これまで、従順だったオーレリアに対して、支配的な自分の立場を崩すことには二の足を踏んでいたトラヴィスだったけれど、今となっては、もうなりふり構ってはいられなかった。
(よくはわからないが、オーレリアには何かがある。それが俺と彼女との相性なのか、それ以外の何かなのかはわからないが、俺には彼女が必要だ)
トラヴィスは再び、ギルバートたちと談笑しているオーレリアを見つめた。彼女がかつて見たこともないほど明るい顔で笑っているように見えたことが、彼には面白くなかった。
(まあいい。オーレリアは優しいからな。きっと、これから看取る相手に気を遣っているだけだろう)
気を取り直したトラヴィスは、大きな外門の脇から近付いて来た門番に向き直ると、家の者への取り次ぎを依頼した。




