回復の兆し
ギルバートにパン粥のおかわりを持って彼の部屋に戻ったオーレリアが、引き続き彼と朝食を摂っていると、部屋のドアが軽くノックされた。
「おはよう、兄上、オーレリア」
王立学校の制服を身に着けたフィルが、ドアの陰から顔を覗かせた。手には学生鞄を下げ、すっかり学校の支度を終えた様子の彼に向かって、ギルバートとオーレリアが重なるように声を返した。
「おはよう、フィル」
フィルは二人を見て明るく笑った。
「食事中に邪魔しちゃってごめんね。兄さん、おかわりもしたんだって? さっきアルフレッドに聞いたよ」
「ああ。オーレリアが作ってくれた朝食が、とても美味しくてね」
彼の手元の皿を覗き込んだフィルは、オーレリアを見つめた。
「いいなあ。オーレリア、僕にも今度作ってくれる?」
「ええ、私でよければもちろんよ。フィル、その制服もよく似合っているわね」
王立学校の校章の入ったブレザーとスラックスを纏ったフィルは、オーレリアの目に年相応の少年らしく映っていた。
昨日、オーレリアがお茶を飲みながら彼と話をしている時に、彼が王立学校の学生であることや、学校では剣技のクラスを多く選択していること、そして学業の合間を縫って、実践演習を兼ねて魔物討伐にも参加していることなどを聞いていた。
(フィルはまだ学生なのに、大人に混じっても遜色ないほどに魔剣の腕にも優れているのだもの。さすがだわ)
フィルははにかむように笑った。
「ありがとう、オーレリア。僕はこれから学校に向かうところだけれど、兄上をよろしくね」
「ええ、行っていらっしゃい」
「気を付けてな、フィル」
にっこりと笑ったフィルは、ひらひらと手を振って兄の部屋を後にした。
オーレリアは、部屋のドアが閉まる音を聞きながらギルバートに笑い掛けた。
「いつもしっかりしているから、つい若いということを忘れそうになってしまいますが、まだフィルは学生なのですよね。彼が制服を着ているところを見て、何だか新鮮でした」
ギルバートも彼女の言葉に頷いた。
「フィルは幼い頃から、芯が強くて気持ちの優しい子だったからな。俺がこんな身体になった分も、しっかりしないといけないと、そう気を張っている部分もあったのだろう。十分に甘えさせてやることもできずに可哀想なことをしたと思っていたが、オーレリアが来てくれてから、彼の表情も随分明るくなったようだ」
「ふふ、それならよいのですが。……ギルバート様は、フィルを魔物から庇った時に大怪我をなさったと聞きました。大切なお兄様をどうにか支えたいと、彼もそう強く思っているのでしょうね」
ギルバートが空いた皿をテーブルに置いたのを見計らってから、オーレリアは続けた。
「差し支えなければ、また昨日と同じように、ギルバート様に魔法を掛けさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ、助かるよ。ただ、無理だけはしないで欲しい。……君の魔法は、俺が今までに掛けてもらったどんな治癒魔法とも違うようだね」
彼の言葉に、オーレリアは瞳を瞬いた。
「……特別変わったものだという意識はないのですが、確かに、一般の治癒魔法とは違いますね。感覚としては、戦いの場で魔剣士のサポートをする際と同じように、魔剣士が治癒を必要とする箇所に合わせて魔法を使うような、そんなイメージです」
「ほう、興味深いな。魔剣士と治癒師には相性があるという話はよく耳にするが、そういう具体的な感覚の話は初めて聞いたよ。力の使い方が特殊なのかもしれないな」
思案気にそう呟いたギルバートは、彼の両手をそっと取ったオーレリアを見つめた。
「君が昨日俺に掛けてくれた魔法は、今までの誰よりも素晴らしい治癒の効果が……いや、治癒という言葉だけでは足りない何かを、俺の身体にもたらしてくれたような気がするんだ」
オーレリアは嬉しそうに笑った。
「ギルバート様は本当にお優しいですね。私は魔力は弱いですが、ギルバート様のお身体が良くなるようにと、願いだけは込めながら魔法を掛けています。では、早速始めさせていただきますね」
瞳を閉じた彼女の両手から再び淡く輝く光が放たれ、ギルバートの身体を包み込んだ。彼の身体に意識を向けていたオーレリアは、昨日とは少し異なる感覚を覚えていた。
(あら? 昨日は、お身体の内側に力が暗く吸い込まれてしまうような、そんな感覚があったけれど。今日は、何だか違うわ)
ギルバートの身体が内側から仄かな光を取り戻しつつあるような、そんな微かな手応えをオーレリアは感じていた。
またしても、集中するあまりに魔力を使い切ってしまいそうになったオーレリアは、すんでのところで踏み止まると、ゆっくりとその瞳を開いた。
(よかった。昨日のように、またギルバート様の上に倒れてしまうところだったわ)
足から力が抜けそうになっていた彼女を、ギルバートは心配そうに見つめた。
「魔法を掛けてくれて、ありがとう。……だが、身体は大丈夫かい?」
「ええ、何も問題ありません」
足のふらつきを堪えて微笑んだオーレリアに向かって、ギルバートの腕が伸びた。
(……!?)
気付くと、オーレリアはギルバートの腕の中に抱き締められていた。
「ギルバート様……?」
かあっと頬を染めてオーレリアがギルバートを見上げると、彼は温かく微笑みながら彼女の瞳を覗き込んでいた。
「君の力は、やはり素晴らしいよ。きっと唯一無二のものだね。だが、さっきも言った通り、君に無理をして欲しくはないんだ。今は立っているのも辛いだろう?」
オーレリアの身体の状態をすっかり理解している様子のギルバートに、彼女は白旗を上げた。
「……これからは、もっと魔力の配分に気を付けます」
しおらしくそう言った彼女に回している腕に、ギルバートは愛しげに力を込めた。
(結局、昨日と同じことになってしまったわ。でも、ギルバート様の腕の中は、どうしてこんなに気持ちがいいのかしら……)
鼓動が高鳴るのを感じながら、オーレリアは温かな彼の腕に身を任せていた。自分に回された腕が、昨日よりもしっかりと力強くなっているように感じて、オーレリアの胸にも希望の光が灯っていた。
***
兄の部屋を出たフィルは、胸を躍らせながら、屋敷の外で待っている馬車に弾むような足取りで向かっていた。
(やっぱり、オーレリアはきっと特別な才能の持ち主なんだ)
最近見たことがないほど兄の顔色が良く、そしてその眼差しも強く明るくなっているのを見て、フィルは嬉しくてならなかった。
(それに、兄上のあの心の声……)
ギルバートの心の声を聞いたフィルは、オーレリアに魔法を掛けられてから、不思議と身体に力が戻り始めているように兄が感じていたことに、喜びを隠せずにいた。
(どうか、兄上に奇跡が起きますように)
祈るような気持ちで、フィルは馬車の前から屋敷を振り返ってギルバートの部屋を見上げると、それから馬車へと乗り込んだのだった。
フィルを乗せた馬車が王立学校に向かう道の途中で、すれ違った一台の馬車があった。その馬車の中には、トラヴィスとブリジットが乗っていた。
青白い顔をしたトラヴィスを見て、ブリジットが尋ねた。
「どうしたのですか、トラヴィス様? 顔色が悪いようですが」
「まあ、連日の魔物討伐だからな。少しだけ昨日の疲れが残っているのかもしれない」
オーレリアがパートナーだった時には、ヘルハウンド程度の魔物と戦ったくらいでは、翌日に疲れを持ち越すことはなかったトラヴィスだったけれど、この日はまだ、身体に重く怠いような感覚が残っていた。
ブリジットは明るく笑った。
「それでも、トラヴィス様なら何も問題ないと思いますわ。私だって、昨日よりは上手くやってみせますし。……これから向かう魔物討伐の目的地は遠いですから、着くまでにはまだしばらく時間がかかることでしょう。今のうちに、馬車の中で休息を取ってください」
そう言いながら、ブリジットは彼に身体を寄せると、甘えるように彼の腕に自らの腕を絡めた。美しい彼女を見つめながらも、彼の頭には、彼女の姉のオーレリアの顔が浮かんでいた。
(もしも、ここにいるのがオーレリアだったなら。……いや、だが、この俺なら大丈夫だ)
トラヴィスは、心の中で何度も自分に向かって大丈夫だと繰り返していた。実のところは昨日にも増して不安が首をもたげていたけれど、彼は自分に言い聞かせた。
(ブリジットも言っていたように、彼女とはまだ組んだばかりだからな。今日はきっと、昨日よりもスムーズに運ぶに違いない)
振り払おうとしても、胸の中を暗い靄が覆うようで、トラヴィスは無意識のうちに深い息を吐いていた。




