フィルとのお茶
「オーレリア!」
ギルバートの部屋を出て少し廊下を歩いたところで、オーレリアはフィルから掛けられた声に振り向いた。
「あら、フィル」
「兄上とはゆっくり話せた?」
「ええ。……ギルバート様は、本当に優しくて素敵な方ね」
ふわりと頬を染めたオーレリアを見て、フィルはにっこりと笑った。
「そうでしょう? 兄上は僕の憧れだからね」
フィルは明るい表情でオーレリアを見上げた。
「はじめは、今の兄上の容態を見てあなたがどう思うか、少しだけ心配していたんだけれど、杞憂だったみたいだね。あなたが兄上と話して、心からそう思ってくれたことが、僕にとっては凄く嬉しいんだ。……オーレリアは、もう疲れているかな?」
「いえ、私は全然。ギルバート様と、ただ楽しい時間を過ごさせていただいただけだから」
もう魔力切れを起こした身体も落ち着いていたオーレリアは、首を横に振った。フィルはそんな彼女に尋ねた。
「じゃあ、よかったら、これから僕とお茶でもどうかな?」
「ええ、喜んで」
ちらりと後ろを振り返り、ギルバートの部屋の扉を見つめたオーレリアを見て、フィルは少し眉を下げた。
「兄上は、残念だけど、今はお茶や菓子の類は口にしないんだ。一日に一度、消化のよい食事をちょっぴり食べるだけで」
「そうだったのね……」
ギルバートはもう休んでいるだろうと思いつつも、彼に声を掛けた方がよいだろうかと迷っていたオーレリアは、フィルの言葉を聞いて表情を翳らせた。
(あのように華奢な身体をしていらしたのは、きっとそのためだったのね)
フィルは少し目を伏せると、呟くように言った。
「兄上があんな身体になったのは、魔物から僕を庇ってくれたからなんだよ。これまで、兄上はどんどん食も細っていくし、身体だって治る気配もなかったものだから、塞いでいる様子を側で見ていることしかできなくて辛かったんだ。でもね、」
彼はオーレリアに向かって微笑んだ。
「今日は、オーレリアが来てくれたお蔭で、あんなに嬉しそうに兄上が笑ってくれたのだもの。兄上が幸せそうにしているのを見て、僕まで幸せな気持ちになったよ」
「ふふ。私の方こそ、こんな幸運をいただいて驚いているわ」
二人はそのままダイニングルームに向かうと、フィルがアルフレッドを呼んでお茶の支度を頼んだ。
テーブルを挟んで腰掛けたオーレリアに、フィルは徐に口を開いた。
「ねえ、オーレリア。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「ええ、何かしら?」
彼はじっとオーレリアを見つめた。
「今まで、あなたには不思議な力があるって言われたことはない?」
オーレリアはきょとんとして、フィルの言葉に首を横に振った。
「不思議な力……? いいえ、これまでに一度も、そのようなことを言われたことはないわ」
彼女は微かに苦笑した。
「不思議な力どころか、残念だけれど魔力も人並み以下で、治癒師としても半人前なの。……もっと私に優れた力があれば、ギルバート様を癒して差し上げられるかもしれないのにって、そう悔しく思っているわ」
フィルは思案気に、オーレリアの心の声に耳を傾けていた。
(オーレリアは、話してくれる内容と心の声がいつも一致している。こんなに素直な方も、珍しいな)
彼は王宮の中庭で、オーレリアとトラヴィスの婚約解消の場面に居合わせた時の、トラヴィスの心の声を思い返していた。
(……トラヴィス様は、やっぱり彼女に何も告げてはいなかったんだな)
フィルは、そのような場面に偶然出くわしてしまったことに驚いていたのと同時に、たまたま聞こえてきたトラヴィスの心の声にも驚きを隠せずにいた。トラヴィスは結局、駆け去って行くオーレリアを追い掛けることはしなかったけれど、彼がオーレリアを手放すことを躊躇って逡巡していた時の彼の心の声を、フィルはしっかりと聞いていたのだった。
(彼はあの時確かに、オーレリアが去って行くことに動揺していた。でも、それは彼女を愛していたからではなかった。万が一にも彼女の力が特別なもので、それが彼の能力の元になっていたのならと、彼女の力を失うことを危惧するものだった。……最低だったな)
青い顔をして泣きそうになっているオーレリアを眺めながら、そんな自分本位なことを考えていたトラヴィスに、フィルは胸の中で滾るような怒りを感じていた。
兄のギルバートが、ベッドの上で臥せるようになってからも、よく思い出していた令嬢が目の前のオーレリアだと気付いたフィルは、その後急いで彼女の後を追い掛けたのだった。
(オーレリアに、トラヴィス様が考えていたような力があるのか、まだ確かなことはわからないけれど)
少なくとも、その時のフィルには、オーレリアが兄の元に来てくれたなら、兄に希望の光を与えてくれるだろうということだけはわかっていた。
そして、仮にオーレリアにそのような力があったとしたなら、トラヴィスが彼女を取り戻しに来るだろうということも、彼には予想がついていた。
その前にどうにかして手を打たなければと、フィルはすぐに彼女の元に縁談を持って行くことを決めたのだった。
オーレリアがこれほど特殊な縁談に首を縦に振ってくれるかは、一種の賭けだと思っていたフィルだったけれど、彼の気持ちを慮ってこの話を受けてくれた優しい彼女を、どうにかして守りたいとも思っていた。
(……彼女のあの父親なら、娘を売るような真似だってしかねないからな)
彼女の家を訪れたフィルは、オーレリアの気持ちよりも、何より家の利益を優先に考える彼女の父親の心の声も聞いていた。もしもトラヴィスがオーレリアを再び望んだ場合、オーレリアの父親がトラヴィスに阿って彼女を差し出すだろうということも、想像に難くはなかったのだ。
まだその当時はトラヴィスへの想いを残して、心を痛めていたオーレリアには申し訳ないような気もしていたけれど、彼女の純粋な好意が、トラヴィスに再び都合よく利用されることを思い浮かべるだけでも、フィルは腸が煮えくり返るような思いだった。
兄の妻という確かな立場と共に、無事にこうしてオーレリアをエリーゼル侯爵家に連れて来ることができたことに、フィルは胸の中で安堵の息を吐いていたのだった。
フィルは穏やかな瞳でオーレリアを見つめた。
「おかしなことを聞いてしまって、ごめんね。でも、オーレリアの力がどうこうということに関係なく、あなたが兄上の側にいてくれるだけで、もう十分だから」
その時、アルフレッドが紅茶と菓子の皿の載ったトレイを手に持って二人の元にやって来た。彼は菓子の皿とティーカップを二人の前に並べ、ティーポットからカップに紅茶を注ぐと、温かな笑みを浮かべて一礼し、静かにダイニングルームを辞した。
芳しい紅茶の香りが満ちるダイニングルームで、オーレリアは微笑みを浮かべてフィルを見つめ返した。
「さっきアルフレッドに部屋を案内してもらった時、フィルと同じことを言われたの。ギルバート様のお側にいるだけで十分だって。……でも、ギルバート様のお側にいたら、むしろ私の方が幸せな気持ちにさせていただいたわ。あんなに楽しい時間を過ごさせていただけるなんて、こんな機会がいただけたことをとても感謝しているの」
軽く頬を染めたオーレリアの心から、トラヴィスが落としていた暗い影がすっかり薄くなっていること、そして彼女がギルバートに惹かれ始めていることに気付いて、フィルは嬉しそうに笑った。
「そう言ってもらえて、本当によかった。……あなたが兄上に嫁いで来てくれて、僕の方こそ心から感謝しているよ。兄上はあんな身体だし、今はどうしても書類の上での婚姻になってしまうけれど、気にならないかな? 式を挙げてもらうこともできずに、申し訳ないのだけれど……」
「いえ、まったく。こうしてギルバート様の妻としてこの家に迎えていただいただけで、私も十分よ。私にももう少し、妻としてギルバート様に何かできることがないかと考えているところなの」
オーレリアの笑顔を見ながら、フィルは続けた。
「ねえ、オーレリア。プレッシャーを感じる必要はまったくないけれど、兄上を救えるとしたら、あなたしかいないと思う。あなたなら、兄上に奇跡を起こすことができるような気がするんだ」
一般には、異能の存在など信じられてはいなかったけれど、自らも異能の持ち主であるフィルは、トラヴィスの勘が当たっているように思えてならなかった。オーレリアには、隠れた才能が秘められているのではないかと、そして兄がいつか健康を取り戻せる日が来るのではないかと、一縷の望みを抱いていたのだ。
真っ直ぐな眼差しでフィルに見つめられて、オーレリアは頷いた。
「ギルバート様に再び元気になっていただけるように、私も全力を尽くすわ。……ギルバート様とも、いつかこうして一緒にお茶のテーブルを囲める日が来たらと思うの」
そんな希望に満ちた未来が確かに待っているような気がして、フィルは瞳を潤ませた。
「うん、そうだね。ありがとう、オーレリア」
ごしごしと目を擦ったフィルを見つめて、彼女は手を伸ばすと優しく彼の頭を撫でた。
「フィル、あなたもギルバート様にとっての希望よ。あなたのように素敵なお兄様思いの弟は、どこを探してもいないと思うわ」
(私も、フィルのような可愛い義弟ができて、とても嬉しいわ。こんなに健気で優しい子を、好きにならずになんていられないもの)
フィルは顔を上げて、眩しい笑みをオーレリアに向けた。
「ふふっ、ありがとう。僕、オーレリアのことも大好きだよ。……ねえ、あなたのこと、まだあまり聞いてはいなかったね。もっと教えてもらえるかな?」
「ええ、もちろんよ。フィルの話も、色々と聞かせて欲しいわ」
二人は紅茶のカップを傾けながら、和やかな時間を過ごしていた。
***
ギルバートは、部屋を出て行くオーレリアの後ろ姿を見送ってから、心が満たされるのを感じて静かに瞳を閉じていた。
(オーレリアは本当に、優しい女性だな)
真っ赤になっていた彼女のことを思い出し、ギルバートの顔には幸せそうな笑みがふっと浮かんだ。
恥ずかしそうにしてはいたけれど、オーレリアから確かに彼に対する好意が読み取れたことが、彼の胸を温めていた。
胸の中だけでなく、身体中に不思議な熱が巡っているような気がして、ギルバートは再び薄く瞳を開いた。
(この感じは、いったい何だろう。初めての感覚だな)
ついさっき、オーレリアの手から発せられた白く輝く光が彼の身体を包んだ時、確かに彼は身体の内側から癒されるような感覚を覚えていた。けれど、それだけではなく、身体の中を今も彼女の温かな力が巡っているような、そんな気がしていた。
(もう、俺の身体が元通りに治ることはないと、治癒師にも医者にも匙を投げられていたが。これは、いったい……?)
痺れたように感覚が薄くなっていた足の先にも、どうしてか少しずつ感覚が戻って来ているように思えて、ギルバートは目を瞬いた。治癒というよりも、機能を失った身体の各部分が、新しく力を与えられて再生されているような、そんな形容し難い感覚があった。
確かな希望が胸に宿るのを感じながら、ギルバートは再びベッドの上で瞳を閉じた。