トラヴィスの焦燥
肩で息をするトラヴィスの前には、魔剣で貫かれた何頭もの漆黒のヘルハウンドが横たわっていた。彼と同じ隊の騎士たちも、魔物たちが一掃されて静かになった山中で、構えていた剣をようやく下ろし始めていた。
「トラヴィス様!」
ブリジットが瞳を輝かせてトラヴィスの元に駆け寄った。袖で額の汗を拭ったトラヴィスに、彼女は続けた。
「素晴らしいご活躍でしたね。さすがはトラヴィス様ですわ」
「ああ、まあな」
ブリジットはにっこり笑うと彼に尋ねた。
「治癒師としての私は、いかがでしたか? お姉様よりも、ずっと優れていましたでしょう?」
「……そうだな、ありがとう」
トラヴィスは口元に笑みを浮かべたけれど、彼の瞳は笑ってはいなかった。その日初めてブリジットのサポートを受けた彼は、思案気に彼女に尋ねた。
「今日、君が僕に対して行ってくれた治癒は、あれで全力かい?」
「ええ、当然です。トラヴィス様を相手に、手を抜くはずがないではないですか。……何かご不満でも?」
ぴくりと片眉を上げたブリジットを見て、トラヴィスは慌てて首を横に振った。
「いや、そんなことはないよ。君がサポートしてくれたお蔭で、助かった」
ブリジットは表情を緩めると、彼を見つめた。
「ただ、お姉様と違って、こうしてトラヴィス様の戦闘中にお側で支えさせていただくのは初めてでしたから、まだ完全には要領を得ないところもあるかもしれません。改めて、治癒魔法を掛けさせていただきますね」
彼女はトラヴィスに手を翳すと、治癒魔法を唱えた。強く輝く光がトラヴィスの身体を包み込む。
(やはり、魔力としてはブリジットの方がオーレリアよりも高いようだな。だが……)
彼は魔剣を持つ自分の手を見つめた。
(今日は、どうしてか身体が思うように動かなかった。それに、この剣はこれほど重かっただろうか……)
どうにか無事にヘルハウンドの群れを倒し切ったものの、トラヴィスには、ヘルハウンドの牙が腕に掠ってひやりとした場面もあった。オーレリアが彼のサポートについていた時には、ヘルハウンド程度なら十分に余裕を持って撃退できていたため、この日の戦いに、トラヴィスは内心では焦りを隠せずにいた。
治癒魔法は掛けられたものの、彼はどこか抜け切らない怠さの残る重い身体を抱えていた。魔剣を振る度に、少しずつ零れ落ちていった力がそのまま戻って来ないような感覚があった。
(オーレリアには、長年俺の側にいた経験があったからな。その積み重ねがないブリジットは、今は少し慣れていないだけだろう)
そう彼は自分に言い聞かせようとしたけれど、彼の心の中では、無視できないほどの警鐘が鳴り響いていた。
ブリジットからのサポートは、オーレリアからのものとは何かが決定的に違うことを彼は感じていたからだった。
――もしかしたら、この国の誰からも賞賛されていた自分の力は……
そこまで考えかけてから、彼は、湧き出て来た自分の考えを握り潰した。
(治癒師の能力は、魔剣の使い手の傷付いた身体をただ癒すためのものだ。だから、魔剣の使い手自身の力が優れていなければ、話にならない。……治癒師が魔剣士の能力そのものに影響を与えることなんて、決してできるはずがないんだ)
トラヴィスにとって、六年前に出会い、そして婚約したオーレリアが、初めてパートナーに迎えた治癒師だった。オーレリアと組んでしか戦いに赴いたことはなかったトラヴィスは、この日まで、彼女以外の治癒師のサポートを受けたことはなかった。
オーレリアが自分の身体を癒してくれた時には、身体の内側が温かな魔力で満たされて、力が漲ってくるような感覚があった。魔剣士との相性の差はあるにせよ、それはほかの治癒師によっても同様に可能なのだろうと、彼はそう考えていた。
ただ、トラヴィスは一度、オーレリアの側で特別に不思議な感覚を覚えたことがあった。それは、彼女が彼を庇って、顔に深い傷を負った時のことだった。
当時、魔物が巣食っていると言われる山中に向かう途中で飛び出して来た魔物たちを、討伐隊にいたギルバートが薙ぎ払っていた。けれど、彼のパートナーの治癒師が、体調が優れない様子で顔色が悪かったこともあり、たまたま彼の近くにいたオーレリアが、ギルバートに簡単な治癒魔法を掛けていた。
ギルバートに礼を言われて、オーレリアがはにかみながら微笑む様子を見て、トラヴィスはやきもちを焼いていた。気もそぞろになって集中力を欠いたトラヴィスが、茂みに潜んでいたケルベロスに気付かずに近付いた時、彼は、ケルベロスに素早い動きで襲い掛かられたのだった。
三つの頭を持つケルベロスが、怒り狂ったようにすべての顎から牙を向いて迫り来るのを見て、トラヴィスは恐怖に身体が凍り付いたまま動けなかった。
(……ああ、俺はこのまま死ぬんだな)
ケルベロスが鋭い爪のある足を自分に向かって振り上げる様子が、トラヴィスにはどこかスローモーションのように現実味なく見えた。けれど、ケルベロスの爪がトラヴィスの身体に届き掛けた刹那、彼は自分を包む温かな二本の腕を感じた。それは、必死に彼を庇うオーレリアの腕だった。
オーレリアのこめかみにケルベロスの爪が掠り、目の前に彼女の血飛沫が飛んで、はっとトラヴィスは我に返った。そして、すべての力を集中させて、夢中でケルベロスに魔剣を突き立てたのだった。当時のトラヴィスにとって格上だったはずのケルベロスは、彼のその一撃で絶命した。
その時に、信じられないほどの力が身体の奥から湧き出してきたことを、彼は未だ忘れられずにいた。
(あの時は、窮地に追い込まれて必死になるあまり、それまでと比べて桁違いの力が出せたのかとも思ったが……)
自分を庇ったオーレリアの腕から、とてつもない熱量が力となって流れ込んで来たような気がしたことを、彼は忘れられずにいたのだった。
当時のトラヴィスは、優しく美しく、そして治癒師としての将来も嘱望されていたオーレリアのことを、愛しく思い大事にしていた。特に、彼女が彼の命を助けて大怪我を負った直後は、彼女への感謝と愛情が彼の心から溢れ出さんばかりだった。どんなに顔に傷が残ったとしても、それは彼を守るために負ったものだったし、生涯彼女のことを大切に守りたいと、確かにそう心に決めていたはずだった。
けれど、トラヴィスが次第に頭角を現し、その類稀な力を誰からも賞賛されるようになっていくうちに、期待されたような力の伸びが見られず、醜く目立つ傷をこめかみに抱えたオーレリアが隣にいることに、彼は少しずつ不満を覚えるようになった。
オーレリアに庇われた一件以来、トラヴィスは魔物討伐において際立った成果を残し続けてきた。そんな彼にとって、オーレリアのこめかみの傷は、彼の輝かしい経歴に染みを作る、過去の汚点のようにだんだんと思えてきていた。彼女の傷を見る度、自分が魔物討伐で無様に死に掛けたこと、そして彼女の助けがなければ生きては戻れなかったことが思い起こされ、彼の心は苛立った。
また、オーレリアの目立つ傷に心無い陰口が叩かれるようになり、彼女が表情を翳らせるようになったことも、彼の苛立ちに拍車をかけた。当時のことについて、オーレリアは一言たりともトラヴィスを責めることもなければ、感謝を求めることもなかったけれど、かつて美しかった彼女が顔を曇らせているのは自分のせいだと、そう感じざるを得なかったからだった。
慎ましやかで穏やかなオーレリアに対して、勝ち気でプライドの高い彼女の妹のブリジットは、性格はまるで正反対ではあったけれど、その整った容姿は比較的よく似ていた。かつてのオーレリアにも似た美しいブリジットが、その優れた才能を現し始め、そしてトラヴィスへの好意を隠さずに近付いて来たことに、彼の心はぐらりと揺れたのだった。ブリジットの方が自分に相応しいように、そうトラヴィスには思われた。
ただ、トラヴィスはブリジットに対して甘い態度は見せたものの、明らかな好意を彼女から寄せられても、決定的な結論を出すことはせずに、うやむやにはぐらかしてはのらりくらりと躱し続けていた。それは、彼の第六感が、オーレリアを手放してはならないと告げていたからだった。
オーレリアの魔力がさほどではないと知ったトラヴィスだったけれど、彼女の治癒が彼の活躍を支えていることは理解していた。以前にオーレリアから流れ込む強い力を感じた彼は、そんな才能を持つ治癒師は未だかつて聞いたこともないと、胸の中では否定したい気持ちと共に、自分の力の源は、もしかしたら彼女なのかもしれないと、ほんの僅かな可能性として、薄らと心のどこかでそう感じてもいたのだった。
もしも、自分の活躍が彼女の手柄だとでも思われたらと思うと、彼は我慢のならない憤りと共に恐怖も覚えた。トラヴィスが今まで勝ち取って来た輝かしい戦績は、あくまで自分のものであり、彼を支えるオーレリアはその添え物に過ぎないはずだった。
(醜い傷のあるオーレリアには、自分のほかには誰も貰い手などいるはずがない)
そんな不遜で傲慢な思いと共に、トラヴィスはオーレリアが思い上がらないようにと牽制するようになっていた。醜く、魔力も弱いのに、今でも変わらず側に置いてやっていることに感謝するようにと、彼はオーレリアにことあるごとに言い含めた。そして、彼女が反発しないことをいいことに、自分がいなければオーレリアには存在価値がないかのように、時に辛辣な態度を取るようになっていった。
けれど、王宮の中庭での一件があり、オーレリアが自分の元から去ったことに、トラヴィスは焦りを隠せずにいた。
トラヴィスは、オーレリアが自分の言うことを大人しく聞くように築いた優位な関係性を、彼女を引き留めることで失いたくはなかった。それに、ブリジットとの関係性を壊したくもなければ、ブリジットと組んだ方が自分の力が高まる可能性も否定できずにいた。もしもオーレリアが必要だとわかったなら、彼女は長いパートナーでもあるのだからと、ブリジットに後で曖昧に濁そうかと思っていたトラヴィスだったけれど、そこは押しの強いブリジットの方が一枚上手だった。
さらに、オーレリアがすぐに嫁いだと聞いて、今になってようやく、トラヴィスは、自分が取り返しのつかないことをしてしまったかもしれないということに思い至っていた。
(くそっ。オーレリアは切り札として、手元に残しておくつもりだったのに)
目の前で事切れている、不吉な前兆と言われるヘルハウンドの、空に向かって見開かれたままになっている真紅の瞳が、トラヴィスには今までにないほど不気味に感じられていた。




