エピローグ 夕暮れの梅田にて
いよいよ、鴨川浮音による絵解きのお時間です
「――最初にパスケースに気づいたとき、変やなあ、と思うたんですわ」
梅田のガード下に広がる、新梅田食堂街の大きな喫茶店で、鴨川浮音はポットからコーヒーを注ぎ、しきりにピースをふかしながらつぶやいた。阪急、阪神と大きなデパートがそばにあることも手伝い、店は平日というのに大勢の客でごった返し、他の客の会話など伺うすべもない。が、返ってその様子が、ここを深刻な話をするのに向いた場所にしあげていた。
「――何から何までブランドもので固めた智花さんの持ち物で、なぜかパスケースだけが、百円ショップなんかで売っとるような安モンやった。どうしてこんなもんを持っとるのか……これが始まりでしたな」
「わかる人には、わかるものなんですね」
向かいに座り、青のよれたジャージを着こみ、膝の上に手をついていた朝香は、自分のポーチからピアニシモの箱を取り出し、そっと火をくべた。二つの煙草の、それぞれ違う香りが一つのテーブルの上から舞い上がる。
「――本人に聞かんとわからんけど、おおかた革に染みた血の跡が浮き出てくるのが嫌で、毎度毎度パスケースを替えとったんかもしれませんな。で、そこに加えて、ちょっとした奇跡があった。ついこの前、ぼくの友達が紙で指切って怪我ァしましてね。手当をしてるうちに、『よう考えたら、別に刃物でなくたって、人の体は切れるときは切れよるな』と、こう思うた。もしかしたら、本来はそんな効能のない、それでいてあの場で検査をされても怪しまれないもんに切れ味を足したんやないか……? そう考えたとき、手に持ってても怪しまれない、定期券のことが頭の中をよぎったんですわ」
「――刑事さんから聞きました。わざわざICOCAを数枚手に入れて、実験したんですってね」
ほとんど氷の解けたアイスティーのグラスを前に、どこか好奇心を抑えきれないような態度で、朝香は浮音に尋ねる。
「ええ。理系の友達に頼んで、刃物の入射角やらなにやらのことまでレクチャーしてもらいながら、いろいろやってみたんですわ。五枚目の試作品で見事、ストッキング越しの鶏もも肉が切れたときはビビりましたなぁ。――してみるとお友達、何枚使いつぶしたんでしょ」
「……あの子のことです、きっと、数枚と言わずに三十枚くらいはやったんじゃないですか。歩合給もかなりもらってたみたいですし、そのあたりはどうにか出来たんでしょう」
「――彼女、昔っから正攻法でうまくいかんとなると、ああいう手に出る人やったんですか」
浮音の問いに朝香はやや戸惑ってから、どうなんでしょうね、と返す。
「たしかなのは、あの子は結構、内側にいろいろため込みやすい子だ、っていうところですかね。派手好きで、大胆に見えるように、自分を偽ってたんでしょうね」
「――いったいいつ、お友達が怪しいとにらまれたんです?」
浮音がコーヒーをなめながら聞くと、和久井は呆れたような顔で、
「自分でボロを出したんです。一件目のすぐあとくらいに会って、そのとき彼女、飛び出したままになっていた『定期券』の角で指を切って……。そのときに思い出したんです。前にあの子が、『研いだらなんでも切れ味ってつくの?』なんて、変なことを聞いたの――」
「――それでわざわざ、年度間近に異動願を出したんですな。会社の人も不思議がっとったんです、どうしてこんなギリギリになって……と」
二本目のピースを抜き取りながら、浮音が太平シザーで聞きこんだ一幕を打ち明けると、朝香はおもむろに、自分で始末をつけたかったんです、と返した。
「行き掛かり上のこととはいえ、わたしがきっかけを作らなければ、智花はあんなことをしなかったはずなんです。だからせめて――」
「だからって、自分が犠牲になってまで止めようとするンは、あまり関心せえへんですなあ。――まあただ、そのおかげでちっとばかり解決も早まったんですけどな」
浮音の言葉に、朝香は首をかしげる。
「怪我の手当てをしたぼん――お巡りさんが、和久井さんと大津さんの負った傷跡だけ、ちょっと躊躇したような切れ方だったのに気付いて僕に伝えてくれたんですわ。人混みに紛れて自分も被害者ぶって傷をこさえるのはなかなか勇気がいるし、相手が友達とわかって、気の迷いが出たんでしょ」
そこまで話すと、浮音はくわえかかっていたピースへ火をくべて、ため息交じりに煙を吐いた。
「……智花、どうなるんでしょうか」
手にしたまますっかり灰になったピアニシモを灰皿へさし、和久井はちらりと浮音へ目をやった。
「そこが問題なんですわ。大津さん、犯行は認めたけど、動機は全然話してくれへんのです。ただ……」
「ただ?」
「……勝手な想像やけれど、色々と仕事で追い込まれとったのかもしれへんですね。本当は得意ではないけれど、仕事だから、無理すれば出来るからって営業回りをして、いつの間にか鬱屈としたものがたまっていた……。そのことを話したくて、最初の凶行のあとであんさんに会おうとしたと考えたら、僕ァ納得いく話になると思いますけどなぁ」
ぬるいアイスティーを口にしかかっていた朝香は、コースターの上にそっとグラスを戻し、浮音にこう返した。
「――会ったら、何か話してくれるでしょうか」
「――人払いして、二人きりで話せるよう取り計らってもらいましょか? どうでっしゃろ?」
立ち上がり、パーティション越しに浮音が言うと、カップを持ったままの石坂刑事が二人の前に姿を見せた。
「――むしろ、こちらからお願いしたいくらいですわ。お友達、全然口割ってくれまへんのや」
「……きっと、待ってると思います。連れて行ってもらえますか?」
意を決した朝香の言葉に、石坂刑事はよっしゃ、と言って、外で待機させていたらしい部下へと電話をかけた。そして数分ののち、和久井を乗せた覆面パトカーは、大阪駅前のロータリーから、府警本部目指してひそやかに出発していったのだった。
「なんだか、バツが悪いね」
老刑事と一緒にやり取りを聞いていた有作は、緑のジャージのズボンへ手を突っ込んだまま、食堂街の雑踏を踏みしだいた。
「――そらそうや、友達があないなことになったら、はたから見てるこっちだって気分いいわきゃない。しかし……」
「しかし……どうしたの?」
言葉につまる友人を促す有作に、浮音は袂へ手をひっこめたままこうつぶやいた。
「ああまでして止めにかかろうとする友達がいるんや。きっと社会復帰しても、孤独なことはあらへんのが救いかもしらんなァ。――お腹空いたし、帰ろか」
梅田のビル街へ西日が差し、ラッシュアワーもピークになった、ある日の夕暮れのことである。