偽聖女と呼ばれて婚約破棄されましたが過去の功績がたまたま今日全て集まって来た結果
「聖女シエラ――いや、偽聖女シエラ! よくも私たちのことを謀ってくれたな!」
広い講堂の中、高らかに響き渡った声に、生徒たちの喧騒が止んだ。
続いて、ひそひそと両隣の者らと、何かを囁き合うようにして、眼下を見下ろした。
ここは、王立エルニエール学院。主に貴族の子女や、平民の中でも優れた才能を取り立て、国が上級教育を施している場所である。
現在、学院には第三王子のローレンが通っており、生徒たちはそわそわとしながら彼と共に実りある学院生活を送っていた。
そんなローレンは、ハニーブロンドの美しい髪を長く伸ばした美丈夫だ。王家の証である琥珀色の瞳を輝かせる男は、今まさに、講堂の中心で背筋を伸ばして立ち、声を張り上げた張本人だった。
その王子の先にいるのは、清楚、貞淑という言葉が服を着たような一人の少女だ。十字架のペンダントを首から下げた少女は、栗色の髪が特徴的ではあるが、あまりぱっとしない容姿だった。悪く言えば、地味とも取れてしまうほどに印象の残らない少女。
しかし、少女の持つ異質な雰囲気が、人々の記憶に存在感を残していた。それは、彼女を見つめると、後光が見えるとでもいうのか――聖なるものにあてられるような、そんな神秘性を醸し出しているからだ。
「謀ったとは……?」
少しおっとりとして間延びしているような声には、一切の緊張感がない。聖女シエラと呼ばれる彼女は、恐らくは顔から火が出るほどに怒り狂っている人物を目前にしても、全く顔色を変えないであろう鈍感さと度胸を持っているのだ。
しかしローレンは鼻を鳴らすと、続いて責め立てるように、シエラを指さし、まるで演劇の台本を読むかのように滔々と言葉を紡ぐ。
「お前は偽物だ、この偽聖女め! 調べはついているぞ! ここにいる真なる大聖女の子孫、マールを虐げ、聖女の座に収まった魔女め!」
その言葉を合図にするように、ローレンの後ろに一人の女生徒が張り付いて、まるで怯えて隠れているような仕草をする。庇護欲をそそられるような、小動物を感じさせる少女は、ぶるぶると震えながら、シエラを見やっている。国の聖者の子孫と呼ばれるトラエスタ侯爵家――の、庶子のマール・トラエスタである。
「お前のような女が我が婚約者とは、父上も母上も何をお考えなのか。よってお前との婚約は破棄――」
ばたん。ローレンの言葉を遮るようにして、扉が開いた。
すると、そこには教会の神官であろう純白のローブに、赤い線が入った召し物を着込んだ女性たちが何名かでやって来て、すごい勢いで階段を下りてくる。
「聖女! 聖女シエラ様、たいへんです!」
「まぁ。皆様、どうなされたのですか?」
「目覚めの大樹の種子が、ついに芽を出したのです!」
ローレンをまるでいないものとして扱い、興奮したように並べ立てる女神官たちは、手に持った植木鉢をシエラへと差し出した。すると、シエラはまぁ、と嬉しそうに微笑んだ。
「ついに芽を出したのですね。毎日毎日、大事にお世話した甲斐がありました」
「はい! これは大快挙ですよ! 流石は大聖女セーラ様の生まれ変わりとされるシエラ様です!」
この国は、勇者伝説が眠っている。遥か昔、魔王を倒した勇者と、その仲間たちは、魔王に荒らされた土地に国を興した。人間が住めぬ不毛の土地を、長い年月をかけて浄化したのだ。
勇者ドレッドは賢者ソルに国を治める王の役割を任せ、自身は当時魔王領との辺境に位置した小さな都市で、生涯魔物と相対する生を送った。賢者ソルは大聖女セーラを伴侶に迎え、初代国王・王妃として玉座に座り、その国を繁栄へと導いた。
そんな賢者ソルと大聖女セーラが、国を、民を守る誓いを立てた際、女神から授かった守りの宝樹、それが目覚めの大樹。長い時を経て、枯れ落ちてしまったその大樹は、ただ小さな魔法の種子を一つ残すのみとなった。そんな目覚めの大樹の種子は、教会の奥で長い年月を、大事に保管されていたのだが――。
「予言どおりです。大聖女様の生まれ変わりが生まれ落ちるこの時代で、聖なる魔力を毎朝注ぎ続けることによって、目覚めの大樹は再び蘇る――これで国も安泰でしょう! 聖女シエラ様、本当にありがとうございます」
「私は、毎日毎日、元気になぁれ、と祈りを捧げただけにございます。皆様が普段から真心を込めて育ててくださっているから、きっと目覚めの大樹様も、お目覚めになったのですね」
「何と謙虚な……引き続き、我々で目覚めの大樹の見守りをさせていただきます! 今後とも、聖なる魔力をお注ぎください!」
「はい。せいいっぱい、お祈りさせていただきますね~」
神官たちはそれぞれ感極まったように礼をすると、歴史が変わるぞ、と興奮を抑えきれない様子で、講堂を脱出していった。
今は生徒会が主催する生徒総会の最中だが、聖女への用事は急を要することが多いので、学院行事中であっても聖女への用を取り次いでいいという取り決めがあったのである。
国の歴史書に描かれる、伝説の「目覚めの大樹」が蘇る。国は豊穣の加護を受け豊かになり、魔物の脅威から国を守ってくれるかの守りの宝樹が蘇るという噂に、貴族たちは興奮気味に隣の者と議論を交わす。
そんな中、シエラは思い出したようにローレンの方を見ると、にこりと微笑んで、問いかける。
「申し訳ございません、殿下。それで、どんなお話でしたかしら」
「――ふ、ふん! だから、貴様は偽の聖女なのだ! だから、私との婚約を破棄――」
ばたん!
またしても講堂の扉が開くと、今度は別の神官が現れた。その神官は恭しく聖女の前へと歩いてくると、一礼をして、早口に告げる。
「聖女様。学院行事中、大変申し訳ございません。取り急ぎ、聖女様にお会いしたいというやんごとない身分の方が――」
「まぁ。どなたでしょうか」
「隣国の公王・公妃様でございます」
どよめきと共に、扉の向こうから現れた、見目麗しい貴公子と絶世の美女が、講堂の階段を下りてくる。隣の公国のトップ――つまり、この国における実質的な国王・王妃と同じ身分の人物だ。慌てて、貴族の子女たちは頭を垂れる。反応ができないのは、ローレンとマールだけであった。
シエラは厳かな礼をとって、膝を付き、二人を見上げる形で微笑んだ。すると、夫人は感極まったように、シエラの両手をそっと覆った。
「聖女様。本当にありがとうございます」
「いえ~。お加減はいかがでしょうか」
「聖女様が手ずから栽培してくださった聖なる薬草のお陰で、奇跡的に回復いたしましたの」
「いやはや、本当にあなた様は私どもの女神だ。妻の病状は絶望的だった。一縷の望みをかけ、聖女様に癒しをお願いしたのだが……」
公妃は、公国で流行っていた病に倒れた。自ら城に集められた重傷者に寄り添い、医療の知識を持って現場を駆け回っていたのである。誰もが反対したが、しかし公妃は民を見捨てられずに、夫や臣下の静止を振り切って、医療活動に従事した。
その結果、多くの命が助かった。しかし、公妃もその病に侵されてしまい、その進行はほぼ絶望的で、余命数か月というところまで差し迫っていたのだ。
ここまで病状が進行しては、もはや打つ手なし――しかし、隣国にいるという大聖女の生まれ変わりとされる現代の聖女ならば、何か策を講じてくれるのではないか。
藁に縋るような思いで、公王は聖女へと願い出た。シエラはその要請を受けて、教会の奥深くに封印されていた書物から、聖なる薬草と呼ばれる万能薬の原料を栽培して見せたのである。
その出来上がった聖なる薬草を使って薬を作り、公妃を治療したところ、彼女は見事にその病から開放された。
むしろ効き目が強すぎて、肩こりや頭痛、腰痛なども全て吹き飛び、公妃の健康状態は著しく良いようだ。
公妃が回復し、病が根絶されてから半年後、彼らはようやく国を出ることが叶ったのだという。
「あなた様に頂いたご恩は忘れない。あなた様がこの国にいらっしゃる限り、私どもは恒久的な平和を約束しよう」
「まぁ~。それは何よりでございます。困ったときは助け合うのが一番。争うよりも、手を取って助け合いましょう。女神様もきっと、民に尽くした公妃様のことを見ていらっしゃったに違いありませんわ」
「本当にわたくしの救い主よ。シエラ様。これで、我が子をもう一度抱けるわ……うっうっ……」
肩を震わせて泣き出してしまった公妃を、公王が優しく抱きしめる。シエラはその様子を、終始慈愛に満ちた女神のような微笑で見つめていた。
やがて公王夫妻は、国王・王妃両陛下にもご挨拶に向かうと告げて、城へと向かっていった。唐突に現れた隣国のトップに、彼らに目通りすら叶う機会のない貴族子女たちは大いに興奮していた。
シエラは微笑ましくその後ろ姿を見送ると、もう一度ローレンの方を向いて、一礼をする。
「たびたび失礼いたしました、殿下。それで、どのようなお話でしたかしら……」
「……い、いい。隣国の公王陛下の訪問だ。い、今の無礼に関しては気にせずとも良い」
ローレンは、聖女シエラを国外追放にすると宣言しかけた言葉を思わず飲み込んだ。
しかしながら、すでにローレンとマールには、貴族子女からの胡散臭そうなものを見つめる視線を向けられていた。
「だ、だが! お前に聖女の称号は相応しくない! 偉大なる大聖女セーラ様は、建国王妃の血統だ! 平民のお前の賤しい血統では――」
ばたん。
今日は随分と客が多い日だ。訪れたのは、一人の騎士だ。その騎士に護衛されてやってきたのは、この国の教会に属する、枢機卿である。
次々に訪れるやんごとなき身分の者らに、傍観者である貴族子女たちは、いよいよ頭が追い付かなくなってきた。
枢機卿は齢にして50を超える老齢でありながら、一枚岩でない教会をしっかりとまとめ上げ、教皇の補佐を行なっている、教会の実質的なトップだ。
枢機卿は威圧感のある雰囲気で、シエラの前までやってくる。シエラは深く、祈りを捧げるように目を閉じた。
「聖女シエラよ。喜べ。そなたの長きにわたる豊穣の祈りが実った」
「えっ。本当ですか? もしや、魔の森が浄化されましたか?」
「それだけではない。荒れ果てた平原に、緑が戻り――砂の大地に、水が宿った。煉獄の谷に蔓延っていた竜たちが、一斉に西の空へ飛び立ったことも聞いておる」
「では……!」
「ああ。歴代の国王陛下の悲願である、聖域がついに、人間の手へと戻って来たのだ……!」
枢機卿の宣言に、講堂内がわっと盛り上がる。聖域を魔族から奪還するのは、この国の民の使命であり悲願だ。歴代の聖女たちが少しずつ聖なる魔力を注ぎ、長きにわたって再生を試みていたのは歴史書に描かれている。しかし、どの聖女も役目を終えるまでに、その枯れ果てた大地を蘇らせることが叶わなかった。この不毛の大地に身を捧げて、散っていった聖女も数知れず。
しかし、大聖女の生まれ変わりたるシエラが、歴代の聖女たちの想いを束ねて祈りを捧げ、聖域は元の姿を吹き返していった。聖域の見張りをしていた騎士たちは喜び勇んで各地へと「聖女シエラ様がついに成し遂げ成された!」と触れ回っているそうだ。もはや、国の重鎮の誰もが聖域の再生を知り、聖女シエラの功績を讃えている、と枢機卿の傍に控える騎士が、興奮したように鼻息荒く告げた。
貴族子女たちも、抱き合って喜んでいた。聖域が復活したとなれば、国には魔物の影響を受けない安全な場所がさらに増える。民たちも、魔物に怯えることなく暮らしていける。
「よくやってくれた、聖女シエラよ。そなたは私たちの希望、そして救国の聖女だ」
「過分なお言葉でございます。私はただ、女神のしもべとして、当然の行ないをしただけです」
「ついては、陛下から正式に大聖女の勲章を授与すると。目覚めの大樹を蘇らせ、聖域を浄化したそなたを、大聖女セーラの生まれ変わりと誰もが認めるであろう。これまでの大義、ご苦労であった」
「とんでもないです。それに、私は今後も、女神さまに仕え、女神さまに縋る寄る辺なき者に手を差し伸べさせていただきたく思います」
「もちろんだ。ああ、学院が終わったらすぐに教会に帰って来なさい。色々と準備があるだろうから」
枢機卿は、孤児であったシエラのいわば親代わりである。厳格な印象のある口元も、シエラの純粋な微笑を見ると、思わず緩んでしまう。シエラは餓死の淵にある自分を掬ってくださった女神さまと、自身を育ててくれた枢機卿に対して、これ以上にない恩義を感じている。彼女にとって、生涯教会に属し、女神に仕え、人を助け導くことは決定事項なのだ。
枢機卿は伝え終わると、ローレンに「シエラを頼みます」とあいさつを残して、すぐに去っていった。聖域が復活したという一報に、貴族子女が沸き立つ中、ローレンとマールの肩身はどんどん狭くなっていく。
「それで、殿下。すみません、何度も話の腰を折ってしまって……私に、何でしたでしょうか。婚約破棄……?」
「――っ。そ、そうだ! お前のような平民女は、私に相応しくないっ! よって、私は聖女シエラとの婚約を破棄し、この聖女マールとの婚約を――」
「かしこまりました」
「宣言す……えっ?」
しかし、シエラはまるで息を吐くように婚約破棄を肯定した。シエラの表情に悲しみの色は一切見えず、全てを覆いつくす女神のごとき微笑みは、後光が差していてより神秘的に見える。傍観者の子女の中には、手を合わせて崇め始める者すら出る始末。
「平民である私が、王子殿下と結婚というのは、やはりおかしいと思いますので」
「わ、も、物分かりが、いいじゃないか。だがそれだけじゃない! 聖女という身分も剥奪するぞ! その身分は、この愛らしいマールにこそ相応しいっ!」
「きゃぁ~。ローレン様ぁ。ありがとうございます~」
瞬間、講堂中から突き刺すような視線を感じて、いたたまれなくなる。けれどマールはそのようなことも気にせずに「私が聖女~」と楽しそうにしている。
流石に、聖女という称号を剥奪されれば、シエラにも思うところがあるはず――いつでもすべてを包み込む女神の微笑みを浮かべているシエラとて、流石に微笑を歪めるだろう、と思ったローレンは、満面の笑みで頷いたシエラにぎょっとした。
「かしこまりました。聖女の称号を、国に返還いたします」
「な……い、いいのか。みっともなく、私の婚約者になってまでしがみついた称号だろう!」
「称号など非ずとも、私の為すべきことは一つです。聖女という称号があっても、なくても、私は女神のしもべであり、人々に手を差し伸べることは変わりません。それに、私は聖女という称号を欲しがったことは、一度もありませんよ」
流石は聖女様!
これが本物の「聖女」なんだよなぁ……。
やっぱちげーわ。一生ついていきます……。
そんな声が次々と流れる中、王子は引っ込みがつかなくなって、大声で貴族たちの会話を割ろうとした。その時。
ばたん。またしても大きく扉が開け放たれ、その奥から一人の人影が転がり込んできた。彼女は一直線に階段を駆け下り、聖女シエラの元へと至ると、口を開いた。
「聖女シエラ!」
またしても、貴族の子女らが一斉に頭を垂れる。シエラはそっと立ち上がり、美しい礼をすると、微笑を浮かべて目の前の赤髪の女を見た。
「王太子妃殿下。ご機嫌麗しゅう。どうなさいましたか~?」
「頼む、ウェスを助けてくれ! ウェスが、曲者に!」
「王太子殿下が……!?」
シエラは頷くと、王太子妃に手を引かれて、講堂の外へと飛び出した。生徒たちは一斉に立ち上がり、講堂の窓に張り付くようにして、窓際に集まる。聖女の奇跡を一目見たいと、そう願って。
講堂の中心で、夢心地のマールをぶら下げるローレンになど、もはや誰も興味を示していなかった。
講堂の外に出ると、担架の上で、青白い顔をした王太子が寝かされていた。この国の第一王子であり、王太子の任命を受けた彼は、隣国の勇ましい姫を伴侶に迎え、王太子の使命を果たしていた。
そんな彼が襲撃を受け、王太子妃を庇った拍子に受けた毒矢で、危篤状態に陥っている。
王太子妃は、泣きそうになりながら、それを早口で説明した。シエラは頷くと、王太子の側に膝を付いて、祈りのポーズを取る。
「我らが月なる女神よ。この者を蝕む穢れを、退けたまえ」
シエラが祈りの言葉を述べれば、シエラの体は純白の光に包まれた。その光が、徐々に強まっていったかと思うと――王太子へと、まるで光の砂が零れ落ちるように降り注いでいく。その神秘的な光景に、その場の皆が魅入っていた。
やがて、その光景が収まると、王太子の頬には赤色が戻る。王太子妃は涙を流しながら、震える声で「ウェス?」と呼ぶ。すると、王太子はゆっくりと目を開いた。
「――ジェンナ?」
「ウェス! ウェス、良かった!」
「怪我は……していないか……?」
「してない、バカ……あなたが庇うから……!」
「そうか……良かった……」
王太子はまだ夢心地だったが、しかし意識を持って王太子妃へと微笑みかけた。近くに侍っていた医師が「脈拍正常、毒が消えています! 信じられない……さすがは聖女様!」と叫ぶ。
王太子妃は寝たままの王太子を抱きかかえて、しばらく泣きじゃくっていた。それを見て、貴族子女たちはほっとしていた。
やがて、王太子を休ませるために学院のゲストハウスが解放され、そちらへと運び込まれると、王太子妃は聖女シエラを講堂の中までエスコートした。勇ましい姫君は、まるで騎士のような出で立ちで、その様子はあまりにも絵になっていたという。
「――ローレン王子。どうした、そのように腑抜けた顔をして」
「……義姉、上……い、いえ、何でも……」
「殿下。それでは、婚約破棄と、聖女返上、承ってございます」
ローレンが恐怖する義姉の前で、シエラはさらりとローレンの所業を告げた。途端に、王太子妃の眉間に皺が刻まれ、ローレンはびくっと肩を揺らす。
「婚約破棄……? 聖女返上……?」
「い、い、いえ、いえ、ですねぇ。あの、義姉上……あの……」
「ほう……お前が平民である聖女シエラのことを良く思っていない、婚約者の義務すら果たしていないと報告を受けていたが、そうか……お前は」
王太子妃はローレンへと歩み寄ると、その腰を、軽く足で蹴り飛ばした。ローレンは面白いように吹き飛び、床に転がる。ローレンに引っ付いていたマールは、腰を抜かせてガタガタと震えている。
「義姉上、暴力はいけません!」
「おい。お前は、いつからこの国の王になったのだ? 国王陛下の命で結ばれた婚約も、国王陛下の名の下に与えられた聖女の名も、いつからお前の自由に破棄できるようになった?」
「そ、それは……」
「前から腰抜けと思っていたが、ここまでか……お前の横暴は全て陛下に奏上しておく。言うに事欠いて、救国の聖女を偽物呼ばわりだと? いつからお前はそんなに偉くなった?」
王太子妃の足が、ローレンの首の横にがっと当てられて、ローレンは顔を真っ青にして、そのまま気絶した。王太子妃は息を吐き出すと、そのままマールへと視線をやった。
「娘。お前が誑かしたのか」
「ち、違いますぅ! わたしこそが本物の聖女なの! トラエスタ侯爵家の娘なんだからぁ~」
「ほう……トラエスタ侯爵家か。なるほど、ここに隠れていたか。騎士! トラエスタ家の者だ! ひっ捕らえろ!」
「はっ!」
騎士たちが次々に講堂へと押し入ってくると、マールを取り囲み、そのまま拘束した。マールは最後まで泣きわめいていたが、淑女にするものとは思えない待遇で引きずられていったのを見て、王太子妃は大声で宣言する。
「トラエスタ侯爵は王太子殿下の暗殺を企てていた! どうやら、あの愚かな義弟を王太子にするため、そして娘をその妃にするための姑息な策だったようだ。よってトラエスタ侯爵家に連なる者らは国家反逆罪とみなされ、全て指名手配と相成った。一族郎党全て捕らえるまで追い回す。隠し立てする者には叛意ありとみなす」
講堂がざわめきで埋まる。王太子妃はその宣言を終えると、気絶したとはいえ成人男性であるローレンをあっさりと肩に担ぎ、そのままぞんざいに講堂を後にしていってしまった。
シエラは最後まで「?」を浮かべながらその様子を見守っていたが、やがて生徒総会は解散となり、シエラは何事もなかったかのように、いつも通りに教会へと帰っていった。
◆◇◆
教会に帰ったシエラは、いつも通り祈りの間で微動たりともせず、一心不乱に女神への祈りを捧げていた。
その様相は穏やかで、厳かで、清廉だった。
やがて祈りを止めて立ち上がり、祈りの間を出ると、傍の柱に背を預けて立っていた、一人の男が目に入る。シエラは珍しい人を見た、という気分で、彼へと歩み寄った。
「カイル?」
名を呼べば、彼ははっとして柱から背を離して、シエラの方に向き直った。
記憶の中にある姿よりも、さらに肩回りの筋肉がついたような気がする。短く切り揃え、軽く剃り込みを入れた茜色の髪を揺らしながら、カイルはヒスイ色の瞳でシエラを見つめた。
まるで焦がれていたようにシエラに近づくと、その肩をそっと掴む。自分の力を込めれば、折れてしまいそうなほどの華奢な体を、優しく覆った。
「シエラ……第三王子に婚約破棄されたって、本当なのか?」
「はい。平民の私とでは釣り合わぬと、そう仰いましたので了承いたしました」
「だ、大丈夫なのか? あんなんでも一応王族だろ?」
カイルとシエラは幼馴染だ。同じ孤児院で育ち、兄妹同然の関係である。シエラにとって、気の置けない数少ない人であり、枢機卿と並ぶ家族のような人物だった。
シエラが教会に見出され、神官として仕えることになったとき、カイルは聖騎士隊への入隊を志願した。シエラの傍にいるために、幼い彼は必死だった。
しかし、シエラがめきめきと頭角を現していくのに死に物狂いで食らいついて、やっと聖女の側近になれたかと思えば、王家からシエラと第三王子ローレンとの婚約が発表された。
それ以来、カイルは必要時以外はシエラに近づかないようにしていたのだが――。
「私にはよく分かりませんが、王太子妃殿下がこの件を国王陛下に奏上すると仰っておりました」
「そ、そっか……王太子妃殿下がこの件についてちゃんと調べてくださるなら安心か。あの方は不正や不義を絶対に許さない方だからな」
王太子妃レイジェンナは、騎士道を重んじ、武に生きる姫君だ。過去、隣国へと攻め込んだ他国の兵士を、ともに追い返したことにより、隣国の姫とこの国の王太子が婚姻をすることとなり、両国の和平の証として、二人はとても仲睦まじい。
隣国は武を重んじ騎士の誇りを掲げる国風で、この国に比べて十数倍の女騎士がいる。女性であっても剣を取り戦い、大切なものを守ることを誉とされる国風だ。その姫君が武勇に優れるのは必然であった。
この国の貞淑な貴族令嬢に比べれば粗暴で気性の荒さが目立つものの、王太子は王太子妃に骨抜きにされているともっぱらの噂だ。公務の際には、いつも仲睦ましげにしていて、国民からの支持率も高い。
そんな彼女は、時折聖騎士隊の教導の見学に訪れることもあるので、カイルは遠目にだが見たことがある。平民である彼にとっては、雲の上の人。しかし、聖女シエラにとっては、希少な友人でもあった。
いつの間にか遠く離れていた幼馴染との距離に、カイルは最近不貞腐れ気味だった。
カイルが俯き、何事かを深く考え込む姿勢を見せたことで、シエラは小首をかしげてカイルを見上げる。
二人の間に、奇妙な沈黙が横たわり、カイルは何とも言えない気まずさを感じた。
幼い頃は、何も遠慮もすることなく話しかけられていたのに、久しぶりに会った妹同然の幼馴染は、ますます清らかになり、何となく触れるのは良くないと思わせるような背徳感を覚える。
自らも、女神に仕えるモノとしての心構えをしたからだろうか。今なら、シエラが聖女と崇められる理由を身をもって理解することができる。
触れてはならぬ者。神の領域に住まう者。神の声を聞く者。神の寵愛を受ける者。
恐らく、そのどれもが、シエラを表す言葉なのだ。
何と声を掛けようかと逡巡していると、シエラの元を、枢機卿が訪れた。カイルは慌てて膝を付き、胸の前に手を置いて、聖騎士の儀礼を行なう。
「聖女シエラ。国王陛下がお呼びだ。直ちに登城する」
「国王陛下が? かしこまりました」
「大聖女の称号授与の式典に関してと、第三王子の無礼に対する謝罪が主な用件らしい。すぐに聖女の礼装に着替えてきてくれ」
シエラはこくりと頷くと、カイルに一度頭を下げて、女神官たちと共に、教会の白亜の塔の奥へと消えていった。カイルはその後ろ姿を横目で見やりながら、枢機卿に頭を垂れ続ける。すると枢機卿は立ちなさい、とカイルへと告げた。
「カイル。そなたにも、聖女の側近――護衛として、城に上がって貰う」
「わ、私もですか?」
「ああ。聖女シエラは護衛もつけずによく歩き回っていてな、それを国王陛下や王妃殿下、王太子殿下に王太子妃殿下が心配されているそうなのだ。聖騎士隊の中でも腕の良いお前が傍にいれば、陛下たちもご安心なさるだろう」
「……かしこまりました、枢機卿猊下」
カイルは状況をうまく呑み込めなかったが、生まれて初めて、王族の住む城に――しかも、謁見の間に立ち入ることとなったのだ。王城ですら、平民が決して足を踏み込めない聖域のようなもの。そんな場所に、成り行きで行くことになってしまった。
行きの道はずっとそわそわしていたが、しかし自分の任務は護衛、と言い聞かせて、聖女シエラの斜め後ろを付き従う。
謁見の間に辿り着くと、聖女シエラは堂々と赤いカーペットの上を歩いて、階段の下でそっと膝を付き、頭を垂れる。
純白のローブには、金色の糸で花の刺繍が施されている。腰元には白い布で作られた花のような飾りがついていて、頭にはヴェールのついたサークレットが填まっている。この国の聖女の礼装は、国に選ばれし者にしか纏えない、最上級礼装の一つだ。
「面をあげよ」
威厳ある声が響き、シエラは膝を付いたまま、そっと頭を上げる。
玉座の上には、国王と王妃が鎮座している。彼らは共通して、悲痛な面持ちをしていた。
「まずは、ご苦労であった。目覚めの大樹の実りに、公国との和平同盟、聖域の解放に王太子の治療……ここ最近のそなたの活躍は、目を見張るものがある」
「過分なお言葉でございます。私はただ、女神様に仕える者として、当然の使命を果たしているにすぎません」
「此度のそなたの活躍を讃え、賢者ソルの意志を継ぐものとして、ここに宣言する。ここにいる聖女シエラを、大聖女セーラの魂を継ぐものとして正式に認定し、大聖女の称号を与える!」
大聖女。それは、建国以来、誰の手にもわたっていない、唯一無二の称号だ。この時代に、その大聖女の称号を手にするものが現れた――。
とはいえ、聖女シエラの功績は、火を見るよりも明らかだ。反発など出ることもない。壁際に控えていた臣下たちは、一斉に拍手を送る。聖女シエラは頭を垂れて、口を開いた。
シエラ自身が聖女という名を欲していなくとも、国のトップから与えられる勲章を断ることなど出来ようはずもない。
「尊敬する大聖女セーラ様と同じ称号を与えていただけることは、私の女神様への献身が認められたということなのでしょう。謹んで、お受け取りいたします」
「そなたの献身は、この国の皆が知っておる。――いや、知らぬ者もおったようだがな」
そう告げて、国王が顔を顰めて見やる先には、両脇をがっちりと騎士に固められ、後ろ手で簡易手錠で拘束されている第三王子ローレンだった。
ローレンは王太子妃レイジェンナに城に連れ帰られた後、一部始終を報告され、そのまま謁見の間まで引っ張り出されたのである。王子である自分が、罪人のような出で立ちで謁見を見守らねばならぬことに底知れぬ不満を覚えていたが、父王から零度の瞳を向けられて、その身が竦み上がるのを感じた。
「そこの愚息がそなたを偽聖女と叫んだと聞くが、事実か?」
「……はい。しかし、聖女という名は、ただ他から与えられたもの。私にとっては、それ以上の意味のないものでしたので、王家の皆様がお望みならば、喜んで返還いたします」
「残念ながら余の意志ではない。返還の必要はないし、もはや私生児も同然の王子一人に叫ばれたところで、そなたの聖女としての地位が揺らぐはずもなかろうよ」
ローレンの母は側妃だった。彼女は力の弱い地方の伯爵家の出で、他人に決して厳しくなれない性格だった。ローレンを甘やかして育てた挙句、彼が9歳の頃にこの世を去ってしまい、今、ローレンには大した後ろ盾がない。
聖女シエラとの婚約によって、枢機卿が後ろ盾となれば、王族として生きるのは無理でも、教会傘下の貴族家のどこかの爵位を貰って、貴族として生きるのには問題がなかっただろう。
ただ、彼はそれを破棄してしまったので、今の王室における立ち位置は私生児も同然だと、国王はそのように言ったのである。
「王太子妃から報告は受けたが、余は公平である。一応はそなたの言い分も聞こう。そなたはこの聖女シエラに対して何を言い渡したのか。子細報告せよ」
国王に促され、ローレンは堰を切ったように語りだした。学院であったことのすべてを。婚約破棄と、聖女剥奪――とはいえ、後者は流石にローレンでも巻き返すことが無理だと思ったのか、それに関しては反省の意を示していると添えていた。よって、ローレンの主張の中心は、婚約破棄に関することとなった。
途中で頭が痛くなってきたのか、国王は難しそうな顔をして、眉間の皺を深めてしまった。しかし、ローレンは止まらなかった。
「だいたい父上、このような平民女を、私たち至高の王族と交わらせるなど馬鹿げています。いかに聖女と言えど、ただの平民ではありませんか」
「……なるほど。お前は王族として、貴族としての血筋の誇りを重んじると、そういうわけだな」
「はい。王族教育でも学んだではありませんか! 王の血統は大事にせねばならぬもので、それ故に下手に下賤な血と混ぜ合わせることなど言語道断だと! ですから、私は相応しい相手と婚姻するべきだと考えたのです。父上は、事あるごとに聖女との婚姻が大事なのだと仰っていたではありませんか。ならば、私の伴侶となる者に、聖女の称号を与えればよいのです!」
それが、シエラから聖女の称号を剥奪し、マールに与えようとした経緯。
そう主張するローレンに対して、王妃は不快そうな顔でローレンを見つめていた。周囲の温度も冷え切ったものとなり、学院でも感じたくらいの針の筵のような、体中がちくちくと痛むような不快さを、ローレンは感じ取っていた。
「では、トラエスタの娘は、お前の言う相応しい血統の相手だと?」
「由緒ある聖者の家系なのです。当然でしょう」
「彼女が庶子だとしても?」
「半分は侯爵家の血が入っているのなら、そこの平民女よりも高貴な血であることは明らかです」
この期に及んで、シエラを平民女呼ばわりをする第三王子に、カイルがぴりっとした殺気をわずかに放った直後。
国王の言葉からは、ローレンの前提を全て覆すような言葉が放たれた。
「あの娘は、侯爵家の血を引いておらん」
「……え?」
「後妻の連れ子だ。庶子と偽り侯爵家の籍を与えておったようだが、後妻の女が尋問の過程で白状したよ。どこぞの酒場の色男との子だと」
「……」
「つまり、お前の見下す平民女そのものだということだ」
ローレンの顔からは、すっかりと表情が抜け落ちていた。あんぐりと口を大きく開けて、震える口で、何とかその名前を呼ぶ。
「……では、マールは……」
「正真正銘、血も教養も平民だ。一応は侯爵家の籍を持つが、それも間もなくなくなる」
「なくなる? どういうことですか?」
「トラエスタ侯爵家は、王太子を殺害し、お前を玉座に据えようと画策した。王太子の任命は余が行なった決定事項だ。それに異を唱えるということは叛意ありということ。よってトラエスタ侯爵家は取り潰しとし、一族郎党処刑することとした」
「な!」
血筋に偽りがあったとはいえ、愛する女が処刑される。その事実に、ローレンは驚くほど焦ってしまって、一歩を踏み出そうとして、後ろ手に手錠で拘束されていることを思い出し、その場に芋虫のように転がる。両脇の騎士たちは、手を差し伸べようともしない。それを見て、ローレンは、自分の立場を今になって理解したようだ。
教会、そして侯爵家という後ろ盾を一瞬にして失った王子は、文字通り私生児――少し高貴な血を持つだけの、ただの平民であるということを。
「聖女シエラよ。第三王子ローレンとの婚約を、ここに白紙に戻すことを宣言しよう。不出来な息子を押し付けてすまなかった」
「父上っ!」
「……承りました。ですが、陛下。お願いがあります」
「何だ? 申してみよ、聖女よ」
シエラは両膝を付いて祈るような動作を取りながら、聖女として、神官として、女神の意志を紡ぐように救済を歌う。
「此度の諍いは、私と王家との婚約が発端として起こったもの。争いの火種となるものを、これ以上作る必要はありません」
「……王家との婚約を、望まぬと?」
「ローレン王子だけではなく、平民の私との婚約を、良く思わぬ方々はたくさんいらっしゃると思います。思っていても、飲み込んでいる方もきっと多いかと」
「……ふむぅ……」
大聖女の生まれ変わりと言われれば諸手をあげて喜ぶかと思えば、そうでもない。貴族たちの女神信仰は、時が経つうちに薄れていったという背景もある。ここ最近の聖女たちに目立った活躍はなく、聖女を軽んじるような風潮が蔓延していたのも事実だ。
王家や、教会に連なる家のようなものが少数というか――聖女シエラの功績が規格外すぎて、皆が伝説の聖女を認めざるを得ない状況というのが現状だ。しかし、その聖女が国の中枢に入って来て権力を得るようなことがあれば、貴族たちはいい顔をしないだろう。
「私は、私が争いの火種となることを望みません」
その言葉に、貴族たちははっとした顔をする。そもそも、王子の愚行も、押し付けられた婚約がなければ発生しなかっただろうと。王子が婚約を嫌がり、野心ある家の令嬢にうつつを抜かさなければ、こうはならなかっただろうと。
「私に王族、ひいては貴族階級の方との婚約をなさらぬように、お願い申し上げたいのです」
「……あいわかった。浅慮であった。大聖女の生まれ変わりが現れたと言われ、余も目が曇っていたようであった。国の貴族たちの心情を慮れぬようであれば、ただの暴君となってしまうであろう」
「ありがとうございます。私は、私を助けてくださった女神様の寵愛、そして家族がこの国にいる限り、この国で女神様の信徒と共に、奉仕することをやめるつもりはありません。どなた様でも神殿にいらっしゃれば、誠心誠意尽くさせていただきます」
婚約は、契約。それは人質だったり、国に有力者を留め置くための楔だったり、色々と裏があるものもある。
まさしく、国王の思惑は、聖女シエラを他国へとやらぬよう、この国に留め置くために――それに付随して、ローレンの立場を保証するために結んだものだ。
けれどそれは貴族たちの常識であって、決して平民の常識ではなかった。平民たちは損得なしに好きなものと結ばれ、好きなものと家庭を成し、幸せに暮らすのだ。
何よりも、聖女シエラの女神への献身は、婚約の有無で揺れる程不確かなものではなかった。
「それと本件の関係者たちに、できる限りやり直せる刑罰を求めることはできますか?」
「……。少なくとも、首謀者の侯爵と後妻は処刑を免れぬ。ただ、娘はこの計画に関知していなければ、見込みはある」
「……!」
ローレンは、その言葉に顔を上げた。マールは、ただローレンと結ばれたくて、嘘を吐いて、聖女の称号を剥奪しようとしただけだ。あっさりと聖女シエラから返された称号を見れば、マールにはまだ情状酌量の余地があるのではないか。そのような希望を、抱いている。
「しかし、そうなった場合も生涯修道院で女神に奉公するより下の罰は適用できん。悔い改めることはできるだろうが、新たな生を歩みだすことは許されぬ。この一件に関しては、そこの愚息が公の場で始めてしまった一件であったのでな。かん口令を敷くのは最早不可能だ」
その言葉に、ローレンは初めて、自分の短慮さを恥じた。皆の目の前で、偽の聖女を糾弾してやろうという勇み足が、最悪の結果を招き寄せた。
聖女シエラはその言葉に、物悲し気に瞳をそっと伏せた。彼女とて、王太子の命を狙って動いた陰謀の主犯たちに、刑罰を与えずにいられるとは思っていない。
しかし、この一件が、二人が愛し合う気持ちから始まったのならば、悔い改める機会を与えてほしいと、そのようなことを言ったのである。
ローレンは唖然とした。自ら罵り、見下した聖女が、自分たちに情けをかけようとしていることに。
「……ローレンは、魔の森の傍の塔に幽閉する。そこの窓から聖域を見て、お前が偽聖女と罵った大聖女セーラ様の生まれ変わりの力がどれほど尊いものなのか、身をもって理解しろ」
「……父上……」
「それを理解し、悔い改め、女神に祈りが通じたならば、その時はやり直す機会を与えてやろう」
そして、と国王は続ける。その表情には、苦悶が満ちていた。
国の不安の芽を潰すために、一族連座で処刑とするのは、あまりにも安寧な道だ。ましてや、今回の一件は、王家の簒奪を狙ったというほどの一件。正妃の血を引かぬ王子を玉座に据え、自らの血を引かぬ市井の娘を妃の座に据えようと画策したのだから。
けれど、と。そもそも、自分が自分の価値観に拘って結んだ婚約によって、若い息子や聖女が弄ばれ、このような大事に発展してしまったのも事実だ。あれほど大胆な謀反を企てる程の叛意を持つ侯爵やその周りはまだしも、愛に狂わされて道を踏み外してしまった子らを、自らの誤りに蓋をするように殺してしまうのか、と。
そう自問自答すれば、国王は首を横に振った。
「トラエスタの娘は、戒律の厳しい北の修道院に入れる。そこで自らの罪を悔い改め、女神に仕える聖女、そして神官の意味を正しく理解し、女神に奉公する一人の女として自覚を持つことができたのならば――その娘も、修道院から出してやろう」
「!」
「ただし、塔と修道院を出るまでは、一言も言葉を交わすことは許さん。お前と娘が真実の愛で結ばれているのならば、自分を見つめなおし、やり直すこともできるのではないかと思う」
これが、国王として、為政者として、一人の親としてできる最大限の施しだ。これよりも緩い縛りにしてしまえば、臣下の反感を買うだろう。
ただでさえ、今の臣下は、聖女シエラへの求心力が高まり、聖女というものにもう一度価値を見出し始めている。
そんなタイミングで、この醜聞の中心人物たちに、甘い刑を課していては、王家が揺らぐ。
ローレンは崩れ落ち、その場で涙をこぼした。彼はそのまま連れ去られ、魔の森の塔へと入ったのだという。
◆◇◆
「結局、王子様がシエラにいった平民女って建前だったんだな」
「そうでしょうか。半分は本気だったと思いますよ。母の身分が低く、宮内で苦労されていらっしゃったことを一番近くで見ていたのは、ローレン王子なのではありませんか?」
「そういうもんか。まぁでも、良かったよ。シエラが王族やお貴族様に嫁がされて、いいように使われることがなさそうで」
あの場でシエラがはっきりと婚約についての希望を述べなければ、今頃国中からひっきりなしに縁談の話が来ていたことだろう。――いや、今も来ていることに違いはない。王はシエラの希望を優先したが、臣下たちがそれで納得するかどうかは別の話である。
権力を持たせるのは好ましくはないが、手中に収めておきたい貴族はいくらでもいるだろうから。
するとシエラはくすりと笑って、カイルを見上げた。彼女には珍しく、悪戯っぽく笑って、口を開く。
「カイル。私、初めて色んな人を困らせる我儘をしました」
「我儘? 婚約の話? えっ。あれって、全部建前だったのか?」
「全部ではないんですけど……本当は、一番大切なことがあって……火種になりたくないのは事実です。皆さんが争わなくていいことで争ってしまうのは、悲しいことですから」
でも、とシエラは続けて言う。どこかはにかむように告げる少女の姿は、カイルの記憶の中にある、少し年下の幼馴染の顔をしていたように思えた。
「私も、好きな人と結ばれたいっていう気持ちはあるんですよ」
王家や貴族との婚約は、シエラの立場ではなかなか断れないだろう。たとえ愛する人がほかにいたとしても、国からそうしろと言われれば、シエラは恐らく逆らえない。
けれど、どうしても、シエラには諦められない人がいた。いつも傍で見守っていてくれて、兄のように甘やかしてくれて、いつだってどこでだって、シエラの味方でいてくれた、大切な人。
「だから、ローレン王子が想い人が処刑されると聞いたときの顔が、見ていられなくて……私もきっと、カイルがそんなことになったら、悲しいですから……」
「……えっ?」
カイルは思わず、思考を止める。体の中を、びりびりとしたなにがしかの感情が駆け巡り、正常に思考を戻していけば、今度は頭の中に、今までのシエラの姿があふれ出してきた。
妹のような幼馴染は、しかし聖女となるまではいつも積極的だった。食事の席では隣に座り、本を読んでいれば隣に座って肩に頭を乗せて昼寝をし、訓練をしていれば、穏やかにその様子を見守っていた。
婚約者ができて距離を空けたのは、カイルだけではなかった。何となく苦しそうな表情をして、シエラもカイルの顔を見られなくなっていた。
いつだって、彼女は――妹ではなく、一人の少女として、カイルの傍にいようとしたのではないか。
カイルが婚約者の出来たシエラを避け始めたのは、先方にあらぬ誤解を与えぬようにと気遣ったと自身に言い聞かせていたが――真実はどうだったのか。
沈黙が続く。しかし、やがてどちらともなく、顔を真っ赤にして、視線が泳ぎ始める。
「……告白って、難しいですね」
ぼそりと呟いたシエラを、カイルは思わず抱きしめた。
◆◇◆
魔の森。かつて、黒い葉が生い茂り、不死者が蔓延るこの地は、そう呼ばれていた。
あふれ出す腐乱臭も、漏れ出でるこの世のものとは思えぬ醜悪な霧も相まって、魔の森の塔は、生き地獄を体現した牢獄と呼ばれていた。
ここに入れられるのは、もはや更生できぬ過ちを犯した人間のみである。それが、王家の中での常識だった。
恐らく父上は、私の犯した罪は、それほどの重さのものだと言っているのだと思う。
けれど訪れた魔の森の塔は、あまりにも清廉な気配に満ちていた。塔の天辺から見る荘厳な森は、かつて魔の森と呼ばれていたとは思えぬほどに、若々しい緑の葉をつけ、鳥たちが囀り、清廉な川が流れ、動物たちが生き生きとしている、この世の楽園のごとき景色が広がっていた。
心得がないものでも分かる、この景色が神聖なものだと。
流れてくるのは草や土の心地よい香りだけで、生き地獄というにはあまりにも穏やかな場所だった。
心の平穏を取り戻した私は、窓の外から毎日、その光景を眺めていた。歴代の聖女たちが祈りを捧げ続け、大聖女の生まれ変わりとする彼女が取り戻した、国の尊き姿を。
私は、このような清廉な景色を取り戻した者を、己の愛する者を認めてほしい一心で、貶め、蔑んだ。
聖女とは、何も成していないものが受けていい称号ではない――そんなことは分かっていたはずなのに、その称号を彼女から取り上げ、自分のことしか考えずに、ほかの者に譲り渡そうとしていた。
ああ、何も否定など出来なかった。この景色を見て、彼女が聖女でないと疑うものなどいないというほどに――あまりにも清廉で、静謐で、それでいてどうしようもないほどの孤独を感じさせる場所だった。
これは、女神の審判なのだと。自分に言い聞かせて、来る日も来る日も、その景色を目に焼き付ける日々を送った。
聖域を見ているうち、私は、自分もあのような清廉なものを生み出せる人間になりたいと心の底から願った。
聖女がいつも学院で説いていたことを思い出して、祈りを捧げる習慣を持つようになった。
君は今、元気にしているだろうか。想い人に、想いを馳せながら。
――魔の森の最上階の書架に残されていた、とある王子の手記より抜粋。
読んでくださってありがとうございます。