かくれんぼ
ふすまの先から母親の啜り泣く声が聞こえる。
「おかあさん……?」
床に散らばる陶器の細かい破片が足に突き刺さり、涙が出そうになる。
ぐじゅぐじゅと傷を作りながらここ最近白髪が増えたであろう疲弊しきった彼女に近づく。
「うっ……うぅ……」
「どうしたの……?おかあさん、私、あの……」
少女の問いにわずかに肩を震わせたかと思えば、細く鋭い眼光がギロリとこちらを制する。
「あんたが……あんたの……せいだ……!」
割れたお皿を掴んで、さらに投げつけてくる。
勢いよく飛んできた子ども茶碗は、私に当たりはしなかったものの、飛んでいった後ろの方でパリンとまた細かく割れる音がした。
「働けもしないのに、金ばっかかけて……!早く働いて稼いでよ!風俗でもなんでも……あんたにもできることはあんでしょ?!なんで私ばっかりこんな……」
お金がない。
彼女はそればかり嘆いていた。
毎日出かけてくると言って、お札を握りしめて行くけれど、帰って来た時の顔は特に酷いし、いつの間にかお札も消えていた。
柔らかい果実に鋭利なナイフを刺すように。
目の前の彼女の言葉は重く、鋭く、私の心を抉っていくような感覚に陥った。
理由はわからないけれど、母親の顔を見るとゾッとしたし、足が竦んだし、そんな自分が嫌だった。
働けない私は良い子でいなきゃいけないと強く思った。
「お母さん、私、まだ働ける年齢じゃない、けど、頑張るから……」
「頑張ったって意味ないのよ!!」
バシッと思い切り頬を叩かれ、痛みでジンジンするが、私は目を瞑ることしかできない。
……容赦ない否定の言葉は、強い痛みは……いったい誰に向けてなのだろうか。
私?
そんなはずない。
だってこんなに我慢してて、お母さんのことを想って……。
「……あんたなんて、産むんじゃなかったわ」
最悪の罵倒を浴びせられた時、いきなりシャッターを閉まるようにバシャリと意識が途絶える音がした。
いつの日からか私のかくれんぼが始まっていた。
母親に『私』が見つからないように。
そっと奥へ奥へ、隠れるのだ。
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「遠慮はいらないわよ。好きなものを食べてね」
母親が急に家を出ていってから身寄りのない私を引き取ってくれたのは、穏やかな老夫婦だった。
彼らは顔をしわくちゃにしながら笑顔で言うけれど、本当にいいのだろうか。
「私なんか……」
良いはずがない。
食事は1日でカップラーメン2つまでと決まっている。
こんな豪華な食事は……私が食べていいわけない。
色とりどりの料理を前に口の中は唾液で溢れてしまうが、膝の上でグッと手を握り、俯いた顔を精一杯あげる。
得意の愛想笑いで、
「ありがとうございますっ。でも、大丈夫です。私のことは気にしないでください」
こう言っておけば安心なはずだ。
「何言ってるのよ〜。ゆいこちゃんのために作ったのよ。遠慮しないでどんどん食べてね。私たちはゆいこちゃんが食べている姿を見るのが幸せなのよ」
「そうだぞ。若い子は食べなきゃならん」
予想外の反応に私は驚いて目を丸くしてしまったと思う。
不思議だ。
好きに食べていいなんて。
ほんとの本当にーー?
(まぁだだよ。まぁだだよ……)
繰り返し繰り返し聞こえる、胸の奥からの声。
叩かれるかもしれない。
追い出されるかもしれない。
傷つけられるかもしれない……。
お腹があまりにも空いていたから出された分を食べてしまったけれど、ぞわぞわとした強い恐怖感が身体にこびりついている。
(私は何に怯えているのーー?)
自分の部屋の扉を閉めて、ガリガリと腕を掻きむしる。
血が出ていることなんて知らない。どうでもいい。この恐怖から逃れたい。どうしようもない自分が許せない。どうしたらいいのかわからない。わからない、わからない……。
眠れない日は何日も続いて、その度に腕の傷は深くなっていった。
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「ゆいこちゃん、どのお洋服がいいかしら?ゆいこちゃんのためなら何だって買ってあげるんだから」
「ゆいこならなんでも似合いそうだなぁ」
そんな風に褒めてくれる彼らと私の前には、軽やかな洋服が何着も並んでいる。
こうして何度もお洋服を買いに声をかけてくれるけれど、私は選ばないから結局与えられた洋服を着るのだ。今回もそうだ。
「ううん、大丈夫だよ。私なんか……」
再びそう言いかけたところで、はたと目を引く可愛らしいフリルがついたワンピースを見つけた。
(本当に可愛い……いいなぁ、、。けど……)
「ゆいこちゃん」
「!……な、なあに?」
ドキリとした私を横目に、おばさんは何故か嬉しそうに目を細めながら、
「あの、ワンピース。可愛いわよね。あなたにとっても良く似合うと思うわ」
(あ…………)
私がじっと見ていたフリルのついたワンピースだった。
おばさんはその可愛らしいワンピースを手に取りながら言葉を続ける。
「…………!」
「いいのよ。私たちはゆいこちゃんが、自分の気持ちを教えてくれるのがとっても嬉しいのよ。それってなんだか、本当の家族みたいじゃない?」
おばさんはいつもみたいに顔をしわくちゃにしてニッコリと笑い、「あなたの誕生日プレゼントよ。15歳の誕生日おめでとう」とその買ったばかりワンピースを渡してくれた。
胸の奥がきゅっとなって、そして、心の中でべつの『私』の声が聞こえた。
(ねぇ……もういいかーい?)
(まぁだだよー)
(…………)
(もう、いいかーい?)
(まぁだだよー)
(もう出てきても大丈夫だよ?)
(…………ほんとうに?)
(うん、ほんとう)
私はもう、何かに怯える日々を送ることはなくなった。
何に怯えていたのかはわからないけれど、つかえていた胸の痛みが取れたみたいに気持ちが軽くなった気がした。
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「じゃあ、バイトに行ってきまーす」
「お休みの日もバイトだなんて、熱心な子ね。"学校行かせてもらってるから"なんて、気にしなくていいのに」
「ううん、もう自分で働けるから、恩返ししたいの!」
今日でバイトが3日目。
少し慣れてきて、ようやく楽しくなってきた頃。
私は何かから解放されたようにウキウキした気分で、靴を履く。
「ピンポーン」
こんな朝早くに誰だろう。
ドアノブに手をかけようとしたが、おばさんがガタリと立ち上がりこちらへ向かってきたので道をあけた。
「もう来たのかしら?ーーあのねゆいこちゃん。バイトへ行く前に嬉しいお知らせがあるのよ!」
と言っていそいそと玄関のドアを開けながら、私を振り返らず嬉しそうに言う。
「最近になって連絡がついたのよ。良かったわねぇ!」
空いた口が塞がらなかった……。
開かれる玄関の隙間から徐々に見え始める疲れ切った顔、白髪の増えた頭。
(わ、私、わた、わたしの……)
足がガタガタと震える。
思い出したくない。
いえ、覚えていないはずなのに。
この人の泣き顔と、ああ……恐怖心だけは覚えている。
(いや……、、)
突然押しかけていた彼女は、甲高い声で言い放った。
「あなた、探したわよ。そろそろ働ける年齢になったんじゃないかなって、ねぇ、、
みいーつけた。」