日本文学や語学を学んだ私が考える「長文タイトルは正しいか?」
こんにちは。初めまして。
私はしがない『なろう』書き手です。
まぁ別に、すごい人とかじゃないのですが。
しかし大学を出ております。
学部は、日本文学です。
その分普通の方より、文学に関しては考えが深いかと思います。
でも堅いのは嫌なので、このエッセイは文体や話法、技法は気にしないで書きます。私自身は漫画もラノベも読む人間です。ご了承下さい。
素人より説得力がでるように、少しばかり私について話しをします。興味ない方はちょっと飛ばして下さい。
このエッセイは、空白が多いところや「」等に注目して読めば、流し見もできます。
私の時は国文学って言ってたほど、文学にこだわりのある学校でした。普通の図書館にはない本とかもあったので、そこそこ蔵書数もあったと思います。
当時はそれはそれは、純文学三昧で学んでたわけです。でも途中で、日本語学専攻に転向しましたけど。
それでも私は一般の方より、文学について考えている人間の1人だと思います。
だってほとんどの人は文学学んだって、それで食べてはいけないのです。だから、そもそも学ぼうとしません。国文学は廃れる一方だとよく嘆かれます。学部自体軽視してる大学もありますね。経済学部とかが一番人気ですし。
大学で学ぶ文学は、あくまで読み手側からの視点です。作者の考えに迫るものなので、書きたい人向けでは無いと思います。検討してる方参考にして下さいください。
ただあの空間はすごいですよ。古きを大切にする、ロマンや理想に浸る空間だと思います。そして作者の考えに迫るのは、1つの推理のようでもあります。
と、前置きが長くなりました。
さて、今回の問題は「長文タイトルは正しいか?」ですね。
結論から言いますと、完全に好みの問題ですね。
私からするとそもそも、何故問題提起するのかすら疑問です。
答えになってないじゃないかと、お思いでしょうか? わざとです。まぁ聞いて下さい。
そもそも正しくないとするなら、「長文タイトル」は何故生まれたのでしょうか。正しくないなら、生まれないのでは?
けれど問題になるには、原因があるはずですね。では何が原因なのか、何故問題になるのか。まずそこから、「長文タイトル問題」は語られるべきです。
【長文タイトルが何故生まれたのか?】
まず「長文タイトル」ですが、これの始まりは言うまでもなくライトノベルですよね。
純文学とは隔たりのあるジャンル作品ですが、その手軽さは目を見張るものがあります。イラストもあるし、漫画のように読めるのが良いです。
まぁ、私も好きです。初めて読んだラノベは『涼宮ハルヒの憂鬱』か『キノの旅』なんですけれど、読み始めた理由が父親が図書館で借りてきたから、というくらいの英才ラノベ教育っぷりです。『バカテス』とか『変猫』とか『はがない』とか『SAO』で育った人間です。
純文学とラノベでは、そもそも好まれる年齢層も違うと思います。
純文学は、本を沢山読んでいる方が好まれる事が多いですね。
内容も複雑な心理や言い回し、人間に関して、考えさせられるようなテーマが多く、一定の知識が必要とされます。そしてそれを良しとします。ですから、ある程度成熟された方向け、と言えるでしょう。
それに対してラノベは、イラストもありますし、一般的な想像力があれば読めるものです。
言い回しもそこまで難解ではありませんし、テーマも単純明快な物が多い印象です。ですから、比較的知識の少ない若い方向け、と言えるでしょう。
もちろん比較的、というだけなので絶対にこう、というわけではありません。そして、どちらかに優劣があるとも言いません。ただ傾向はこれで間違いないと思います。
この2つの好まれる層の違いを、分かりやすく言うならば『経験の有無』だと思います。
例えば、『雨』という言葉から何を想像しますか?
本なんて、沢山読んでいるうちに想像力が鍛えられるものです。そうすれば沢山思いつくようになります。
純文学を好む方は、『雨』から沢山想像するでしょう。
それは冷たさかもしれませんし、郷愁かもしれません。それとも涙でしょうか、あるいは優しさかもしれません。挙げればきりがありませんね。どんな想像をさせてくれるのだろうかと、手に取るかもしれません。
それに対してラノベを好む方は、『雨』だけ見て、まず興味を惹かれにくいと思います。
何故って、想像し辛いからです。そこまで想像して、お金出して買いますか? 買わないでしょう。もっと分かりやすく、楽しそうなタイトルの本があれば、そちらを買うはずです。
つまり、まずラノベというもの自体が、「ある程度分かりやすいタイトルが好まれる本」という事です。
分かりやすくするためには、どうしたら良いか。説明すれば良いです。
また、もう1つ双方の違いを挙げるならば、それは作者の知名度の違いでしょう。
純文学はラノベよりも歴史があります。古いという事は、土台が整っているという事です。みんなが知っている、作家としての登竜門があり、それを目指して書き、そう言った専門誌に載せる。地盤があるのです。
そうやって有名になっていくので、本を出せるようになった時には、ある程度知名度があると言っても良いでしょう。
それに対してラノベは新興勢力。受け入れる土台がないのです。この受け入れる土台とは、読み手の年齢の広さの事も含まれます。出来たばかりの物は、年齢が高くなる程、受け入れるのが大変になります。人は変わるのを怖がるからです。
そういう意味でも、新しい物が普通な若い方の方が、ラノベに寛容ですね。
ですから、もちろんラノベだって賞はありますが、知名度は純文学の比ではないです。芥川賞や直木賞のように、テレビで放送なんてしないですよね? そういう事です。
つまり、ラノベは知名度を補う、目立つ物が必要になります。
よってこの2つの理由から、「長文タイトル」が生まれたのだと私は考えます。
【長文タイトル問題の原因と、その問題は何か?】
ラノベの歴史で話した通り、これに歴史を語れるほどのものは無いでしょう。
新しいものは、受け入れ難い。それは何故か。
1つは先程話したように、人は変わる事を怖がるからです。
変わらない、という事は安心感があるという事です。
例えば日本が鎖国したのは、キリスト教を恐れたからですね。知らないもので、国が変わってしまう、乗っ取られてしまうと考えたからです。
つまり「長文タイトル」は、新しい概念なので受け入れ難いのです。
もう1つの理由としては、「長文タイトル」は、今までの文学的にご法度だからです。
純文学には、ラノベのような「長文タイトル」はあり得ません。何故なら、説明をしすぎているから。純文学の仕事は、想像力をどれだけ掻き立てることが出来るか、です。ですから、「長文タイトル」なんて、ナンセンスです。当然、受け入れられません。
というか、私も最初に見た時は「なんだこれ?」と、思ったうちの1人です。
つまり「長文タイトル」は、純文学や今までの文学の目線では、あってはいけないことなのです。
よってこの2つの理由から、「長文タイトル」が問題視されると考えます。
忌避したくなるのは人間的な特性上、仕方ないと言えます。
その上で考えます。
【長文タイトルは正しいか?】
今までの事を踏まえて申し上げますと、「ライトノベルという土台ではありだが、他の文学で考えるならなし」という結論になります。
つまり、「長文タイトルは正しくもあり、正しくなくもある」という事です。
要するに「土台が違えば定義が変わるので、なんとも言えない」という事です。
反論はあって然るべきでしょう。人の考えや感覚はそれぞれです。
それを分かった上で、補足説明します。
ただし今度は文学の知見からではなく、語学の考えを拝借して語ります。
私は、国文学を学んでおりましたが、日本語学もやっておりました。卒論は日本語学で書いてます。
そこで衝撃だったのが、教授が「正しい日本語ってなんなの?」って言った事です。
私はそれまでずっと、古くから使われるものを「正しい」と考えてたんです。
でも日本語って、何度も変わってきたわけですよね。
例えば平安時代の人と会話するなら、私たちはあまり会話が成り立たないと思います。全然違いますから。
言葉はその時の流行で変わってきました。その度に、あれはない、とか言われてきたわけなんですが。
流行語だってそうですよね。出ては大抵、消えていきます。今残ってるのは、そこで生き残ったものです。それが「正しい」とされています。
つまり「言葉としては、伝えたい事が分かりやすく、伝わるのが正しい」という考えになります。
そう、伝わる事が最も大事で、それ以外は二の次です。
その定義で語るのであれば、「長文タイトルは正しい」と言える可能性があります。
「長文タイトル」は少なくとも、今すぐ廃れる事はないでしょう。これは断言出来ます。
何故って、もうすでに受け入れられて結構経っているからです。たかが数年、されど数年。
流行語のように、「長文タイトル」は流れて行きませんでした。それが全てを物語っています。
また教授は、「言葉は生き物」だと言っておりました。
変わって当然。だから、「正しさ」は本来定義できない。多くの人が受け入れれば、それが「正しい」とされるわけです。
この考えは、「長文タイトル」にも、共通するものがないでしょうか?
タイトルの定義は、変わって然るべきです。その時代で、受け入れられる言葉も変わるからです。
そう、タイトルだって言葉で出来ています。
なら、それが今までの考えと変わるのは、時代の流れというものではないでしょうか?
しかし文学を嗜む方が気になられるのは、やはり「正しくない」と感じるからでしょう。
純文学からしたら、たしかに「長文タイトルは正しくない」です。それは古きを大事にし、言葉を大事にし、経験と想像力を大事にしているからだと思います。その考えも素敵だと思います。
ですから純文学的にはやはり、「長文タイトルは正しくない」が正しいでしょう。
しかしラノベからすると、新しいこの分野にはそもそも、「正しいというものがない」ということになります。正解は元よりないのです。
そもそもラノベは、「軽く読める小説」なのですから、ここまで話しました通り、「経験や知識が無くても、分かって楽しめる事が正しい」と言えます。
よって、「長文タイトルは正しくもあり、正しくなくもある」が小説全体に対する、私的な見解です。
そもそもなのですが、小説は読まれてこそ意味があるものです。ですから、読まれないくらいなら、読まれる努力をするべきですよね。
その努力が「長文タイトル」なのではないか、と私は思います。
つまり、『なろう』で結論を出すなら
1番ダメなのは、楽しそうじゃない、興味を惹かれないタイトルであること。
だからそうなるくらいなら、「正しいか」ではなく、「長文だとしても、興味を惹くタイトルになるなら、その方が良い」
というのが、『なろう』的な結論ではないかと思います。
『なろう』は様々なジャンルがありますから、一概に「これが正しい」は定義できないでしょう。
というか、それぞれを同じ物として、小説一括りで纏めるのが、まず間違いだと思います。私からすると完全に別物です。肉と魚くらい違います。
「正しい」と言いたいなら、「読んでもらえるならなんでも正しい」ということだと思います。そんなのは、読者が流れで決めることでしょう。多数決はその時により結果が変わるものです。
ここで1つ注意なのは、「長文タイトルが全て良い」といっている訳ではない、ということです。
「長文タイトル」においては、内容を説明する事が許されます。
但しそれは、「想像させるタイトルであれば良い」という、『タイトルとしての最低条件』をクリアしていればという事です。
考えてもみて下さい。全てを語るあらすじがあったら、皆さん小説読みますか?
もし読んだとしても、感動が半減しますよね。
ラノベのウリが「分かりやすさ」だとしても、まず小説自体が、多少なりとも「想像力を使うもの」という絶対的な前提があります。
これを壊すなら、もうタイトルなんかない方がいいくらいです。料理の仕上げに、塩と間違えて砂糖かけるようなものです。
これの許される例を挙げるなら、そうですね、私は『転スラ』が好きなので、それを例にします。
『転生したらスライムだった件』でわかる事は、「転生」と「スライム」な事だけです。
そんな事は序盤でわかる事なので、スライムという意外性はありますが、そこからは想像するしかない訳です。
つまり先程の結論に、もし加えて言うなら
そのタイトルが、「全く想像させないタイトル」だとしたら、それはそもそもタイトルの根本から間違っている。
説明しすぎも、想像力を使わせなさすぎもダメ。
という事です。
「それでそれで?」ってならないタイトルは、まず問題外なのです。土俵にも立ててません。
って事に1年くらい前に気付きました。
安心して下さい。私もやらかした人間です。
私の作品の、変更前のタイトル聞きたいですか?
『悪役令嬢と弟』
です。ふざけんなです。
過去の割烹見るとですね、「略称がしっくりこない」とか言ってるんですね。
過去の私に言います。「そこじゃねーよ‼︎」
タイトルもろくに考えずに、小説投稿するなって感じです。小説の方が先に出来て、とりあえずタイトル付けてればいいかな、と思ってたらしいんですけど(記憶の彼方)
例えるならタイトルは化粧です。
お化粧が上手くできているか。
もしくはしてないか、しすぎてるかみたいな。
中身は同じですよね。でも印象が変わります。
ラノベは「分かりやすさ」が大事と言いました。
確かにこのタイトル、説明はしてますね悪役令嬢って。
だけど「ふーん」で終わりますよね。
たとえサブタイトルつけて、長くしても、これでは「よくあるやつかなー、これじゃなくてもいいな」ってなるはずです。
当然人はあまり来ませんでした。
今は全然違うタイトルな上に、「長文タイトル」です。
だって私の作品は、ラノベ系だからです。ちゃんとした純文学書くなら、長文タイトルはやらないですね。
ラノベじゃない上に、これは戯曲なんですが、私は岸田國士の『恋愛恐怖病』が好きです。
タイトルから分かりやすいですし、内容も考察がたくさん出来て、とても面白いです。そして短いし、テーマがハッキリしているので読みやすい。まぁ、少し文体は古いんですけどね。
青空文庫で読めるので、気になる方には覗いてみて欲しい、「タイトルで説明しつつ、想像させる作品」の良い例です。
もし「長文タイトル」をやるなら
・注目してほしいことが、何かを明らかにする
・タイトル内容は読めばすぐわかる範囲である
・タイトルから読んでみたいと興味を持たせる
ものでなければ、「長文タイトル」の長所すら死にます。(作品の)殺家にならないで下さい。
よって、このような「長文タイトル」については、今回の結論には入りません。論外です。これからタイトルつける人も、気をつけて下さい。私みたいになってはなりませぬ。
私は結局、読まれる事が小説の使命な以上、読まれればなんでも良いと思うんです。
反論はあるかもしれませんね。
それも興味あります。人の考えは沢山あって、面白いですよね。
でも読ませたら、それが正義です。
敵にも味方にも正義があるなんて、歴史的にはよくある事です。勝てば官軍ですから。
つまりこのタイトルの長いエッセイを、読ませた私は官軍ですね。え? 違いますか?
いかがでしょうか。
これで私の見解を終了します。
ご覧頂き、ありがとうございました。