大空 人事異動で地元に帰ることになる
大空の地元への人事異動がかなって、あと三日で御背の勤務も終わる。引き継ぎ書を考えていたときだった。そこで、事件はおこった。美香から電話がかかってきた。
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三月末になって、人事異動の時期が迫っていた。
希望がかなって、四月一日から桜が丘にある、桜が丘海林事務所に異動することになった。そこなら、実家から車で三十分の近距離にあり、これまでのように認知症の母をひとりで置いておくこともない。
美香にもそのことを伝えた。嬉しい言葉をもらった。
「だい君、よかったわね。これで、四月からは毎日お母さんと一緒にいられるじゃない。ひと安心ってところね。昼間、だい君が仕事で、お母さんがひとりのときは、今まで通り、わたしも注意払っているからね」
どこまでも美香は、母と大空の家庭のことを気にかけてくれる。心優しい隣人であり、同級生である。もうひとつ加えるなら美人である。
異動にあたって、引き継ぎ書が必要になる。二年間の御背勤務にも、いろいろな懸案事項があった。
月に一度は、
「わりゃーごーわくんにゃ」
と電話で、怒鳴りたててくる漁師の、オヤジのことも書いておいた。
あとは、後任者との引き継ぎを残すだけとなった。ちなみに後任者は、愛田県庁の環境部から、昇格人事で赴任してくる。大空より四歳若く、昇格の早い職員だ。妻と小学校高学年の息子を家族に持ち、息子の中学受験を考えて、家族は地元に残して、本人だけが単身赴任で御背寮に入るという。
夕刻になり、勤務時間が終わろうとしていた。いきなり、胸のポケットの携帯電話が鳴った。
いやな予感がした。悪いことは当たる。慌てふためく、美香からだった。
「だい君! たいへんなのよ。だい君のお母さんがつい一時間ほどまえに、玄関を出たところの階段で転んだのよ」
桜が丘の実家は、盛り土したその上に建築されており、玄関から家の前の通りまでの高低差は、五段ほどの階段になっていた。
学習塾が始まる前の時間帯で、ちょうど美香も家にいた。大空の家の玄関扉が開いたかと思うと、小さな悲鳴とともに、ドスンと何かが落ちる音がした。
美香が慌てて、家の外に出てみると、大空の母が右脚を押さえて倒れていた。
倒れた身体を抱き起こすと、母は、
「いた~ぃ、いた~い……」
といって、脚が伸び切ったまま動けない。そこで美香が、慌てて救急車を呼んだという。
今は、緊急搬送されて市民病院にいる。
認知症の治療を始めたことで、徘徊することがおさまって、このまま平穏な日々が続くと思っていたが、甘かった。
大空は課長に理由をいって、早退の許可をお願いした。
課長は、
「あと三日もすれば、実家に戻れるというのに、大変なことだな。急いで、帰ってやってくれ」
と心配してくれた。
今回の大空の人事にあたっては、四月から実家から通えるようにと、課長が強く人事に働きかけてくれた。
大空は御背の職場を飛び出して、マーチで桜が丘へと急いだ。
夜の七時に市民病院に着くと、母は緊急医療室から一般病棟に移されていた。怪我の状態から、命に別状がないようだ。
母の入院する病室は二人部屋で、なかに入ると、もうひとりの病人との間がカーテンで仕切られていた。
「大空だよ。入るよ」
といって、カーテンを小さく開くと、ベッドのかたわらに背中を向けて、パイプ椅子にすわる美香の姿があった。
振り向くと、悲しそうな顔で迎えてくれた。
「ああ……、だい君。お母さん、右脚大腿骨の骨折だって……」
ベッドに横たわる母は目を閉じている。胸まで布団をかぶせられて、布団の右脚のところが大きくふくらんでいる。コルセットか、包帯で固められているのか?
「そうか……」
大空は、生気をなくした母の顔を見ながら、老人の骨折は若者と違って、往々にして、重大な結果をもたらすことに胸を痛めた。このまま歩けなくなることが、かなりの確率であるらしい。
大空の気配に気がついて、母が目を開けた。
寂しそうな目の色で
「だいちゃん。こめんね。迷惑かけちゃって…」
母が謝る。大空は、
「気にしないでいいよ」
と布団のうえから、母の細い肩に手をおいた。
息子が来たことで安心したのか、疲れていたのだろう、母はそれっきり目を閉じた。
美香は大空に目配せをすると、病室から出て行った。彼女はこれから塾の仕事にいかなければならない。
母子二人になった病室はもの寂しかった。
眠ったのか、母はじぃとしたまま、身体を動かさない。気がつくと、皺で囲まれた瞼に涙が滲んでいる。涙は目じりから耳たぶへと伝っていった。
なぜだかわからないが、涙に音がないことが悲しかった。
大空はその夜、つき添いベッドで、母の横で泊まらせてもらった。薄暗い病室で、母の安らかな寝息が聞こえた。
( 続く )
年老いた母に起こるさまざまなこと。大空は母のもとに帰って、何ができるのだろう?




