桜が丘市の警察から大空のもとに電話がかかる
十二月、年末でどこの職場もバタバタしている。大空は市民からの苦情を電話で長々と応対したり、委員会へ出席したりしている。そのなある日、現場で施設の破損が見つかった。
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十二月はどこの職場でも忙しい。
部下から回ってくる束になった書類のチェックをする。
日付や数字の間違いがいたるところにあり、ペタペタと付箋をはって返す。
住民からの苦情の電話も頻繁にかかってくる。御背海林事務所の所管が、漁業と林業とまたがっているのでその数も多い。
このところ多いのが、岸壁を早く耐震化しろというものだ。三年前に阪神・淡路大震災があってから、さかんにいわれだした。
漁業に従事する、ひとりのオヤジの口調は、御背弁でひどく乱暴だ。
「わりゃーごーわくんにゃ」
御背弁で、お前ってやつはほんとうに腹が立つなぁ、といっている。この台詞をくり返しながら、延々と怒鳴り散らす。
電話口で、一時間近く、予算がつくまで待ってください、と謝り通しだった。
二十一世紀対策委員会への出席もある。会議で積極的に意見をいうほうではないが、書類上の年号のことで、気がついたことがあったので二、三発言した。自分がいわなくても誰かが気づくような細々としたものだ。
忙しく日々は流れていった。
その日は、仕事が始まると、朝一番で、住民から林業関連の電話があった。県有地の林道の柵が壊れているから、早く修理してくれという。現地確認には、山のすそ野まで車でゆく必要があり、二時間ほどかかる。
冬用の作業ジャンパーを着て、若い職員の運転のもと、公用車で現地に向かった。
舗装された道路がなくなり、砂利交じりの山道になり、まもなく現地に着こうというときだった。
いきなり、胸のポケットの携帯電話が鳴った。
「はい。山田です」
職場からだろうと、耳にあてると、聞き覚えのない声が響いた。
「こちら桜が丘公園前派出所です」
「はい……?」
名のられても、誰からかかってきたものか、ピンとこなかった。普段、警察に縁がない人間なら、誰でもそうだろう。
電話の向こうで、今度は「警察です。桜が丘の警察です」と繰り返す声がした。
警察と、わかったとたん、背筋が凍りついた。
恐怖と驚きで、車のシートから尻が大きく浮いた。勢い余って、頭から公用車のフロントガラスに突っ込みそうになった。
続いて、最悪の事態が脳裏に過った。自分の仕事上のミスが警察沙汰になったのではないかという不安だ。
警察に捕まると、公務員は即、懲戒免職だ。
これまで勤務中に隠れてモアイと一緒にいたが、仕事は人並みにこなして、法令には違反してこなかった。
……そのつもりだ。だが、自分の見落としということもある。重大なミスをしたのではないか?
この歳になって職を失うのはつらい。
警察からの話が続いた。
「あなたのお母さんことですが、どうやら桜が丘の公園付近で迷われたようでして……」
「母……? 母のことですか!」
仕事のことではないとわかって、胸をなで下ろした。急に肩から力が抜けた。いっぽうで、母のことだと聞いて、焦りと不安は別のものに変わった。
警察の説明によると、母は、桜が丘駅東側アーケード街を歩いているうちに、自分がどこから来たのかわからなくなったというのだ。迷子になって、母は、たまたま近くにあった公園前派出所で相談したらしい。
一か月ほどまえに、美香からもらった電話と同じ状態だ。
派出所で、警察官が母に地図を見せながら、
「お婆さんはどちらにお住まいですか?」
と聞いたところ、母がバッグから眼鏡ケースを取り出した。その眼鏡ケースのなかから、大空の名刺が出てきたという。
先日、母の持ち物に入れた名刺が功を奏した。
「ありがとうございます」
大空は公用車のなかで、電話の向こうの警察に頭をさげた。
だが、これで終わったわけではない。母の無事な様子を警察から連絡をもらったが、その先が問題だ。
どうやって、これから母を迎えにいったらいいのだ?
なにしろ、大空がいるのは御背だ。それも、御背の辺境地である山のなかである。左手首にはめたオメガを見た。針は十一時三十分を指している。
ここから急いで、事務所に戻るのに二時間かかるとして、そこから桜が丘の母がいる警察のもとへゆくのに三時間。どう考えても五時間以上かかる。午後の五時近くにしか、桜が丘にたどり着けない。
隣で運転している、若い職員が心配そうな顔をしている。これから引き返しましょうかと聞いてきた。
引き返すといっても、間もなく目的地に着こうとしている。せっかく、事務所から二時間近く車を走らせてきたというのに、ここで引き返すというのも……。
どうしたらよいか悩んでいると、一筋の光明が差した。
あらためてオメガで時間を確認した。今の時間帯なら、塾講師である美香の仕事は始まっていない。彼女なら動ける。
公用車のなかから、美香へ携帯で電話をかけた。携帯の電波は山のすそ野だから弱い。
途切れ途切れの頼りない音ながらも、電話の呼び出し音が続く。
なかなか出ない。
もうダメかと思ったところで、美香の生真面目な声がした。電波が悪いため、少し聞き取りにくい。
大空は舌をもつれさせながら、いつになく大きな声で、母の状況を説明した。
感謝してもしきれないことに、美香が桜が丘公園前派出所まで母を迎えにいってくれることになった。これでひとまずは安心だ。
そうかといってこの日、大空が母を放りっぱなしにしておくわけにはいかない。
林道の柵の確認を終え、事務所に戻ると、その日は即刻、早退させてもらった。
桜が丘の自宅にいるときは、たいして気にもかけない母でも、事があると胸が痛む。
焦る気持ちをおさえながら、マーチを走らせた。
高速道路の周りは、山裾や田畑が並ぶ。観光地や都会が近くにあるわけでもなく、走行車両が少ない。
冬の夕刻が早々と闇をもたらし、道路に並ぶ照明灯だけが、寂し気に、大きな蛍が整列したように飛びかう。
家にたどり着いたのは午後六時を過ぎていた。
玄関扉を開けると、意外にも、それまでの暗い思いを吹き飛ばすような暖かな波動に迎えられた。
台所からは、美味そうな煮物の匂いがする。母と美香が談笑する声が聞こえてきた。二人で料理をつくっているようだ。まるで義理の母と嫁を思わせる。
玄関に繋がる廊下まで、タオルで手を拭いながら、美香が出てきた。母は料理で手が離せないという。
美香は何事もなかったように朗らかだ。大空は焦って聞いた。
「母さんのことよかった?」
「大丈夫だったわ。桜が丘公園前派出所まで行くと、だい君のお母さん、元気にしてみえたわ。わたしの車で家まで帰ってきたわ。家に着いて、だい君に連絡しようとしたら、携帯電話が留守電になっていたので伝言を入れておいたわ」
「えっ。そうだった?」
大空は、ダッフルコートのポケットから、携帯電話をとりだした。運転していたから、留守電にセットしていた。美香のいうとおり伝言が入っている。
美香はこの日、母のことで塾の一コマ分の講義を人に代わってもらったようだ。悪いことをした。
夕食のしたくができて、母と大空は、美香に一緒に食べていかないかと誘った。
だが、これから塾へゆくから時間がないという。
それなら美香がいるうちにと、話したい事があると、座卓の前に二人をすわらせた。美香がいる前で、大空は、母に認知症の疑いがあるから、神経内科で診てもらおうと提案した。
「母さん。ここは、ぼくのいうことを聞いて、医者に一緒にいってくれないか」
美香は内心、母の説得に関しては、大空ひとりでやるべき問題だと思っていただろう。だが、説得の大変さは、美香自身が自分の母親のとき体験していたから、ここは助け舟を出してくれた。
「だい君のお母さん。一緒にお医者さんへいって、診てもらったほうがいいですよ。死んだわたしの母も治療をしていました」
母のほうも、桜が丘で迷って、美香に家まで送り届けてもらったのが、ほんの数時間前のことだから覚えていた。美香の手を煩わせたことを悪く思っていたようだ。
美香の言葉に、素直に首を縦にふった。
「そうだねぇ、あんたたちがそこまでいうのなら、一度いってみるかなぁ」
大空と美香は、顔を見合わせて安堵の息をついた。
母が医者の件を忘れないうちにと、大空は素早く動くことにした。
翌日の朝一番で、職場には休暇をもらい、午前中に母を連れて近所の神経内科にいった。
予想はしていたが、改めて母親の病名を聞かされて、肩を落とした。軽度のアルツハイマー型認知症と診断された。
自分を育ててくれた親の頭が、正常でなくなっていくのを知らされるのは辛かった。息子である自分の根幹までが、揺らいでゆくような心もとない思いだ。
大空の心の動揺とは逆に、母のほうはさほど病気の深刻さを理解しておらず、通常に病名を受け止めていた。
医師は大空だけに説明した。美香がいっていたように、アルツハイマー型認知症は、薬で症状の進行を遅らせるだけで、完治することはないと。
( 続く )
いよいよ大空の母が医師からアルツハイマー型認知症と診断された。母をひとり離れた自宅に残しておくことはいよいよ不安になる。




