大空は美香と親の介護で話し合う
終末に桜ヶ丘市の自宅に帰った大空は隣に住む同級生の美香と会います。美香は離婚して、現在は父親との二人暮らしです。
美香のほうはすでに認知症の母親をみとった経験があり、大空はその言葉に耳を傾けます。
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土曜日の朝から、日産マーチを走らせ、桜が丘の実家へ向かった。ちなみに、車の色はシルバーで七年目になる。運転は得意なほうではないから、あちらこちら小さな傷がついている。
一般道路と高速道路を乗り継いで、正午前に到着した。
駐車場に車を入れていると、母が玄関から出てきた。
「だいちゃん。おかえり」
「ただいまぁ~。帰ったよ~」
運転席の窓から母の姿を見ると、背中が曲がって、いつも着ている山吹色のカーディガンがくたびれて見える。小さくなって老け込んでいる。
美香から電話で、五日前の火曜日に、桜が丘のアーケード街で迷っていたことを聞いていたから、なおさら思うのだろう。
「これ、買ってきた。昼に食べよう」
車から降りるさいに、母に、秋刀魚の押し寿司の折り詰めを手渡した。
「いつもありがとうね」
皺くちゃの顔をほころばせ喜びを表す。母は、秋刀魚の押し寿司が好物で、しばしば高速道路のドライブインで買って帰ることにしている。
「どっこいしょ」
ちょっとした旅行が終わった気分だ。大空はかけ声をあげて廊下に上がった。こんなかけ声が必要になってしまったことに、自分でも歳をとったのだと感じる。母が老け込むのも当然だ。
茶の間に入って、一週間分の洗濯ものが入ったリュックをおくと、長いドライブの疲れから、ぐったりと座敷にすわった。
すると、座卓のうえの『ノストラダムスの大予言』という本が目に入った。
母は占いとか予言とかいった類のものが好きで、天中殺、姓名判断、手相占いなどの本をいろいろ読んでいる。
「母さん。ノストラダムスを読んでいたの?」
大空は、予言とか占いに興味がなかったが、ノストラダムスは知っていた。
それまで台所にいた母が、お茶の用意をして入ってきた。
ノストラダムスの本に手を伸ばすと、
「やだねぇ。ほうりっぱなしだったわ」
と、そそくさと、襖を隔てて隣にある母の部屋へ戻しにいった。
今は、母だけの部屋だが、父が生きていたころは、夫婦の部屋であった。
ノストラダムスは、二十年以上前に大ベストセラーになった本であった。世紀末になった最近、また話題にする人がでてきている。
職場でもよく、同僚が残業のとき、
「来年の一九九九年の七の月になりゃ、恐怖の大魔王が降りてきて、人類が滅亡するからな。仕事でがんばってもしょうがないわ」
などと、こぼしたりしている。
十代の若者はいざ知らず、おそらく日本中のほとんどがその予言を知っているだろう。
お茶のしたくが整い、折り詰めの包みを開いた。握りのうえの秋刀魚が青光りして、ツーンとした酢の匂いがした。青光りと匂いが嫌いな人もいるようだが、大空は気にならない。
母と二人で押し寿司を食べながら、座卓がずいぶん広いと感じた。
大空も母も座卓の端と端にすわっているため、二人の距離が離れている。父が生きていたころは、母と大空の間に、父がすわっていた。父が死んでしまった今は、同じ座卓でも、母と二人で使っているから、広く思うのだ。
父がこの世を去ったのは、七か月前の四月の深夜のことだった。御背寮で、大空が布団にくるまっていると、携帯電話に母から電話が入った。
「父さんが心筋梗塞で倒れて、救急車で……、今、市民病院だよ。今度は二回目だから……」
涙声だった。
深夜の高速道路を、大空は御背から、父と母がいる桜が丘の病院へとマーチで飛ばした。車は排気量が小さくても、古くてもかまわないと思っていたが、そのときばかりは、楽々スピードを出して、マーチを抜き去っていく大型車がうらやましかった。
病院に駆け込んだのは深夜の二時だった。父の生きた姿を見ることはなかった。
押し寿司が、母の箸からポロリと落ちて、畳に転がった。最近の母の箸使いは心もとない。
「あらあら……」
そういうと、少し崩れた押し寿司を畳から拾い上げ、口のなかに放り込んだ。
母は日ごと年老いてゆく。たぶん、桜が丘のアーケード街で、先日、美香に助けてもらったことは、脳の片隅にさえ残っていないだろう。
この土日の滞在中に、遠回しに物覚えのほうは大丈夫か? と母に確認しておいたほうがよい。
昼食を終え、しばらく茶の間でテレビを観たあと、二階の自分の部屋に休みにいった。御背への転勤前は、毎日過ごしていた部屋だ。そのときと何も変わっていない。勤務先が御背から、再び、自宅から通勤できる場所に変われば、これまで通りここが寝場所となる。
御背寮では畳に布団を敷いて寝ているから、寮にはない、自分のベッドがここにはある。何年も馴染んだ敷布のうえに寝転ぶと、ウトウトしてきた。ちょうどそのとき、階下から母が大空を呼ぶ声がした。
美香が来てくれたのだ。
しまったと思いながら、慌てて階段を下りた。
この前、電話をもらった母の件で、美香から、アーケード街での母の状況を詳しく聞きたかった。こちらからお礼をかねて、訪ねるのが筋だ。
美香は、ベージュのカーディガンとジーンズという普段着で、玄関口に立っていた。セミロングの髪が美しく、歳より若やいで見える。
廊下で迎える母が、
「美香ちゃん、隣に住んでいるのに、しばらく見なかったねぇ。あがっていきなよ」
とすすめている。
間違いなく、母は桜が丘のアーケード街のことを忘れている。美香は笑顔を母に返すも、助けを求めるように大空のほうを見た。
大空はすかさず、母に断りをいれた。
「ああ、母さん。近くの喫茶店にいくからいいんだよ」
話の内容が母のことになるのに、家のなかではゆっくりと話してはいられない。
歩いて五分の、信号交差点の角にある、マロンという喫茶店に入った。住宅街の近くにあるので、近所の人も利用する。古くから潰れずに営業している店だ。美香を前にして、テーブルをはさんですわると、案の定、尻のすわりが悪くなってきた。
幼馴染で、今でも連絡をとり合う仲であるが、それは高校や中学の仲間内で飲みにゆくときに限っていた。二人きりでお茶を飲むのは初めてのことだった。
大空と同じ歳であるから、美香も四十三歳である。それなのにくたびれたところはまったくない。知的で整った顔は、むしろ若いころより磨きがかかって、大人の女性の気品にあふれていた。大空は、本来の人見知りに照れくささが加わり、真正面から見ることができない。
美香は幼なじみで、お隣さんということで、大空の母のことから家のことまで気にかけてくれる。
「だい君……。おせっかいかもしれないけど、いわせてね。お母さんのこと……、これ以上、ひとりっきりにしておくの、不安だわ。一緒に住んであげることできないの?」
返答に困った。まずは、自分の現状を話しておこうと思った。
大空はうつむきかげんで話をした。
「一緒に住むといっても、御背の寮に、母を連れていくわけにはいかないし……。事情を職場に話したら、あわよくば、桜が丘から通える勤務先に変えてくれるかもしれないが、変われるにしても、次の異動の四月だよ。それまでは無理だよ。今はまだ十一月だ。困ったよ……」
美香は珈琲を口に運ぶと、眉を曇らせた。
「そうだよね」
勤めていた経験があるから、彼女もそのあたりのことはよくわかっていた。
「わたし、あれ以来心配になって、昼間、時間があると、時々お母さんの顔、覗きにいってんだ……」
「そんなことまでして、手を煩わしてもらっていたんだ。ありがとう」
謝罪の気持ちをこめて、萎れた花のように頭をさげた。実の息子以上に、隣に住む美香が母のことに注意を払ってくれている。
気配りを含めて、美香の頭の回転の速さには、いつも歯が立たない。
それはおそらく、赤ん坊のとき、お隣どうしで、母たちに抱かれて、最初の赤ちゃん言葉を発したときから感じていたものだろう。
習い事を途中で投げ出した大空とは対照的に、人生のスタートラインから美香は優等生だった。ピアノ、書道と熱心に続け、学習塾にも通っていた。成人になってからも腕は鈍っていないはずだから、ピアノと書道は、公の場に出ても恥ずかしくないレベルのはずだ。
大学は現役で、戸摩戸の旧帝大に合格して、英文学を専攻し、大学院の修士課程も終えた。
頭脳明晰だけでなく、女としての魅力もある。そんな美香を周りの男はほうっておかない。
大学のときから二学年先輩の男とつきあっていて、そのまま結婚した。それを機に彼の実家のある東都で暮らすことになり、東都で高校の英語教員になった。
「それとね……」
珈琲カップを両手で包むようにして、少し揺らしている。言葉に出しにくいときの、美香の癖なのか。
「ねぇ、だい君。いいにくいんだけど」
「うん……」
「一度お医者さんに連れていって、認知症の診察をしてもらったほうがいいと思う……。現代の医学では、認知症は治らないといわれているけれど、早期に薬を使えば、進行を食い止められると聞くわ」
「……ありがとう」
返事をしたが、事は厄介だ。
「わたしの母も、死ぬ前の二年間、認知症であちこち徘徊して、大変だった……」
「知らなかった。美香も苦労していたんだ」
美香のお母さんがこの世を去ったのは、大空の父が死ぬ、確か二年ほどまえだ。
となると、美香のお母さんが徘徊していた時期は、大空が御背勤務になる前だ。当時は自宅通勤だったから、近所のこと、とくに隣の美香の家のことは知っていてもよいはずだった。それなのに大空は、美香のお母さんのことをまったく知らないでいた。
当時は、勤務先が離れていたので、通勤に片道一時間半かかっていた。朝早く出勤して、帰宅は夜遅くになっていたから、近所の話題を、父母から聞く時間もなかったようだ。
美香の母が徘徊して、ちょっとした騒ぎになっても、大空の父と母との間だけの話で終わっていたのだろう。
「わたしの母のとき大変だった……。母は自分ではおかしくないと思っているから、父やわたしから、『お母さんは突然フラフラと出ていって、帰ってこられなくなることがあるから、家の周りから離れないようにして』と、何度いっても、無駄なのよね。何かに引っぱられるように、遠くの場所まで行ってしまうの。そして帰れない」
美香は珈琲をすすると、口元を引き締めた。
その顔は、まるでTVで見る、女性アナウンサーのように隙が無い。そんな彼女にも苦労があったのだ。
三十五歳のとき、東都でどんな事情があったかわからないが、その結婚生活は十年で終わりを告げた。幸か不幸か、夫婦の間には子どもはおらず、離婚を機に、年老いてゆく父母を一人娘の自分が見なければ、と桜が丘に戻ってきた。
実際、美香が戻ってから二、三年ほどで、母親のほうがこの世を去った。
以来、美香の家では、父と娘の二人暮らしだ。大空の家とちょうど逆のパターンだ。現在は地元の塾講師となって、小中学生を教えている。
深刻な話をしながらも、美香を真ん前にして、大空の尻はモゾモゾと落ち着かないままだ。モアイがべったり寄り添っていることもあるが、どうやらそればかりではない。
美香を前にして、その美しさに怖気づいているのだ。
離婚してからずいぶんたっていることと、子どもがいないこともあってか、所帯じみたところがない。一年前の中学のときの同窓会で、バツイチ男から、しつっこく迫られていたのを思い出す。
そんな美香に、死んだお母さんのことでたずねた。
「美香の家では、はたから見て認知症だとわかったら、医者に診てもらっていたの?」
美香は苦笑いをした。
「それが、母に遠回しに症状を告げて、医者に連れていこうとしても、なかなか首を縦にふらないのよ」
やはりそうだ。認知症の患者は自覚がないことが多く、医者にゆきたがらないケースがある。
美香のところでは、父親と二人でいろんな理由をつけて、医者に連れていくのに三か月以上かかったそうだ。
大空は気が重くなった。
母も医者に連れていくのが難しそうだ。
ため息をつきたかったが、姿勢のよい美香を前にしてはためらわれた。
自分のことばかりを心配してもらうのも気が引けるので、美香の家庭のことも聞いてみた。
「こちらの親のことを気にかけてくれるのはありがたいけど、そちらのお父さんは大丈夫なのかい? ぼくのうちと一緒で連れ合いを亡くして、だんだん、歳とって……」
たまに玄関先で見かけるけど、美香の父親こと、おじちゃんは元気なのだろうか……?
「まぁ、まぁってところ。少し、よぼよぼしだしたのは気になるけど、まだ、頭もだいじょうぶで、動けるから平気よ。そうはいっても、風邪をひきやすくなったわ……。でも、今のところ、世話は必要ないわ」
そういうと笑顔で続けた。
「うちはまだほうっておくわ。心配なのはだい君のお母さん。これからも、わたしのほうからも、お母さんには注意をしておくわ」
美香は気楽さを装うが、言葉とは裏腹に、おじちゃんも、この先は、いつうちの母と同じようになるかわかったもんじゃない。
「美香には、たいへんなことばかり頼んでいる。こんなに面倒かけていいのかい?」
「気にしないで。だい君が御背にいっているときは、挨拶がてら、お母さんの顔を覗きにいっているだけだから。塾の仕事が、夕方以降だから、昼間は自由に動けるのよ。だから、だい君もお母さんにできるだけのことはするのよ」
美香の言動はすべて的確だ。
子どもに優しくいいきかすように、大空にも接する。大空はそれがいやではない。同じ歳なのに、美香は自分と比べて大人だ。
最後には、お互いがひとり身で親を抱えているから、力を貸し合うことが大切だなぁ、と苦笑しながらマロンを出た。
『ノストラダムスの大予言』
すぐに、本のタイトルが目に飛び込んできた。家に帰ると、茶の間で母が老眼鏡をかけて読んでいた。
「ねぇ、母さん」
声をかけても、母は生返事をするだけで、本から目を離さない。
母の興味に合わせて、大空も地球滅亡の話題から入ることにした。
「ノストラダムスを一生懸命に読んでいるけど、来年には地球がほんとうに滅亡すると思っているの?」
母は大空のほうに顔を向けずに、頁をめくった。
「信じているわ。悲しいことだけど、人類はいったん滅亡して、新たに生まれる必要があるかもしれない。わたしは、もう八十歳に手が届く年齢だけど、だいちゃんはまだ四十歳そこそこ、そんな若さで地球が滅亡して不憫だねぇ」
「もし、それが決まっているとしたら、この先、毎日をどう生きてよいかわからないじゃないか」
本を置くと、母は大空のほうを見た。
「だいちゃんはねぇ……。ノストラダムスの大魔王が来る、来ないに関わらず、いつもどうやって生きたらよいかが、わからないように見えるね。すべてに迷っている。なんだか自信無げに見えるよ」
認知症が出できているといっても、生まれてからこれまでの大空を、母は誰よりも見てきた。大空の一番の理解者は母である。
大空が日々感じている、尻のすわりの悪さも、母はお見通しだ。
母の見立てによると、周りの環境を好きになれないから、そこにいる自分のことも好きになれず、自然と人生に迷ってしまう。それが自信のなさにつながる、という。
「そうかなぁ……。ぼくが迷っているのなら、母さんのほうは、少し物忘れがひどくなってきたんじゃないの?」
ここぞとばかり、本題に入った。
母は老眼鏡を鼻にずらすと、上目遣いで、まじまじと大空を見てきた。
「ふぅ~ん」
何がいいたいの? という顔をしている。
「まぁ、歳とってくりゃあ、誰でも忘れっぽくなるわね」
「歳じゃなくてさ、なんていうか……」
「それ以外に、何があるのさ?」
歳だからあたりまえだ、と返されると、認知症の疑いがあるから医者にゆけ、と母にいうことが、ひどく本人のプライドを傷つけるように思えた。やはりデリケートで難しい問題である。
結局、この日はこれ以上いえなかった。
その代わり、もしものときに連絡がつくようにと、母の持ち物に、大空の名刺を入れさせてもらうことにした。
財布、バッグ、コートの内ポケットなど、あらゆるところに放り込んだ。老眼鏡の眼鏡ケースにも入れた。名刺には、大空の携帯電話の番号と、桜が丘の住所を書き込んでおいた。
母は名刺に関しては、
「まぁ、こんなにあれこれと名刺を入れるのかい。でも……、もしものときは、だいちゃんに、連絡がとれたほうがいいわねぇ」
と、いやがっているようには見えなかった。
老眼鏡をかけ直すと、母は『ノストラダムスの大予言』をもとのように読みだした。
そういえば、母は占いも好きで、いっとき四柱推命にも凝っていた。四柱推命とは、中国の運命学から生まれたもので、年・月・日・刻から人の未来を占う。それによると、大空が三十歳のとき、結婚に最高の人に出会うことになっていた。
確かに、大空には当時、知人の紹介でつき合っていた女性がいた。
だが、つき合いだしてすぐに、どちらからともなく離れていった。
くっつかなかったことが、母や父には不満だったようで、強くプッシュしたのかとしつこく聞かれた。両親には言葉を濁してやり過ごしたが、実のところ、大空のほうから女性に積極的に出ることはなかった。
正直にいってしまえば、大空は四十三歳のこの歳になるまで、女性にプロポーズも、愛の告白もしたことがなかったのである。
母が本に夢中になっているので、大空は手首にはめたオメガを見た。母の趣味が占いであれば、大空の趣味はブランド物の腕時計を買うことだ。
母にいわせれば、そんなもんに金を使うのなら、そのぶん、海外旅行にいってこいという。いや、それ以前に、車とか服装などの身近なところにかけて、女性とつきあえるようになれとも。
確かに母がいうように、オメガを買う金で、イースター島にいってこられる。そうすれば、自分の目で本物のモアイ像を確かめられる。
横に何体も並んで、仏頂面で海を見ているモアイ像。隣の像たちと肩が触れ合うことは拒絶する。一定の距離を保っていたい。そんなモアイ像たちの足元は、どいつもこいつも自信なげで、おぼつかない。
大空は、写真で見るモアイ像たちに混じって、自分がどこか、そのなかに立っているのではないかと思う。
( 続く )
大空のお母さんは翌年(1999年)に訪れるノストラダムスの大予言のことを信じて、そのときを待ちます。




