愛田県職員である大空の単身赴任
大空は愛田県の地方公務員となっていた。四十歳過ぎても気楽な独身ということからか、係長から主幹に昇格の際、愛田県の南方の地である御背海林事務所管理課に赴任していた。
ある日、課長から委員会の委員になるように依頼を受ける。
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一九九八年(平成十年)、二十世紀がまもなく終わろうとしていた。
山田 大空は愛田県の地方公務員となっていた。御背海林事務所管理課に赴任して二年目となる。
職務内容は、御背地区の港湾施設及び森林一帯の管理である。
四十歳過ぎても気楽な独身ということからか、係長から主幹に昇格の際、愛田県の南方のこの地への赴任となった。
愛田県というと、なかにはピンとこない人もいるだろうが、尾紀半島の東側に位置し、北から南へと細長く伸びる。
大きな都市などなく、住宅と田んぼと山からなる。県庁所在地の片岡市は低いビルが少し並ぶだけで、県で一番栄える桜が丘でさえ、高くて十階程度の百貨店、ホテル、マンションなどがまばらに建つ程度だ。日本全国から見るとマイナーな県で、天狗神宮や東林スパーランド、西城サーキットで知られるぐらいだ。
ただ、気候が比較的穏やかで、大都会のように不動産価格が高くなく、雑然としたところもないぶん、住宅地としてはよい地域であろう。
現在の愛田県での大空の勤務地は、その地味な県をひたすら南下して、隣の登美山県寄りまでいった、御背市という町である。
いっぽうで、大空の実家は愛田県の北部にある桜が丘市にあり、御背市までは車を使って三時間以上かかる。さすがに通勤できないために、現在は職場が管理する御背寮に入っている。
大空の所属する管理課は、課長以下八人からなる。課長席だけは窓際にひとつ離れているが、主幹の大空以下、七人の席はひとつの島となっている。大空の机の向きは、若手職員六人が三人、三人で向かい合わせにすわるのを見渡すかたちになっている。
若手職員は、気楽に雑談を交わしながら仕事をする。
「おい。お前、えれぇ、いい車に乗ってきたなぁ。スバルのレガシィじゃないか。やるなぁ」
「いやぁ、借金しちまったよ」
「ぜいたくだねぇ」
仕事をしながら車の話をしている。
大空は若手職員からは、ひとり、浮いたかたちで口数が少ない。
口数が少ないのは子どものころから変わらない。加えて、眼鏡で、自分の視線が隠れることを隠れ蓑として、若手職員たちのほうを見ない。むっつりと黙ったきりで、書類ばかりに視線を落としている。仕事の合間にたまにするのは、気分転換にと、左手首にはめたブランド物の腕時計を見ることだ。
ポツンと孤立して、しばしば腕時計に目をやる。それが大空の職場での日常の姿だ。
この日、窓際にすわる課長から呼ばれた。
「山田主幹。ちょっとこちらに来てくれないか」
課長の席は大空のちょうど背中側にある。白髪をオールバックにして、銀色のフレームの眼鏡をかけた課長は堅物に見える。
何をいわれるのだろう?
やっかいな仕事でなければいいと思いながら、大空は課長の前に立つ。
職場での大空の通常の服装は作業服だ。仕事が県有施設の管理のため、公用車を走らせて現場にいくこともあるので、県から支給された灰色の上下の作業服を着ている。
課長は書類を見ながら、
「山田主幹に頼みたいことがある。新しい委員会ができるので、職場から委員をひとり出さなければならない。そこで山田主幹にお願いできないかと思っている」
と大空の顔を覗き込んできた。
今回、これまでなかった委員会を立ち上げるそうだ。
新世紀である二十一世紀まで二年を切っており、各種掲示、書類及びコンピューターに関しての、年号等を変えなければならない。そこで、地域の各部所の代表が集まって、その対策を検討するのだ。
愛田県の地方公務員となっていた。御背海林事務所管理課に赴任してという名称だ。実務レベルの話し合いが必要なため、主幹である大空に頼みたいというのだ。
この職場ではプラスアルファの仕事が出てきた場合、たいてい主幹が担当になることになっていた。
断る理由もないので引き受けた。
これからは、月に一度か二度、他部所の職員と会議に出席することになる。
「では、うちの職場からは、山田主幹が委員だということで、名前を書いておくよ」
課長は委員候補者名簿に、山田大空と記入した。
「山田……ん。ところで、きみの名前だが、大きな空と書いてなんと読むのだね?」
「ええ……、だいすけ、と読みます」
「だいすけ? そうか。いい名前だね。じゃあ、ルビをふっておくよ」
名前の読みかたを聞かれるのは、今回の課長に限らない。幼いころからのことで慣れていた。
昨年の四月一日の御背市に赴任した初日、総務に着任用の書類を提出すると、同じように女性職員に訊ねられた。
「あら、山田主幹。下のお名前、どのように読まれるのですか?」
年少のころは、ひどく気になった名前だ。だが、何十年も同じことを聞かれていると、聞かれることに免役ができた。
「ええ、大空と書いて、『だいすけ』と読むんですよ。少し読みにくいですけどね。ははは……」
女性職員は、屈託のない笑顔で応対する。
「そうなんですか。ルビ入れておきますね。今どきなら、いろいろな奇抜な名前をつける親もいて、どうってことないんでしょうが、山田主幹が生まれた当時は、オシャレな名前だったのではないですか?」
三十過ぎの既婚の女性職員は、気さくな感じで、なんの悪気もない。ただ、オシャレといわれたことは、あまりない。それに、女性職員のいう通り、今どきだったらなんてこともない名前だろう。当て字で、もっと奇抜な名前も出てきている。
大空は、その場はお茶を濁すように、
「まあね。昔は少し変わっていたかな」
とこたえる程度で話をおえた。
そう。
名前なんてものは、慣れてしまえば、たいして気にするものでもない。名前で心痛めた、遠い昔の純朴な少年のころは、遠い昔のことだ。
名刺交換などのさいには、返って会話のきっかけになって、都合のよいこともある。
「大空と書いて『だいすけ』と読むんですよ。今後、お見知りおき願います」などと。
年齢を経て、生き方が少しだけうまくなったのだろうか?
さて、課長は二十一世紀対策委員会の候補者名簿を記入しおえると顔を上げた。
大空は課長の前に立つにあたって、体育の気おつけの姿勢をしていた。銀色の眼鏡フレームの奥に光る課長の目の動きが気になった。大空の作業ズボンの腰のあたりをとらえた。
大空は、今でも人から視線を浴びるのが苦手だ。それが自分の顔ではなく、腰のあたりでも同じだ。
慌てて、ファスナーを閉め忘れていないかと、股の部分を見た。
大丈夫だった。きちんと閉まっている。
では、ズボンのどこかが破れているのか?
オロオロしていると、そんな大空の心配をよそに、課長の興味はまったく別のところにいっていた。
いきなり大空の手首に巻かれた腕時計を指さした。
「山田主幹の腕時計は……」
課長は大空の腰を見ていたのではなく、腕時計を見ていたのだ。
「すばらしい!」
大空の背筋がピンと伸びた。課長は腕時計のことに詳しいのだ。
時計のことを何も知らない連中なら、大空の持つブランド物の腕時計を見ても気がつかないはずだ。
次に、時計のことで、何か皮肉のひとつでもいわれるのだろうかと身構えた。なぜなら大空の腕時計は、身分不相応な高級なものだからだ。
「きみの腕時計は、オメガじゃないのか? すばらしい。見せてくれないか」
課長は感じ入ったように、目を光らせる。
小言をいわれるのではないかと案じていたのが、一転して、大空は小躍りした。
服装にも車にも金を使わなかったが、腕時計だけには金をつぎこんだ。手首に高価なきらめきを持たせることは、男としての誇りだと考える。
なにしろ、今、手首に巻く腕時計は、中古車なら一台買えそうなほどの高価なオメガだ。三年前の、四十歳の誕生日に、自分の定期預金をくずして七十万円で購入した。
左腕を課長の前に差し出して、光るオメガを見せた。
「課長。わたしはこれといって趣味はないのですが、腕時計にだけはこだわりがあるのです」
照れ臭かったが、時計のことを話せるのが嬉しくて、自分でも声がはずむのがわかった。
「少し見せてくれないか?」
オメガを手首からはずして渡した。課長はためいきをつきながら両手で受けとった。
「オメガは歴史も古いし、なにより正確だ。頑丈で気品もあって一生ものだ。ロレックスとよく比較されることがあり、ロレックスのほうが高価なのだが、それゆえ成金趣味と思われてしまう。それと、他の高級ブランドで、何百万円もするものもあるが、そんなものは、別世界の人間が持てばいいものだ。やはり、持つのならオメガだね」
と、今度は眼鏡をはずして、オメガを目の前に近づけた。指先でベルトをいじったり、本体を裏返して、見ている。
次に、課長は苦笑いをしながら、自分が手に巻いているカシオのGショックを見せた。
「普段はこいつなんだ。だが、わたしも山田主幹のものよりは少し値段が落ちるものの、自宅にはオメガを置いてあるんだ。今度、腕にはめてくるよ。そのときは見てくれよ」
「そ、そうですか! ぜひ、一度、拝見したいですね」
大空は、幼いころは人見知りがひどくて、いつもひとりでいたが、年齢とともに重症ではなくなってきていた。中学を卒業するときには、受け身ではあるが、少しずつ周囲の人間に話を合わせて、その場を取り繕うようになった。
しばらく、課長との時計談議に花を咲かせて、うかれた気分で自分の席へと戻った。
若手職員も、課長と大空のやり取りを聞いていたようだ。
「山田主幹はオシャレですね。あとで見せてくださいよ」
と、はやし立てられた。
ああ、そうだな……、おきまりの受けごたえをした。
時計の話題はそれっきりだった。
若手職員たちはめいめいの仕事をする。
大空の浮かれた気分はすぐに沈下して、いつものように尻のすわりが悪くなってきた。
決して、椅子が悪いわけではない。
尻の左右のバランスが悪いのか、少し右に体重をかけてみた。右か、左か――。どちらに傾けても、解決しなかった。
気づくと、丸椅子を持参してきたのか、モアイ像が大空の隣で黙ったまますわっている。モアイとはもちろん大空の妄想だ。
社会人になって、それなりに周囲の人たちとの会話をこなすようになっても、今、自分がこうしていることが落ち着かない。それは子どものころから変わらない。
大空はモアイ像のことを知ってから、自分とモアイ像を重ねて考えるようになっていた。隣にはいつもモアイがいた。
( 続く )
いまだ大空の隣にはモアイがいた。長いつきあいになっています。




