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大空はついに洞穴の中に入る

一九九九年(平成十一年)の七の月が過ぎた。ノストラダムスへの予言通り地球が滅びることはなかった。

母が残していった『お壺さん』が家の床の間にポツンと寂しく立っている。

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 一九九九年(平成十一年)の七の月が過ぎて、落葉樹たちが紅や黄へと葉の色を変える季節となっていた。

 七月まで、世の中には、ノストラダムスへの不安を抱いていた人が数多くいた。もっとも半信半疑であったが。その人たちの期待? を裏切り、予言通り地球が滅びることはなかった。

 山田家では、母が残していった『お壺さん』が家の床の間にポツンと寂しく立っている。丸みを帯びた逆三角形で、ちょうどウエストがくびれた女性のような形をしている。薄い灰色がベースで、ところどころ墨を塗ったようなまだら模様が入る。

 大空は、柔らかな布を持ってきて、壺を磨いてみる。

 気のせいか、和室の照明を浴びて、生命が宿ったように光を放つ。

 肩を落としてひとつ息を吐くと、母がしていたように、壺を前に手を合わせた。

 母の人類の滅亡を見届けるという願い? はかなわなかった。

 六月半ばから、母は咳をするようになった。夢の里に訪問したさい、風邪をひいたかなと、介護士さんと話していた。ところが、月末に近づいたある日、急に体調が悪くなり、夢の里から救急車で市民病院まで運ばれた。大空の職場にも電話がかかってきて、病院へかけつけた。

 数日間、母は病院のベッドで苦しんだ。皮肉なことに六月三十日にこの世を去った。

 大空は、壺を前にして話しかける。

「母さん。今は、空で、父さんの星と並んで、ゆっくりしていますか?」

 目を閉じて、壺に手を合わせていると、磁力があるわけではないだろうに、壺に吸いよせられていくようだ。しばくは、ここから動けないだろう。

 母の趣味といったら、占いで、科学的にみたらおかしなことばかりをいっていた。でも、それは健康だったり、金運だったり、大空の恋愛だったりと、家族の間だけのもので、決して、人さまに迷惑をかけるものではなく、母は根っからの善人だった。そんな母は、最期までノストラダムスを信じて、逝った。

占いからくる母の言葉は、当てにならなかったので、大空の人生の指針を示してくれるものでもなかった。でも、母は大空の最高の理解者だった。

 目の前で、壺は光を放ち、胸の奥にジンワリと、寂しさとも温かさともつかぬ、いいあらわしがたい力を送ってくれる。

 葬式をすませ、これまで通り職場に通勤する毎日になっていたのだが、母が生きていたころと、変わってしまったことがあった。それは、大空の感情からすべての起伏が失われたことだ。職場においても、それ以外の場所においても、漫然と生きている。母がいなくなったという現実に、孤独の深い洞穴に閉じ込められていた。

 当然のことながら、オメガの腕時計を見ても、カシオのGショックと何ら変わらなかった。

 息をひそめ、目を閉じて、濁った泥水に潜るように、時間が過ぎていくのを待った。

 気がつけば、これまでかたわらにいて、大空を悩ませていたモアイ像がいなくなっていた。モアイ像すら、母といっしょに、大空の前から消えていた。

 モアイ像に例えた、職場での尻のすわりの悪ささえ、感じなくなってしまった。


 朝の目覚ましが鳴る。

 母が死んでからこの三か月間、睡眠時間が短くなっていた。このところ、起床時間の二時間前には目を覚まして、布団のなかで時計のベルが鳴るのを待っている。

 トーストとトマトジュースで簡単な朝食をとり、洗面台に向かって歯を磨き、電気カミソリでヒゲをそり、ヘアードライヤーで寝ぐせを直す。

 さて、出勤。

 マーチに乗って、三十分かけて、桜が丘海林事務所までゆく。部下のつくった書類をチェックする。細かい間違いを見つけては、付箋を貼って、部下へ差し戻す。

 最近は、大空のところへも、上司から付箋を貼られて、書類が戻ってくることが多い。自分ではしっかりと確認したつもりなのに、ミスだらけだ。

 苦情の電話もかかってくる。長々と続くので、つい黙り込んで返事をしないと、

「お前、おれのいうこと聞いてんのか! ボケナス」

 怒鳴られる。ひたすら電話口で謝る。

 大空は死んだように生きた。いや、死んだようにというのは少し違う。どう表現したらよいのか? 暗闇ではないが、小さな照明が灯るトンネルのなかを、力の失せた足で、意志を持たずにただ歩いている。そんな表現がふさわしい。まるで夢遊病者……。

 苦情の電話は続く。

「おい! お前、名前なんていった? 役職は?」

 いいたくない。躊躇してこたえるのが遅れた。怒鳴り声はさらに大きくなる。

「おい。電話をとるとき、最初に名前いっていただろう。おまえ、山田だろ! わかってんだ。役職は主幹で係長の上だろ。なに、黙ってんだ!」

 電話の相手もわかっているのなら、あらためて聞かないでほしい……。

 トンネルのなかで苦情が木霊のように響く。

 

 大空がつくづく思うことは、自分には父も母もいない、それに兄妹も……、天涯孤独だということだ。

 子どもが公園で喧嘩をしても、離れた場所から母親たちが見守っていてくれているような、後ろ盾のいる状況での、甘えが通じなくなってしまった。

 今にして思えば、居心地が悪い、なんだか違うんだよな、自分はモアイであるなどと、勝手なことをいっていたことが、いかに青い考えだったかと……。

 本人も意識しないところで、父や母から見守られているという、精神的支えがあったから、そんな甘っちょろいことがいえたのだ。

 モアイなんてのも、親離れできない、いい歳をしたおじさんが抱く、親への依存心が創りだした産物だった。

 四十四年間生きてきて、初めて、天涯孤独を知った。大空のモアイ像は押し倒され、ひとりで立ち上がる足腰も、精神力もなく、軽々と坂道を転げ落ちていった。

今は、モアイという相棒すらいない……。


          ( 続く )


大空 四十四歳 愛田県職員 孤独も極まる

さて、その先は

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