ひとり現実世界からずれた生活をする少年が成長した
幼いころからひとりでいたかった大空。名前からして悪いんだよ。
大きな空を飛ぶような男になれって、それは親の欲目。
名前負けした少年はあちこちぶつかりながら、年を経て、県職員として中堅の立場にいた。
もちろん女っけはなく独身。そこには年老いてゆく親の問題があった。
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幼い子どもを連れた主婦が、公園や道端で立ち話をすると、必ず誰かが『大空』の名前のことに触れた。至極当然なことだった。
一九五五年(昭和三十年)当時の男の子の名前は、一般に一文字なら隆、誠、茂、修、博、清、勉などの、当時のオーソドックスな名前で、二文字なら浩一とか博之とか雅之とかそんなものだった。
両親の強い思いを込めてつけられた、子どもへの名前『大空』は、世間一般の名前からしたら変わっていて、近所の主婦たちに必ずこういわれた。
「あら、あなたのところのお子さんの名前、ずいぶんと凝っているのね」
幼い大空は、そのたびに母親の陰に隠れた。頬を膨らませながら、母親のブラウスの裾をつかんで、名前の話題が過ぎ去るまで縮こまった。
ちなみに、大空の苗字のほうは、山田といたって平凡だ。
母親はそんな子どもの気持ちなど知らず、いつも嬉しそうにこたえるのだった。
「そうでしょ。うちの子には将来、大きな空にはばたくように、輝いて生きてほしいのよ。うちの亭主と二人で、練りに練って考えたのよ」
神武景気と呼ばれた、高度経済成長期の昭和三十年は電気洗濯機、電気冷蔵庫、テレビが三種の神器といわれた。そんな時代に生をうけた息子に、両親は、鳥が空高く飛んで輝くように、それこそ日本経済を支えるべく、働いてほしいという願いをこめた。
それが『大空』という気宇壮大な名前の由来だ。
名前にこめられた両親の思いはありがたいのだが、当の本人にとっては有難迷惑であった。
なぜ、当時の父と母が、息子の名前に、そこまでの大きな思いをこめたのか?
そこには、父と母との、若いころの生活が影響しているのかもしれない。
大正生まれの父は、貧乏があたりまえの当時、義務教育だった尋常小学校しか出ていなかった。母のほうは昭和初期生まれで、父よりは教育を受けていたものの、高等女学校しか出ていなかった。
父は戦争によるシベリアでの捕虜生活の後、日本に帰国して、大手の化学工場で働くも、学歴がないため、たいした役職にはつけなかった。それでも、一生懸命に定年まで勤めた。いっぽうの母は、主に専業主婦で節約しながら、時にパートをして家庭を守った。
そんな時代に生きてきた二人にとっては、学歴があり、出世する人間は雲の上の存在だったのだろう。身近なところでは、大空が通う小学校の教員のことなどは、教養があって、雲のうえの存在だと崇めていた。
混乱の時代を生き延びて、つつましやかに暮らす父と母が、子どもの将来を夢見て、自分たちとは違って、大きく羽ばたく人生を歩んで欲しいと思うのは至極当然かもしれない。
両親の、子どもの将来にかける思いを、否定するつもりはない。
だが、成長期の日本経済を駆け上れというような名前が、大空の人生に少なからず、マイナスとなったのは確かだ。
なぜなら、親の意向とは裏腹に、幼いころから大空の歩みは、鳥が空高く飛ぶような輝かしいものではなく、逆に人の陰に隠れて地をはうような暗いものだったからだ。
はじまりは小学校、いや幼稚園だっただろうか。大空はすでに名前の重圧に負けていた。
周りの子どもたちが、地上の生活でよいのに、なぜ自分だけが空まで高く飛ばなければならないのだ、と悩んでいた。人生のスタートラインで、周りの子どもたちにはない苦しみを背負っていた。
幼いころを起点として、その先の人生において、人から自分の名前に触れられることがいやで、引っ込み思案にもなり、いつも隠れるように生きてきた。
かといって、名前が原因のすべてだったとはいわない。
世の中には、大空より変わった名前を持つ人も、数多くいると思う。その人がみな、引っ込み思案になるかといえばそうではない。
真逆に、
「どうだ、名前が変わっているだろう。おれのことを憶えておいてくれ」
と、世の中を渡っていくための、ツールとして生きている人もいる。
大空の場合、名前にくわえて、持って生まれた性格も災いしていた。特に幼いころは、家の外ではほとんど話さなかった。引っ込み思案で人に話しかけることができなかった。
話しかけられたときだけ、少ない言葉で返していた。だから友人も少なかった。
近所の、母ぐるみでつき合いのある、子どもたちとは友人になれたが、それ以外ではさっぱりだった。
小学校に入ると、幼馴染の近所の友人たちは、クラスのなかで自然と輪を広げ、大勢のなかに溶け込んでいくのだが、大空は幼児のときのまま、人に話しかけることができなかった。
だから、母ぐるみでつくった友人がいないときは、集団のなかでひとりぼっちになった。
学年が上がるとともに、幼いころからの、母ぐるみの友人はあちらこちらに他の友人をつくり、そちらのグループで行動するようになった。取り残された大空は、ひとりになる時間がますます増えていく。
例外として、同級生の美香という女の子がいた。たまたま家が隣どうしであったため、顔を見たら話すという間柄で、なんだかんだ途切れることがなかった。
だが、美香は異性であることが問題だった。子どもたちは幼いころから、同性で群れをなすのが一般だから、彼女も年齢があがるにつれて、大空と行動することはなくなっていった。
結局、隣人でありながら、唯一の話し相手である美香とも、一定の距離をおく関係となり、たまに見かけて話をする程度になった。
大空はどこにいても、ひとりだと感じているから、同級生たちと教室などにいることが妙に落ち着かなかった。居心地が悪いことから、今いる場所が自分のいる場所ではない、と思ってしまうのだ。
父にも母にもいわなかったが、ひとり言でこんなことを愚痴っていた。
「なんで、ぼくはみんなと一緒にいて、同じことを教わらなければならないの? 早くひとりになりたい。ひとりで好きなことをしていたい」
そうなると、集団のなかに入って、何かを身につけるということもしなくなってゆく。
親に勧められて、通い出した書道、絵画、算盤の塾などは長続きしなかった。同じ年代の子どもたちといっしょの塾に通うのが嫌だった。塾で習う内容に興味がもてるかどうかよりも、同級生たちと並んでいるのが、ひどく居心地が悪かった。
子どものころから、ひとりが好きな性格だったのだが、幸か不幸か、大空の時代には引きこもりという言葉がなかった。少なくとも大空は当時、そのような言葉を聞いたことがなかった。昔は現代とは時代が違ったのだろう。
特に両親が子どもだったころは、社会も家も貧しく、学校にいかせてくれるだけで、ありがたいと思う時代だった。日本は今の時代と比べると、貧乏だったし、生きていくうえにもいろんな選択肢がなかった。
だから大空もその延長線上にいて、両親の意識を多少なりとも引き継いでいたのだろう。
たとえ居心地が悪くても、国民が義務とする学校にだけは出るものだと思っていた。当時の子どもたちは、学校にいくことに何の疑いももたなかった。
端っこにいても、いつも地域の集団登校には遅れることなくくっついていった。よっぽどの重病でない限り、学校を休むことはなかった。小学校と中学校は、風邪で一日か二日、熱を出して休んだきりで、それさえなければ皆勤賞ももらっていたことだろう。
学校に通うということは、大空のなかでは、人生のオプションである塾に通うこととは区別されていたようだ。それは中学、高校と学年が上がっても同じで、不思議と学校にだけは登校するものだと思っていた。
そんな大空は、つまずきながらも生きてきた。大学を卒業して、就職もしていた。平成に入って三十歳も後半になろうとしたとき、たまたまテレビを観て、イースター島のモアイ像のことを知る。日本の某会社が、倒れたモアイ像を重機で立て直していたのだ。
テレビでモアイ像を観た瞬間、
「これは!」
と強烈に眼球の奥に焼きついた。
映像は消えても、モアイ像の不愛想で、不器用そうな姿かたちは記憶にくっきりと残った。
大空がテレビで知ったのち、モアイ像は世界遺産となり、日の目を見ることになる。
一九九五年(平成七年)、大空がちょうど四十歳のとき、世界遺産のカラー図鑑にも掲載されるようになり、さっそく冊子を買い求めた。
モアイ像の写真のなかで、特に目を引いたものは、一ダースほどの像が並んで、立っている写真だ。
像といっても、細長い岩の塊に、気休め程度に顔やら腕が彫られているものだ。背の高さは、三から四メートルほどで、何体も整列している。
顔は全員まっすぐ前を見て、仏頂面で隣の像など気にもかけていない。内心は気になっているのかもしれないが、あえて知らんふりをしている。
大空は時間があると、モアイ像の写真を見て、そのたびに
「なんだか他人に思えない」
と思って、ため息をついた。
写真のなかのすべてのモアイ像が、各々の感情を隠し、隣から、干渉されるのは嫌だといっている。
また、手抜きではないかと思えるのだが、像の胴体の下に、足があるのかないのか、よく分からない。そのため、見るからに不安定で、今にも転がりそうだ。
モアイ像の数は八百体以上あり、倒れっぱなしであった。重機で少しずつ立て直しても、かなりの時間を要する。いまだ倒れている像もあるそうだ。
大空は、名前のせいばかりではないだろうが、幼いころより、目立たぬように、感情を隠しながら生きてきた。もちろんのこと、他人と関わりたくないと思った。
そんな大空は、自分に自信が持てず、足元はいつも不安定で、どこにいても落ち着かなかった。集団のなかにいると、常に居心地が悪いと感じて、そのなかで生き方に自信を持つこともできなかった。
大空は自分のことを、モアイ像だと思うようになった。
自分が、写真のなかに並んでいる、モアイ像のひとつなのだと思う。
ただ、大空にとって幸運だったのは、モアイ像を知ったのが三十台後半という、それなりの年齢になっていたことだ。
もし、幼いころから、モアイ像のことを知っていたら、他の多くの小さな男の子が、自分はウルトラマンだ、仮面ライダーだと変身ポーズをとる代わりに大空は、
「ぼくはモアイだ」
と、誰も見ていない物陰で、ひとりでモアイのポーズをとって固まっていたかもしれない。突っ立ったままで、両手を脚の横にあて、口を真一文字にして、仰ぐように遠くをひたすら見る――。
(続く)
彼の人生はつまづきながらも、ここまで来た。これからもすんなりとはいなかいでしょう。
まあ、周りの人も温かな目でみてやってください。
もっとも本人は周りの目から逃れようとしている。