とある伯爵子息の受難
本日の更新は幕間の更新となります。本編の更新はもう少々お待ちください。
息が苦しい。
視界が歪んで、肺は今にも破れてしまいそうだ。
振る手の感触も、地を踏む足の感覚も感じなくなってきた。
ただ走っている。どう走っているのかもわからないまま走っている。
それでも走らなければ。足を、手を前に。体を押し出すように。
走らなければならないのだ。でなければ――奴が、奴が来る。
「お疲れ様です、ナヴル様! 追い抜きましたのであと1周追加です!」
「あぁぁああああああああああーーーーーーーっ!?」
そして彼は、倒れた。
何故、こんな事になったのか。
それはナヴル・スプラウトに起きた身の出来事を語らなければならないだろう。
* * *
ナヴル・スプラウト。スプラウト伯爵家に生まれた息子であり、誉れ高き近衛騎士団の騎士団長を務める父、マシュー・スプラウトを持つ。
性格は正義感に溢れ、義理人情に厚い。物腰も柔らかく、理想の騎士となるべく邁進してきた青年である。
しかし、そんな彼の明るい未来は国を揺るがす大きな事件に関わった事で捩じ曲がってしまった。
それは次期王位継承者であったアルガルド・ボナ・パレッティア王子と、その婚約者であったユフィリア・マゼンタ公爵令嬢の婚約破棄騒動であった。
その発端となったのは冷え切った2人の関係と、そんな2人の関係に波紋を投げ入れたレイニ・シアン男爵令嬢の存在であった。
その特殊な出自からアルガルドに何かと気にかけられていたレイニ、そんなレイニに嫉妬したユフィリアがレイニに陰湿なイジメや企てを仕向けたという話が上がったのだ。
誰もが口を揃えて証言し、ユフィリアの罪を弾劾せよとアルガルドを中心とした貴族子息達は結束した。そして、アルガルドによる弾劾が行われたあの日からその運命は大きく狂っていたのだろう。
運命を狂わせたのは、この国で知らぬ者はいないであろう“キテレツ王女”、アニスフィア・ウィン・パレッティアその人である。
彼女が弾劾の場からユフィリアを連れ去り、今回の事態を耳にいれた国王陛下によって此度の一件は箝口令が敷かれる事となった。
ナヴルはこの一件において、アルガルドと共にユフィリアを弾劾した中心的な一派の1人として認識されている。それは本人も同じ認識だ。
それが、心惹かれていたレイニの為になる事だと思い込んでいた。
しかしそれによって起きた様々な出来事はナヴルの心に影を落とした。
アニスフィアの指摘で己の迂闊さを知り、そしてアルガルドがアニスフィアの抹殺を企み、継承権が奪われた事。そこにシャルトルーズ家の陰謀が絡んでいた事。
ナヴルの受けた衝撃は生半可なものではなく、自分のあまりの愚かしさに心が折れてしまった。
日々、何をする訳でもない。学院に戻る気概も、過ちを償おうと行動も出来ない。ただ日々が無為に過ぎていく。
いっそ領地に戻ってしまった方が良いのではないか。そんな囁きすら聞こえて来る。それもいいかと思って、ナヴルはただ父の決定を待つばかりだった。
――そんな時だった、“奴”が現れたのは。
ガーク・ランプ。辺境騎士団に属する騎士の息子であり、そこから何故か辺境ではなく近衛騎士団の入団を望んだ一風変わった相手だった。
顔を合わせた事はあったが、言葉を交わした訳ではない。そんな彼が訪ねて来たのはナヴルを心配してとの事だった。
正直、ナヴルにとって煩わしいと思うばかりであった。対応も棘があっただろう。それに懲りて帰ってくれれば良いと思っていたのだが……。
『ナヴル様! 体を! 鍛えましょう!』
何故、そうなった。
幾ら思い出しても、自分が納得出来る根拠がない。
押し切られたと言えばそうなのだが、どうやって押し切られたのかがわからない。
ガークは弁が立つ訳ではない。むしろ口下手だと思う程だ。言動はいちいち真っ直ぐで疑うのも馬鹿らしい。
ただ本心で心配して、体を鍛える事が正解だと信じ、そして何故か自分が乗っかってしまっている。
ナヴルは恐怖した。しかし、幾ら逃げようと思っても奴はどこからともなく現れる。夢にガークの顔を見た時、ナヴルは自分が狂ったのではないかと己の正気を疑った。
そしてナヴルは考える事を止め、今に至る。
ガークと周回遅れをつけられる度にランニングコースの周回回数が増えていく。なのでガークに追いつかれる前にゴールをしなければならない。
ようやくガークに抜かれる前にランニングの周回をこなしたナヴルは爆発しそうな心臓を落ち着かせながら肩で息をしていた。油断をすれば吐いてしまいそうだった。
「お疲れ様です! ナヴル様!」
「……君は、なんで、そんな……元気、なんだ……」
汗こそかいてるものの、ガークはまだまだ余裕という顔をしていた。開いてるのかどうかもわからない瞳、そして浮かべる満面の笑みは愛嬌があるように見える。
必死に呼吸を落ち着かせながらナヴルは空を見上げた。足を止めればそよぐ風が心地良く感じる。思わず風の感触に目を細める。
「休憩したら模擬戦ですね!」
「……ソウダナ」
最早抗議する気力も無くなってナヴルは頷く。
体力を作って、合わせ稽古をして、そしてよく食べて、よく眠る。ただそれだけだ。
ただそれだけなのだが、中身は地獄に等しい。ガーク規準で行われる特訓はナヴルの精神を粉々に打ち砕いた。
これは騎士として一般的な運動量なのかと父の部下である騎士達に尋ねたら、全員が目を逸らして首を左右に振っていた。そして次々と憐れみと共に肩を叩いていった時、ナヴルは挫けそうになった。
そんな記憶を思い返しながらも、フラフラと立ち上がりながらナヴルの体は、自然と次の稽古へと向かっている。
それに気付いた時、ナヴルは恐怖した。体の方が先に慣れてしまっていると。それでも今更か、と一瞬のうちに切り捨てて、模擬剣を構えてガークと向かい合う。
「それじゃあ始めましょうか、ナヴル様!」
「……あぁ」
そして始まる模擬戦は、驚く程に静かだった。
動作は遅いと言っても良い。ガークの動きは目で追える速度だ。そしてその剣筋も力を込めているのかどうか。
しっかりと目で追い、それを合わせるように“受け止める”。そうすればガークは剣を引き、別の角度から剣筋を描く。
かん、こん、と。気が抜けてしまいそうな程、静かな音がなる稽古だ。それでもナヴルの顔は真剣そのものだ。いつの間にか疲労も不満も顔に出すこと無く、ナヴルはガークの剣筋を追う。
「おっ、ちょっと速くなりましたね。ペース上げましょうか?」
「……好きにしてくれ。勝手に合わせるのはそっちだろ?」
「じゃ、どんどんどうぞ」
ナヴルが眉を寄せて告げれば、ガークは僅かに口の端を持ち上げるように笑う。
ゆっくりと息を吐き出す。次にナヴルが振り抜いた剣閃は明らかに速度を増し、ガークに迫る。
危なげなくガークがナヴルの剣に合わせて、剣を弾く。そうして始まる切り結びは先程までとは段違いに速度を上げていく。
一合、一合、また一合。音は激しく、動きは軽やかに。攻め手はナヴルで、受け手はガーク。傍目から見れば両者の違いがはっきりとわかるだろう。
「お、ぉぉおおおっ!!」
ナヴルは必死の形相で模擬剣を振るう。弾かれ続ける剣を勢いを殺さぬようにガークへと叩き付け続ける。
それに対してガークは微動だにしない。正確に言えば踏みしめた足が地を離れる事はない。ナヴルの全身全霊の一撃を軽い手首のスナップや最小限の動きで捌いていくのだ。
まるで大きな壁、しかし打ち付ければしなやかに力を逃される。力の使いこなし、そして最小限の力で最大の力を受け流す為の地力の高さ。何度感じてもナヴルは舌を巻いていた。
(剣の扱いなら多少の自信はあったが……今では粉々だな)
ガークの剣筋は真っ直ぐだ。だが無骨ではない。しなやかで、それでいて力強い。
その力強さは叩き伏せる為の力ではない。“斬る”、“弾く”、“流す”。この基本的な動作を最小限の、そして最大限の力で効率的に捻り出す。
どんな体勢であろうと、どんな状況であろうと、己の力を無駄なく引き出すのがガークの剣だった。それをナヴルは……嫉妬と共に美しいと感じてしまった。
本人の才能もあるのだろう。だが、その印象すら埋没させるだけの修練が彼の剣にある。ただ愚直に鍛え、練り上げ続けた。年も自分よりもそう変わらない。なのにここまで練り上げる事が出来たのか、と素直な驚きを覚える。だからこそ、嫉妬してしまう。
――何故、そうも修練を重ねる事が出来たんだ?
そう問いかけたナヴルに、ガークはどこか恥ずかしそうに頭を掻きながら答えた。
『昔、アニスフィア様にボロ負けした事あるんすよ。俺は魔法はそんなに得意じゃないですし、頭だって良くないですから。だから体張ってる事しか誇れなくて、王女様が遊びで首突っ込んで欲しくなくて喧嘩売って、散々でしたよ』
本当に今でも最大の汚点です、と言うガークはそれでも何故か誇らしげで。
『その後、本来は演習だったのが本当に魔物が出て、同行したアニスフィア様は当然の如く大活躍です。俺はビビって震えてろくな活躍も出来なかったんですけど……目を逸らさないでよく闘った、って褒められたんすよ。見込みがあるって』
昔を懐かしむように手を空に翳すようにして、ガークはこう続けた。
『じゃあやるしかねぇって。俺は頭も良くなくて、魔法も得意じゃない。あるのはこの体と褒められた目だけです。だから目を逸らさず、出来る事をまず鍛えよう。そう思ったんです。アニスフィア王女は魔法も普通には使えない訳で、負けてられねぇ! って』
それが体を鍛える事に繋がった。基礎体力の向上と、日々の訓練に観察を取り入れた。
相手がどう動くのか、その時に対処する最適な動きはどうなのか。見て、覚えて、倣って、繰り返す。違和感があれば突き詰め、修正する。無駄があれば削ぎ落としていく。ただそれだけを愚直に繰り返してきたと。
だからガークのスタイルは生み出された。正直、魔法無しではナヴルはガークには勝てない。魔法があってもガークの間合いでは真っ向勝負でも勝てない。そしてガークは勝つ為の状況をじっと堪えて引き寄せようとする。
その姿勢が、その在り方が、どうしようもなくナヴルにとって妬ましいものに映った。
『……俺は、弱い』
『強くなろうと思ったら、その時点で誰でも弱いですよ! 弱いと思うのが正しいです! じゃないと強くなろうなんて思いませんよ、いや、ただ強くなりたい奴もいると思いますけど! まぁ、とにかくそこからが始まりなんでしょう』
『始まり?』
『強くなりたいならなればいいんですよ! それだけの話です!』
なりたいと思ったのなら、なれば良い。あっさりと軽く言われた言葉にナヴルは呆気に取られて、そして心の中に淀んでいたものが取り払われるような気持ちになった。
そして、だからこそ燃え上がった。脈を打つのは羞恥心だ、こんな無様に転がって、負けて誰かを羨んでばかりの自分が恥ずかしくなったのだ。
強くなろう。
再びそう思えば、震える足に力が篭もった。
何度倒れて吐きそうになっても、限界が来てもう止めたくなっても、そこを越えてもまだこの思いが残り続けるように。
どうしてこんな事になったのか。――それは自分が弱かったから。
こんなにも辛いのに続けるのか。――それでもと言い続ける為に。
恥じる自分を越えるには、ただ我武者羅になって進む事しか出来ない。
何も考えられなくなるほどに追い込んで、その苦しさを抱えながらも前へ。
自分の剣はガークに届く事はない。ガークの体勢を崩すことは叶わない。
だが、いつか。いつか必ず、そんな思いが心中で燃えさかる。
「はい、隙あり」
「ぐぅ――!」
かん、と手首を打たれて模擬剣を落としてしまうナヴル。ナヴルの首筋に模擬剣を当てて、ガークは快活に笑みを浮かべる。
憎たらしく思ってしまいそうな笑顔を見て、ナヴルはちくしょう、と呟いて勢い良くその場に大の字で倒れ込んだ。
「……悔しいな」
「えぇ。じゃあ、また次頑張りましょう」
「いつか、この戦績を引っ繰り返すからな」
「魔法ありだと俺、勝つのしんどいんですから……」
「それじゃあ意味がないだろ!」
「じゃあ、もっと体力つけないとですね」
俺、まだ余裕ですから。
そう歯を見せて笑うガークにナヴルは睨み付けるように視線を送って、しかし悪い気はしなかった。
この道が自分の恥を雪ぐ道なのかはわからない。ただ、標も見えないのなら我武者羅に走ってみても良いのかもしれない。それが遠回りな道だとしても。今は、前へ、前へ。
「……強くなりたいな」
そして次の日、ナヴルはガークに周回差をつけられて多く走る事となり、やはり地を舐める事になるのだった。
彼の再起の道は、まだ遠い。
副題「地獄のガッくんズブートキャンプ ~諦めは努力で忘れられる~」




