第76話:黎明の蒼穹に虹をかけて(2)
「――ライラナァッ!」
木々を掻き分け、ライラナの背を追うように森を飛翔する。速度では私の方が早い、ライラナは濃い血の匂いを漂わせているし、彼女の気配は独特だ。
何より彼女を恐れるかのように他の動物の気配も薄く、ライラナを追うのは容易なことだった。
私が追いついてきた気配を察してキメラを差し向けてくることもあるけれど、ハッキリ言って足止めにもならない。
さっきまでならキメラをばらまこうものならその対処をしようとしていたかもしれないけれど、私はライラナを止めると決めた。だから例え、キメラがもう一度アルくんたちの所に行こうとも足を止めるつもりはない。
そして、森の中にある小高い山の上。そこでライラナは足を止めた。そこは言うなればパレッティア王国側の森とカンバス王国側の森を隔てる境界線とも言えた。
その境界線を挟むようにして私たちは見つめ合う格好となる。ライラナはただジッと私に視線を向けていた。……最初目にした時、興奮した彼女は理解し難い怪物のように見えていた。
でも、今のライラナはただ静かな空気を纏っていた。その背の異形の翼に目を瞑れば聖女と言われても頷いてしまいそうな程だった。
「……何故でしょうね」
ぽつりとライラナは声を漏らす。その真紅の瞳は切なそうに私を見つめている。
「どうして貴方は私を追ってきたのでしょう。あんなに大事に思っている人たちが傷つくかもしれないのに私を追ってきたのは……貴方らしくないと思います」
「……私らしいって言える程、貴方は私の事を知らないよ」
「そうかもしれません。……だから、私たちは別の生き物なんでしょう。こんなに似ているのに、こんなにも近くにいるのに、私たちの距離はどうしようもなく隔たれています」
ライラナの言葉に私は一度、目を閉じて胸に手を当ててしまった。
私たちは別の生き物なのに、こんなにも似ていて、声だって届くのにわかり合えない。
「……さっき、ライラナが私らしくないって言ったのは、本当は当たってるよ」
目を開いてライラナと真正面から向き合いながら私は、さっきは否定した言葉を改めて肯定し直した。
「でも、だからこそ私たちは異なっているんだ。ライラナにはなくて、私にはあった。ただそれだけのことなのかもしれない。別の生き物だから、なんて理由は大事なんじゃなくて……育った環境が違うんだ」
「環境……」
「自分らしくあることが常に正解なんじゃない。時には自分らしくないことだってしないといけない時もある。私はそれを知っているし、ライラナにはそうする必要がなかった」
「……理解出来ませんね。自分らしくない生き様で一体、何が掴めると? そうして得た成果で貴方は本当に満足なんですか?」
「その答えを求める段階でライラナ、私は君を残念に思ってしまう。それが貴方の限界なんだ。貴方が一人だから、貴方は自分らしくある事しか正解を見いだせない。だから貴方には未来がないんだ」
過去しかない、と私が断言したようにライラナは今ある苦しみを昇華することでしか理想郷を作れない。それは一つの幸せの形ではあるけれど、その幸せを唯一と受け入れてしまえばもうどこにも進めなくなってしまう。
だから自分の信じる理想でしか世界を救えないと思っているライラナには、世界は救えても未来を見出すことは出来ない。それは完結するということ。人が人であることを終えてしまう世界だ。
ライラナはその受け皿になることが出来る。それだけの力と器も備えている。でも、だからこそ私はその在り方に思いを馳せてしまう。
「……パレッティア王国の王族として、私は貴方に憎まれても仕方ないと思ってる。貴方がその考えに至ったのは元を辿っていけばパレッティア王国に行き着く。私は国を背負う王族として、貴方の思いを受け止めなきゃいけない」
「……憎む、とは違うかもしれませんね」
ぽつりと、虚しく呟くようにライラナが吐き捨てた。
「いいえ、そもそも憎しみなど私にはありません。私にあるのは憤りです。何故、私たちはこんなにも不完全なのか。完全なものになれば皆が救われるのに、貴方は私の理想を否定する。それを正しいと認めながらも、それでも認められないと言う。矛盾、あぁ、とんだ矛盾です。一体どこに辿り着けば良いと言うのですか」
「……辿り着かなくて良いんじゃないかな?」
「辿り着かなくても良い……?」
「自分で決められる旅の終わりは、あくまで自分の分だけだ。他人の旅路まで決めるから終わらなきゃ、って思うのかもしれない。でも、自分だけならどこまで進むか決めて良い。例え、この先私の旅が終わっても人の旅は終わらない。人が滅びるその日まで」
「貴方が滅ぶまで、人が滅びないと? 今や、美しきものに成り果てた貴方が?」
「滅びない。滅ぼさせない。人の輝きが絶えるなんて、私は信じない」
だから私はライラナを追って来れた。ただ庇護するのではなくて、共に歩む為に。私は私の出来ることを、皆は皆が出来ることを。そうして世界は巡って行く。出会いも、別離もきっと増えていく。喜びも、悲しみも、その分だけ増えていく。
その先にきっと今以上の未来がある。私はそうだと信じている。だから世界をここで終わらせない。閉じさせなんかしない。
だってこの世界は、まだ空にだって手を伸ばしたばかりだ。海だって魔物が満ち溢れる世界では未踏の領域。宇宙なんて夢のまた夢だ。でも、私は知っている。人はその領域にまで手をかけられる。
まだこの世界の可能性は、旅路の果ては決められてなんかいない。今は小さな可能性でも、それは見上げれば確かに輝いている星のように私たちを惹き付けて止まない筈だと私は信じてる。
「空にあるのが月だけなら……夜空は、凄く寂しくないかな? ライラナ」
「……いいえ、例え私が月だけの夜空に成り果てても、星は私の腕の中に」
私の乞い願うような言葉に、ライラナは決然とした表情を浮かべて胸に手を添えた。
そこには狂おしい程の執着があった。しかし、それが狂気よりも尚、研ぎ澄まされたものへと変わった気がする。それは狂気にも勝る――意思の光。
「私たちは人の幸福を願い、こんなに共感も出来るのに懸け離れている。ただ憧れたものが違う、たったそれだけの違いなのかもしれない。でも、それは絶望的なまでに私たちを隔てている」
「ライラナ……」
「私は果てのない旅路なんて認められない。貴方は人の可能性を信じているのかもしれない。でも、私は人の弱さを知っています。その祈りに全ての人が耐えられる訳じゃない。貴方が言うように私の望む世界は閉ざされているのかもしれません。貴方と見比べることでようやく私の願いの形も定まりました」
「……貴方の願いは、何?」
私の問いに、ライラナは笑みを浮かべた。慈母の如き優しさを含んだ聖女の笑みを浮かべて、彼女は残酷なまでに私と理解し合えない願いを口にした。
「世界を眠らせます。もうこれ以上の悲しみが増えないように、それは貴方の言うように今を生きる者にとっての死であろうとも、進み続ける世界に私たちが傷ついてしまわないように、全てを幸福の微睡みの揺り籠へ私は誘いましょう」
「……どうしても?」
「貴方は空を諦められますか?」
「……無理だね」
「はい。無理です」
こんなにも響き合うように私たちの形は似ているのに、私たちの向かう場所は正反対だ。
「……例えばさ、人が歩むことに疲れてしまったら、その時だけ休ませてくれるような、そんな一時の夢であれば私たちは一緒に歩めないのかな?」
「貴方は可能性だから、そう言うことが出来るのでしょう。そして私は不可能だから、貴方にこう返すことしか出来ないのでしょう。――私は、この世の苦しみを許せそうにありません」
「妥協は出来ないんだね」
「融通が利かないんですよ。生と死なんて、そういうものでしょう?」
私が生者で、ライラナが死者だと。彼女は笑って決別する私たちの関係を謳った。
生きていれば、明日には何か変わるかもしれない。そんな可能性が残されている。
死んでしまえば、明日に恐れる必要はなくなる。そんな絶対が待ってくれている。
「私は、多くの人を殺めてしまったようです」
「……ライラナ?」
「貴方がいたから知った。貴方も幸せで、私も幸せで。それは比べてもどうしようもない。人に選ばせてあげるべきだからこそ、私のやったことは貴方の言うように独りよがりのワガママなのでしょう」
「だったら――!」
「――いいえ、それでも間違いだとは思いません。生き続けて苦しむならば、終わらせてあげましょう。幸いなる永遠を与えてあげましょう。それが先のない退廃の夢だとしても、可能性を奪う代わりに永遠の苦痛のない眠りを私は果たしてみせる。それが永遠を追い求めて、奪うことでしか答えを出せなかった祖先から続く宿痾に対しての私の贖いです」
「その贖罪は終わらない! 可能性を奪う罪と屍が増え続けるだけで、貴方はずっと許されない!」
「えぇ、そうですね。だから、永遠って素敵ですね。私が罪を負い、償い続けるだけで誰かが幸せに微睡んでくれているなら――私はそれで良い」
「……この、分からず屋ぁッ!!」
そこまで覚悟を決めたなら、もう私の言葉は通らない。砂粒ぐらいの可能性しかなくても、私たちは一緒に歩める可能性があった。
その可能性をライラナは己の意思で埋葬した。彼女はまるで墓守だ。世界を墓標で埋め尽くして、死を看取るまで終わらない。生を認められない故に、彼女は屍と罪を永遠に増やしていく。
永遠の生を望んだヴァンパイアの行き着く果てが、永遠の為の死を望むなんて馬鹿げてる。そんな願い、捨ててしまえば良い。償いなんて幾らでも方法があるのに、世界なんて終わらせなくたって良いのに。
そんな願いがもう届かないなら――私たちは敵対することでしか向き合えない。
「貴方は降伏しろと、私に言いましたね」
「……貴方じゃ私には勝てないよ。ヴァンパイアの再生力だけじゃ――」
「――ヴァンパイアが、怪物であることだけが長所だと思いましたか?」
ライラナが指揮者のように指を振るうと、その指から光の残光が尾を引いていく。
そして、その光がどんどんと光量を増していき魔法陣を描く。その魔法陣が光球へと変わるように回転したのを見て、私は目を見開いた。
「まさか、それは――ッ!」
「〝精霊顕現〟、お見事でした。流石は魔法使いの辿り着くべき正道なる極致。私たちヴァンパイアはその対策に腐心しました。それこそが精霊を糧とする魔石の力を拡大し、自分たちを精霊の天敵へと昇華させること。ですが、精霊に頼らぬ貴方には無意味でした。ならば今一度、正道へと回帰しましょう。その道が、王道ならぬ邪道であっても! その道も貴方たちが示した! 〝魔石〟と〝魔法〟は――融合する!」
光球が罅割れ、中から歪な異形が姿を現す。月明かりに照らされているのに、その光すらも呑み込んでしまう、闇のようなモヤで蛇体が形成された多頭の巨蛇。
蛇としての頭部だけがくっきりと実体らしき輪郭を保っていて、その瞳はヴァンパイアの瞳のように真紅の光が怪しく炎のように揺らめいている。
「〝精霊顕現〟から取って〝魔性顕現〟とでも呼びましょうか。さぁ、貴方に名前を与えましょう。貴方は私のしもべ、世界を喰らい呑む大いなる蛇、その名をヨルムンガンド。――この世界の希望を呑み込みなさい!」




