亡き王女のためのパヴァーヌ
夜が深まった。時計の針が、今日一度目の回転を始める。
採光できるのは、群青の空に散らばる星と、場違いなほどにぽっかりと浮かんだ満月からのみだ。部屋の片隅がほのかに照らされる。ほぼ完全な暗闇に満たされた室内に流れるクラシックは、学習用とは名ばかりの大きな机の上に置かれた旧式のポータブルCDプレーヤーが奏でている。安物のスピーカーから出力されるひずんだピアノの音。ゆっくりゆっくりとした、子守唄のような音色。
部屋の中心にある肘掛椅子。一年前、大学入学と同時に購入したそれに座って、僕はひとり、両まぶたを下ろす。
呼吸数、脈拍数の低下。同時に、生きていると、いつも付きまとう対人関係には必要不可欠な『感情』が静かに凍りついていく。死に近づいていくようだ。死ぬと、一応あるにはあるのだが、感情が希薄になるようだから、それはあながち間違いではないのかもしれない。
椅子の背もたれに首を預け、天井を見上げる。暗闇が上に沈殿している。奇妙な表現だが、まさにそのように、黒が頭上で停滞していた。
とまっていたい。このまま、ずっと沈み込むように意識を失くして、動かなくなりたかった。
単純に、停止しているものがうらやましかった。
僕は何も望んでいない。何も望んでいない。
なのに、あらゆる環境、情勢が背中を押し、さっさと時間の流れに乗ってしまえと耳元で叫ぶ。世界は狂っていると思った。
ふざけるな。まぶたの裏に浮かんでは消える、家族や友人、多くの人の失望したような顔に僕は吐き捨てていた。ほっといてくれ。
考える時間をもたらす、長い長い夜に憎しみをたぎらせていた季節のある夜。
――とまってしまえばいい。
そう言ってくれる彼女に出会った。
血の甘ったるいような、鉄錆のような匂いが鼻先をくすぐる。ゆっくりと目を開くと、はじめて出会った夜と同じような光景が広がっていた。
血まみれの制服姿の女子高生が、窓から見える丸い月を見上げている。彼女の姿を見るのはこれで何度目になるのだろうか。形の良い唇が動く。
――はじめて死について考えたのはいつ?
声は聞こえない。いつもそうだった。僕と彼女は世界の仕組みによって断絶されている。それでも、僕は彼女の唇の動きを読み取り、答える。黒く長い髪、端正な白い横顔を見ながら。
「さあ、覚えてない」
――わたしは四歳のときだったわ。飼っていた犬が病気で死んだの。それがきっかけだったかもしれない。
僕の声のほうは彼女には聞こえているようなのだが、彼女は、あいかわらず無表情に、まるで独り言のようにつぶやく。あるいは、彼女にとっては本当に独白のつもりなのかもしれない。
――その日の夜から、死ぬのが怖くなった。人が死ぬのも、自分が死ぬのも。
「ああ、それは大変だったね」
あいづちを打ちながら、僕は、左手首のしびれるような痛みに顔をしかめる。彼女は気づかうような視線を向けながらも言葉を続ける。
――でも、死んでみると案外なんでもなかった。でも、未練はないはずなのに、こうしてあなたのところに来られるのは不思議よ。
毎夜あらわれる彼女が何者なのか、そんなことはどうでもよかったが、なぜ血まみれのセーラー服姿なのかという点については興味があった。以前、好奇心の赴くままに訊ねてみると、
――ああ、わたし、殺されたの。刺殺。犯人は捕まってないそうよ。
表情を変えることなく、そう唇を動かした。高校から歩いて帰る途中に、だれかにナイフか何かで胸を刺されて死んだという。二年ほど前の話だ。大学の図書館に置いてある、過去の新聞記事を集めた分厚い資料には、彼女の名前も載っていたが、やはりそんなことはどうでもよかった。僕にとって、目の前にいた彼女の名前は、『きみ』でしかなかった。
彼女は生きていれば、僕と同い年で、同じ大学に通っていた可能性もないわけではなかった。
僕たちの人生は、出来事の積み重ねでしかない。偶然も必然もなく、ただの事実の蓄積のみだ。僕と彼女が毎夜、世界の法則を無視して逢瀬を重ねられるのも、事実が積み重なった結果だろう。僕も彼女も、生まれたという奇跡のようなファースト・ファクトから始まって、僕たちが出会ったという天文学的な確率のラスト・ファクト。
「災難だったね」
そう返すと、どうやら幽霊や霊魂が実体のあるものに触れられないというのは嘘だったらしく、僕の開けた缶ジュースを、ごくごくと細いのどを動かしながら飲み干し、彼女はあいまいにうなずいた。
――死ぬことも悪くないかもなと思ってたから。
チョウドタイクツシテタトコロダッタシ。彼女はそう続けた。
――楽しそうだけど、なにかあったの?
ふいに投げかけられた問いに、思考を取り戻す。いつのまにか微笑んでいたらしく、頬が緩んでいることに気づく。彼女は、あいかわらずの無表情を僕に向けていた。
「楽しそうだったかな? きみにはじめて会ったこととか考えていたんだ」
椅子から立ち上がって、陶器のようになめらかな彼女の頬に触れた。彼女が僕を下から見上げる形になった。彼女の綺麗な髪を汚したくなくて、右手で髪をなでる。
けっきょく、彼女が僕のもとにあらわれるようになった、納得できる理由は見つからなかった。僕も彼女もお互いに面識はない。
そんなことはどうでもいいと、以前、僕が言うと、彼女も大きくうなずいてくれた。
僕たちは夜の間ずっと、たわいもない話をつづける。クラシックが気だるげに流れる空間の中で、お互いの読書や音楽の趣味などを。
夜明けとともに彼女はどこかへ消えていき、地球上の単位で、次の日のはじまりに、また音もなく僕の部屋を訪れる。
しかし、もう、夜明けはない。
白いフロアに赤い血だまりが広がっていく。
ああ、眠い。
僕があくびをかみ殺すと、彼女はひどく複雑そうな表情になった。そろそろだと、ひどく嬉しそうに、とても哀しそうに。
やがて、世界がグニャグニャと歪み始める。僕の世界が、終わる。
彼女が、くずれかけた僕の体を抱きとめてくれる。
これでよかったんだ。
彼女に支えられ、僕は、広がり始めた血だまりの中に落ちた包丁を見ながら思った。鮮血をはじく黒い柄。ステンレス製の刃の部分は赤く染まっている。
――後悔はしていないの?
彼女の唇がゆっくりとそう動いた。僕はうなずくのも面倒で、ただ片目をつぶってみせた。
鼓膜をおぼろげに刺激するクラシック。甘美な旋律はどこかさびしげだ。プレーヤーの電池が切れるまで、聴く者のない空間を満たし続けるのだろう。
痛みの消えた、自分の左手首に目をやる。
赤。シャツがゆっくり赤に浸食されていく。切り裂いた左手首の血管から溢れ出す赤。赤。
生きていた僕が最期に聞いたのは。
自分の体が倒れる音と、耳元で囁かれた、はじめての彼女の声。穏やかで、やさしかった。
「これでずっといっしょだね」
それは、やはりとても哀しそうな声なのに、ひどくうれしそうな響きをともなっていた。
END