61「黒龍を斬れ」
跳び出した小さな敵対者の姿を見出した黒龍は、彼女を亡き者にしようと霧のブレスを吐く。身動きの取れない空中で、それを避けることは出来ない。本来ならば、跳び出したイネアは迂闊だったということになるのだが、歴戦の戦士である彼女はそのような安直なミスは犯さない。無論、炎龍を信頼した上での行動だった。
全てを溶かす黒い霧が彼女へ到達しようとしたとき、炎のシールドが彼女を包み、霧を弾き飛ばす。
そのまま最短距離で宙を進み、彼女は黒龍の背の真ん中辺りに位置付けた。
そこは、一枚一枚が人ほどの大きさもある漆黒の鱗によって一面が覆われている。そのうち一枚の上に着地したイネアは、彼方に見える黒龍の首を睨んだ。
この位置からあそこまで走り進むには、少々遠過ぎる。その前に振り落とされてしまうのがオチだろう。瞬時にそう判断した彼女は、すぐ横に映る黒龍の右翼からまず斬りにかかることにした。
再び飛び上がられてしまっては厄介だという考えが、彼女の念頭にはあった。いくら炎龍が付いているとは言え、自分自身が空を飛べるわけではない以上、上空では動きが遥かに制限されてしまう。そうなれば、勝ち目は薄くなってしまうだろう。
彼女が気を高めると、右手の刀身は青白く輝いた。
《センクレイズ》
実在するどんな名剣よりも研ぎ澄まされた彼女の気剣が、黒龍の右翼、その上部に根元から勢いよく食い込んだ。
ここで、もし仮に相手が生きている黒龍だったならば、この刃を易々と通しはしなかっただろう。だが、今の黒龍は、ただ操られているだけの人形のようなものでしかなかった。死体であるがゆえに、気によるガードも一切使うことが出来ない。 ゆえに、いかに龍の肉体そのものが硬く強靭であろうとも、イネアの剣が打ち勝った。刃を振り下ろすに従って、翼は綺麗に引き裂かれていく。
「たあああああーーー!」
イネアの気合の入った掛け声とともに、剣は翼を縦に斬り抜いた。完全に千切られた巨大な翼は、黒龍の身から離れて、徐々に落下を始める。
その様子をすぐ真下から見上げつつ、彼女は翼を斬ったそのままの勢いを殺さずに、黒龍の足へと飛び込んだ。達すると、全力でそこを蹴って方向転換し、さらに地面へ向けて加速する。
共に落下してくる翼よりも一足早く着地して、即座にその場から飛び退いた。直後、彼女がそうする前にいた場所を、黒龍の翼はズズンと大きな音を立てて下敷きにした。
己の意志を持たない黒龍は、苦悶の唸り声すら上げることはない。ただ片翼をもがれたその姿は、一見しただけで痛々しいものであることは間違いなかった。決して小さくはない痛手を、たった剣の一振りで負わせたのは明らかだった。
この偉業を成し遂げたイネアの姿を目の当たりにした戦士たちは、絶望を跳ね除けて、大きく奮い立った。
既に炎龍の背へと乗り直していた彼女は、油断なく気剣を構えたまま、黒龍に向かって言った。
「翼をもがれた気分はどうだ」
黒龍は顔色一つ変えぬまま、その場に立ち尽くしている。怒りも、生前には持っていたであろう誇りさえも、一切感じられない。ただただ虚ろな目をしていた。
「まあ、言ってもわからないだろうがな」
彼女は嘆息した。
やはり生きている「本物」に比べれば格が落ちる。そのことをはっきりと確かめた彼女は、もはや伝説の龍に挑むという気分ではなくなっていた。
時間停止という反則技で、満足に戦うことすら出来ずに殺された黒龍。死後もなお下らない野望に利用され、そして今、目の前でかように無様な姿を晒している。そんな絶対王者に対し、憐れみすら覚えていた。
他の者にとってならば、十分脅威となる存在だろう。だが、ただ高性能なブレスを吐けるだけの龍型の何かに成り下がってしまったこの相手は、既に空も飛べなくなった以上、彼女にとっては真の脅威足り得なかった。
幾度も死線を潜り抜け、黒龍に次ぐ大きさである雷龍とも戦った経験のある彼女にとっては。
「もう奴を休ませてやろう。炎龍」
『そうだな』
同様に憐れみの気持ちを抱いていた炎龍が、大きく息を吸い込んだ。黒龍が黒炎を吐くことが出来るように、炎龍は強力無比な白炎を吐くことが出来る。これも精神を集中する必要があるので、魔法で操られていたときには出来なかったものだった。
炎龍の動きに呼応するかのように、黒龍も大きく息を吸い込み始めた。さしもの黒龍も、炎に対する耐性は炎龍ほどは高くない。白炎を当てられてはダメージは避けられないとの判断から、あくまで機械的にそうしたのであった。
両者が同時にブレスをぶつけ合う。黒龍から吐き出される黒の、炎龍から吐き出される白の対照的な猛炎が中央で激突し、想像を絶する熱と光を散らす。
体格差から、やや白炎の方が小さいが、それでも押し負けてはいなかった。炎こそはその名を冠する炎龍の土俵であり、最大種である黒龍にも負けないという自負が彼にはあったのだ。その意地に賭けても、炎龍は負けるわけにはいかなかった。
両者の炎は互角だった。どちらかが一瞬でも気を抜けば、均衡が崩れて、跳ね返った自分の炎までもが牙を向くだろう。そうなればさすがに、互いにただでは済まない。
炎龍は苦しさに顔を歪めながらも、懸命に炎を吐き続ける。感情こそないが、黒龍も同じように苦しい状況だった。
だからこそ、気付く余裕がない。
――遥か上空にまで跳び上がり、そこから彼の首を目掛けて迫っていた、彼女の存在に。
重力加速度を乗せて。
イネアは煌々と輝く気剣を、両手に高々と掲げた。そして、全力で振り下ろす。
せめて最期は華々しく散れと、想いを込めて。
《センクレイズ》
決める一撃も同じだった。彼女にとっては、師の愛用する思い出の技であり、必殺技はこれ一つで十分だった。彼女はただひたすらにこの技を磨き、これまでどんな強敵とも渡り合ってきたのである。
彼女の剣が、龍の首筋に当たる。そこに万力を込めて、一気に斬り抜く。
「はああああああああーーー!」
人々は見た。
黒龍の吐き出す炎が、突如勢いを失くしたのを。
そして彼の首が、胴体からゆっくりと剥がれ落ちていくその様を。
黒龍の首が、斬り落とされた瞬間だった。
地面に降り立った彼女は、黒龍の首が地に落ちるのを見届けると、再び炎龍の背に跳び乗って、高らかに剣を掲げた。
人々は、その堂々たる姿に心震えた。
まるでクラムに代わる、新たな英雄の誕生のように思われたのだ。
英雄はいない。彼女本人にそう言われていても、人は希望に縋りたいものだ。
彼女こそが、今やその希望だった。その存在が与えてくれる活力は、計り知れない。
戦況は再び覆った。魔導兵、ライノス及びリケルガー、さらにそこへ竜騎兵までが加わったものを相手に、戦士たちは見事に奮戦した。さらなる死者を出しながらも、ついに約半数の尊い犠牲の上に、ほぼ勝利を収めたのである。
だが、目下最大の脅威であった黒龍を討ち取り、それら雑兵を倒してもなお、エデルの力はまだ底を見せていなかった。
むしろ中途半端な抵抗が、さらなる絶望を招き寄せることとなる。
ここに至り、ついにトールは兵器の温存を止めることに踏み切ったのだった。
束の間の勝利に喜び沸き立つラシール大平原に、突如としてそいつは現れた。
人型の巨大兵器だった。黒龍よりは若干小さいものの、優に四十メートルはあるだろうと思われた。
その機体は、一切の魔法を弾く魔法金属製。その口に備え付けられた魔導砲は地を焼き、その巨体が腕をなぎ払えば、地面が根こそぎ抉り飛ぶ。
それでも単体ならば、黒龍ほどの脅威とはならないだろう。問題はその数だった。
八十体。
平原の前方見渡す限りが、今や死を告げる行進に覆い尽くされていた。
エデルが誇る、最強の量産兵器の一つ。
魔導巨人兵が、彼らに襲い掛かろうとしていた。




