45「気剣術のイネア VS 英雄クラム・セレンバーグ 1」
目の前の男。クラム・セレンバーグ。
話には聞いたことがある。かつてサークリス付近に襲来した黒龍を、瞬殺した英雄であると。
黒龍と言えば、数いる龍の中でも最大最強の種だ。
私でも相手をするのは骨が折れる。殺すのは不可能に近いだろう。およそ人間が単独で倒せるような相手とは思えないのだが。
ましてやこの男。気力や構えを見る限りでは、良くて上の下という程度だ。
全体として達人の域に達しているには違いないが、それならば普通は身に付けているはずの、相手の気というものへの意識がまるでない。どうもちぐはぐな印象を受けるのだ。
ともかく、現状から判断する限りでは、ディリートや私の方がまだ出来るというもの。果たしてどんな実力を隠しているのか。
ユウやアーガスの話によれば、一瞬にしてその場から動く厄介な技を使うという。距離を取って戦った方が良いだろう。接近しなければ気剣を叩き込めないのが心苦しいが、まずは情報を集めることが先決だ。
一分の隙も見せないように構えていると、彼が口を開いた。
「戦う前に一つだけ言っておこう。貴女たちはここから逃げることは出来ない」
「確かに閉じ込められたな。逃げ場はないというわけだ」
そこで彼は、人が悪そうな笑みを浮かべた。
「いや。そのことではない。貴女の転移魔法は封じさせてもらったということだ」
「なに?」
あれを封じただと!? そんな真似が出来るというのか?
努めて平静を装っていたが、ほんの少し心が揺らいでしまったのを奴は見逃さなかったらしい。
「わずかに動揺したな。どうせユウを助けた後には、それで逃げる腹積もりだったのだろう? 残念だったな」
「ちっ。お見通しというわけか。どうしてそんな真似が出来たのだ?」
「なに。うちのマスターが、転移魔法には詳しいものでね。この地下では使えないようになっているのだよ」
まずいぞ。転移で出られないとなれば、本当に逃げ道は存在しない。万事休すか。
いや――
そうとは限らないな。見たところ、周りの壁は至って普通のものだ。これによって転移魔法が妨害されているとは考えにくい。
ならば、その使用を不可能にする何らかの装置がこの地下にあると考えられる。それを探し出し破壊すれば、あるいは何とかなるかもしれん。
ただ――
私は顔をしかめた。
この男がそれを許してくれそうにないがな。
着ているジャケットの内側から、スローイングナイフを一本取り出した。ユウにあげてやったものと同じものだ。激戦を想定し、持てる限度の二十本を持ってきた。その一本に気を込め、奴の胸の中央目掛けて投げつける。
私の気は相当に強力だ。ナイフは速いぞ。気力強化もしていない貴様には、到底避けられまい。さあどうで――
!?
――なるほど。これは厄介だ。
奴は一切動いていないにも関わらず、いつの間にかナイフが奴の後ろを通過していったらしい。奴の後方約二十メートルの壁にしっかり突き刺さっているのが、気でわかる。
「今度は私から行くぞ」
そう言いながらも、奴は剣を構えたままじっと機を見据えるように動かなかった。
奴と私は、十メートルは離れている。
大概どんな攻撃を仕掛けて来られようとも、私ならまず対処出来る間合いだ。 黙っていても隙などできはしないぞ。なぜすぐに仕掛けて来ない。一体何を考えている。
まさか。
私の直感が、警鐘を鳴らした。
この距離は、奴の「射程内」か!
咄嗟に身体が動いた。全力で飛び退いたとき――
!?
気付けば、奴はものの一瞬で私のすぐ目の前に迫っていた。奴の剣が、私の心臓を狙い、真っ直ぐに突き立てられていたのだ。
直感を信じなければ、死んでいたな。
飛び退いたままの姿勢から攻撃に移るのは、無理そうだった。せいぜい身を翻して攻撃をかわすのが精一杯か。
私は辛うじて突きをかわし、体勢を直しつつ奴の横をすり抜けるように交差すると、すぐさま十分な距離を取った。
今度は、奴から十五メートルばかり離れた位置で立ち止まる。
やれやれ。気剣を叩き込むには、さらに遠くなった。
振り返った奴が、大いに感心したように言った。
「ほう。今のをかわすか」
「伊達に場数だけは踏んではいないさ」
「ふっふっふ。これだから強者との戦いは面白い。いつもはあっさり終わってしまってつまらないからな」
「生憎私には戦いを楽しむ感性はないのでな。一人で勝手に楽しんでいろ」
「そうさせてもらうとしよう」
歯をむき出しにして笑った奴は、こちらへ駆け出してきた。
おそらく意識してのものではないが、剣士としての長年の戦いで自然と身に付いたのか、動くときには勝手に中程度の気力強化がかかっている。
かなりの速さだが、スピードだけならば私の方がまだ二歩は速い。
だが、それがそのまま勝敗を決めないことはもうよくわかった。
こちらから一気に近づいて斬りに行くのは、あまりにも危険過ぎる。
奴の技の正体がまだ見えていないからだ。
牽制として、さらに一本ナイフを取り出して投げつつ、奴から遠ざかる。少なくとも十二メートル以上は距離を取らねば、即死の危険がある。
またあの技でかわすのかと思いきや、今度は普通に避けた。
なるほど。どうやら連続での使用は出来ないようだ。先程、仕掛けると言いながら少しの間動かなかったのは、技が再び使用可能になるのを待っていたと考えることは出来ないだろうか。早計は危険だが。
――命賭けにはなるが、少し釣ってみるか。
奴から背を向けて走り出すと、私は懐からあるものを取り出し、目に映りにくいように胸の間に挟み込んだ。
それから、敢えてもっともらしく壁際に追い詰められるような動きをし、「射程内」ギリギリの十一メートルの位置につけた。
餌はやった。果たしてどうなる――
!?
――賭けには勝った。
この距離ならば、奴には正面から突くか斬るか、そのどちらかの選択しか余裕はない。
そして予想通り、奴は用心深い性格のようだ。私の胸にあるものを見て、一瞬だけ動きを止めてしまったらしい。
「なんだそれは」
私は胸に挟んであったものを、奴の眼前に投げつけてやった。
「特製の小型爆弾だ。私の主義じゃないがな」
爆発半径は五メートル。ものの一瞬で起動するが、私の速度なら余裕で避けられる。
しかし貴様はどうかな。
「ちいっ!」
焦った奴の声を聞きつつ、瞬時に横に跳んだ。
直後、爆発が起こった。
奴もまた、咄嗟に飛び退いて事なきを得たようだ。だが、爆風に巻き込まれて、何の怪我もなしに済まなかったのは間違いない。
奴は少しなりとも動揺しているはずだ。
その隙を逃しはしない。
私はスローイングナイフを一気に十五本取り出し、その全てに気力を込めた。
さらに、あまり得意ではないが魔法でそれらを浮かせ、奴の周囲をくまなく覆うように配置する。合図をかければ、中心にいる奴に向かって、十五本のナイフが同時に回避不能な速さで飛んでいくように仕掛けた。
加えてもう一本。こちらはわざと遅くし、かつ奴とは関係のない方向に飛ぶようにしておく。ある狙いがあってのことだ。
普通に考えれば、逃げ場など存在しない。
これで、奴の技の真価がわかるか。
いけ!
!?
気付いたときにはもう、奴はナイフの結界の外側に立っていた。
私はすぐさま、奴とは関係のない方向に飛ばしたナイフの位置を確認する。認識が飛んだ瞬間から、ナイフはほとんど動いていなかった。
わかったぞ。
常識を疑ってしまうが、これしか考えられない。
なんという、厄介な力だ。
全身から、嫌な汗が噴き出すのを感じた。ここまで危機感を抱いたのは、ウィルと戦ったとき以来かもしれん。
私はこれまでの奴の動きから、ついに割り出した。
約2.1秒。
この時間は、一見すると短い。だがこのレベルの戦いにおいては、それはあまりにも大きな不利だった。絶望的と言っても良いほどだ。
私は奴に、自らが得た答えを突きつけた。
「貴様――時間を操作しているだろう?」
奴はやや驚いた顔で感心を示し、それから不敵に口角を吊り上げた。
「ほう。よくわかったな」




